○重力域:粒子の中心から放射状をなす、空間の歪みで説明される、他の粒子を引き込む作用がある領域。
重力=粒子みたいなものなので、重力を媒介するものはない。
重力は、相対的にすれ違う乗り物で例えられるように、全方向への移動する力とも考えられる。通常この力は正反対の力とつり合っているが、半次元ではこれが崩れ、一方向への移動する力だけになる。これが光である。つまり光は自らがつくる空間の歪みに常に落ちている状態といえる。だから、物質のもつ重力が常に一定の力で働いているように、光も常に一定の速さで移動することになる。
○影響域:重力域のどの次元軸とも垂直方向にある、±正反対に対置する、次元数と同じ次元域をもつ2つの領域。
影響域の性質は回転であるが、回転がそのまま現われるのは二次元だけで、これが一次元になると波になる。三次元の回転というと、地球の自転のような回り方を想像するかもしれないが、そうではなく、域内のどの点をとっても三次元のどの方向へも回転しうるのが三次元の回転である。
回転は相互に影響し合い、強いほうから弱いほうに流れ、回転の交換によって移動が生じる。
三次元の回転とは熱である。二次元の回転とは磁場である。
○回転:
地球の公転のような円運動は、直進する力と中心へ向かう力に、回転が伴うことで成り立つ。
同じことが粒子の内面にも起こっていると思われる。
この作用は、粒子生成時に由来がある。上位次元粒子から下位次元粒子が生成されると、上位次元のときにはあった他のどの次元とも垂直な一次元が内面に落ち込む形になり、これに対して重力域の重力が加われば、回転を伴う力関係が成立する。
重力が空間の歪みで説明されるように、回転も空間の歪みとして説明されるべきであろうが、詳細はわからない。
《推測的補足》
以前からの大きな違いは、影響域を2個固定にしたこと(半次元を除く)。回転が生じる理由を考えると、上位次元の影響域が継承・影響しないとすれば、影響域が2個よりも多く生じることはない。
四次元粒子=銀河の影響域を3つと考えてた頃は、渦巻状をつくるには3つ以上の力点が必要なのではと思ったのと、四次元ならそれぐらいはありそうだという程度に考えていただけで、こうなるともう、三次元的に3つなければ起きそうにないことも、四次元ならば2つですむかもしれない、と考えるほかない。
影響域が粒子内に2つあるとして、それが互いにどう影響し合うかなどは、正直いって、よくわからない。ただ、三次元粒子については…こうあって欲しいというか、こう考えなければ説明がつかないものがあるというか…2つの影響域の間で二次元的な部分が生じ、二次元粒子=電子と相性よく結びつく、ということが起こっていると考えざるをえなかった。このようにでも考えなければ、次元粒子という規格のなかで陽子の性質を説明する方法を思いつかなかったし、だからこそ、三次元粒子の影響域が2つあるという点にだけは固執した。
上図では影響域を便宜的に中心をはさんで分けて描いたが、2つとも中央に位置していると考えるのが、本当は自然だ。形についても、丸だけでは説明がつかないと思えてならないし、回転の方向、影響域がまたぐ次元、内外での影響域の干渉のことを考えると、私の頭ではそう簡単にイメージできるものではないことが想像できるだけ。
もしも一般にいわれている粒子の種類が私が思っている以上に多いのだとしたら、それは影響域の状態の違いが原因であろうから、影響域のとりうる形には色々なパターンがあると考えるのが妥当かもしれない。
少し前までは「ならば今の贅沢な暮らしを捨てられるのか?」と皮肉っぽく言う人もいた。
いずれ資源は枯渇する。
同じ人が今度は、資源のために戦争をするのが至極当然のことのように言うようになるのだろうか。
企業が効率化の徹底で業績を伸ばそうとするように、国家社会にも同様の効率化が求められる昨今。
省エネ省資源、効率化でムダを排すのはいわば社会の義務。同じものなら効率が良いほうがいいに決まっているし、ムダや廃棄物で生活が脅かされることなど誰も望んでいない。
しかし、効率化というのは面倒が多く、効果が出にくく、わかりにくかったりするもの。
この高度な合理化の上に築かれた社会、効率を度外視して経済を発展させてきた社会では、受け入れにくかったり敵視さえされかねない。
このまま合理化だけの社会であり続ければ、合理性を追求してその先に未来はないと合理的に判断されたとき、実際問題として生存可能な道筋へ舵を切れるかどうか。
はたして、効率化した未来を誰も望んでいないとしたら、民主主義がとれる選択はいくつもない。
効率化と合理化の違い
負荷:緑 経費:青 リスク:赤
・合理化は最短ルートをとること。だから、出発地点から真っ直ぐに出口に向けて進もうとするのは、出だしとしては非常に合理的な考え方である。
・効率化は関値の累計が最小になるようなルートをとること。関値は常に変動するので、最効率を得るのはそう容易ではない。
・?地点を占めることがいかに有利かわかると思う。
・例えばAとBを必ず通ろうとすると恣意的にムダが増える。
エコを唱えるのは二種類の人があるらしい。つまり、いいことばかりではないということで、一方でエコをすすめても他方によって潰される可能性がある。
エコが必須であるならば、それは世界が変わりつつあるということ。しかし変革期に改革が遅々として進まないのも世の常。
日本はまた昔の轍を踏むのだろうか。
ややこしいことをやっていると、別のことが手につかない。効率的に時間配分してやればいいのに、気持ちの切り替えができず、目先のことを優先させるほうが合理的、ということになってしまう。
思うに、人間を合理化はできても、効率化は難しいのではないか。
合理的な人間を効率的とは言わない。合理的な人間はいても、効率的な人間はいない。たぶん
効率化できるのは人間以外のところまでで、人間はというと、合理化したい気持ちと合理化されまいとする気持ちがせめぎ合い、ずっと変われないまま変わろうとし続けるのかもしれない。