すべてを見ることはできない、すべてを知ることはできない。
欠けた視野を補う脳の力。聞き取りにくい言葉を補い理解する脳の力。
脳に知覚を補う力がこれだけあるのだから、我々が知っていると思っていることがどれだけ脳に補われたものなのか。
妄想は、知識や経験を補うために、人間に備わった能力である。
脳:錯覚を含め、知覚情報をどう扱うかは脳が決める。これらで補われた思考は、ふつうは想像、空想などといわれる。
社会:人間関係にも錯誤はある。社会をつくるために獲得したものが人間関係を補っている。
言葉:言葉の発達とともに、思考を補う能力も発達してきた。実質「言葉が思考を補う」といっていいほど。しかし、それがどのように補われているかを我々はよく知らずに言葉を使っている。
病的に何をもって妄想とするかは難しい。大雑把にいうと、人に迷惑をかけると妄想となるようだ。
妄想には2種類、人間関係に関するものと、自己イメージに関するものがある。他者イメージは、他人をどう考えようが、関係にならなければ問題が生じないという考えだろう。これらをひっくるめて社会性の妄想といえそう。
錯覚は誰にでもある。社会性に多少の差があるとしても、人間関係に対立や齟齬は付き物。それが妄想になるのは、言葉の発達の影響が大きいのではないか。
妄想の原因:脳<社会<言葉
妄想を表すものとして言葉がある。妄想をコントロールするために言葉がある。
でも言葉には制約があるから、様々なツールを使っても妄想をコントロールする。
ツールとは、メジャーなところでは数学や科学、お金や武器もそう、今でいうとスマホがそれにあたる。
妄想を再現し、コントロールできれば、それはもはや知能である。
常に新しい妄想を求めていたい。
いつでも複数の妄想ができるのが理想。
少なくとも、妄想で偏った知識・単調な思考になるのは避けたい。