豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

融合とは受容することである

2017-05-26 18:37:22 | 日記
こんばんは。

本日もブログ更新できそうですが、時間があまりありません。

今日も母親の家のパソコンを借りて書いてます。

随分前に自分のパソコンから煙が出て壊れたのですが、買い替えるだけのお金がありませんw

そのうち生きていくのも難しくなるかもしれないのです。

まあ、なんとか粘りますがね!

時計の音はガガガガガガガガガと時を刻み、隣で広告をガチャガチャとめくっている母親の独り言がする。

体が疲れてやる気もない。

やはり食べると疲れてくるようになったようだ。

今日は扇風機がどけられているので、風には当たっていない。

汗がベタベタして顔が気持ち悪く、さっき食べた寿司とコロッケ、サラダの後味がまだ口に残っている。

上半身の左側に精気が通っていないことを感じる。


さて、本日は16時半に起床いたしました。

昨日より更に遅く「あーあ」と思いましたが、煙草1本吸って洗面うがいしてから坐禅へ。

45分。

不思議なことに毎日していると断続的でも、その坐っている時間の感覚が変化している。

内面的にも感官的にも、不味いところが見えてくるのだ。

妄念の世界は、ふとした日常の一シーンなんかを、見事に覚えていて、そこから不平不満や心配、焦りなどに導く。

体は瑞々しさを失っているが、それは直の、この大自然に触れる事に恐怖を感じているからだろう。

胸が詰まっているが、そこを開くには、もはや、不自然に感じる。

他者のことを気にせず、一度、この詰まった胸の閉塞感を開放してしまわなければならない。

そうでなければ「虚ろ」な生を彷徨う内に、二度と繰り返されない貴重な、日常、毎日、このときを見逃してしまうだろう。

再び生き直すことはできない。


で、坐禅を終えると読書です。

人は、人のいう事を疑わずに、信じることがありますが、本で書かれているからと言って、作家の人が東大、京大出身でも、だからといって、自分自身にとって真理だと鵜呑みにすることは非常にアホらしい。

それを、実際に日常に当てはめてみると、その作家の日常ではありえそうなことも、この我が身にとっては、ぜんぜん合わないこともある。

育った環境、時代や国家、宗教、文化など、また歴史の醸成した言語感覚など、すべて違うからだ。

しかし、表面的な奥にある、その質、つまり伝えたいところの肝が、優れている場合は、それらの相違をも超える。

諸行無常、諸法無我、一切行苦、涅槃寂静という至言。

このような宗教的真理の要約された言葉が、自己の内で消化されていくには、考えなくてはならない。

考えるというのは、この諸行無常等々の言葉が、実感として、この世界を捉えた自己と他者の社会の中で知られねばならぬということである。

すべては流れていくと頭では理解するのは容易い。

しかし、それが潜在したい意識(本能的感情)の部分で、疑うことなく真理だと直観する時とは違うのである。

わたしの思うようには何もならない。

その苦しみから逃れるためには、寂静に放たれなくてはならないのだが、頭の理解で、そのようなことは不可能である。


で、座禅を終えると、慌てて母親の家で、ご飯を食べてブログ更新をしているのでした。


さて、今日はいつも以上に時間がありませんので短くしか書けませんが、何を書こうか。

祈りや願いが、純粋な心から発せられている、その時、大自然は光を纏う。

それは体と心が一体となって、この神の創りし大自然と融合していることなのである。

融合するとは受容しているということだ。

坐禅の標準は自受容三昧と言われるが、この私を放して、心を開いて、直に接する事が迷いを吹き飛ばすのだ。

それには貪りと怠惰に勝つ必要がある。

これは容易ではないが、恐らく、その忍耐以上の価値が、宝が、そこにはあるだろう。

だからこそ、古代の人々が、この教えに歓喜したに違いないからである。


苦しみとは「私という想い」これだけである。


ほいでは、仕事行ってきまーす!

やばい、遅刻しそう(笑)

己だけが問題である

2017-05-25 18:33:23 | 日記
こんばんは。

遂に4日連続更新という、いつ以来か分からないくらいに久しぶりのブログ復帰ですw

まあ来週になって平常勤務になると崩壊する恐れがありますが(笑)

えー、今日も母親の家のパソコンを借りています。

相変わらず、扇風機を真横に置いて当たってます。

風に当たるの、子供のころから、好きなんだよね。

スーッとする。

このスーッとするんが、こころの側に生まれるのも、快感である。

父親がさっき眠りに行ってベッドから咳き込んでいる音がする。

台所ではNHKのニュースが流れていて「ふふふふふ、ふふふふふ。うん。うん」

「オバマ大統領て専用のヘリコプターできたんちごた??」

と母親が喋るので「そうかな」と言っておいたww

うどんをすすりながら見ているのだろうズズズズズとススッという音が発生しているようだ。

体が疲れているので、どうも、だるくなる。

今日は、時間が無いので、少し気持ちが急いている。


で、今日は16時過ぎに起きたのでした。

いつもより遅かったので「あ、寝すぎた。疲れてたのかな」と思ったが時すでに過ぎ去りしw

うがいと洗面だけして座禅45分を済ませました。

今日は落ち着きが無くて妄念がいろいろ浮かんでましたね。

なんか、たいして意味のなさそうに思えるバラエティ番組の一シーンとか、昔の思い出とか、未来への悩みとか、自分の情けなさへの攻撃とか、まあまあ休むことなくよくぞ沸いてこられるw

とにかく静かに坐っていることが、そんなに難しいものだとはね(笑)

体の麻痺具合も、当然マックス痛いことになっておることを再確認いたしたところでございます。

まあ、ぜんぜんしてなったからね。


で、坐禅を終えると、読書をのんびりです。

ブラックコーヒーと煙草と本。

この黄金の連携が、僕の期待を裏切ったことは、なんと一度もありません。

ああ、肝心なところを忘れてました。

静寂に包まれた空間をこれに追加しておかねばならんでしょう。

途中で電話が鳴ったのでドキッとイラッが同時に沸いてました。

恐怖と怒りの連携というやつですね。

この貪ること、怒ること、慄くことという三大苦しみの元凶マシーンは、ブッダさんも問題にしておられる。

その3大要素が、この平凡な生活空間にも見事に再現されておるわけですw

しかし、あのアイフォーンの着信音なんとかならんのかな。

嫌いやわ。

まあ直せばいいんだろうけど、他のもいいのないんだよなあ。

普通のプルプル音が一番いいのに……。


で、読書を終えると母親の家で、うどんとご飯たべました。

ぬるいので、レンジで温め直してもらう。

相撲の話聞こうと思ったら、猿の話で興奮する母親。

どうも猿が、我が、母が手を痛めながらも、耕し、育成している畑にある「さやえんどう」さんを全壊滅させたというのである。

なんたる蛮行!

その10匹からなる凶悪なるサルたちは、キキキと鳴きながら、屋根の上から母親を見ていたそうだ。

「アホ(笑)」

というような表情で「もう遅いわー、ぜんぶ、もろたったわー」

そのような話をして笑っているのであった。

やられた!!!!!


それから隣の離れの我が家で煙草を一本燻らせてから、ブログ更新へ戻ったのであった。


さて今日は何を書きますかね。

昨日も書きましたが肝心なのは、その教えの内容とか形式ではないのですね。

例えば只管打坐とか見性とかいう概念と、天国とか愛の概念は、もちろん違うわけですが、そのような宗教的アイデアが、自らを解消の地点に誘発することで、己自身が解放される、この己の側だけが問題なのです。

さいきんはまっている言葉に明鏡止水というものがありますが、その言葉の本来の意味が大切なのではなく、その言葉が僕によって消化され、それが独特の意味を持ち、その言葉の指し示す状態、つまりここで言えば円鏡の光に、静寂たる止の心が溶けることで、燃え尽きる煩悩の種というような、そのようなイメージ。

そのイメージが私の、迷いをきれいさっぱりやっつけてしまう!

そこなんです!!!!


そこが、大切なことで真実かどうかではないのですwwwwwwwww

だから科学的にとか常識的にとか、価値観がとか、正義がとか、そんなものではないのです。

もっとでかいのですよ宗教は。

それを普通に解釈しようとしても無理な話です。


絵に描いた竹のともずれの声が、どこにありますか??w


まあ、そんな感じで、今は、この自身の内容物が光になるように頑張ろうとおもっておりますが、まあ、それもどうでもいいのかもしれない。

なるようにしかならなからね。

一休さんが弟子に残した手紙で本当に困ったら開けてねと言っていたものがあったらしい。

「心配するな」

「なんとかなる」


爆笑


てことで、仕事へ行ってまいります。

為せばなる為さねばならぬ何事も、為さぬは己が為さぬなりけり


てのもあるね!


ほいじゃあ、またね。

段階など何もない

2017-05-24 18:11:33 | 日記
こんばんわんこそば。

本日も完全無欠にやる気に欠けている豊田です。

まあブログは書きたい気持ちがあるので更新しようと思います。

今は、例によって母親の家です。

台所と、この居間のテレビが2台ついていて、ハーモニーを奏でているww

父親は何をしているか分からないが台所のテーブルに座っていて背中が見えている。

母親はテレビを見ながら押し黙っている。

さっき発狂していたが落ち着いたのだろうかwwwww

扇風機を椅子のすぐ横に置いて風に当たっている僕。

韓流ドラマっぽい悲し気な曲が流れていく。

時計は相変わらずのガガガガガ。

父親が「おーい、もう寝るぞ」と喋ると「うーん、歯あ、磨いてオイン」と母親が言っている。

このパターン、毎日のようだなwwww


さて、今日は13時過ぎに起きて、ボーっとしてから坐禅してました。

45分。

昨日は久しぶりだったので汗出る感じだったけど、今日は淡々としてましたね。

足が痛くてちょっと気になったりしてた。

坐禅しても、何にもならんと禅僧が言うらしいが、そうだろうなと、この頃思う(笑)

何にもならんの坐ってるのが繰り返されている。


で、座禅を終えると読書ですね。

まあ考え方というものは、いろいろあるわけだけれど、それが実際の動きに応用されるのは、時間がかかる。

自動的になるようになるには、もっと時間がかかり、考えを捨てるにはさらにかかるww

コーヒーを飲みながら、煙草を吸い、魅力的な主人公の語りの世界へ没入するのは、しかし至福である。

幻想的なファンタジーの世界って好きなんだよねえ。

本だけじゃなくて、そういう雰囲気がある不思議な人とか、場所とか、純粋性が出ているところは好き。

まあ皆、だいたいそうか。


で、それから、スマホでいろいろ見たり書いたりして世の中の宗教的会話の覗き見をする。

母親の家でご飯も食べる。

父親がいたので串カツを分けて一緒にいただきました。

食べようとしていたら南くんから電話があったので少し話す。

またあとでと切る。

食事を終えてかけ直したが出ないので、またまたスマホの光の世界へwwwww

一休さんの記事とかを読んで笑ってました。


仏法は鍋のさかやき石の髭絵にかく竹のともずれの声


で、また南氏から、電話かかってきたのでしばらく話しました。

まあ特に何ともなしにですね。


再び母親の家で食事したのだが、その時、ブチ切れていたのだった(笑)

手が痛いのにお前らは労りが無いと!

まあ、父親とふたりでヒステリー観察をしてニヤニヤしておりました。

(・∀・)ニヤニヤ


まあストレスというやつでしょうな。

このストレスと言うやつは、やっかいなので、毎日おそうじしなくてはなりません。

ボーっとするのが最強です。

すべてを投げ捨てて、ボケーっとwwwww

それでリラックスモードですわ。

なんもやらんならんことなんかありません。

ここに生まれてきたのに意味は分かりませんから、価値も何も分かりません。

とにかくスコーンと、投げ出しとけば癒されるww


で、今日は何を書こうかな。

あー、掲示板とかで書いて、まあまあ評判良かった、段階の話でも載せておきますか。


①普段我々は対象と自己と分離して捉え、自己が対象に向かってあると感じている。

 自己→対象

②ここで自己を知るために、自己に視点が移ると、世界から自己に転換する観照が現れる。

 対象→自己
 観照→自己の内外界

③この自己の認識が世界に拡大している地点から、世界の無常を感じる。

 観照→移り変わる自己と世界の連携した世界

④この観照点が自己の本来の存在であるという感覚が生まれる。

 観照→存在→存在内の世界

⑤この観照がどうのと考えている認識が崩壊する事で無、空を知る

 観照→認識崩壊→無空の世界

⑥この無、空の世界が、ないという認識が起こる

 無空の世界→実体なき架空の世界→自己認識の死

⑦この無空の実体なき世界の向こうに、イメージとしての涅槃、つまり静寂界を観ずる

 空の世界→無→静寂涅槃

⑧この静寂涅槃のイメージ、つまり想定された無の我はないと知る

 自己→涅槃→なにもない

⑨すべてがイメージになる

 認識→イメージ→架空世界

❿この世界以外に何もないと知り、元の木阿弥wwwwww

 架空世界→すべて神羅万象→仏


んー

こんなんやったかな。

再現してるから間違えてるかもwwwww

これ、評判良かったんだけど、どうなのかなあ。

こんな面倒な段階は、本当は、なにもないのだよね。


一言で言えば、わしゃ知らんというのが悟りだからwwwww

わしゃー知らん。

そんなもの、価値も無価値も聖も邪も難も知らん。

とにかく、この自己の消失具合、つかめない具合が素晴らしいのだ。


というわけで、今日は、この辺で。

みなさん、善き夜を!

何が起こっても

2017-05-23 18:33:28 | 日記
こんばんは。

本日も疲れに疲れて、だるだるモード全開中の豊田です。

どうもご飯食べるとアカン。

まあ、なんとなくブログ更新したい気分なので今日も書こうと思います。

今は母親の家のパソコンで書いています。

なんか夏が来るからか、黒い覆いみたいなのを必死でかけている母親をさっき見ました。

ブツブツ呟きながら、まだ、外で何かをしている。

ヒンヤリした微かな風が窓から入ってくる。

昨日よりも薄暗い、外の光が気分を暗くさせてくる。

時計が相変わらずガガガガガガガガガガガガと変な秒針の刻み方をしている(笑)


さて、今日は、2時半ごろに起きてボケーっとスマホを弄ってました。

で、時間があるから久しぶりに座禅でもしようと思い立ち、いつもなら、やっぱり面倒とやめるのに、なぜか座りました。

45分。

いつ以来か思い出せないくらいなので、まあ、スイッチ入るのに、相当時間かかりました。

終わる少し前くらいに深くなったので多少のすっきり感。

左右の体のバランスが、めちゃめちゃ悪いんだよねー僕。

前からだけど、全然意識してないから忘れてたww


で、座禅を終えてからコーヒー飲んで読書もしましたよ。

嫁様がいてくれた頃の習慣wwwwww

まあ、あの頃は、嫁様や息子ちゃんや、友達、知人の絡みがあっても、やってたのに、それが無くなったら逆にしなくなったのは不思議。

今の方が自由があるはすなのにね。

煙草吸いながら、のんびり読書とか、まあ、至福の時間でした。

心の奥底の深みに触れるような時間を日常に入れておくのは大切なことだろうね。


それから母親の家で父親も含めて食事。

大相撲がやってて、それを楽しんでいる父親、幸せそうだなあ。

大事故で死ぬ寸前までいってたから、こういうの見ると、ホントよかったなあと思う。

と、こういうこと書いてたら、隣の部屋から、寝ている父親の咳き込む声がするwwwwww


人間を見る時に、両親を大切にしている人は、本当の善人の徴であると言われている。

これは、まあ、僕も反省しないとですなw

迷惑しか、かけていないという、この人生。

まあ、まあ、なんとか、いい感じになれるように、頑張るしかありません。


で、ご飯食べてからフェイスブックに、潜在意識の沈黙の話ポイの書いて、勝手に自己満足してから、こちらで更新しておるわけでございます。


昨日YouTubeで真言宗だったかのお坊さんが全国托鉢行した話を視聴して、結構、よかった。

南無阿弥陀仏という、そこに、仏があるわけではなく、その対象によって、自己の心の側に、仏が現成してくる。

つまりこれは、いまここに、いる、その、いまここが実物としての仏なのではなく、その行いを通して、自己の心の側に生まれてくる変性。

つまり透き通る、その、自由こそが仏なのである。

主体が、対象とひとつであるときに、対象も主体も、なくなるのだが、しかし、そこに体験は、きちんとあるのである。

それを言葉で説明するのは非常に難しい。


たとえば、僕がよく、最近感じた、円鏡の世界の淵に、五感による潜在世界があり、その黒の中の光を見る。

という超絶マニアックな認識にしても、その認識も、また、それは問題ではないのだ。

ただ、それが、そう現れて見えているだけである。

そこから、起点を作って、あーだこーだ始めると、またしても光は消える。

つまり、どのようなものがイメージとして浮かんできても、対象は、関係が無いのだ。

その南無阿弥陀仏や、光明がもたらす、こちら側。

つまり己の側の消失具合が、仏の慈悲とか、愛とか、祈りとか、様々な宗教体験の肝なのである。


だから、これこれという、具体が大切なのではない。


庭の柏の樹。

そこに仏がいるわけではないのだ。

それを見ている己。

その己のありようが、疑いの中からポンと連れ出される。

その己を奪うこと。

それこそが仏道の本懐であるということを実地の効果として実現したのがそれである。


だからして、賊機ありという言葉を付け加えた人の、理解の幅の凄さが際立つのだろう。


つまるところ、悟りなどというものはないのだwwwwwww

この事実の中で、常に、新たな世界を生きている、その空白の自己の側が、悟ったのだ。

具体的に、これが悟りなどと指示されるものなど、何もないのである。


過激に言えば、只管打坐も悪人正機も、本来的に言えば、価値などないのである爆笑

その、行為自体には何もなく、それがもたらしたもの、つまり、己こそが悟りそのものなのだ。

だから日常、この日常で、どのようであるかだけが大切なのである。

どのようにあるというのは優れているとか劣っているとかいう価値判断の話ではない。

根本にある慈悲の雨に、つながっているかだけなのである。


何が起こっても、それは、この仏の中からははみだしはしない。

絶対に!


て、ことで仕事行ってきますwwwwwww

またね!

消える、消える

2017-05-22 18:04:27 | 日記
こんばんは。

だらけにだらけた気分満載の豊田です。

本日は夜勤ですがブログを更新したくなったので書いています。

母親の家でご飯を貰う前ですね。

テレビでNHKのニュースが流れていて、父親は見ないで何か台所の机に向かっている。

母親も何やらやっているが、分からない。

「箸で食べリン」と言っているので、食事しているのだろう。

天上の扇風機が回っている。

僕は風に当たるのが大好きなので、パソコンのうしろで扇風機を回して当たっている。

夕陽が窓の向こうからこちらへ当たっている。

気分も体も疲れた感じで、やる気が無い。

シーンと止まると、なにか、それでも安心感のようなものが漂うのが不思議である。


というわけで相変わらずの生活なわけですが、以前の更新から何をしてましたかね。

だいたい生活でやることは変わらず、仕事して友達の付き合いして、一人になれば倒れている笑

禅とか念仏とか密教とか、ノンデュアリティとか自己変革とかの本を読む。

それでアレコレ考えてみたりインターネットでいろいろ見たり書いたりして、反応を見たりする。


この金曜日は知人と四日市へ。

以前からの約束だったのだが、なかなか出かけられなかったので無理をしてでも行く。

まあ外に出れば様々な人がいて新鮮である。

土曜日には、千鶴さんと悠聖に会いに勢和多気へ。

三重こどもの城で、遊んできたのだが、帰りに悠聖がぐずったので怒ってしまうという事件。

いかんいかん。

家へ送ってバイバイするときに大泣きしたので胸が痛む。

得意のバックブリッジでないてたw

あれ、赤ちゃんのころから、あの泣き方だよなあ。

そして日曜日、昨日は、バーベキューですね。

まあ、まったりのんびりおいしいお肉とお酒で、相手してくれる人たちもいて満足。


しかしまあ、よくぞ、これほどに次から次へと予定がやってくるもんだw

特に僕は何も企画しないと言うのに、ずっと、この状態は続いているのである。

まあ楽しいからいいか。


で、今日は疲れて一日中寝転んでました。


ここまで書いたところでカレーを食べて満腹になったけど、仕事の時間が近づいてきて嫌になるww


さて宗教のことですが、ここのところは飛躍的進化があったのだけど、上手く説明できません。

なんか、この、ここ、つまり現実が、あるにはあるが、まあ過ぎ去って実体もなく、言ったら確実にあるわけではないということ。

そう感じてたら、胸の反対側の背中の方の重みが消えました。

で、そこから妄想へ赴かないようにすると、この苦しみのようなものはなくなります。


まあしかし、無くなるからといって現実は、そのまんまで何も変わらないので問題は問題としてあります。

その問題が脳内の心配や焦り、楽しみ苦しみ、そんなものに返還される前にカットしてる感じ。

なかなか上手くいってます。


もうひとつは現実世界が丸鏡に映っているみたいな認識が、また来ましたね。

で、そこから離れて、心の動きを止めていると、まあふわっと光に消えていくような感覚を持つ。

これはこれで一つの方向なのかもしれない。


んー。

あとはですね。

あればあるだけという有名なやつですが、これは過ぎ去るに任せる感じになりました。

つまり目の前というものは風があれば風が過ぎるし、音があれば音が過ぎていくのだが、そこにはまれば自分が抜ける。

で、その風自体も、通り過ぎていく。

しかし、また新しいものが、様々に現れては消えていく。

種別をわけずに、とにかく、なにかの印象が、内面外面どちらにもやってきては通り過ぎていくのだ。


で、自分は、そこに何を残すわけでもない。

ただ、それは、来ては去っていくのだから、そのまんまにしておくしかないのである。


無とか有とか、そのようなもの、認識も、いまここも、何も要らないが、苦があれば消していく。

苦は、首の後ろくらいから、あーだこーだ言ってる、そのものが顔を出さなければないwwwwww

その認識者が対象に消える時、その対象は過ぎ去り、認識者も消える。

そしてまた新しい対象が現れ、認識者は消えている。

そして、何らかの記憶が、内面をみだしはじめたら、止める、止める。

とにかく止めるのだ。


で、悟りも何も、この心のさっぱりだけがあれば、それでいいのではないだろうか。

うん。

そうに違いない。

わたしの内面に何もなくなったとき、外界の変化の前にある、なにもないそこが、対象としても認識されるように思うが、まあ、そういうのも、イランと言えばいらんのだろう。



とにかく新しい変化があるのだが、これを言葉にできるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。

南無南無w