動画説明欄より転載。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。******
人生の目的は、「様々な体験を通して多くの教訓を学び、より豊かな人間性を獲得することである」と考えています。 教訓というのは、書物を紐解いて知識を得ても、先人たちの体験談を聴いて理解していてもなかなか身に付かず、実際に自ら体験して初めて意識が変わり、その教訓が魂の奥深くまで染み込んで行くものです。
そのため、「自分の身の回りに起こる出来事は全て必然であり、自分自身の成長にとって必要な体験が、適切なタイミングで経験できるようになっている」と考えています。
〈おばつぶやき〉
ほんとにそうみたい。人間って、生まれてから死ぬまでの間に、何をいつ経験するか、あらかじめ決めて生まれてきている。だから決めていることは起こるんだ。
おばさんの場合、前世はたぶん30代か40代くらいのときに戦争で死んだ。たぶんフランス人の男性であった。
それで今世。中年のおばちゃんである今、世の中はまた生物兵器戦争みたいなことになっている。
それでなぜか成り行きでブログを書くこととなり、最初はゆるーくいいかげんにやろうと思っていたのに、だんだん状況が激しく極まってきて、気合い入れて書く運びとなってしまった。
みなさん気を付けてくれよ!ってことと、あいつら大暴れの今、自分の意識ひとつでいろいろなことが楽になったりきつくなったりするからな、と書かずにはいられないんだ。
これもどうも、前世でできなかったことを今世でやっているようなんだ。
どうやら自分であらかじめ決めてきているなと思う。
そしてそういうことが起こるんだからすごいよね。
男性の人生のときにできなかったことを、今回女性に生まれてきてやっているのだろう。本当にやりたかったのは、武力で戦うことではなかったんだと、前世死ぬときに思ったんだ。そこのところ、なぜかよく覚えている。
そして、今世、おばちゃんになる前の、子ども時代~若いとき、さまざまなアンラッキーな経験をした。
物質的にはわりと恵まれていたが、精神的には修行のような半生であった。これも意味があったようだ。自分の厳しい状況を楽な方向へ調和させる心の公式があるんだと知った。
このあたりも前世と同じだ。あのときも金持ちのぼっちゃんであった。でもなにか、おかしい、幸せでない、と感じていた。
世の中が乱れ、貧しさに苦しんでいる者たちがいて、金持ちの自分がいけないような気がする。
自分自身も己の実力で生きているというより、金持ちに生まれたから、周りが勝手にちやほやして持ち上げてくれる。だから本当のところで自信がない。
物質的に恵まれていても、内面が空虚であった。
そこへきて戦争になった。男として国を守るためと勇んで戦争に行った。そんな自分も好きであった。なんか責任果たしてる気がして。でもそういことじゃなかったんだと死ぬときに気が付いた。
そこの答えを学ぶための今世の前半の学びであった。憎まずにはいられない人物も現れた。自分自身も地獄の苦しみであった。
そこまで来て、自分で解決しようとできることをいろいろやっていると、助けてくれる人や書物に出会い、なんでこうなったのか分かったんだ。
自分以外の親兄弟や他人の苦しみの原因もだいたい分かった。
だから自分の身に起こることを、いい・悪いと、思うもんだけど、それ自体、あまり意味がない。
全部意味があって必要だから起きている。
あぁ、これがこうなって、こうなって、こう繋がるの。へぇーってね。
あの時は死ぬかと思ったけど。そういうことでしたか、と。
だから必ず大丈夫になる。自分自身がプラスの方向を発見し、少しずつでもそちらへ行けば、楽になる。おばさんの経験からそう言える。
そしてそうしていると、周りの者たちも準備のできている人はついてくる。そうやって全体もプラスに導くことができる。
そのプラスの方向というのを、少しずつ書けたらいいなと思う。
どうしてもブログでは限界があるんだけどねぇ。
言葉では表現しきれない感覚ってあるからねぇ。
そのように考えることで、人間社会で起こっている全ての出来事の理由を、矛盾無く説明することができるからです。
自分の周りに起こる、不幸な出来事や予想外の結果は、「単に運がついていないから」と考えるのでは無く、この出来事から自分は何を学び、次に同じようなことが起きた時には、どのように対処するのかということを考え、「この体験を通して良い教訓を得た!」そのように考えるべきであると思います。
そして時が経ち、自分が成長してから過去を振り返った時に、あの時のあの体験が、自分を成長させてくれたのだ!と自分に降りかかった試練に対して、感謝の気持ちを持つことができるようになります。
ところが世の中にはもっと貪欲に成長しようと意気込んでいる人がいます。自らの体験を通して学ぶことでは飽き足らずに、他人の体験を通しても、深く学んでいこうとする人です。
周りの人たちが、様々な試練のどん底に落ちて苦しんでいるのを目の当たりにして、頑張って乗り越えて欲しいと祈りつつも、もしも自分だとしたらどのように解決するのか?ということを、試練のどん底に落ちた人の気持ちになって考えるというトレーニングをしている人です。まるで受験生が入学試験にパスする為に、様々な練習問題を解いているような雰囲気です。
そうすることで、如何なる人生の難問に遭遇しようとも、「この問題解いたことある!簡単に対処できるよ!」ということになるのです。
多くの人は、他人の不幸を目の当たりにして、「自分はそんな目には遭いたく無い!」そう思い、見て見ないようにして、避けて通ろうとします。それを、自分のこととして受け止めて、「自分だとしたらどのように対処するか?」ということを真剣に考えます。
〈おばつぶやき〉
おばさんも昔は他人の不幸の話など興味がなかった。けど、自分自身の問題の答えが分かってから、他の人たちのお悩みもこれで解決の方向へ向かうではないか、と気づき、それ以来、興味をもって見るようになった。
新聞やテレビで報道されているニュースの被害者になったつもりで、地球上で起こり得るありとあらゆる出来事に対して、自分だとしたらどのようにしてこの難局を乗り越えるのか?ということを考えて生きる習慣を身につけることができたとしたら、とても素晴らしいと思います。
本日は、他人の体験から学ぶ生き方をすることで、 1回の人生で1000人分の人生を生きる生き方についてお話ししたいと思います。
人間という生き物は、初めて何かを体験した時には、どうしたら良いのか、戸惑って頭に血が上り、冷静さを欠いて、判断を誤ってしまう傾向があります。しかし一度でも、過去に体験し、そこから教訓を得ているか、或いは、他人からの耳知識で聞き齧っている時には、きっとこうやれば上手くいくだろうとある程度予測でき、戸惑うことなく冷静に良い選択をすることができるものです。
もしも貴方が車を運転していて、車の後方側面に何かが当たったような物音がしたとしましょう。物音がしたのか?それとも気配を感じただけなのか?いやいや気のせいなのかもしれない。そう思った瞬間、「もしかしたら事故を起こしたかもしれない!」そう思って車を止める勇気があるのか?「きっと気のせいだから、いやいや間違い無く気のせいだからこのまま行ってしまおう!」そう思って知らんぷりをするのか?その瞬間にその後の貴方の運命が変わってしまいます。 例え自分に過失は無かったとしても、事故が起こった際に、「責任ある行動をとった勇気ある人間と評価される」のかそれとも、「事故が起きたにもかかわらず、怪我をした人を見捨てて無視して逃げた無責任な人間であると、烙印を押されてしまう」のか、その瞬間の貴方の判断次第で貴方の運命が決まってしまいます。
新聞やテレビで報道されている様々なニュースに対して、自分がもしもそのような状況の当事者だとしたら、どのように考えてどのように対処すべきか?ということを考える習慣を身につけていると、地球上で体験する可能性のある様々な試練を上手く乗り越える技を身につけることができます。 いじめを苦にして自殺をしたお子さんがいらしたとします。どのような家庭環境で育ち、学校でどのような出来事があり、担任の先生がどのように対応し、両親は子供に対してどのように接していたのか?そして、そのお子さんはどのような性格であったのか?ということをできる限り情報収集します。
もしも自分が担任の先生だとしたらどのように立ち回っていたのか?
もしも自分がお子さんの両親だとしたら、どのようにお子さんに接していただろうか?
親に相談してくれるほどの心の通う親子関係を築くことができただろうか?
果たして自分が担任だったとして、上手い対策を取って、自殺を防ぐことはできただろうか?
自分が校長だとしたら、教職員や学生達の意識改革をして、自殺を食い止めることができただろうか?
そして、父母会で皆んなが納得できるような内容の説明をすることができただろうか?
もしも自分が教育委員会会長だとしたら、どのような答弁をするか?
自分が文部科学大臣だとしたら、この件に関してどのようにコメントするか?
様々な視点から一つの事件を冷静に客観的に分析して、ぶれない判断をできるようにしなければなりません。
〈おばつぶやき〉
おばさんはあんまり頭で考えないんだ。
ただ、その人に成りきってみる。すると、その人の意識というものがわかることがある。
親の、子どもを学校に行かせなければならないという思い込み。
生活のために自分はやりたくない仕事にも耐えなければならないという思い。
いろんな人間関係に耐えなければならないという思い。家庭内、親族内、ご近所、職場。
そこには感情というものを挟む余地がない。自分の感情を許していない。
親自身の感情も子どもの感情も。
人は、自分自身に対する態度と他人に対する態度がいっしょだ。
結局のところ、家族のために耐えていても、親自身のことも、子どものことも、いじめている。
まず家庭内がプチいじめ状態にある。
こういう感じだと、子どもは自分の気持ち言いにくいだろう。
関連記事:
だれもが気を付けないとそうなりかねない。こんな社会だから。これが根本的な原因だ。
(だから私は「~なければならない」という言葉がキライだ。なるべく使わないようにしている。ブログでも。この言葉を多用すること自体「いじめ」だ)
そういう状態の親に対して、子どもは親に言えないだろう。自分の苦しい気持ち。
子どもは親のそんな意識、全部感じ取っている。
「いじめられている。学校に行きたくない」って言ったら親は困るだろうなと。
先生に言うんだろうかとか。下手したらよけいいじめられそうだ、とか。
いろいろ悩むだろう。
仮に子どもが勇気を出して話したとしても、親は、先生に相談したりして、いじめっ子をにいじめをやめさせるには、とか、子どもがいじめに打ち勝つにはとか、その程度の発想だろう。そんなのは付け焼刃だ。
学校や親たちや社会が作り出している根本的な問題が見えてないだろう?
子どもたちをいじめに走らせる本当の原因。それは親の支配だ。親が支配するから、学校で自分より弱い子をいじめる。
親は社会で支配され、自分で自分のこともいじめている。耐えなければと。そして自分の不満を家で自分より弱い子どもに吐き出して憂さ晴らしをしている。するとすっと心が一瞬楽になるんだよな?自覚あるか?
これをやり続けると、子の人生を破壊する。
こんなふうに育てられている子が学校に集結しているわけだ。そして親から受けたマイナスエネルギーを自分より弱い同級生に向けて憂さ晴らしするわけだ。
こういう世界だ。それで亡くなる子もたくさんいるんだぞ。
そこが見えていれば、いったん学校に行くのをやめるのも全然アリで、家で楽しく学ぶほうがむしろ頭のいい、心の豊かな子になるかもしれないとか、いろいろな道がわかるはずだ。
そういう人も最近は増えてきていると聞く。そういう人が増えると他のみんながやりやすくなる。いいことだ。
学校に必ず行かなければならないという前提が最近、崩れてきている。
結局、こどもの素直な感情はすべて分かっていたということだ。
こどもがイヤ、苦しい=その場に問題がある。行かなくていい場所。
わたしはそう思っている。
大人だって同じだ。おばさんはいやな感じがするところ、人には近寄らない。
後になって、そういうことだったかと判明したりする。結構正確だ。
常識や「~なければならない」というには二の次でよろしい。
よくつらくても逃げてはいけないと思い込んでいる人がいる。
逃げた方がいい。どうせそのうち崩壊する。いったん離れて、自分を大事にして、自分の感情の声を聞いていると本当は自分がどうしたいか行くべき道が自然に分かる。
感情はときに、警報だ。非常に正確だ。実際に無意識からの声だ。
無意識は何を考えているか分からないといわれているが、感情が無意識の声だ。
無意識は超頭がいい。よーく感情の声をきいてくれ。できる限り叶えてやることでトラブルが防げる。
目の前の人が「あいつら」かどうか、見分けるのにも非常に役に立つ。
先生や教育委員会や文部科学大臣は、学校をそんな場所にしてしまった責任があるわけだ。わかってんのかな?ちっともわかってないだろうな。
問題が見えてないのに、解決なんてできるわけがないんだ。
その状態で言い訳をしている。父母会、記者会見で。ご苦労なことだ。
最近はコロナの影響でタブレットで自宅学習にしようという話も出てきている。
今後ますますムリに学校に行かなくて済むようになっていくかもしれないけど、家庭で親自身の問題にじっくり向き合わざるをえない状況になるだろう。
そこに「あいつら」の弱体化や横暴も加わって、今まで見なくて済んでいたものを見ることとなるだろう。
大人たち自身が「あいつら」に洗脳され、支配、依存に生きている部分を直視せざるを得なくなるだろう。
こういった意識からすでに抜けている方たちは、しなやかに状況に応じて学校に行かない選択をしたり、学校よりももっといい教育方法が見えたりしているようだぞ。
またそういった親は、自身も組織に属す生き方ではなく、ピラミッドヒエラルキーからなるべく距離を置いて仕事をしていたりする。
☆公式1
もっとありふれた、何処のご家庭にでも起こりうる事例を紹介しましょう。
もしも貴方と同居している自分の父親もしくは義理の父親が認知症を患い、もの忘れが進んでいたと仮定します。毎日散歩に出かけては、近くのスーパーに寄り、毎回同じ物を買って来ます。少し離れたホームセンター迄行くのに車の運転もしますが、先日は帰宅しようとして反対方向に行き、道に迷ってしまいました。危険だから運転を止めるように忠告しましたが、「俺をボケ老人扱いしやがって!」と、物凄い剣幕で怒りました。挙げ句の果て、先日は不注意の為に歩行者と接触して、相手に軽い怪我をさせてしまいました。
〈おばつぶやき〉
自分が老いたり死に近づいていくことを受け入れられないんだよな。
おばさん、前世で自分が死んだときのこと、うっすら覚えている。
あ、死んだ!ってわかんなかったの。しばらく。
たぶん戦場で流れ弾に当たったかなんかして倒れて、そのうちに死んだと思うんだけど、おばさんの傍らで涙を流してくれている人がいて、おばさんその人の愛を感じて、一生懸命泣かないでって言ってるの。
でもたぶんもう死んでるから話できないわけw。それでそのうち、その泣いてる人もどっか行っちゃったわけ。それで、あれ?自分、死んだ?って気づいたのww
そのあと天国に行ったんだろうけど、そこからは記憶がないんだ。
というわけで死は、来るときは来るけど、死自体は案外苦しくも痛くもなかったので、今世のそのうち来る死も、まぁいいやと思っている。戦場で死んでもこんな感じであったからw
問題は死ぬ前になるべくつらくないように、痛くないようにってことだ。
肉体が衰えるのとどう付き合うかだ。
貴方なら、今後どのように対応するのでしょうか?
認知症高齢者の運転による交通事故は後を経ちません。しかし、ご家族の方も何もせずに放っておいている訳ではありません。家族としてできるだけのことをしているつもりであっても、上手く対処できていないのです。このような事例を見聞きした時には、自分に置き換えて考えて見る必要があります。そして、自分自身が当事者であったとしたら、どのようにするのか?お考えになっておくと宜しいと思います。
〈おばつぶやき〉
おばさんは、自分自身が病気になっても認知症になっても、まーいいやと思っている。その状態でなるべく自分が苦しくないように楽で楽しくいられるよう、心と体の調和をとったり、周りの人に必要なことをお願いしたりするわ。
いつまでも肉体も頭もぴかぴかで、元気で、若々しくて、そういうのがいいんだって思い込みがあるけど、それは思い込みだ。年寄りには年寄りの人生の味わいがある。
肉体がぴかぴかで元気・・・よい
老化、認知症、病気・・・悪い
これは思い込みだ。
おばさんはぴちぴちの若いときに戻りたいとは思わない。若い人がうらやましいとも思わない。むしろ葛藤や煩悩、思い込み、親や年長者の支配、経験不足等で大変だろうと思う。
そしてご病気や認知症の方を残念だ、かわいそうとも思わない。その中で調和をとるチャンスだ。
するとマイナスが反転してプラスに行くこともある。
車の運転やめてスローな生活にしてみて初めて見える楽しい豊かな世界がある。
見た目が老いるのも、毒素が抜けたらきれいになって、ちょっと若返ることもある。
だから病気や認知症を受け入れましょうとかよく言うけれど、受け入れなければ、というより、真相は、それが最善って感じだ。調和を取り戻すチャンスだ。体の声を聞く時だ。
実は、自分の心の奥深くでは養生したり、スローなペースを望んでいる。
頭で、アクティブに生活しなければと思考しているだけだ。
こんなふうに頭と心が乖離していると、マイナスのことを起こして、バランスをとろうとするんだ。
病気だけでなくいろんなトラブルが、そういうふうに起きていたりする。
また、家族と心通う関係が築けていない人は、最後、寝たきりになることで家族と触れ合う機会ができる。
実はそれがずーっと自分自身が心の奥で望んでいたことで、素直に言えなかったのを寝たきりになることで叶えていたりする。
だから、心が自立して自分のしたいことに励んでいる人は、案外介護状態にならなかったりする。
つまり、起こること全部、じつは自分の無意識の願いをかなえるために起きている。だから全部ラッキーであるともいえる。それが頭では分からないだけだ。
おばさん自身は、わりとバリバリ働いていたこともあるし、うつになって長いこと動けなかった期間もあるし、今は元気だけど、スローな生活を送っている。(「あいつら」ヒエラルキーに入りたくないからさw)
若くても、病に見舞われたり死ぬこともあるわけだ。それを過剰に恐れたりするもんだけど、こういうことだから恐れなくともよい。全部、自分の無意識で望んでいることが叶っているだけだ。
どの状態のときも、プラス面、マイナス面それぞれあったよ。
うつのとき、苦しかったけど、肉体と精神を調和させることを学んだ。これをやらないで、この先の人生を生き続けたら、もっと苦しかっただろうと思う。
これでバランスを取り戻したわけだ。
肉体が調和すると、精神も調和する。精神が調和すると肉体も調和する。
そうしながら、お迎えが来たら、さっさと天国に行こうと思っている。
死のタイミングも完璧だ。
病気になったから死ぬのではない。冒頭に書いた通り、今回の人生でやることを決めて生まれてきている。やることが終わりましたよ、というのが死だ。
やることが残っているうちは、死なない。死ねないw
そして死自体は、おばさんの経験では痛くも苦しくもなかったからな。
地球を離脱して休むことができる。死もまたラッキーだ。次はどこに生まれようか?もう地球は卒業したいかな。。。
そういう感じでいたら、自分が認知症や病気したら、家族や周りにちょっと助けてもらってなるべく楽にいればいいやって感覚になると思うんだけどね。
そして自分の家族がそうなって受け入れられずにいたら、私はこういった話をぼそーっとするだろう。あんまりはっきり言いすぎてはダメだ。相手が消化不良を起こしてよけいキレたりするからなw
助けてあげられることは助けてあげるけど、それ以外は知らないからね♡と言って。
全部面倒見てやらなければっていうのはダメだ。
この感覚があるってことは、支配や依存にハマっている。
相手に責任を返すってことも大切だ。たとえ年老いた親であっても。
本人にしかるべき人や施設に依頼させたりすることが大切だ。
支配性の強い親は自分の病や介護状態を使って、こどもや家族を支配してくるってこともやる。おばさんは見たことある。
そんなふうならば、プロに任せてある程度ほっとくことも必要だ。
何十年にも渡って培われた支配関係だ。死の間際に激しくやってくることもある。
まともにはまると、共倒れだ。
☆公式2
こじれた介護や認知症問題=親子の支配関係の最終段階
私達が体験し得る、落とし穴のような状況をお示しします。
貴方がサラリーマンとして会社の中堅管理職に就いていたとします。テレビドラマでも見られる状況ですが、もしも上司から命令された内容があまりにも理不尽な内容であり、将来的にそれが明るみに出た時には大問題となるようなものであったとします。俺が全て責任を取るから、俺の命令に従って行動しなさいと言われた時に、貴方はどのように行動するのでしょうか?
〈おばつぶやき〉
まずおばさんはまず、そういうところには行かない。
上記のこどものいじめの話にも通じることだけど。
支えてる人間がいるから、こういうのが後を絶たないわけだ。
辞める、もしくは辞めることになってもいいという覚悟で上司に断るな。
それが自分のため、世の中のためだもんw
こいつらの犠牲になったり道連れにされるくらいなら、クビや左遷になったほうがマシってもんだ。
貴方が警察官として、中堅管理職に就いていたとします。人一番責任感が強く仕事も熱心で上司からも部下からも信頼されています。仕事のみならず近所付き合いも大切にしており、近隣の人達とも仲良くお付き合いしています。先日子供が下校途中で怪我をした時に、偶然近所の奥様が通りがかり、家を留守にして連絡が取れなかったので、わざわざ病院に連れて行き手当をして頂いた上に家まで送って下さったことがあり、いつか恩返しをしたいと思っていました。ある日、その方のご主人が飲酒して車を運転して事故を起こしてしまいましたが、私が警察官で中堅の管理職である事を存じていらっしゃるのか、翌朝早くに自宅に来られて、何とか飲酒運転を見逃して欲しいと相談されました。お世話になった家に対して不義理はしたくないし、警察官としての責任もあるし困り果ててしまいました。貴方はどのように行動するでしょう?
〈おばつぶやき〉
この事例、以前恩を売った相手に、便宜を図ってもらおうという意図があるわけだ。
本人意識してるしてないに関わらず、これも支配だ。
情に訴えて相手を都合よく操作しようとしているわけだ。
☆公式3
恩を売った相手に便宜をはかるよう働きかける=支配
有効なワザがある。
分割するってことだ。
例えば、自分にいじわるしてくるキライなヤツが家族や職場にいるとする。
ふだんはキライでOK、つきあわなくてOK。でも給料を稼いできてくれる。洗濯してくれる。たまに電球を交換してくれる。この部分だけはありがとう。
私自身はこういうふうに考えている。
だから嫌いなヤツにも心からありがとうと言えるんだ。それ以外はキライでOKと思ってるからw
ふだんからこういう感覚でいることが大切だ。いきなりはムリだからな。
嫌いなヤツで練習してみてくれw
やってみると分かるけど、心がさっぱりする。むだにきらいな相手に囚われなくて済む。
それでいて感謝する部分があればハートが通ったりもする。嫌いなヤツでも。
だから嫌いな相手とも場合によっては心が通って、だんだんこいつはこれでいいんだと認めるような感覚が出てきたりもする。
こういうふうにいると無用な争いやトラブルからも縁遠くなる。
また、支配者に過剰に忖度したり迎合するようなこともなくなっていく。それでいて愛ある関係を築けたりもする。相手にその素養があればだけどな。
恩や情と交換条件で、便宜はかることや無理いってくるヤツにもこれでいける。
最後に、滅多にない話ですが決して起こらないとは言えない事例をお話しします。 貴方が夜自宅でくつろいでいると、非通知の電話がかかって来ました。誰からだろうか?恐る恐る電話に出てみると、中学校の同級生でした。何十年ぶりなので、懐かしいなぁ!そう言って昔話に花を咲かせていました。近くに居るのでこれからお邪魔して良いか?と聞くのでしぶしぶ許可したところ、しばらくして、汚れた服装をした友人が現れましたが、とりあえず家に上げて話を聴くことにしました。人から追われているので、しばらくこの家に泊まらせて欲しい。自分がここに居ることを誰にも知らせないで欲しい。そう言われました。
友人を家に残して、翌日は会社に行き、会社のテレビを見て、彼が指名手配犯であることを知りました。その日は何も無かったような顔をして、帰宅して彼に何があったのか?を聴き、自首することを勧めましたが、彼は聴く耳を持ちませんでした。
その夜のことです。警察が訪ねて来て、友人が来ていないのかどうか?を尋ねられました。嘘をつくと犯人蔵匿(ぞうとく)罪として罪に問われます。友情も大切です。貴方ならどうしますか?
〈おばつぶやき〉
これも同じだな。懐かしいのはOK。友情をあたためるのもよし。
けど罪犯してるならそれは別と、分割して考えられるか。
そして、おばさんだったら、なんでそういうことをすることになったのか一応話を聞くだろうな。
そして罪を犯したということは、たいてい「あいつら」のワナにはまっているということだから、なんではまったかを教えてあげようと試みるかな?
そいつの牢屋を出たあとの人生のために。
(相手が聞ける状態になかったらしょうがないけど。)
そして、自首しないなら、そっと通報してやるだろうなw
人に教えてあげたいとき、なんとなく言いづらいと感じたり、相手が聞きたがらないってときあるだろう?
そんなときは言っちゃだめなんだ。相手が拒否している。それを感じ取っているとそんな感覚になる。人と人はインターネットのように心の奥で繋がっているからな。
まだそいつはマイナスを経験したいんだ。まだ、時期じゃないんだ。
それがそいつの今の時点での選択なんだ。そいつがどう見ても将来だめになることが分かったとしてもだ。経験させてあげるのが愛なんだ。
どうしても我々は経験して納得したいというのがある。
だから今世界で暴れ回って残虐行為してるヤツラもそうなんだ。
そして、犠牲になっている方々も心のふかーい部分での同意がある。
全体のために犠牲になることがいいことなんだっていう思い込みがあったりする。
集合意識のレベルでも。
双方ともに、支配しまくっても幸せにならないんだ、どんなに犠牲になっても自分も世の中も幸せにならないんだと納得したい。
だから困ったヤツも時期が来れば、分かる。時期が来ればそういう状況から抜ける機会を自分自身がつくるから。それは今回の人生では来なくて、来世かもしれないけど。
だからほっといてやるのも愛なんだ。
テレビや新聞には、認知症高齢者の交通事故、公務員の収賄、逃亡犯の隠蔽など、様々なニュースで溢れています。それに関わった人達が特別に道を外れた非常識なことをした訳ではなく、幾つかの問題が重なって、大きな問題に巻き込まれてしまっただけなのです。
〈おばつぶやき〉
だいたいが
物事を分割して1個1個で見ないで、いっしょくたに捉えていること。
いい悪いを勝手に思い込んで決めつけて苦しんでいること。
自分の心や体の声を感じて調和をとるという発想がないこと。
「~なければならない」に囚われて、感情を無視していること。
支配ヒエラルキーにどっぷり浸かっていること。
など原因だ。
これらは全部、支配・操作の意識だ。
いったん離れて、自分大事にして心と体の声を聞いて調和を取ることで解決することがたくさんある。
つまり、支配・依存の感覚でいると、問題が起こる。それは当たり前なんだ。
支配とはつまり、マイナスエネルギーでくっついていることだから。
言い換えますと、誰にでもこのような事例は、長い人生の間に、巻き込まれてしまう可能性がある事柄です。 ここで各事例に対して模範解答を申し上げることができないのは、その人の置かれた立場や状況により、最も望ましい選択肢が異なってくるため、個々の事例ごとに深く掘り下げて考える必要があるからです。
しかし、ものごとを判断する上での基準は、常に同じです。
「自分の役割をしっかり果たす為に、今できる最高の選択をする。」ということです。自分の役割とは、そうすることで自分を含めた皆んなが幸せになることです。「相手の幸せの為の役割」と言うことを分かりやすく言い換えますと、「相手が自立して強く逞しく謙虚に胸を張って堂々と生きていく為に、自分は何をして差し上げられるか?」ということになります。
〈おばつぶやき〉
まず、自分だ。子どもの問題でも親の介護でも、指名手配の友達であっても。
単純にやだなとちょっと感じたときに、「分割」のワザで離れるだけでも、支配から抜けられる。
すると心地よい。そのくらいのほうが、相手にとってもいいの。
相手も育てることができるの♡
愛の関係とは実は、けっこうさっぱりしている。
つまり少し離れている。
べったりしているのは支配関係だ。
だから最初、支配から抜けるときは、寂しいような、冷淡な感じがするだろう。
あつあつのカップルも、あれは支配関係だ。
子煩悩もよく見てると支配であったりする。
激しい関係はまちがいなく支配関係だ。
だからおばさんは激しいヤツとは付き合わない。
そいつの家庭、友人関係、よく観察すると見事に全部支配関係だ。
自分もお仲間に入ってしまう。
書店の受験用の参考書のコーナーに行けば、数多くの練習問題集が積まれています。初級の練習問題から難問集までピンからキリまであります。ところが、人生の練習問題集は何処を探しても見当たりません。 人生の練習問題集は入手困難ですが、人生の練習問題となるような内容は、新聞やテレビのニュースやワイドショーで入手することができます。良い選択肢を選択して見事に切り抜けられたという事例ではなく、誤った選択肢を選択した結果、どのような悲惨な結果になってしまったのかということを、詳細に伝えてくれます。
〈おばつぶやき〉
誤った選択とは、支配関係にあると、容易にやってしまう。
誤った選択とは、相手の領域に入ってしまうことだ。
関連記事:
指名手配の友達の犯罪の件。友情にからめとられて。
子どもの面倒を見てもらった警察官の話。恩義にからめとられて。
支配的な親が病や認知症になって、親子相克状態に陥って親が子の愛やエネルギーをむしりとる。子は離れることができない。罪悪感を感じて。
本来は親自身が周りに助けを依頼するのが筋だ。ひとりひとりに同意を取りながら。
そうするように親を導くには、子ども自身が親の支配から抜けてないとムリだ。
だからみな苦しんでいる。たいてい子どもの時から、親が死ぬまでずっと支配関係だ。気づいて関係性を変えない限り、最後がいちばん苦しいに決まっている。
ニュースやワイドショーのスキャンダルなどは、たいていそんな支配関係の顛末だ。
不倫のニュースなどもどうでもいいが、支配関係に陥ったの夫婦の関係が透けて見えている。そこから逃避行をはかったわけだw
どうせまた不倫相手とも支配関係に陥るだろうw
そういうわけで、おばさんに言わせれば、全部シンプルだ。公式はひとつだ。
支配か、愛か。それだけだ。
頭で理解したら、自分の感覚になじませることだ。支配ではなく、愛のほうを。
これは少々時間がかかる。すこーしずつやることだ。すこしずつ気づきながら。
そうするだけで各段に楽になる。なにしろ今までの苦しい方向からは方向転換したわけだから。それだけで前よりは楽になる。
他人ごとだと思わずに、自分の身に置き換えて、相手の立場にだって、自分だとしたらどうするのか?そう考えて学んでください。
Dr.Yは、自分が当事者だとしたらどうするか?を常に考えて生活しています。自分が加害者だとしたら?自分が被害者だとしたら、自分が管理者だとしたら?自分が知事だとしたら?自分が担当大臣だとしたら?自分が総理大臣だとしたら?果たしてどうするか?
「自分だとしたらこうする。何故かと申しますと・・・」と常に考えながら生きています。
本日は、他人の体験から学ぶ生き方をすることで、 1回の人生で1000人分の人生を生きる生き方についてお話ししました。
また皆様のお役に立てるようなお話しをしたいと思います。 Dr.Yでした。
#体験から学ぶ #教訓 #相手の立場に立つ #1回の人生
あぁ、Dr.Yさん、日本の総理大臣になってほしい。。。
そして、みんなを導いてほしい。
そして、みんなを導いてほしい。
おばさんが官房長官やってあげようか?w
Dr.Yさんのその他の記事↓
コロナに関するお話↓
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