丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

ゆく年くる年。フロリダの最高裁がワクチン犯罪の大陪審を承認。来年はワクチン犯罪の捜査が始まりそう。

2022-12-27 01:51:55 | 心の解放シリーズ
「きびしくしない。

どんなでも受け入れる。

自分も他人も責めない。」

これが私自身のテーマなんだ。
これは、言葉で言うのは簡単だけど、むずかしい。
一生かけて取り組むようなことだ。

これと矛盾するようだけど、
2020年からこれまで、多くの人の命に関わると思ったため、心を鬼にしてずいぶん厳しいことを書いてきた。

そして、みんな自分で決めた。



工作員も、工作員をやると、自分で決めた。

黙食させたい知念先生。チェリーピッキングしてるのは誰なのか?


専門家も、政治家も、マスコミ言論人も、そうすることを自分で選択している。


みんな自分で決めた。

それを信じた人も。

みんな自分で決めた。

人の命が軽んじられることなど、もちろん、ゆるせん。
怒りと悲しみの底に突き落とされたよ。わたしも。


私も、今もし子どもであったならば、親にワクチンを打たされて、死んでいたかもしれない。

その選択に至る過程が、誰にでもある。
意識の歴史がだれにでもある。
それは今回の人生だけ見てもわからないこともある。

ただ現在そういう状態だから、そういう選択をする。

大人の多くは、生い立ちや親子関係が自分の意識のひな形となっていて、
自動的にいってしまう。選択からその結果まで。
親との関わりですりこまれた、人との関わり方というのがある。
親から受け継がれた意識がある。
それが幸せな意識や関わり方だと幸せが多い人生となるのだけど。

多くは、なんで苦しいのかわからない。
なんでいつもこうなるのか?と悩む。

苦しいと感じて、自ら這い上がろうとしないかぎり、変われない。

自分と向き合うことをしないかぎり。

自分を愛することを始めないかぎり。

言動を見ていると、その人の意識がわかる。
どうしてそういうことをするのか、どういうふうに育ったのか。

親と愛の関係で大切にされて育った人は、
他人を命を落とす選択に誘導するなんてことは、まずしない。
そんな自分の価値を貶めるようなことは。

支配者である親の期待に応えながら、親に仕返しをしている。
大人になって飼い主が親からあいつらに変わっても。
関係ない他人を犠牲にして。

だから、それが残忍残酷極まりないことであっても、やりたい人はやる。
意識がそうだと、ほぼ自動的にそうする。
そういう人に人徳とか倫理とかまちがってるとか言っても無駄だ。
その意識が癒されないかぎり。
だから私はそこを見ている。

これほど、人の内面があらわになっている時があっただろうか?

ばかだ、けしからんと、言うんだけど、無意識の視点から見ると、だれもが自動的にやりたいことをやっていて、それを言葉でいい悪いと決めることがむなしいというか、うすっぺらく感じるんだ。

ただ、そうかそうか。そういう状態なんだと見る。

親に虐待されて育ってるなと。
(精神的な支配も虐待であって、されていない人がめずらしいくらいだ)

心の傷が深く自分で癒せない人ほど、あいつらに使われる。

そしてその犠牲になる人々。
犠牲になってしまった方もまた、いろいろだ。
そういう選択をするに至った過程があるはずだ。
だから、その過程と今の状態を見てあげることに、私は興味があって、すべてはそこからだと思っている。
それが愛だと思っている。

すると、冒頭のように誰のことも「責めない」という結論に至る。
厳しいこと言わなくていいし考えなくていいと。

責めることには意味がないと思うため。

責任の追及はまだ別だ。
責任の見極めと追及は必要だし、私もしていきたいと思っている。


責めない心境に至るまで、私もずいぶんと人を責めて恨んで苦しんだ。

数年間動けなくなるくらい、そういう感情に苦しんだこともあった。

だから苦しい方は、そういう感情がいっぱいたまっていると思うんだ。
激しく他人を攻撃、支配する人もだ。(つまり支配者も犠牲者も。)

感情を感じ切ってあげて、もうそうならないように自分を守る方法を学ぶことで、自分が安心していく。(支配ではなく、対等な関わり方を学ぶってことだ)
支配に生きてる人は、他人だけでなく自分自身を支配する。それもやめていく。
自分に命令しない。
お正月は自分を支配しない練習するいい機会だ。
これだって、「正月の支度がしんどくなってきちゃったから持ち寄り形式にしてもいいかな?」と相手に切り出すには支配関係では無理だ。
対等に心が通う関係性が築けてないと、自分を愛するための提案や依頼もできない。


自分のマイナス感情が出てくるたびに、徹底的に感じてあげて、見てあげたんだ。

みんな、マイナスの感情はいけないと、抑えて見て見ぬふりをしてしまいがちだ。

そうではなく、それも見てあげる

すると、傷ついた自分が安心して、いろんな感情を出してくる。
古い忘れてた感情も。
こどものときの傷ついた自分なども出てくる。

なにかのきっかけで
昔、人からされた仕打ちとそのときの感情が出てきてしまうこともある。

そしたら仕事を中断して、じっくり心の目を内に向けて、見てあげるんだ。

苦しい感情を感じきってあげると、落ち着くの。
すると、自分がいつも同じところでつまづいていることに気づく。

ああ、人に指図されて、ひどいことをされて、悔しいのに言えない、卑屈に従ってしまうんだな、とか。
強いものの犠牲になって従って、自分より弱い、本来守るべきこどもや家族を支配していたんだ、とか。

感じきって、少し自分のパターンに気がついてやっと、
じゃあどうすれば、この苦しいパターンをやめることができるのかな?という視点が出てくる。

だから自分の感情を見ない人や感じられない人は、こういう気づきに至らない
頭だけで考えても無理なんだ。
「~なければならない」と自分を律するだけでは無理なんだ。

だからたいてい、崩壊するまでやる
たくさんの犠牲を出しながら。関係ない人を巻き込みながら。

政治家なんて、一番わかりやすい。
親と同じパターンでダメにして責任をとらない。国民を巻き込んで、犠牲にして。

自分ができてないことは、親もできてないことなんだ。

親ができていないため、親から学べなかった。

これが先祖代々のパターンとなって受け継がれている。

そういうのがたいていみんな、あるから、
そうやって自分の感情を見てあげることで、親を超えていくことができるんだ。
それが自立だ。
感じてあげることは愛だ。愛がないと自立もできないんだ。本当の意味で。
それが本当の親孝行で先祖供養だ。

どこかでマイナスパターンを変えてあげないと、時の経過とともにマイナスが深くなって、くるしくなるに決まっている。
幸せに発展できない。
発展できないだけならいいけど、みんなで仲良く崩壊しそうな世の中の流れだ。

だから
親の言うことに卑屈に従うことが親孝行、家のためではないんだ。

親の犠牲になっている場合ではないんだ。

年末年始、家族で過ごす方が多いだろうときに、あえてこんな話を書いてみた。


家単位、個人レベルではそんな感じだけど、
そういう人が多ければ、社会全体もマイナスが深くなっていくに決まっている。

これから私達はみんなで、前人未到の領域に行こうとしている。

だから人類全体で、できる人たちで切り込んでいく。

でもたぶんご先祖たちも、そうだったはずだ。
時代の変わり目はもちろん、つねに時代は変わるから、
親の代ではありえなかったことに挑戦したりして、命をつないできた。

こどもがいなくたって関係ない。
少子化だろうとなんだろうと人間がいる以上、そういう自分と向き合える愛と強さと気概のある人がいないと、この世の中が終わってしまう。


でも、こんなふうに、自分を愛しながら、自分の負のパターンに気づいて少しずつ変えるというのは、容易ではない。

みんなができるわけではない。

無理な人もたくさんいる。
その状態で一生終えたい人もいる。

背負っているものが大きすぎる人もいる。

恐れが強くて自分を見ることもできない人もいる。

鈍く見える人の中には、本当は恐れが強い人もいる。

そういう人を責めてしまいがちなんだけど、
本当は、どんな人でも、命が脅かされない社会でなければおかしいはずだ。

だから、自分で自分を守るしかないため厳しく言ったけど、
話の通じない分かり合えない身近な人よりも、
そういう危険な社会にしたあいつらが元凶であることを忘れちゃダメだ。


そんな社会に計画的にして、それを支えてるやつらがいる。

認知戦に負けて、だまされて、バカだと言うけれど、
自分と向き合えない人は、こういうことをされても違和感を感じるよりも頭で考えて従うから気が付かないだろう。

だから私は不器用な自分と向き合えない、気づけない人たちを責めない。
親のことも責めるのをやめた。

そして、これだけいろんなことが起こっているから、死というものが身近にあることも受け入れた。

そりゃ悲しい。死んでほしくない。

でもそうしたかったんだから。

そうしたかったんだねと受け入れるしかないではないか。

動けなくなってしまった方も少しずついろんなことを試してがんばっておられる。

そうだ。ゆっくりできることをする。私もまた見つけたら発信する。

責めるよりも嘆くよりも、今少しでも楽になるためにって発想だ。

人それぞれだけど、
がんばりすぎて今まで自分を愛することが足りなくて、そうすることが必要だったのかもしれない。
休んだり、栄養をとったり、家族に甘えたり。
本当はそうしたかったのに、今までできなかったのかもしれない。

起きていることは、「その人にとっての意味」があるんだ。
本人も気づいてないと思うんだけど。
マイナスに見える出来事も、なんらかの無意識の願いをかなえていたりする。
それは、正しいまちがってると、外野が言うこととは関係ないんだわ。

だから他人の言うことって気にしなくていいんだ。
あてにならないんだわ。
自分のとって気持ちよくなかったり、ピンとこないときはとくに。

だからそういう無意識の深い視点から見ると、ダメだとか責めることは、ちがうんだ。自分のこともね。

今そこから、その状態で、少しでも楽になるためにどうしようか?って視点でやり続けると光が見えてくる。
ゆっくり時間をかけて。

そうしているうちに世の中も変わってくる。

来年はまた大きな変化があるだろう。

例のフロリダのデサンティス知事の大陪審、
来年から本格的に始まりそうだ


2022-12-23
フロリダ州最高裁判所は22日、ロン・デサンティス州知事の求めを受け、
「新型コロナウイルスのワクチンに関連した州民に対する犯罪と不正行為」と自身が主張するところの捜査を行うため、大陪審を招集することを承認した

最高裁が承認したって。ワクチン犯罪の大陪審。捜査が始まるな。

デサンティス氏は13日に裁判所に提出した請願書で、製薬企業がワクチンに関して不正確な認識を与えたと非難
さまざまな研究が、ワクチンが、特にデルタ株とミクロン株についてCOVID-19の伝播を防ぐという説を覆している。これらはワクチンが伝播を止め、集団免疫を発達させ、パンデミックを終わらせるのに役立つという製薬メーカーの主張の正確性に疑問を投げかけている」と主張した。

このワクチンは感染を防がないんだから、
免疫を抑制するんだから、感染しやすくなる。
だからいつまでもコロナが終わらない。
ワクチンがパンデミックを終わらせるなんてウソやろと。
おばさんちの近所のスーパーにも「ワクチンを打った方もマスクをしてください」なんて貼ってある。
これが何重にもおかしいと思えないとダメだよね。


さらに、州保健局が独自に実施した分析で「18歳から39歳の男性で、mRNAワクチンの接種後28日以内の心臓に関連する死について、相対的な発生率の増加がみられた」としたほか、
フランスとカナダの研究で、mRNAワクチンの接種後に心筋炎または心膜炎の発症率の増加が認められている」と示し、「これらの報告は、ワクチンの安全性とリスクに関して製薬業界によってなされた表明が真実であるかどうか、疑問を生させるものだ」と説明。

心筋炎が多すぎる。安全性とリスクの説明はウソやろと。


州法は「虚偽または誤解を招く薬物の広告の流布、効果的でないにもかかわらず適用が効果的であると謳う薬に関連する広告表現および示唆」といった「詐欺行為」を禁じているとした上で、製薬業界が不正行為に関与したかどうかを決定する捜査が必要だと主張した。

州法で禁止されている詐欺やろと。

フロリダ州最高裁判所の説明では、大陪審の期間は1年間で、犯罪捜査、起訴、その他大陪審のすべての機能を実行するとしている。

来年はワクチン犯罪の捜査ですな。起訴してくれ!

ちなみに同裁判所の判事7人のうち、4人がデサンティス知事によって任命されている。

いいね、過半数がデサンティス氏の任命した判事。

11月の州知事選で圧勝したデサンティス氏は、共和党からの次期大統領選への出馬の期待が高まっている。USA Todayとサフォーク大学が今月実施した世論調査では、共和党支持者と共和党よりの無党派層の56%が、出馬を希望するとし、トランプ前大統領(33%)を20%以上上回った。

これをやりとげて、次期大統領か?

あらあらあらあら。戦犯のみなさん、もうすぐみたいですよ~。



年末年始、どうぞご自分にやさしくいてください。
するときっと身近な人と温かい時間が過ごせるかと思います。
これから大変かもしれないけど、希望もあるって話でした。

夢にまで見たあいつら逮捕、来年ついに見られるかな?


自分を愛する。世の中の雰囲気から外れて幸せにいる。

2022-11-14 17:10:24 | 心の解放シリーズ
したいときに、したいことをする。

この意味と、この大切さが、あまり知られていないと思うんだ。


おばさんは、月曜日が一番好きだ。

休日はさ、家族のためにごはんを作ってあげている、やさしいおばさんなんでね。

月曜日は、平日昼間は自分の天下だと思っているのw

昨日の残りのクリームシチューを温めて、あ、昼間から酒飲んじゃお。


最近、運動してるの。だからおなかすくの。

人間は、動物だ。

動かないと、体が衰えてしまう。


朝、散歩してるんだ。30分くらい。

そして、筋トレもしている。

脚と、腹筋と、肩こり背中をほぐすための肩甲骨ストレッチと、ハムストリングスをほぐすやつ。

それで、めんどくさいとさぼるのね。

2週間くらいさぼっていたら、筋肉がまた衰えて、膝が痛くなってきた。

それでまた鍛えると、膝が痛くなくなるのね!

それでわかった。

着地するときに、筋肉が働いていないと、衝撃がもろに膝に来るんだって。

それから、体のゆがみも、筋肉が衰えていると、どんどんゆがむ気がする。

少し鍛えると、体をまっすぐに筋肉が保ってくれる感じがする。

骨が多少ゆがんでいても、筋肉が修正して支えてくれているのだろうね。

だから若いときや子供のころはゆがみなんて気にならなかったのに、
年とともに体のゆがみが気になってきて、問題が出てくるというのも納得した。

ゆがめば体が傾いているほうの膝に負荷がかかるから、痛くなるだろうし、
体のバランスが変われば歯のかみ合わせも変わってきてしまって、
かみ合わせがきついところの歯が、噛むと強く当たるから虫歯になりやすくなったり、
顎がずれてきて、顎関節症になったりする。

全部つながっているんだ。

全身の筋肉全部が大事だけど、自分のやった感じでは、脚の筋肉が衰えると、
けっこう一大事だと感じた。

脚が衰えれば、動きたくなくなるしね。

ものすごく衰えてしまえば、自力で生活できなくなってしまうもんね。

脚は、体力にも大きく関わっている気がする。

太ももの筋肉も複雑で、意識しないと足の前側の筋肉しか使っていなくて、
後ろ側のハムストリングスや内ももが衰えてしまうんだね。
それは膝に衝撃が行くはずだよなぁ。

内ももは骨盤底筋ともつながっているから、女性は尿漏れ防止にもなるそうだ。
そうか。
骨盤底だけ鍛えるよりも、内ももを鍛えたほうが効率いいかもしれない。

だから脚を鍛えるというと、スクワットとかが思いつくけれど、
いろんな筋肉をなるべくまんべんなく使って
ふだん使っていない筋肉を動かして呼び覚ますことが大事だと思った。
ムキムキになるよりも。
生きるためには。

そういうワークアウトも、いまやユーチューブ動画でたくさん配信されているから、自分に合ったものを見つけてやると、衰え防止になってとてもいいと思った。


ハムストリングス(もものウラ)を鍛えると、体も熱くなって、寒くなってきても体がぽかぽかしてくる。代謝が上がるそうだ。

最初はしんどくてしかたなかったのが、楽にできるようになってくると、うれしいし、続けたくなるのね。

こうしてどんどんワイルドに野生に帰っていくおばさんだ。

なんか、人間がどんどんロボットみたいになってしまって、くやしいのね。

だから自分は世の中と逆行して、原始人の方向を目指したくなるんだわ。

いつだって、世の中の流れと逆行したい、おばさんだ。

迎合したらおしまいだと思っている。心はロックなんだ。


若いときは、こういうことは美容のためにやっていた。

おなかをへこましたいとか、脚を細くしたいとか。

今は、衰えを食い止めるためなのねぇ。

でも、こっちのほうがいい!

なんでかっていうと、
若いときの美容目的のとき、ちょっと他人の目を意識しているよね。自己満足もあるけれど。

今の衰え防止でやっている感覚は、
自分が気持ちよく生活できてうれしいとか、動作が楽になってうれしいとか、
気力も充実してきてうれしいとか、自分の感覚や喜びにいるの。他人ではなくて。

これが、心の健康と幸せのために、ものすごく大事なんだ。

あまりにも、他人の目を中心に生きている人が多いのだと思うんだ。大人も子どもも。

すると殺伐とした世の中になってしまうの。
こういう社会も、なるべくしてなっているの。
心の視点から見ると。

他人の目や他人の評価や他人の期待に応えるために生きていると、他人に縛られちゃって自由でなくなる。そして他人と戦う。
そして、思ったようにできないと、他人に認められない自分はダメなんだと勝手に自己否定をする。

愛されたいとかもそうだよね。

愛されない自分は価値がないんだ、とか。

これだと我慢する。他人のために。

自分のよさが発揮されないし、

自分をそうやって支配すると、他人も支配する。知らず知らず。

自分より強い者には逆らえないと思えば、弱い者につらくあたる

こうして負のスパイラルとなる。
他人の目や評価、社会の常識や価値観を中心に生きていると。

こんなおかーちゃんはこどもを支配する。

だから殺伐とした社会になってしまうんだ。家庭も学校も職場も。


お子さんであれば、親の支配や過干渉がすごければ、
自分の「うれしい」「できてやったー」という喜びや自信などの感情(=愛)が育たない。
管理されすぎは。

自分がしたい、だからやってみる。できた!うれしい、っていうのが、すごく自信で、そういう実感こそが心が育つのに必要不可欠なんだ。

これを引き出してあげて、邪魔しないことなんだ。

学校のお勉強は、すべての基礎ではあるけれど、(一部、ウソもあるかw)
心の視点から見ると、
自分がしたいというよりも、他人や世の中にに認められるためという意識でやっている割合が多いと思うんだ。

この意識のまま行くと、競争の世界に生きるようになるよね。
そして、そこから脱落すればダメなんだと思考する。
こうしてつねに勝ち負け意識で生きるようになる。
他人と比べて卑下する。

思うようにできないと自己否定するし、それ以外の生き方が見えなくなる

でもそれは思い込みだ。
そうでない世界や生き方もあるんだ。

その状態では、他人の目を中心に生きているから、行き着く先は、他人ばかり気になって、こわくなる。
いじめたり、いじめられたり、強い者に卑屈に従ったりする。

今のこどもたち、おとなも、行き着くところまで来てしまったなと言う感じだ。

競争、勝ち負け、戦う、反抗の時代を経て、
行き着く先は、あきらめ、絶望だ。
だからヤンキーは減った。今は引きこもりの時代だ。

昔の少女漫画の主人公はパンチパーマにリーゼントだったのよ~。年がバレるなぁw

闘って他人を見るのではなくて、
自分の「うれしい」「これが好き」「できてやったー」という喜びや自信を育てているお子さんは、学校の勉強も、そういう意識で取り組むはずだ。
「これはおもしろいな、ここはつまらんな。
ここは自分の好きなことと直結している!」というふうに。

その意識だと、あまり他人を打ち負かして勝とうという意識はないはずだ。

自分の満足にいる割合が大きいから。自分が中心だ。

この感覚を育てていけば、心配いらないと思うんだ。
基本的な生きる力、感じる力が育っていくはずだから。
困難にあっても、愛があるから、ダメージ少なく立ち上がれると思うんだ。
無駄に戦わないから自分を守れるし。

いつもライバル見て戦ってると、
 

こういう感じの人生になっていくかなぁw
この方は、私生活もこういう感じで、
お芝居ってまったくのウソというわけでもなく、自分にないものは演じられないっていうから、奥が深いよなぁと思う。
友達にはなりたくないけど、人間の表現として、興味深いなぁと思うんだ。
なんだって芸の肥やしになるんだね。
おばさんも、そうだ。苦しかったことも、動けなかったことも。
役立てるときが来たりするから不思議なんだ。
単純にいい悪いでは語りつくせないのがこの人間界だ。

話を戻すと、
闘わないで、自分の意識にいて、
エネルギーを他人ではなく自分のために使えるほうが、
賢い子にもなると思うんだ。
お勉強も結果的にできる子になるかもね。本人に意欲があれば。


他人の目を中心に生きている大人はどうか?

心の中に他者に対する憎しみを育てながらも、パワハラや理不尽に耐えなければならないと発想する。

世の中には少しマシな人情ある職場があったとしても、それが目に入らない
そこに自分も行ってもいいという発想も、出てこない
結局、あいつらのおつかいをやらされ、
なんだか戦うことが生きがいになっていく?
そういう時期を経て、あきらめ、絶望、崩壊へと行くもんなんだ。


家業を継いだ自営業の方であっても、家のため、親の犠牲になっているような意識でやっている方は、妻もこどもも支配してしまう。
自分の感情を抑えて、親や先祖の期待に応えるように生きているから、他人をチェスの駒のように動かす。

期待に応えることがその方の至上命題であれば、
家族や従業員が、それに逆らうことを言うことなんて受け入れられないから、
最初から話を聞く気がない。
よって話し合えない。
こういう支配者は、多い。

感情を感じながらコミュニケートして、相手の意思や能力を確認しながら話し合って決めるという意識が希薄だ。
全体的に仕事がザツになる。問題に気づかない。
これだと、業務のトラブル、人間関係のトラブル、お金のトラブルも多いだろう。

それで家庭まで崩壊してしまうこともあるんだ。

そうしているうちに、従業員や家庭やこどもに深刻な問題が出てきても、感情が感じられなくなっているから、もはや問題の解決ができないし、なにが起きているか、わからない。

すべての問題の本質的な解決は感情を見ないとできないんだ。
表面的な対処だけでは、ほぼ全部、問題の先送りだ。
表面的な対処で、すこし落ち着いたかのように見えても、少ししてからまた問題が噴出する。
先送りにしたぶん、エスカレートしたカタチで。

体に問題が出て、生活習慣を改善しないで薬飲んでしのぐっていうのもこれに似ていると思う。

こういうふうにして一生を終える人も多い。
それは年をとるごとに苦しくなるわけだ。
解決しないままエスカレートしていくわけだから。

だから他人の期待、評価や社会の価値観が中心の生き方というのは、つまりは支配で、こわいんだ。

こういうガタガタのトラブルだらけのところに、市場の原理で利益をかっさらいたいあいつらが、
自営業や中小企業、大企業もだな、こういった古き良き日本を壊しに来ているわけだから、
ひとたまりもない。

生き残っていただかないと、おばさんはくやしいんです。


だから、あいつらの破壊や搾取から守るには、
他人の期待に応える意識を捨てて、
自分の満足や感情にいる割合を高めて、自分を中心にしていくってことなんだ。

家や会社を守ろうと必死にやったとして、結果、そこのメンバーが全滅したら、どうなる?

逆に一時的に形の上であかんように見えても、メンバーが元気で絆が確かであったらなら、どうだろう?

こういう究極の状態を想定した、自分の発想の点検も必要ではないか?

全ての問題は、自分の感情を見ないと、相手の感情も感じられないから、問題の本質が見えず、根本的な解決ができないんだ。

業務的なことであっても、こどものことであっても。

争わなくても解決できることがわかれば、戦うことなんて、ばからしくなっちゃう。
だって闘わなくても解決するんだもん。

それは自分の感情に素直にいてOKってことなんだわ。

気持ちの切り替えを早くする方法☆Dr.Yさん~自分の領域の守り方♡おばさん - 丸顔おばさんのブログ  2020-10-10 投稿
すこしずつできるところから、自分の欲求、感情を優先する、不快なら一言いう、離れる、これを実践するだけだ。
そんなふうに、自分の自由の領域を守れると、相手の領域も守れるようになるんだ。つまり、人を支配しなくなるんだ。まずは自分を守ることからスタート!
勝手に相手も守ることになっているから、自分を守れればそれで大丈夫なんだ。
相手の領域に入るときは、ひとこと、同意をとる必要がある。
べつに絶対部屋に入ってはいけないわけではない。
作業中に絶対に話しかけてはいけないわけではない。
ひとこと、ちょっと今いい?と相手にきいてみて、いいよ、といえばいいのだ。
こんなふうに同意をとりあうことが愛だ
日ごろからこんなふうに相手に入らないであげる。入るときは同意をとってあげる。そんな関係ならば、心から安全だと認識しているから、その相手と近い距離で付き合っても大丈夫だ、となる。幸せだ。
この状態ではじめて、人と愛し合うことができる。

自分の感情を抑えて、他者に従うのは、素直ではなく隷属だ。

感情を抑えることしか知らない。
我慢することしか知らない。
感情を抑えているうちはダメなんだ。
抑えていると大事なことが感じ取れない。
そして、他人を支配する。

だからまずは我慢をやめることなんだ。

そして他人とぶつかるところは、話合う、同意を丁寧にとる。
あまり大事な相手でなければ、離れるだけでもいい。
べつに我慢してつきあわなくていいやと気づく。
これだけで問題が解決することもたくさんある。

それさえすれば大丈夫だから、いつも自分の感情にいて、他人ばかりを見る必要はないのね。

具体的な問題の解決について、以前にもいろいろ書いてみたことがあるんだけど、
つねにこの意識でいるために、一人でいるときでも、つねに練習ができるよということを言いたかったんだ。

それはじつに、ハッピーだ。

そして、ひどい世の中になってしまったから、ふだんからそういうモードでいられると、へんな悪魔みたいな人にばかりとらわれすぎなくていいから楽なんだ。
こうやって自分の心を守れるんだ。


自分の感覚、感情を中心にいるか?・・・これは愛。安全。快適。幸せ。楽。

他人の目を中心に、社会の常識などを中心にいるか?・・・これは我慢。争い。支配。心も病む。

これによってまったく正反対の人生になる。

全部、自分の意識がつくっている。


簡単なんだ。

自分の感覚、感情を中心にいるためには、
「したいときに、したいことをする。したくないなら、しない。」


だからわたしは、休日に丸一日ぐーたらしている家族を責めないんだ。

そのかわり、自分からやると申し出たくせにちゃんとやらないときは、うるさく言うんだ。
自分で決めた責任を果たしていないということだから。
ちゃんとできない、やりたくないなら、やると言うなと。

つまり、
自分の責任は自分で決めていいんだ。

やりたくないなら、できなそうなら、いやなら、選択しなきゃいいわけ。
人に頼んでもいいわけ。相手がいいよと言えば。

仕事も、学校も。家庭も。

学校に行くのが当たり前だから、仕事しないと生きていけないから、女性も働かなければならないから、と言うけれど、それはウソだ。

テレビ、新聞、親が友達が、そう言うからそう思っているだけで。

どういう勉強をして、どういう仕事をして、どう生きるかは自分で決めることだ。

親がそうしていいと思っていないから、こどももそうしていいと思えないわけだ。

社会の価値観に合わせるように、
自分の素直な感情を殺せと支配しながら育てれば、
それが子の人生に、カタチになってくるだろう。

これが行き過ぎれば他人が怖くて、人と関われなくなる
それは自分の感情を抑えているからだ。

この記事に取り上げたフリースクールのおこさんが、幸せそうで成功したのは、
親御さんが行きたくないなら学校に行かなくてもいいんだという意識に完全になれたからだ。

学校が恐怖の場で嫌で仕方ないならば、学校に行くということは、自分の感情を抑えることにほかならない。

自分の感情を抑えている状態で他人を見れば、他人が怖いのは当たり前だ

無理にコミュニケーションをとっても、うまく関われず、自信をなくし、
自分で自分を「コミュ障」とレッテルを貼っている方もいる。
医者に言われたわけでもないのに。

昔はなかった発達障害やコミュ障が問題になっている背景には、
ワクチンの打ちすぎや薬や化学物質、農薬なども関係している気がするけれど、
こういう昔とはちがう、心理的にきつい社会が無関係ではないと思う。

昔の親も、今の親以上に厳しかったと思うんだけど、
社会全体が、すこしまだのんびり自分自身でいられる余裕があったと思うんだ。
高度成長期は夢も希望もあったし。
人間が、こんなにもシステマチックに、自然から切りはなされてはいなかった。

ぼーっとしたり、虫の声が聞こえて、土が近くにあって。草や植物のにおいがして。

夕方になると、お食事のにおいがしてきて。ぐ~っとおなかが鳴る。
あ、おとうちゃん帰ってきた、みたいな。
まだ自然に近く、動物らしく生き物らしく人間らしくいられたと思うんだ。

四季の変化や、行事をみんなで楽しみながら。


現代は、
鉄筋コンクリートで、パソコンや機器に囲まれてゲームして、スマホで動画見て、鬼ごっこなどはあまりしないで、手を伸ばせばおやつがつねにある。
添加物と遺伝子組み合え油と糖分たっぷりの。

なんでもあって、便利なのに、五感や感情を感じて味わう前に、どんどん流れて行ってしまう
こうして、自分がなくなっちゃうと思うのね。

こういう状態で、親が、子どもを社会の価値観に合わせるように、
自分の素直な感情を殺せと支配しながら育てれば、、、


ばーちゃんが対等に接してくれて、うれしかったんだよね。きっと。
そこで、自分の感情や愛を、取り戻すことができたんだよね。

昔は、じーばーや近所の人などがそういう役目を果たしてくれていたんだよね、きっと。
こういう関わりがなくなった社会。。。
どんなにひどい親でも、子は親の助けがないと生きられない。

さらに自分への愛がない、自分のない状態で、こんな世の中を見れば、狂った時代の雰囲気に飲み込まれてしまう。
おばちゃんでもそうなんだから、若い人やお子さんはもっと過酷なはずだ。

あえて、ちょっと見てみよう。

インタビューのなかで、旧約聖書や第二次世界大戦のときのアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトの言葉を取り上げている。。。


wikipdia「フランクリン・ルーズベルト」より
原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画)[編集]
ルーズベルトは、1939年にレオ・シラードとアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。
1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。

1945年2月4日から11日にかけて、ソ連領クリミア半島のヤルタという場所で開催された、連合国側の戦争政策および戦後処理の問題についての話し合いを「ヤルタ会談」といいます。
参加したのはアメリカの大統領ルーズベルト、ソビエトの首相スターリン、イギリスの首相チャーチルです。
(中略)
対日戦への参戦を渋っていたスターリンに、その見返りとして日本の領土を提供することをルーズベルトは独断で決めてしまいます
これは密室で2人だけでの話し合いで決められ、チャーチルは不在でした。
またポーランド問題で英ソが対立すると、ルーズベルトはスターリンが納得するような妥協案を提案し、チャーチルとルーズベルトの信頼関係は壊れてしまいます。

さすがWHOの重鎮だっただけあって、ふつうのお医者さんではないんだなと思いました。

こういう日本をいじめぬいた方の言葉を取り上げて、日本の若者を励ますとは。

2022年11月10日 17時30分 

2022年11月11日 21時39分 


もうひとり、

32:10~
加藤厚労大臣:
超過死亡についてお尋ねがありました。
我が国の超過死亡の分析は、厚生科学労働研究班において実施されております。
その分析結果についてはアドバイザリーボードで報告されるとともに、国立感染症研究所HPにて公開をしております。
専門家によりますと、超過死亡は本年1月から8月に3万1000人から7万人にのぼり、新型コロナの感染拡大以降で最多となっております。
これまで超過死亡のピークは新型コロナの流行ピーク時に換算されていることから、その要因のひとつとして新型コロナの感染拡大の影響が指摘されているところであります。
新型コロナワクチン接種は昨年2月から開始されておりますが、この超過死亡のデータから、超過死亡とワクチン接種の因果関係を論じることは困難と考えております
超過死亡の動向につきましては、引き続き、分析結果を注視していきたいと考えております。

予想通りの言い訳、いただきました。

(動画より)
コロナで亡くなったんでしょ?と多くの人は言うかもしれません。
今年8月のコロナ陽性者の死亡は、
7295名。(厚労省オープンデータ)
(果たして本当にコロナで亡くなった人がこれだけいるのかについては大いに疑問があるが)
昨年8月のコロナ陽性者の死亡は、
849名。(厚労省オープンデータ)
1568名。(人口動態統計、月報)
人口動態統計、月報のほうがあとに発表されて増えている。ここはつっこまないが。
1000人くらい亡くなっている。
ま、今年は昨年より、6000人くらいコロナ死が増えたとして、
死者が17845名増えたというのはなぜか?
仮にコロナで死亡が6000人増えたとしても1万人以上、説明がつかない。

そして、2月3月はなんで増えたのか?8月も。





悪魔は、その罠に落ちないように、横目で確認したら、

意識して、自分の気持ちがいい状態に帰ろうってするのはどうだろう?
生き物としての自然な自分に帰る。
したいこと、する。
したくないから、やめよう。って。

私は、パソコンにばかり向かっていると、五感が退化する感じがして、
朝は散歩に行って、新鮮な空気を吸って、植物や自然を感じたいんだ。
このとき、自分の自然な感情、感覚に戻れる。
どんなに悪魔を見たあとでも。

自然が失われつつあって、狂った世の中だといっても、自分の心と体が自然そのもの、宇宙そのものであるんだと思い出す。

ちょっと寝坊して時間が遅くなると、人出が増えるのね。

それで人とぶつからないように歩かなきゃと思うとき、
他人に意識が行ってしまっているのね。
このとき、他人がわずらわしいのね。

でも、あ、いけねと思って、空気や自然や景色を感じることにシフトするの。

すると自分を中心にするところに帰れるんだ。

こうなると、人と会っても譲り合うような意識になるのね。

意識が180度違うの。
自分を中心にしているか、他人を中心にいるかで。

これも意識しないと、どんどん他人にとらわれていってしまう私たちで、今とくにそういう時代なんだ。

だから、悪魔を見ても、ちょっと切って、
自分の気持ちよさや安心、幸せを感じることにシフトしていると、
悪魔がいるとしても、自分の心がしなやかに丈夫に、耐えられる感じになっていく。

するとますますこれでなんとか生き延びられるぞって気分になっていくんだ。


筋トレも、自分がしたいからする、できてうれしい、
できなかったら、ちょっとやり方を考える。
あ、これだといいみたいって。

たまにさぼると、衰えることの意味、鍛えることの意味を実感するから、それもまたよし。

こんな感じで創意工夫を楽しんでしていれば、どんなことでもレベルが上がっていく。
こうやって実力をつけて、生きていけるんだ。

趣味でも仕事でも。語学でも、ピアノでも。歌でも。スポーツでも。

他人や社会の期待や要求に応えようとしなくても。

自分の感情や気持ちよさを発揮しているとき、周りの人も幸せなの。

あなたのためにとやられるよりも。

そういうふうに人の心はインターネットみたいにつながっているの。

だから自分だけ見てて大丈夫なの。

それで、相手とも感じあえるようになるから。

これを継続していくと、自分の意思で、やりたいことや得意なことで、実力を発揮する人になる。

仕事すら、わたしがやりたいから、する。となっていく。

この世界を知ったならば、
おれが我慢して稼いでやってるんだから、おまえも我慢しろ、なんてあほらしくて言わなくなるだろう。これは支配。
今までなんてつまんないことしてたんだろうって、思うだろう。

やりたくないならしなくていいよ、私もいやなことはしないから。となるはずだ。これは、愛。

まだまだ、人間同士、愛し合うことができない私たちだ。

自分を他人の評価や社会の常識や要求で、縛っているうちは、まずムリなんだ。

それをやめて、意識を他人から自分に転換していくことなんだ。

それはまずは、したいときに、したいことをすることからだ。

これを自分に許せるかどうか?

こんなふうに、少しずつ、練習できるんだ。


最近のいじめ。学校と教育委員会の隠蔽体質。フリースクール~いやなところから離れることの意味

2022-10-30 04:05:36 | 心の解放シリーズ

不登校、いじめが過去最多、というか9年連続で増え続けていて、
昨年度の増え幅がとくに大きかったという報道が出た。


2022/10/27 17:00(最終更新 10/27 20:58) 1511文字
文部科学省は27日、全国の学校を対象に2021年度実施した「問題行動・不登校調査」の結果を公表した。
病気や経済的理由などとは異なる要因で30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生は24万4940人、小中高と特別支援学校のいじめの認知件数は61万5351件で、ともに過去最多だった。
文科省は、新型コロナウイルス禍による行動制限などで、人間関係や生活環境が変化したことが影響したとみており、「心のケアを中心とした早期の対策が必要だ」としている。
 文科省は毎年、国公私立全ての小中学校・高校と特別支援学校におけるいじめの認知件数を調べ、小中高については、暴力行為件数▽年間30日以上の長期欠席者や不登校の人数▽自殺者数――を集計している。

不登校と判断された小中の児童生徒数は9年連続で増えた
今回の増え幅は特に顕著で、過去最多だった前年度から24・9%増加した。
一方、高校の不登校は18・4%増の5万985人だが、過去10年でみるとほぼ横ばいで推移している。
小中の不登校の主な要因で最多なのが「無気力、不安」(49・7%)で、「生活リズムの乱れ、遊び、非行」(11・7%)、「いじめを除く友人関係をめぐる問題」(9・7%)が続いた。
 小中学校で1000人当たりの不登校の児童生徒数は平均25・7人となり、都道府県でばらつきもあった。
最も多かったのは高知の31・2人で、宮城の30・3人、島根の29・9人が続いた。一方、最も少ないのは福井の17・8人で、文科省の担当者は「早期対応に力を入れているかどうかなど自治体ごとの対策が反映されている可能性がある」と分析する。


これについて、ツイッターなどでみなさんの意見を見ると、
コロナのせいで、黙食とか、マスクしなければならないとか、行事がなくなったりとか、そういうのが原因で、こどもたちが荒れてしまっているのだろうから、元に状態に戻すべきだ、という意見が多い。

それも、大いにあるだろう。

私は思うけど、コロナが始まる前から、いじめも不登校も深刻な問題としてすでにあった。
これが、さらにひどい状態になってしまったということなんだろう。


前回、
超過死亡の増え方が異常だという記事を書いた。

なんだか、同じじゃないか。

そりゃ、人はつねに亡くなるけれど、増え方が異常で、昨年が戦後最大で、今年度は8月の時点で、それを更新して今年度も戦後最大だろうと。

いじめの件数の増え方まで似てきちゃってる。

わたしたちはいったい何にいじめられているのだろうか?

私は最初、このいじめの記事を見て、こんな状況で少しでも自分やお子さんを守れるようにと心の話を書こうかなと思ったんだ。

でも最近のいじめの実態を具体的に知りたくて、いじめの報道のユーチューブ動画を見ているうちに、もうそういう段階ではないと感じた。


福岡県 公立小中学校96%”いじめ”認知
1日前公開

96%の学校でいじめがあるんなら、いじめはもはやあるのが当たり前ってことだろう?
親や先生が気づいていないいじめも合わせたら・・・

クラス29人中26人が加担した「集団いじめ」 西宮市教育委が最終報告書 両親は「なぜ気付いてあげられなかったのか…」
7か月前公開

「集団いじめ」っていう言葉が出てきている。
クラス全体がいじめ状態
ほとんどだれもが、いじめる側かいじめられる側か、どっちかってことだろう?
これじゃ、いつ、自分の子がターゲットになっても不思議ではないよな。

香川県で暴力行為・いじめの認知の件数など増加 小学校での暴力は過去最多に
2日前公開

小学校で暴力ってさ。
暴力とかカネを要求するとか、恐喝とか。
もう犯罪の域なのね。
ここまで来ちゃってるのね。現実は。



小学校担任50代男教諭「スルーしよう」児童に相次ぎ“いじめ行為”滋賀・野洲市教委が謝罪|TBS NEWS DIG  
4週間前公開

先生も、自分の思い通りにならない子のことを、いじめちゃうのね。
この先生の状態がわからないけれど、忙しすぎたり、余裕がなければ、多様なこどもたちとゆっくり向き合うことが叶わないわけだ。
すると思い通りにならない子をばっさり切り捨てるような言動に出る教師もいるだろう。

(親が子にやっていることも、あるだろう。私は子供時代、親に何度もやられた)

ものすごく忙しいだろう?最近の学校の先生って。
そこに無理やりデジタル化しろと上から命令されて、めちゃくちゃだと聞いた。

先生の余裕のなさに加えて、デジタルで、心を感じたり実感するって機会が奪われる。
するとこどもの心はどうなるか?

学校が、ものすごく過酷な場所になってしまっているのだと思った。
そして学校は同じクラスにいやなやつがいても、担任がやばいやつでも、1年か2年つきあわなくちゃならない。逃げられないんだよな。

そして、いざいじめられているとわかって、学校や教育委員会に働きかけても、
この人たちは、いじめがあると認めたくないんだってことがわかる。
複数の自治体で、似たような問題が起きている↓
いじめっこの次は、こいつらとの戦いが始まる。

【集団いじめ隠ぺいか】『SNSで拡散とか対外的に開示しないように』集団いじめ報告書渡す際に市教委が発言...「最悪の対応」の数々を被害児童の両親が証言(2022年6月1日)  
4か月前公開

「集団いじめ」また出たな。
これはやはりクラス全体が、いじめ状態っていうのが常態化してるってことだろう。
何人かのこどもだけの話ではなく。
そして、先生も教育委員会も協力的ではなく、隠蔽する方向に動く。

内容書き起こし。赤、こちらで追記。青、わたくしのつぶやき。
学校の対応は、最初から最後まですべて口頭です。
紙ベースのものはいっさい作らず、残してもらえず、保護者らへの周知もしてもらえなかった
今思えば隠蔽したいから、学校から発信されなかったんだろうと思う」
学校側は1か月たってもアンケート調査や学年集会などはなし
不信感を抱いて、両親は市教委のいじめ相談ダイヤルに電話をかけた。
「絶対に学校には電話したことは言わないでほしい」と約束していただいて
私と息子の名前を伝えた。
市教委が学校の対応を把握しているかを確認したかっただけで、問い合わせたことは学校には知らせないよう約束した。
しかし、電話した方とは違う方が電話をかけてこられて、
意気揚々とした感じで
学校にもちゃんと連絡を入れて、どんないじめだったか把握できました」
と報告された。
「こちらのミスです。あせってしまって、きちっと保護者の意向を確認せずに学校に電話してしまった

学校に漏れたことで影響は?
学校が情報をとにかく伏せるようになった。2回目の聞き取りの時は、こちらから聞かないと、聞き取りしたことすらも伏せていた。こっちのことを信用してもらえてないなと感じた」
すぐに市教委に抗議したが、市教委からは「引継ぎミスだった」との説明。

こどもは不眠や幻聴をうったえ、学校には通えなくなった。

昨年12月、校長や担任らで構成された「いじめ調査委員会」が中間報告を提出。
報告をもってきた際の録音されたやりとり
市教委の担当者:
お渡しするにあたって、お約束していただきたいことがいくつかありまして、内容を他人に見せたり、SNSで拡散したり、対外的に開示しないようにお願いしたい。
損害賠償請求等の資料としても使わないよう、そういう目的のために調査をしているんではないということをご理解いただきたい

中間報告の段階で、「裁判では使うな」ともとれる発言

今年3月14日、最終報告書を提出。
集団で執拗かつ継続的に行われた極めて重大ないじめ行為と認定された。
その一方で異変に気付くことはできなかったと記されている
「日記や作文なども定期的に実施していましたが、本事案についての内容が書かれたことはなく、いずれも早期発見にはつながりませんでした。」

4日後の3月18日、校長と担任が自宅を訪問。
「じつは学校で、日記帳と作文帳を保管していたんです」
「SOSをじつは書いていたんです」と言って担任が泣きながら・・・
日記帳を担任が預かっていて、存在を忘れていた。

報告書では日記になにも書いてなかったと言いきっていた。
本当は日記と作文帳を隠蔽して、書いたことすらなかったことにしようと思ったのか。

弁護士:
中間報告書を手渡す際に「訴訟に使わなければ渡す」などと、そんな条件を勝手につけることはできない。
日記の存在など、あとからわかったと主張していることは、調査漏れならまだいいんですが、ふつうそんなところを見ないというのはありえない。
事実の隠蔽ととられてもしかたない。
保護者から要求があれば第三者委員会を設置しなければならないが、それをしないならとんでもない法律違反になる。

あとでわかったなんて、報告書に書きたくなくて、わざと見過ごしたふりしたのかなって勘ぐっちゃいます。

市教委:
中間報告を手渡す際に約束を迫ったという認識はない。
仮に約束できませんとおっしゃられてもお渡ししようということで臨んでいたので。

しっかり録音されちゃってますけどね。

日記帳が最終報告後にでてきたことは、
見直したら出てきたということです。
担任はそこにコメントを返していないということで、残念ながら読めていなかったようです。
わかっていたが隠していたということではございません。
知らなかった事実が後から出てきて大変申し訳ないという気持ちでいっぱいです。

今回は学校主体の調査であったが、今後も第三者による調査は行わないとしている。

最初から最後まで、故意ではなく、すべてうっかりでしたと言い訳しているんだけど、ほかの自治体で第三者委員会が調査している案件でも、不誠実な対応が報道されている。
よって、学校と教育委員会は、いじめを認めたくないって気持ちだけは確かのようだ。
認めたくないんだから、最初からちゃんと調査するわけないよな

旭川いじめ 最終報告も再調査へ  
1か月前公開


名古屋市いじめ問題 遺族が激怒 一言で救えたかもしれない命
1年前公開

内容:
第三者委員会はいじめがあったと認められず、自殺は部活の疲れが原因であったと結論。
議事録も見せない教育委員会に不信感を抱き、父親は外部の有識者による再調査を強く要望。
自殺から2年後、再調査が始まる。

再調査委員会担当者:
いじめの認定でございますが、部活動の練習において、無視されたことをいじめと認定しております。
こどもへの聴取は最初の聴取がとても重要。
しかし教育委員会は生徒らの聴取について、録音もせず、簡易なヒアリングしか行っていなかった

いじめにあっていたと認定。
さらに当時の教育委員会や学校の調査はずさんで、遺族に寄り添う姿勢が著しく欠如していたと厳しく批判。

報道陣に言われて、教育委員会は初めて謝罪

父親:
娘は学校や教育委員会に殺されたというふうに感じています。

いじめ対策で学校がおこなっていた生活ノートに異変が見られるのに、先生は対応しなかった。
いじめを発見するアンケートツールがあって、危険領域にあったのに、なにも対応してくれなかった。

市長と教育長が謝罪に訪れる。
教育長:
加害者とおっしゃっていただくのをぜひ勘弁していただきたい。

お父さん激怒。

当時市教委の職員だった男性:
あの日のことは、今も鮮明に覚えている。
事案が1月5日で、6日に登庁したら報告があったのが
「こどもの自殺がありました。あれは家庭の問題だ」と言っていました。

結論ありきだった。
この案件の担当者ではなかったが、市教委の体質について、
慣習のようになっている。
こどもの自殺が起こるたびに、だいたい家庭の問題になる。

暴露しちゃいました。教育委員会OBが。
調査する前から、自殺が起きた時点で、家庭の問題だと決めつけちゃっているそうだ。
それじゃまともに調査しないわけだな。
証拠が残らないように、録音もしないし、さきほどの学校主体の調査でも紙ベースには残さないようにやるわけだ。


10代のこどもの悩みを家庭で発見するのは困難だと専門家はいう。
「本人からはなかなか言わないだろうと思います。それは隠しているのではなく、成長の過程として、自分で解決したいとか、周りを気遣う気持ちが育っていくため。
自分で頑張ろうとしている人に対して『大丈夫?』と聞けば『大丈夫』と返してしまう。

こんなきつい状況で、大人になろうとけなげにがんばっている子ども。
一方で、保身と隠蔽に余念がない、ずるい大人とバカな先生と行政。
その間でもだえ苦しむご両親。


当時市教委の職員だった男性:
カウンセラーやソーシャルワーカーを雇おうが、そこの部分が変わらないとこどもの問題はなくせない。

名古屋市は再発防止のチームを立ち上げた。
しかし立派な施策よりも、一声かけてくれたら救えたかもしれない命。

私はずっとこんな人たちに自分のこどもを教育してもらいたくないという思いがある。
いじめも年々凄惨になる一方で。
そんなところにいる意味、ありますかね?


【NNNドキュメント】不登校の子どもたち 母が作った新たな”居場所”とは NNNセレクション
 2022/06/24公開

内容:
14歳のくれはさんは、小学4年生からほとんど登校していない。
母親は、我が子のために「みんなでつくる自由な学校」をコンセプトに、新たな居場所づくりに取り組んでいる。
小中学校の不登校は、全国で19万人を超え過去最多に。学校や教室に居場所を見い出せない子どもたちの声に耳を傾け、考えた。 

とくに原因があるわけではないけれど学校に行きたくない。
学校に行かなければと、泣いても引きずってでも行かせようとしたときもあったけど、こどもとの信頼関係が崩れると思ってやめた。
大丈夫よと言ってくれる先輩ママさんたちがいっぱいいて救われた。

母親の手伝いや地域の人の交流でいろんなことを学んでいる。

新しい双子の新入生が来た。

幼稚園から登園拒否で、いろんな学校を見させたんだけど、この学校がいいと言った。

自治体もフリースクールなど、生徒それぞれに合わせた学び方を目指している。

広島の教育長:
教室であってもどこであっても、最終的にその子が自信を持って、いろいろなコミュニティに出入りしながら愉快な人生を歩んでいく。これが究極の目的なので、多様な環境を用意していくことが大切かなと思っている。

くれはさんは今、ミュージカルに夢中になっている。
学校ってなんだろう?


というわけで、フリースクールに居場所を求める方が増えている。
もう学校に行けないのはよくないことだ」という考えから、多くの人が脱却しつつあると感じる。

いやなところに我慢して居続けたお子さんと、
きっぱり行くのをやめて、学校にいけないのはダメなんだという思い込みから抜けて、好きなことを見つけて輝いているお子さんと、
天と地の差だ。

フリースクールは、よい選択だと思うけど、費用の問題などがあるそうだ。


でもとりあえず、命を守ることが最優先だ。
まずは心が大けがしている状態であれば、お家でゆっくり休む、自分を守るってことが最優先だ。

それから、なにか、自分が好きなこと、好きなところへって方向に行けたらいいのかなと思った。



いじめのスタートするとき、こんな心理だ↓
大人もこどもも、自分の感情を感じられなくなってきている。
すると他人ばかりを見るようになる。

自分がない状態で、他人ばかりを見ていれば、こわいのは当たり前だ。

他人が気になる、こわい、ストレスという状態のとき、
たいして自分の感情を感じていないはずだ。

これが常態化すれば、相手を敵だと認識するようになってしまう。

いじめたり、いじめられたり、する。

両者とも、相手ばかり見ている。自分を見ていない。

このとき、自分がこれをやっているのが楽しいとか、好きだとか、気持ちがいいとか、うれしいとか、そういうのを感じていない

こどものときに無邪気な遊びを通して、自分の感情を感じながら育っていれば、自分の充実感や喜びのなかにいる
この状態で、人と関われば、相手と心が通うんだ。

昔のこどもはそれが当たり前だったけど、今の子は管理されすぎていて、こういうゆったりと自由に感情を育てる機会を奪われている。
遊びも、動画やゲームでは創造性や感情、主体性が育たない。
受け身の遊びで飼いならされる感じ?

フリースクールのお子さんは、学校に行くのをやめて、これを取り戻したよね。


自分の感情を感じられなければ、相手の痛みや苦しみも感じないんだ。
するとひどいことでも平気でやるっていうふうになってしまうだろう。
これが、いじめの世界だ。
自分を感じないで、他人ばかり見て、おびえている。他人の痛みを感じない。
いつ自分がいじめられるかわからない状況では、いじめっこもまたストレスにさらされている。そのうっぷんばらしで、いじめる。

マイナスの感情だって、いいんだ。
そのままそうなんだって、OKしていることが大事だ。
「無視されてつらいんだ。
そんな子と付き合いたくない、だから付き合うのをやめよう」、でいいんだ。
そうして自分を守れれば、心が回復してくる
ここで自分がダメなんだとか責めないことだ。

そいつらは、自分のうれしい楽しい、幸せっていうのを感じることを忘れて、人をいじめることに走っている哀れなやつらだ。
そいつらの餌食になることないじゃん?自分が。ばからしいよ。
先生も教育委員会もポンコツで、ずるいし。

避難して、不登校でいいよ。こんなの。

いじめっこは、いじめっこの事情でいじめっこやってるの。

大人でもそんなやついっぱいいるよ。

心が回復して、そんなやつらを忘れていくと、
自分の感情を感じて、自然にそのまま表現することがでるようになっていく。
すると、人と心が通じ合える場面が増えてくる
そうできる相手とだけ付き合うことが大事だ。
いやな相手とわざわざつきあわないことが大事だ。
学校だから部活だからちゃんと行かなきゃっていう思い込みがそれを邪魔する。

これができないと、おとなになってからもブラック企業で耐えちゃったり、トラブルが多い人生になるだろう。
そんなところに行かなくていいんだと、こどものときからできれば、
そういうところを避けて、しなやかに自分を伸ばしていけるだろう。

上記フリースクールのお子さんは、ついに自分がミュージカルが好きなことに気が付いて、没頭している。
そういう方向に行けたなら、しめたものだ。

学校で我慢しつづけるよりも、よほどいい人生になるだろう。

お金の稼ぎ方も、
人と競争したり戦って勝って稼ぐ、あるいは卑屈に耐えて我慢して稼ぐというのではなく、
自分の能力を伸ばして、人に喜んでもらって、稼げる人になっていくだろう。

それには、いやなところから離れられる自分であることが大事だ。

そうやって、自分を守る。


こういう自分の感情がゆったり感じられない、いじめがはびこる状態で、マスクや黙食を強いられる。
すると、気の向くままに友達と話をして、心を感じあうということが、ますますできなくなる。
行事の中止もそうだ。
楽しい行事がなくなれば、たのしい~と自分の感情を感じながら友達と心通じ合う時間が奪われる。

自分を抑えて我慢しているとき、他人が気なる心理に、ますますなっていく。


割合の問題なんだ。

自分:他人
自分をたくさん感じていると、他人を気にする分量が減る。
他人ばかり見ていると、自分を感じていない。

だから快適にいたければ、思い切って、他人を見るのをやめて、自分の感情を感じる分量を増やしていくことなんだ。
他人見てもいいことないから。

そうやって、自分をいっぱい感じているほうがかえって、他人を適切に感じられるの。
他人を見ないで自分だけ感じていても、KYにはならないの。
だから友達とも心がかよって、うれしい、楽しいってなるの。

それにはまず、こういう過酷ないじめが常態化したところから逃げる必要があるの。
そんな環境にいれば、おばさんだって、他人がこわいって状態になってしまうよ。

いじめの対応ができない先生も、自分をろくに感じていないから、こどもが感じられないし、どうしていいかわからないし指導力もないってなるに決まっていると私は思う。

先生もまた、自分を「感じていない」。

丁寧に感じて、対応するってことが、当たり前だと思ってたけど、
今はそれができない人のほうが増えているようだ。

自分の感情を感じていなければ、こどもの異変もスルーしてしまう。
どうしていいか、本音のところではわからないならば、
自分に責任が来ないように、学校や教育委員会にいわれるがままに、ただ行動するだけだろう。
最後は泣き落としで、見落としてました、許してくださいとやるしかない。

デジタルと効率と学歴偏重社会がこういう大人を作った。

先生も、感じていなければ、心無いことを平気でやったり言ったりするだろう。
やわらかいこどもの心は耐えられないだろう。

いじめっこだけでなく、関わっている大人もまたいじめっ子と変わらないということが、上記の報道からわかる。

そのうえ、保身と隠蔽をするわけだから、もう世も末だ。

大事なこどもを預けるところではなくなってしまった。


もともとこんなふうな状態であったところに、コロナのバカ騒ぎでさらにとどめを刺したわけだ。

それで解決策はデジタルだ、なんて言っている。

子どもたちの急増に対応するため、このスクールは2度にわたって移転を繰り返しました。
保護者からの利用料だけでは人件費や移転にともなう経費などを賄うことはできませんが、フリースクールの運営自体を補助する国の制度はないため、クラウドファンディングで資金を募るなどしてやりくりしています。 

不登校対応【1】オンライン授業
不登校の小中学生への支援が追いつかない中、オンライン授業を活用することで、不登校から学校に通う生徒が増えたという地域もあります。
(中略)
市内にある甲田中学校では不登校の家庭向けの配信のほか、学校に通い始めた生徒向けの別室を設け、現在は10人ほどがここでオンライン授業を受けています。

ここに通う女子生徒は別室でオンライン授業を受けながら、少しずつ教室にも行けるようになったということです。

(女子生徒)
教室では悪口を言われているようなイメージがあって入ることのハードルが高くなっていた。別室があることで周りの目を気にしなくてよくなり、学校に行くことへのハードルも下がった」 

不登校対応【2】メタバース登校
メタバース=仮想空間での学習支援を活用する取り組みを始めている地域もあります。

埼玉県戸田市が活用するのは東京の認定NPO法人が1年前に始めたサービスで、「メタバース登校」とも呼ばれています。子どもたちは自分の分身、アバターを使ってメタバースの世界を自由に移動でき、特定の教室に入ることで、他の子どもや講師と学習できます。
2年前から不登校で、サービスを利用している小学5年生は「オンラインなので気軽におしゃべりできる。実際に友達と会って、鬼ごっことかオンラインではできないこともしてみたい」と話し、現実の世界での交流にも興味を持ち始めている様子でした。
(中略)
今回の文部科学省の調査では、不登校の小中学生24万人余りのうち、3分の1以上にあたる8万8000人余りが学校やフリースクールなどの支援を受けていないということが分かっています。文部科学省の担当者は、不登校の増加に相談や指導の受け入れ先の対応が追いついていないと見て、体制の拡充を検討しています。

根本的な解決は、まずは安全を確保して、自分の感情を取り戻すことで、それから自由に気の向くままに、心が通う人と付き合っていくことだ。
多くのお子さんがそうならないと、いじめはなくならないのに、そういう教育的な働きかけはしない?

デジタルは生身の人間同士の関わりを避けるだけであって、根本的な解決にはならないだろう。

逆に、デジタルの分量が多すぎれば、人間らしさや感情がますます育たないだろう。

それをわかってて、わざと問題の解決をせず、デジタルしかないねとしたいのか?

学校、教育委員会だけでなく、国も、いじめや不登校を解決する気がないようだ。

健全で、元気いっぱいで意思のある希望ある人間を育てる気がない。

そんななかで、どうやってこどもを守り育てていくか。



なに言ってるんだろう。産めるわけないじゃないか。
心理的にこんなにきつい状態にして、さらにワクチンを打たないと病院で産ませてもらない、陽性が出れば帝王切開なんて状況で。
産んだ後も、学校は、こんなありさまだ。

そして、死亡者が激増していることには触れていない。


そろそろ公の教育や医療に見切りをつけて、自分でまともな道を探して、作っていこうとする人が出てきていて、ますますそうなっていくように思う今日この頃だ。

あいつらはおろかだけど、賢明な方たちがたくさんいる。

こうしてこの世は天国と地獄にわかれていくのだろうか。


誰もがつねにベストな選択をしている。そして願いはかなう。

2022-10-11 03:35:11 | 心の解放シリーズ
昔の自分の写真を見ていて思った。

昔の自分は今以上に未熟で不器用で、なんてひどい顔をしているんだ、と。

べつに他人が見たらふつうの写真なのかもしれないけど。

自分はそのときの自分の心情を知っているんだよね。自分だから。
だからそのときの意識を思い出しながら、その写真を見る。

無理してたよなって。

だからそんなふうに感じたんだ。

痛々しいんだね。見ていて。苦しかったころの自分の写真なんてのは。

でもそのときの私は一生懸命だった。非常に未熟であったけれど。

だから人は、つねにベストと思うことをしているんだ。未熟な状態で。
今だってそうだ。一生未熟だ。それがふつうだし、それでいいんだ。

昔の写真を見て、そんな気持ちになるということは、
まだまだ自分を肯定的に受け入れる作業が必要だよ、ということだなと感じた。

どんな自分でもOKって。不器用にのたうちまわっている自分もOKって。それでいいよって。

ということは、他人に対しても、まだきびしいということだ。

人は、自分に対する態度と他人に対する態度が同じなんだ。

OKしてあげる。どんな状態も。どんな選択をしても。自分も。ほかの人も。

これが今の自分のテーマだなと思った。


じつは、誰もがそのときそのときで、つねにベストな選択をしている。

バカだなぁと思ったとしても。
あんなふうにしたのは間違いだったと思ったとしても。
とりかえしのつかないことをしたとしても。

人は、犯罪や愚かなことをしてしまうことすらある。

例えば凶悪な事件を起こした犯人は、たいてい幼いころに親から虐待されていたりする。

心とは微細で、数学的で、理性ではごまかしがきかないんだ。思っている以上に。

犯罪がベストな選択なんてことは言えないし擁護できないけれど、
そんなケースでも、たいていそうするに至った経緯があるということなんだ。
動機とか、そんな最近のことだけでなく、もっとその人の心の歴史の視点から見ると。

そのことに気が付いて、私はいい・悪いと頭で決めることは、あんまり意味がないという結論に至った。

ダメはダメだけど、人様に謝罪すべきときはすべきなんだけど、
どうしてそうしたのか、そういう状態になってるのかについては、
世間の価値観や、いい・悪いを排して、心を感じないと、見えてこないんだ。

そうして初めて問題の本質的な解決や救いが見えてくる。


自分から見て、変な人でもその人がそうなのは何か意味があるんだろう。

バカに見えても、その状態に理由があってなっている。今その状態でいたい。

甘えているように見える人でも、その状態でどうなるかまで、経験したい。

それで、なんで苦しい状態なのか、わかったからといって、
相手に教えてあげてもたいてい無理なのね。

最後は自分で気づきたいっていうのが誰にでもあるから。

以前、この記事で↓、
自分の思いが相手に通じなくて無念であっても、
自分を守りながら待つしかないんだということを書いた。

それはそういうことなんだ。

最後は自分で気が付く必要があるから。
(だから無理で当たり前なんだって思うと少し楽だ)

それはたいてい経験して納得するという過程をたどる。私自身もそうだ。

経験するために生まれた。

そして、つねにそのときの自分にとってベストな選択をしている。誰もが。その状態で。

100点満点なんてないだろう。それがふつうだ。人間は、神様じゃないんだから。
(てゆうか完璧なんていうのも思考の作り出した幻だろう)

それも全部OKする。

結果、死んじゃったとしてもだ。

完璧であることより、どんな状態でもOKできることのほうがよっぽど大事だ。


ところで、人間の願いは、かなう。

わたしはこれまでいろいろな人の最期を見てきて、みんな自分の願いが叶っているなと思うんだ。

コロナ禍で最期、親族が病院にあまりお見舞いに行けなかった人は、生前もあまり人にくっつかない、依存しない人だった。
社交的なんだけど、一人でも楽しくいられるし、勝手気ままにいるのが好きな人だった。
最期も自分の好きなときに逝くから、こどもたちは、あまりあたしを気にせんでいいですよ~って気持ちがあったのかもしれないなぁと思った。

ある、足腰が弱ってきちゃった方は、お子さんや奥さんに介護の苦労をかけたくないなぁという思いが強そうだった。
いよいよ弱ってきてしまったので介護用ベッドをお家に入れた矢先、転んでしまって打ちどころが悪くて、亡くなってしまったんだ。

だから亡くなる時をご自分で決めていてそれが叶うとしか思えないんだ。

大勢の子どもや孫とふれあっていたかったおじいちゃんは、最後もたくさんの親族に見守られて、亡くなった。
死ぬのがこわいよという話をよくしていた。
わりとこどもに甘えたかった方は、それも叶っている。

お子さんがいなくて世話をする人がいないのをわかっていた方は、
ぎりぎりまでご自分のやりたいことをやって、亡くなった。
お迎えが近いとわかったら、お世話になった人に今までありがとうと連絡をして、自分で病院に行って間もなく亡くなった。

だから私はあまり自分の老後を不安に思っていないんだ。
自分の願いが叶うのを知っているから。

それよりも、今なにをしたいか?と感じることのほうが大事だ。
それをなるべくかなえてあげることのほうが大事だ。
その積み重ねで未来がつくられるから。

なにもしたくないなら、まずは「なにもしない」をかなえてあげることだ。
よしよし、したくないんだねって。それでいいよって。
それを気のすむまで休んだ先に、なにかの意欲が出てくるときが来る。

頭と心をなるべく一致させることなんだ。

頭と心の差が大きいと、苦しい人生になっていっちゃうの。

昔の写真の私はそういうことを知らなかった。

自分がない状態で、頭だけでこうしなきゃと生きていた。

だからブスに見えるんだな。見ていてそのときの苦しさがよみがえってきてしまって。
(書いているうちに、だんだんブスで不器用な過去の自分がかわいく思えてきた。わたしは自分を癒すためにブログを書いているんだな。みなさん読んでくださってありがとう)

頭と心の差が大きすぎると、苦しい人生になる。
それでも願いはかなうのだけど、頭で思っている願いではなく、心で実感していることが叶うんだ。

例えば、
家族の幸せを願っている。(頭では。顕在意識)
けれど、自分は親の犠牲になって生きてきた。

自分を犠牲にして生きていると、たいてい心の奥に憎しみを眠らせていたりする。
ふだんは忘れていたとしても。(心の奥。感情。無意識)
ふつうは憎しみを晴らすために仕返しするなんて、罪悪感を感じる。
親を憎んでいると自覚することすら、罪悪感だから、自覚すらしていない。

すると罪悪感を感じずに、恨みを晴らすことになる。

一生懸命がんばってやったけど、破滅するというような方向へ。


これも、全部、頭と心の差が大きすぎるからだ。

心のほうを見ないように見ないようにしていると、どんどん差が大きくなる。

不都合な感情を感じないようにして生きている人は多い。

そうじゃなくて、思い切って見てあげることなんだ。マイナスの感情も全部。

そのとき出てきたものを感じ切って、そうかそうか、そうなんだねって、気のすむまで見てあげることなんだ。

これも人によっては難しいかもしれない。
心の目を内側に向けてあげるんだ。
目は外を見るようについているけれど、自分の内側にくるっと向けてあげるんだ。
そういうイメージでじっくり見てあげるんだ。自分の心を。思い出したときに。

いっぱい古いマイナス感情を眠らせている人は、自分の感情を見るのがこわいと思うんだ。

でも、勇気を出して見てあげる、感じてあげることを、なんどもやってあげるとだんだん楽になっていく。

こんなに自分の心は大けがをしていたのに、ほったらかしで、手当もせずに、がんばれがんばれと命令して無理をさせてきたのかと、自分に申し訳なくなる。
ごめんねという気持ちになる。

こういう自分を愛することを始めた延長に、子どもの問題やその他、問題の解決が見えてくるんだ。

自分を犠牲にしないやり方を学んでいくことも大事だ。
もう大丈夫だよ、犠牲にしないからねと自分自身を安心させてあげることなんだ。

そうやっていくと、だんだん頭と心が一致してくる。

そうやってマメに自分を愛して、自分と仲直りしてあげないと、マイナスに願いをかなえていくしかないわけだ。心は。

だって本当の感情の願いをかなえるためには崩壊させるしかないから


そして、自分を見ない方は、自分の感情を感じてないわけだから、他人の感情や目的もたいして感じられない

すると、悪意を持った者が悪意をもって仕掛けてきても、その目的すらも感じないとなってしまうわけだ。

だからあいつらの謀略もわからない。詐欺にもあいやすいだろう。

こういうふうにつながってくるわけなんだ。

命にかかわるような選択とも。

だから
ややこしい世の中になってしまった今、
ワクチンのことなどをお知らせしても、
感情を抑えて生きている人であれば、話が通じなかったり難しいことは、至極当然のことなんだ。

だから、あいつらの謀略と心の話を混ぜて書いてきたんだ。

自分を愛することをおろそかにしていると、あいつらの謀略も感じられないから。

争うのも、自分を愛していない姿だ。
だから戦う人は賢くはならないんだ。
相手ばかりを見ているだろう?戦っているとき。それだと自分を感じている割合が少なくなるから。
するとネット上で他人に絡んでいるような人の言うことは、あまりあてにならないなとわかる。

あいつらと「戦う」と言葉では言うけれど、他人に好戦的にくっついていくよりも、自分に集中して自分の主張をしていくことなんだ。本当に勝ちたいのなら。
こうできるだけで、もう意識では勝っているので、これがかなう。

戦う人はいつも悔しい場面ばかり実感している。これは「負けている」感覚だ。

こういう実感がかなってしまう。

世間の価値観なんかよりも自分の感情や、ふと感じることを、信じて愛することができるかってことなんだ。

だから、簡単さ。

自分を愛することをしてけば、問題も解決するし、安全だし、幸せにもなれるってことだから。

他人をあまり見なくていいんだ。
かわいそうとも思わなくていいんだ。
みんな自分で気づきたくて、やりたくてやっているから。

「他人のために~してあげきゃ」っていうのも、あまり思わなくていいんだ。

なぜなら、もともと人のために、人の役に立ちたいって気持ちが私たちにはあるから。
自分を愛していけば、人も大切にしたいって自然になるから。

自分を愛することのほうが先なんだ。

すると、、、
凶悪犯や、あいつらや、あいつらの走狗をしている連中の精神状態も、少し想像がつくかなと思うんだけど。

他人を大切にすることができないのは、自分を大切にできていないからなんだよねって。
それはつまり、なにかに縛られ支配されているんだよねって。





ご活躍のようで。

「誰もがつねにベストな選択をしている」

心の状態に沿ったベストな選択をしているということだからな。

頭と心が不一致だと幸せな選択ができないってことなんだ。

そして頭と心の不一致が大きいと、崩壊させてマイナスに願いをかなえるということなんだ。

それなら一致させれば幸せになれるってことなんだ。

一致させるのは自分への愛なんだ。



やさしい方、自分を守ることを忘れていないかい?

2022-09-30 20:55:22 | 心の解放シリーズ
今回は、周りの方を思って、ここまでできる限りのことをしてきた実感のある方に向けてのエールだ。

みなさんは自分にやさしくしているかい?

私はなんだか最近、自分がかわいそうになってきた。

けっこう自分の心が傷ついていることに気が付いた。

身内の健康を案じて、さりげなく嫌がられないように、この危機を伝えなければと思ってやってきたけど、通じないことのほうが圧倒的に多い。

できる限り発信したけれど、ついに、自分の身近でも訃報やら痛ましいことが聞かれ、陰謀論や妄想でなかったことが証明されつつあって、今、とても悲しい。しみじみ悲しい。

なのに、通じないだけならまだしも、嫌がられたり、嫌われたり、攻撃されたり。(工作員の攻撃はべつにいいの。今回は身近な愛する人からって意味ね)
そして愛する者と疎遠になったり。
(分断ってやつだね。これもあいつら狙ってやってるよ)

愛している者のことを誰よりも思って、ベストと思う行動をしているのに。
選択を押し付けているつもりはなく情報を伝えたたけなのに。
なんだ?この疎外感は。

これでは「私」が相当にかわいそうではないか?って。

ふと、こんなふうに思った。

こんなふうに人の立場にたって一生懸命になってしまいがちなときほど、
自分をかえりみることを忘れているもんだ。

相手に傷つけられても関わり続けるということは、
私が私を粗末に扱ってしまっているともいえる。
そのとき、相手に入りすぎていて、相手の選択に入りすぎている。

相手の選択を認めることはわかっているけど、それでも今回は命かかっているから、なるべくギリギリまでできることをしたいのが人情だ。

じつは、こんなときほど、いったん「自分を大事にする、守る」っていうところに戻ったほうが、相手に対しても、適切になれるんだ。

相手が嫌だという反応をしているなら、これ以上関わると、争いになるし、自分もきつい。傷つく。
自分がそんなふうに扱われる理由はない。だって、私はただ相手を守りたいだけだ。

最終的には相手の選択を尊重するしかないことも知っている。大変なことになったとしても。

ならば死ぬ恐れがあるとしても離れるしかない、私のことも守ろうってすると、相手の選択も尊重してあげられる

なんという、きわどい恐ろしいご時世になってしまったんだ。。。
と思ってまた悲しくなるんだけど。

でも、
私を攻撃したり「黙れ」と命令してでもそうしたいわけだから、もうここまでだ、と。


ワクチンを打ちたいという意思がある。
情報を教えてあげた結果、死んでも、障害状態になったとしても、自分でいろいろと解釈して打ちたいとする。

ならば相手にはそうする自由がある。
つらいけれど。

人によっては、
自分を心配してくれる人を攻撃したり、恫喝したり、疎遠にしてでも打ちたいんだと。
こう発想すると、大事な人が厳しい結果になったとしても、少し、心のつらさが軽減されるかもしれない。
それほどまでの意思だったんだと。
同時に、そう自覚することで、「私自身の心」が少し楽になるのではないか?って。




人の反応は、本当にそれぞれで、
ちょっと言われただけで過敏に反応して嫌がる人もいれば、
「聞きたい、教えてくれてありがとう」という方、
「うんわかった、でもやっぱ打つわ」という方までいろいろだ。

攻撃したり嫌ったりする人は、
深いところで本当は自分をものすごく責めていて、自分の判断に誤りや非があるとなると、受け入れることができないという方も多い。

すでに残念な結果が出ているならばなおさら、「もう言わないでくれ」という反応をされる。

あるいは攻撃したり、キレたりするしかない人もいる。
これが自己否定の裏返しだとしたらどうだろう?

これまで俺の判断が正しいんだから黙ってついてこい、と生きてきた年配の男性などに多いかな?

この感じだと、純粋な思いやりから言ってあげたとしても、
責められたと受け取って、キレたり、ふてくされる人も
(ワクチンに限らず)

これだと建設的な話し合いができないから、今までも問題を解決したり、危機を回避することができていないわけだ。
そういう実績は本人が一番よくわかっているので、その方は、根底では自信がないはずなんだ。
だから、なにか言われるとすぐ責められたと感じて、話ができないんだ。

問題解決できる人は話し合える人だから、そういう方はそんなに支配的ではないはずなんだ。
対等に人と向き合えて、聞く耳があるはずなんだ。
これだと人と心が通う関わりができて、いい結果になって幸せっていう経験をたくさんしているはずだから、精神状態もいいはず。

命がかかってきた今、
問題解決・危機回避したければ、そんなつまらぬプライドは置いといて、
これまでの価値観やプライドのフィルターを排して、
物事をなるべく公平公正にあるがままに見て、
素直に自分に落とし込んで「感じる」ことが不可欠なわけなんだけど、
自分の心のこだわりがそれを妨げる。

こうして心がどんどんかたくなになっていってしまう。
頑固にもなるし、だんだん年とともに感情が麻痺してしまうのね。
感じない心は、言ってあげても心に響くことなく、相手の愛までも、はじいてしまうんだね。

その状態でできることといえば、左脳でロボットのように情報処理することくらいだ。
それだと真実とプロパガンダとの峻別もできないから、デジタルに処理しちゃっていて、なおさら話が通じない、となってしまう。

あるいは、そんな俺様タイプでもなく、自信がなく、日ごろから自分がダメだと思い込んでいる人も、人に何か言われると、「責められた」と受け取ってしまう

こちらは「こうすると楽になるよ、これはこういうわけなんだよ」と、楽になる方向、助かる方向に導いてあげたいだけで、責める意図などみじんもなくても、そういうふうに聞こえちゃうんだ。

だからいつまでもこちらの心が届かない。こちらには愛や思いやりしかないとしても。

自分についてなにか言われただけで、「おまえはダメだ」と言われているように聞こえてしまう。

それで攻撃してきたり、嫌ったり避けたりするわけだ。

するとこちらは関われば関わるほど、悲しくなってしまうのね。

こんなふうに自分の心の作り出した世界をみんなそれぞれ生きているんだ。

あなたがどうであろうと、その人は今、そういう意識なんだ。

ときどき、こっちの意図と全然ちがう受け取り方を相手がしていたと判明して、びっくりする。

でもそれもまた本人の自由なのね。自分自身もまたそうだったりするわけだし。

人間のコミュニケーションとはあやふやなものだ。

自己否定が強ければ強いほど、勝手に人から否定されたと受け取る。
相手にそんな意図がなくても。
これだと目の前に愛があったとしても感じられず、受け取れないんだ。
(その逆の状態も、ある。これはハッピーだ。他人やいろんなことが気にならない、こだわりがない状態。ただ状態を経験しているだけなんだ、私たちは。それを否定したり、いい・悪いと勝手に決めているだけだ)

自己否定するのも自由だけど、それも意味がないからやめていいんだ。思い込みだから。

でも、その人が今まだそういたいなら、そういう心のフィルターがかかってしまっている状態だから、人と話をして、自分を建設的に少し変えたり良くしていくってことが難しいだろう。今はまだ。

だから、俺様タイプも気弱なタイプも、同じだ。
根底で自信がなく自分を否定している意識があるので、人の言うことが責められているように否定されているように聞こえてしまうというのがある。

自分を肯定的にとらえている人は、俺様(支配者)にも気弱(犠牲者)にもならないんだ。
誰とでも対等に向き合う意識になるんだ、自然に。(これが自立している状態。自然体で素直だ)

だから自分や他人を否定したり責めてばかりいるうちは、精神的に自立できないってことなんだ。
いくらカネを稼いでいても。立派そうに見えても。

支配者も、犠牲者が支えている。
両者はくっついていて、じつは支配者は犠牲者なしではいられないんだ。

だから、犠牲者が離れると、支配者は一気に崩れる。
犠牲者たちが離れるそぶりをみせると、支配者は慌てて、すごい勢いでキレたりするんだ。
それは恐怖から来るわけだ。わかっているんだな。自分が存在できなくなることを。

そして支配者も、自分より強いものの前では卑屈な犠牲者だ。

だから100%支配者だけの人、100%犠牲者だけの人というのはいない。
相手との力関係によって、両方をいったりきたりしている。
それはあべちゃんでなくとも一般人も同じだ。
はたから見ていると、こんな命の危機せまっているご時世でこんな状態では、心配になってしまう。
これだと情報を伝えても、勝手に否定的に解釈してキレたり、現実を適切にとらえられないからな。

それでも、待つしかないんだ。

非常に、やきもきする。

こんなとき、私だってそういう方たちに傷つけられて、かわいそうなんだから、まずは私を守ってあげよう。
離れて、せめて私だけでも楽しく幸せにいていいんだよって、私に目を向けてあげる。
相手ばかり心配して、忘れていた自分自身。。。
よくがんばったよって。

こうすると、まず自分が楽になる。
そして結果的に相手にとってもそれが適切となる。

必要なことはもう言ってあるので、あとは相手の心の変化や目覚めを待つ必要がある
命かかっていると思うと、そんな悠長なこと言ってられないと思うんだけど、
きつい関わりを続けて、関係が悪くなって心を閉ざし、意地になられるよりは、
そこから離れて、相手の心の成長や気づきを邪魔しないであげたほうが、急がば回れで気がつくのが早まるかもしれない。

関係性も風通しよくなり、よほどいい結果になる場合が多い

ヒントは十分与えたわけだし。


私が楽だと、相手も楽
→相手を手放すのは心もとないけど、相手にも魂の力があって、つねに気が付いたり成長しているからそれを信じてあげる。
本当は、言葉にしなくても愛が通じていて、申し訳ない思いや、
「あいつがそこまで言うということは・・・」と考えていたりもする。
よくなる可能性が出てくる。

私がきついと、相手もきつい
→泥沼になっちゃう。いっしょに破滅?

ってなるのね。

不思議なんだけど、そうなるの。

人の心は。

いっさいの矛盾なく、つじつまがあうんだ。

愛とは。

自分に対する愛とは、他人に対する愛となるんだわ。
私がうれしいと、相手もうれしいのね。

自分を犠牲にすると、相手も犠牲にしてしまう。
結果、周りのみんなが不幸せ、ってなってしまう。

これはやっぱり人間は愛の動物だからなのかもしれない。

だから一言で言っちゃえば、「自分が楽にいる。幸せにいる」ってことなの。なによりも。悩んだら。
すると相手にとってもいいんだわ。

いろいろぐるぐる悩み考えてもいいけれど、結局たどりつく答えはシンプルなんだ。

命かかってるとしてもそうなんだって最近思いました。

そうすると、「相手にどこまで言ってあげるべきか」は、「私が守れる範囲くらいまで」が適切だなとわかる。

それ以上は、もう言っても伝わらないし、相手も意固地になるし、私も傷つくし、お互いにどんどんマイナス状態になっていくということだ。

いやね、私自身が今きつさを感じているわけだけれど、
ほかにもいっぱい、この事態に気が付いて周りに警鐘を鳴らしているやさしい清い方がいて、そういう方が相手との関係がこじれて、悲しみのあまり絶望して生きる気力をなくしてしまってはいかんと思ってね。


打とうとしている人をなんとか守ることも大事だけど、
あなたの心を守ることを忘れちゃうと、これから世の中がどんどんすごくなっていくことが予想されるから、
気が付いてて打っていなくても、絶望したり、もういやだって自滅したくなる気分になるおそれがあると思ったの。

そんなときは、自分を守ってそんな相手から離れたほうが、相手にとってもいいことが起こる可能性が高まるよと言いたかったの。

言えるところで、通じる方に、発信を続けたらいいんだ!

顔が見えなくても、同じ思いの人はたくさんいる!

そしてゲンキンなもので、その人も、自分が苦境を越えて、楽になると、かつて自分が人にしたひどいことを忘れてけろっとしているもんだ。
家族や兄弟であればなおさらそんなもんさ。

だから、しばし疎遠なときがあったとしても、未来は全然わからないんだ。