Dr.Yさんが動画を配信してくださった。
理不尽な環境や失敗を、笑いとばす。
笑いたいんならいいけれど、泣きたいのに笑ってしまうと「上善は水のごとし」にならないのではないか。
そんなふうに思った。なぜなら自分にウソついているから。
人は感情を抑え続けると、苦しくなります。見ないフリしてもムダです。
最後は破滅することすらあります。
おそらく多くの人が生まれてきた意味である「精神や魂の向上」からも遠くなります。
私には老子がそのような意味で言ったのか?疑問なの。
理不尽な環境を笑い自分の失敗を笑い飛ばす:上善は水の如し
VIDEO
動画説明欄より転載。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。
貴方が今抱えている問題が、もしも命に関わる問題であれば、それに対して全身全霊を傾けて真剣に対応策を考えなければなりません。しかし、貴方の抱えている問題が、命に関わる問題でないとしたら、そんなものは笑い飛ばてしまうしかないのです。
何故かと申しますと、人生の貴重な時間に、落ち込んだり、腹を立てているような暇などは無いからです。 「厳しいなぁ!でもこれが現実だ!何とかして乗り越えてみせる!」人間という生き物は、このように、理不尽さを笑い飛ばすことで初めて、現実を受け入れることができるのです。そして、直ちに頭を切り替えて、速やかに対応策を練ることに着手しなければなりません。
〈おばつぶやき〉
私は、自分の感情が動いたら、笑い飛ばすことはしないんだ。
ちょっとしたことでも、よく感じてあげるんだ。よく見てあげるんだ。
そうすると、次第に落ち着くんだ。
そのあと、さてどう対処しようかなという気持ちになる。
自分の感情を見ないで無視して押し殺していては、根本的な問題解決はできない。
そのばしのぎの解決しかできない。問題の先送りだ。
人間が歴史的に感情を押し殺して、軽視して見ないできた結果が今の社会だ。
おそらくあいつらがそう洗脳してきた。長年にわたって。
我々はまだ感情の取り扱い方法を知らない。
感情は抑えてていても、蓄積される。それが現実に、「カタチ」になってしまう。
だから感情が納得していないというのは大変なことなんだ。
納得するまでいろんなことを起こしていく。無意識に。
個人の人生もそうだし、社会とは、そんなみんなの集合意識の結果だ。
今なんかみんな怒ってるから、大変よw
とんでもないことやられてるって気づいてる人、多いしね。
マイナスの感情になっているときは、必ずなにかが起きている。
だからちょっとマイナスになったら、なにかあいつらにやられてるサインかもしれないんだ。
個人の人生でも、そういった感情を見てあげて、適切な対処をしなければ、なんどでも似たような問題が起きる。
そして次第にエスカレートしていく。
当然だ。
自分のマイナスパターンを修正せずにやり続ければ、次第に状況がエスカレートしていく。苦しそうな中高年の方はこの状態に陥っている。
それはたいてい支配だ。
自分の感情を見てあげないということは、自分自身を支配しているということだ。
自分への態度と他人への態度は同じだ。
初対面でなんとなく、感情の乏しいロボットっぽい人だなと思っていると、案の定、支配し、される人生を送っていることが、あとでわかったりする。職場でも家庭でも恋人ともそうなっている。
大変だなと思うけど、つきあえないからな。
つきあっちゃうと、わたしもその人と支配関係結ぶはめになるからさ。
わたしはそういう関わりが好きじゃないからさ。
そういう経験することもその人の自由だしな。
「清く正しく誠実に生きていれば、皆んなから慕われて、楽しくて幸せな人生を送ることができるはずだ!」それは夢物語であって、現実社会では必ずしもそうではありません。 「真面目に努力をして頑張れば、何時かは必ずその努力が報われる時が来るはずだ!」これも、同様に夢物語であり、現実社会はそんなに甘くは無いのです。闇雲に努力をしたとしても、願いは叶うとは限りません。
〈おばつぶやき〉
まじめに生きていても、支配性の強い人は、人との関係においてトラブルを起こす。
そのような人は自分の心や感情を感じることよりも思考偏重で生きている。
「~なければならない 」とつねに発想している。人にもそのように要求する。
これだと心通う温かい関係になりにくい。しかし、どうしてかわからず、さらに「仲良くしなければならない」と発想し、「がんばっていい人になって」つきあおうとする。こんな女性たちを都会でよく見かけた。
これじゃ楽しくないだろう。
感情を感じていると、相手の領域に入りすぎているとき、居心地の悪さを感じるものだ。だから すぐ離れてあげる ことができる。 適切な距離感で、自分の感情を大切にしながらしゃべっていると、相手から見ると相手のことを大切にしているように見えるの。
こうやって自然に「分かち合って楽しいね」と心が通うんだ。
清く正しく生きなければなんて思考するより、こういうことに気づいて経験を増やしていくことが大切だなぁと思う。
もしも人生に、理不尽な人間関係や、勉強や仕事などの失敗というものが無かったとしたら、人生は無味乾燥な物になってしまうでしょう。
〈おばつぶやき〉
仕事や勉強も、実力が伸びない場合は、感情がなにか嫌がっているからだと思う。
好きだからやっているのではなく、~なければならない、で思考でやっていると伸びない。 感情の満足が伴っていないと伸びない からな。無理にやっても限界がくる。 また、実力の問題ではなく、人との関わりや経験不足からくる失敗もあるだろう。
だから、「嫌なことなんてやめちゃって、自分の感情や五感を感じて好きなことをしなよ」って結論になっちゃうんだけど、いきなり100%そうするのはハードルが高いから少しずつできるところからってことだ。おばさんはそうしている♪
あたかも、波乗りのチャンピョンを目指して海に出かけたけれど、あいにく海は穏やかで波一つ無い状況であった。それと同じことであるとお考えください。荒波に揉まれ、何度も落ちては這い上がり、またチャレンジしてみる。また失敗して再びチャレンジをする。それを繰り返して、ビッグウェーブを自由自在に操ることができる、波乗りのチャンピオンになれるのです。
人生の目的は、様々な体験を通して多くを学び、人生の荒波の波乗りチャンピオンになることです。 貴方が、理不尽な環境の中で揉みくちゃにされ、必死に這い上がり、絶望の淵に立ち尽くし、「神も仏もあるものか!」そのような体験をしているとしましょう。そんな時に、「悩んでいても仕方ない!世の中は思い通りにいかないものだ!頑張るしかない!」そう思って、笑って現実を受け入れ、今できる最高の選択肢を選び、必死で前進して這い上がるしか無いのです。
〈おばつぶやき〉
そうなると自然に笑みがこぼれてくるはずだ。
なんでも自然が一番だ。老子が言った「無為自然」とはそういうことだろうと思っている。
そこに熟達すると、波乗りのようにチャレンジしたいという意欲が自然に湧いてくるだろう。
つらい感情をやせ我慢して、やけくそで特攻隊のように突っ込んでいくことは、わたしはおすすめしない。結果が明らかだからだ。
感情を無視しているならば冷静な分析もできていない。その状況で突っ込んでいくことは危険だ。
本日は、理不尽な環境を笑い飛ばし、自分の失敗を笑い飛ばす生き方についてお話しします。
貴方は街中で、いつも笑顔で挨拶してくださり、目立たないところで、社会の役に立つような作業をしている、中年期から高年期の人たちを目にする機会があると思います。そのような人たちは、多くの人たちが面倒だからやりたく無い、そう思っているような作業を、嫌な顔一つせずに黙々とこなしています。
若い人の目には、今まで真面目に生きて来なかったから、高齢になってこんな仕事をしているのだろう?そのように映るのかも知れません。しかし、それは大きな誤解です。そのような人たちと立ち話をしてみると、実は強く逞しく優しく謙虚で責任感溢れる優しい人たちであることが分かります。
〈おばつぶやき〉
職業に貴賤はないと思うし、誰もが憧れる職業をプレッシャーのなかでやってるよりも、お掃除などの仕事を気持ちよくやっているほうが幸せということもある。
わたしが中高年の方を見て、ときどき気になるのは、長年にわたって溜めこんできたマイナス感情だ。
うまく自分の感情を感じて、愛することを知っている人は、なんの職業でも、なにをしていてもステキな感じだ。この感じの人は他者の自由を尊重することが自然にできている。豊かな人間関係を築いている。
反対に、マイナス感情がいっぱいになってどうしていいかわからず、垂れ流し状態である人はつらそうだ。こちらはたいてい支配に生きていて、他人とくっつきすぎているのでトラブルが多く悩みがちだ。
自分を大切に、自分の心を軸にして生きている人は、他人に必要以上に干渉しないからな。自然にそうなるんだ。だから自分の感情にいる割合を増やし、思考を減らすと、支配からも外れていく。反対の思考中心の人は支配者になっていく。
例えば、嫁姑問題で悩み、友達に相談。
相手が悪い、相手がこうすべきだ!とあれこれ思考し、その思考からマイナス感情を無限に量産していく。
それを友達にぶちまける。
嫁姑関係がお互いの自由を認めあえない、話合えない関係であって、支配関係であるから苦しく、頭にくるわけだけど、じつは相談した友達とも依存・支配関係だ。
人はいつでもどこでも同じパターンをやっている。
そして、友達ともこんなふうにつきあっていては、やがてトラブルになる。
あるいは友達を味方につけて、姑や夫と争うなど、争いのメンバーを増やしちゃって、よけいにややこしくして、破滅へ向かったりする。
「友達」と書いたけど、これが「子ども」である場合もものすごく多い。
妻が「子ども」と組んで、夫と争うとか。
この場合の子どもは女の子であることが多い。
当事者である自分が相手と向き合うことをしないで、関係ない人を巻き込んで、争う。支配や依存に生きて争っているときほど、これをやりがちだ。
本当に問題を解決したいなら、当事者同士が一対一で向き合う必要がある。
それをしないで争っているのは、つまりは逃げているということだ。
その巻き込まれた子どもも親と支配関係で、親から人間関係のパターンを学んでしまっているから、大人になって親と同じようなトラブルを起こしていく。同じような支配的な戦うお母さんになるだろう。
こうやって親と似たような感じになっていく。代々続いていく。
支配的な親に育てられた結果、女の子は支配的なママ・妻になり、男の子は引きこもり。このパターン、今の日本に多いように思う。
当事者も巻き込まれた人も。
そのように自分の心を大切にすることで、問題解決ができるようになれば、自信もつくし、不安も恐れも怒りも減っていくし、自然に心が穏やかになり、先生のおっしゃる執着しない心境↓になると思うんだ。
「上善は水のごとし」という言葉があります。これは「老子」の八章にある有名な言葉です。つまり「最高の善は水のようなものでなければならない」という内容であり、最高の人生のありかたは、水のように生きるべしと説いています。 「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処(お)る。」水は万物に利益をあたえながらも、器に従って形を変えて自己を主張せず他と争わず、誰もが嫌うような低い方へと流れて、自らは低い位置に身を置く」水は自分の存在を主張しないで、低い方へ自然に流れていきます。水のように行動してこそ、心穏かにすごすことができ、また円満な人間関係を創り上げることができるということです。そのような水の性質を、最高の善の例えとした言葉です。
〈おばつぶやき〉
老子。無為自然。孔子の 儒教 は支配者のためにつくられたように思えるのですが、老子はわりと好きだ。 そう考えていくと、『老子』でいう「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
私はここ↑でいう
「意図や意思、主観」=思考、執着
「道」(天地自然の働き)=宇宙=感情=愛
と理解している。
私たちの感情も自然の一部で、宇宙そのものだと思っています。
だから思考で感情を抑えたり無視している状態は、あるがままではないと思うのです 。支配していると思うのです。愛や宇宙を抑えて生きなければと思い込んでいるということです。これでは最後破滅します。
マイナス感情をやたらと他人にぶつけるのはトラブルになるでしょうが、自分自身でやさしく自分の感情を感じることは無害です。
無害どころか、自分を愛で満たすことも、問題を解決するヒントも、能力を伸ばすヒントも感情を感じることに隠されています。
たぶん実際に経験しないと信じられないかな?
感情のままに生きたら大変なことになると、多くの人が思い込んでいる。社会で一生懸命、現実的に生きてきた方ほどそうだろう。
しかし私にいわせれば、感情を抑えてやみくもに行動すると、自分も他人も支配してしまい、トラブルを量産するだろう。こっちのほうがよほど危険だ。
本当は無意識の自分の深い部分では問題の解決方法も自分の可能性も知っています。その無意識の声が感情です。
だから笑い飛ばしてしまってはもったいないと思うのです。
上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
(最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ 。)
非常にわかりやすいたとえです。水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を私たちに与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります。
(中略)
柔らかくてしなやかな水は、時には金属や岩のような頑丈で重いものを動かすこともある。さらにどんな形にも姿を変えることができる水は、ちょっとした隙間にも入っていくことができる——たしかに普段は穏やかな川の流れも大雨ともなれば増水し、濁流となって重い岩を動かしたり、山を削り取って地形を変えてしまうこともあります。さらに現代では、水をノズルで噴射して金属を切断することだってできます。
古代中国において、水は四角い器に入れれば四角になり、円い器に入れれば円くなるように、柔軟なものの代表でした。老子はもっとも柔らかい水に大きな力が潜んでいることも理解したうえで「上善は水の若し」と述べたのです。
私は
「道」(天地自然の働き)=宇宙=感情=愛
と理解している。
感情は水みたいだと思う。感情もエネルギーだから。
老子も人の心のそんなところ、わかってたんじゃないかな。その老子は水はやわらかいものであると同時に大きな力が潜んでいることも理解したうえで、上善は水のごとしと言ったという。感情は目に見えずカタチがなくやわらかいものだけど、とてつもない力がある。「愛」だからな。すべてを生かし、育て、問題の解決をするのは「愛」だけだ。これがないと問題解決しない。
(だから私はDSの話といっしょにこんな話を書いている。やつらが滅亡し丸くおさまるかどうかも我々の愛の分量にかかっている)
感情は感じてあげることで、流れるようにできている。水のように流れたり、蒸発したり、たまったりする。抑えていると、古い感情が滞って腐敗してしまう。
だからマイナス感情ほど丁寧に目をそらさずに感じてあげる時間をとってあげたい。
それだけで、うつ状態から抜ける運びになったり、いろんないいことに繋がっていくんだ。
上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
【おば解釈】
最高の善は水のようにやわらかく流れているものである。宇宙である。感情である。感情こそは愛であるから、人に恵みを与え、育てる。と同時にマイナス感情になれば苦しいこともある。でもこれを上手に扱えるようになることが道である。
その一方で、偉くなりたい、お金持ちになりたい、有名になりたいと思い、大成功を収めてマスコミや大衆の注目を集めて、社会の中で活躍している人がいます。その人たちの姿を見て、自分もそうなりたいと思う若者がいるのかも知れません。しかし、そのような人たちの中には、見かけとは裏腹に、現実、即ちプライベートでは、満たされない問題を抱えている人が多いのです。側から見て幸せそうに見える家族はいますが、家族の中では冷たい風が吹き荒れている場合が多いのです。
有名人の自殺や離婚、麻薬などの犯罪に関するニュースを良く耳にします。「幸せはその人の心が決める」という言葉の通りで、「その人が幸せを感じることができるかどうか?」というのは、その人を取り巻く環境によるのではなく、その人の心の持ち方によるのです。
世の中には夏休みや年末年始にハワイに行かないと気が済まない人がいます。でも、ハワイなどに行かなくても、庭の草木の成長を見守っている方が楽しいと思う人もいます。ハワイに行くことに魅力を感じない代わりに、周りの人たちのために役に立つことに喜びを感じる人たちもいます。世の中には、酒を飲まなければ、生き甲斐を感じることができない人もいますが、逆にお酒を飲むこと自体が人生の無駄な時間であると感じる人もいます。
地位と名声と富を手中に収め、昼間は胸を張って輝いて生きているけれども、夜になると孤独感に苛まれ、生きていることが虚しいと感じ、酒を飲んで紛らわしているような人たちが大勢いるのです。 人前では胸を張って堂々と生きているのに、独りになると虚しさを感じ、酒で虚しさを紛らわして生きるような、表面的な見せかけの幸せではなく、生きていることそのものが幸せであり、生かされていることに感謝することができるような生き方こそが、「上善は水の如し」ということになるのだと思います。
〈おばつぶやき〉
豪勢に派手に生きようと質素に生きようと、すべては自分の感情を感じているかどうか、他者に支配と依存でくっついてないかどうか、だけだ。
それは他人目線で生きているか、自分目線で生きているか、に言い換えることができる。
豊かに生きること自体は悪くない。質素が好きなのもよい。酒を飲むのももちろん自由だ。
ただ支配のやり方で成功した場合、本人はトラブルが多く、人とも心が通わず不幸であることが多いということだ。すると楽しい酒というよりも、酒におぼれてしまうのだな。なにをしてもそんな感じで破滅してしまう。
それでは、どのようにしたら、水のように、周りの人たちに利益を与えながらも、理不尽な環境の中で自己主張せず、人と争うことをせずに、誰もが嫌うような仕事を喜んで引き受け、地位も肩書も求めず、自然の摂理に従って生きていくことができるようになれるのでしょうか?
目の前に起こった出来事から目を背けること無く、自分の役割を果たすために、今できる最高のことを実践していくことで、水のように自然体で生きることができるのです。
〈おばつぶやき〉
自分を愛で満たすことも問題を解決するヒントも、能力を伸ばすヒントも感情に隠されていますから、それが分かれば、自然と他人も幸せにしていると思います。
そうしようとしなくても、愛と調和を実現できる人がいれば、そこは幸せな場所になりますから。
そういう感覚で、争うための主張ではなく、愛や責任に関わる必要な主張はして、環境を改善したほうがいいこともたくさんある。
人生の目的とは、様々な体験を通して、学び成長することです。そのために必要な体験ができるように、様々な試練が準備されています。その試練を避けて通るのではなく、果敢にも試練と向き合い、解決方法を模索するのです 。
〈おばつぶやき〉
解決方法は自分の感情が知っている。果敢に向き合わないほうがいいときもある、避けた方がいいときも逃げたほうがいい場合もある。
コワいなら、自分の実力ではまだムリだというサインかもしれない。
あるいは、相手があくどすぎて、離れたほうがいいというサインかもしれない。
ケースバイケースだ。丁寧に見極めることだ。
感情をおろそかにしている人たちは、この見極めがザツなように思う。
自分の心を丁寧に感じていないから、状況の見極めと分析も丁寧にできないだろう。感じ取れないのだろう。
自分と向き合ってないと現実とも相手ともじっくり向き合えないんだ。
その過程で人は成長できるのです。 過ちを犯してその結果、不幸な転機を取ることは、まさに因果応報そのものです。不摂生をして病気になる。危険な場所に立ち入り事故にあう。真面目に勉強せずに試験に落ちる。これらは、誰もが自業自得、仕方ないのでは無いかと思います。
しかし、真面目に一所懸命頑張っているのにもかかわらず、パワハラに遭い、悲しい思いをすることもあり、また必死に努力したのにもかかわらず、結果を出せないこともあります。
どうして、人生に於いては、このような理不尽なことが起こるのでしょうか? もう一度人生の目的を再確認しておきましょう。人生の目的は、様々な体験を通して多くを学び、人間性を高めることです。その人には、その人に相応しい試練が、適切なタイミングで、用意されているのだと思います。
果たして自分に試練が乗り越えられるのだろうか?そのように心配されるかも知れません。しかし、心配する必要は全くありません。乗り越えられないような試練は与えられないからです。強く逞しい人には、それに相応しい大きな試練が与えられます。そうで無い人には、それなりの試練が与えられます。「どうして、このような大きな試練が私に降りかかってくるのだろう?」そう思っている人は、私はこのような大きな試練を乗り越えるだけの力があるのだ!そのようにお考えください。貴方よりも大きな試練を乗り越えで頑張っている人が、世の中には大勢います。試練が与えられているのは、貴方だけではないということにお気付き下さい。 冷静に現状を分析して、今できる最高のことは何か?ということを考えて、行動するだけで良いのです 。冷静に周囲を見渡せば、自分を支援してくださる協力者や、それを利用すれば解決できるようなチャンスが準備されていることに気付けると思います。どうしよう!と焦る気持ちがあったり、不安に思う気持ちがあったり、どうして!と不満を持つ気持ちがあると、冷静に分析して、名案を思い浮かべることはできません。 現実を受け入れて、初めてどのような状況なのか?どうすべきか?今できる最高の対応策を練ることができるのです。 それでは、絶対の淵に立った時に、どのようにすれば、現実を受け入れることができるのでしょうか?私の成長のために、こんなに大きな試練を準備して下さった。乗り越えられない試練は与えられない。
〈おばつぶやき〉
例えば、理不尽なことをされてもノーが言えない人は、いつどこに行っても、強引な人から理不尽なことをされるという目にあうだろう。でも自分の気持ちを主張することを学び、できるようになれば、もうあまりそういう人に出会わなくなる。
よく人から裏切られるという人がいる。でもよく聞いていると、その人は人に対して強引であったりする。裏切った人は、いいかげんそういう強引なのがイヤになって離れたんだと判明したりする。
ならば、人に対して強引にする癖に気づいて、丁寧に気持ちを確認しあうことを学べば、もうそういう裏切りにはあいにくくなる。
自分自身ができてないから、同じ問題が起きているということのほうが圧倒的に多い。
似たようなトラブルが多いなら、そういう原因が自分側にあることがほとんどだ。
ということは、これも丁寧に見ていかないと気づけない。
自分の感情を感じていないと、丁寧に見るということができないんだ。
そのとき、裏切られて頭に来た、とか、理不尽なことをされて悔しいという気持ちを抑えて笑い飛ばして見ないでいると、こういった根本的な原因に気づけないだろうと思うの。
そう考えて、理不尽な現実を笑い飛ばしてしまうのです。落ち込んでいる暇は無い!よし、何とかしてみせる。乗り越えるためには、どこかに、チャンスがあるはずだ!どこかに、協力者がいるはずだ!絶対に何とかしてみせる。楽しみだなぁ! このような体験を通して、人は強さと優しさと謙虚さを学びます。「涙の数だけ強くなれるよ!」という唄がありましたが、乗り越えた試練の数だけ、人は強く逞しく優しく謙虚になれるのです。
〈おばつぶやき〉
涙はやたらと流さずにすむならばそのほうがいいと思うの。わたしは。
根本的な原因を丁寧に見つけて改善しちゃえば、もう起きないんだもん。
だから思考で自分を律して生きるのが合理的で安全だとみなさん思っているけど、わたしは感情を感じることを大切にして、根本的な原因を丁寧に探し当てた方が合理的で省エネだと思うの。
だから、私自身はわりと楽に生きてるの。のんきなの。
DSやそれに苦しむ人を見て、泣きながら「あんたそんなのやめちゃいなさい」とブログで叫んでるだけなのw
その結果、「上善は水の如し」という生き方ができるようになるのです。 「お釈迦様 が悟りを開いた」という悟りとは、正にこのことを指しているのだと思います。私たちは、菩提樹の下でいくら瞑想しても、悟りの境地に至ることはできません。自分の意思で、滝に打たれるなどの修行を行っても、それは自己満足であって、残念ながら悟りの境地に達することはできません。自分自身を磨く試練は、自分で自分を追い込むことでは無く、自然界から適切な時期に 、試練として与えられるのです。
〈おばつぶやき〉
そう思います。私も周囲の人もちょうどいい時期にマイナスパターンに気づくための試練が来ています。
これ前世からやってるパターンであったりするからねw
気づけないと、死んでも終わんないからねw
受け流してても、気づくまでまた来るし。エスカレートしてw
でも気づくと終わるのね。で、案外カンタンなことであったと分かるのね、過ぎてしまうとw
それが、人間関係の理不尽と、学業や仕事の失敗体験なのです。 そのような試練を幾度となく乗り越えることで、河原の石のように角が取れ、人間もどんどん丸く丈夫になります。いつも笑顔で、謙虚で責任感溢れる、強くて優しい人になり、四季折々の草木に癒され、他人の役に立つことに喜びを感じて、正に水のように生きることができるようになるのです。
皆さまが逆境を乗り越えで、もっともっと素敵な人になれるよう、理不尽な環境を笑い飛ばし、自分の失敗を笑い飛ばして飛躍する人生を送っていただきたく思います。皆さまに、試練を乗り越えるだけの強さが授かることを願っております。 「上善は水の如し」私の目指している生き方です。 また、皆さまのお役に立てるようなお話しをしたいと思います。 Dr.Yでした。
〈おばつぶやき〉
だから、こんな自分の感情と言動のパターンと現状の関係が分かって、解決できちゃうと、たしかにこれまでの失敗なども笑えるようになるんだ。
けどそれは結果笑えるようになるのであって、心が苦しいうちにムリして笑い飛ばすと、大事なことが見えなくなって、愛から遠ざかる危険もあるよと言いたかったの。
目指す結果のところは賛成です。
ただそこまでに至るプロセスこそが大切で、お勉強で、愛だからさ。
そのために生まれてるんだから。
ここに至らずに、顔で笑って、心で泣いて我慢して生きている中高年の方を見ると、私はすこしつらくなるのね。
でもこの方たちもいつかは必ず、気づく時がやってくるのね。てゆうか自分でそういうチャンスを作るのね。それは来世かもしれないんだけど。
だから人に無理に教えてあげなくてもいいんだ。
単にまだ経験したいというだけなんだ。
時期が来ると自然に話してあげる運びになったりするんだ♡
新型コロナウイルスの院内感染防止に成功した漢方薬、荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)を広めております。先生の論文も出ております ↓