丸顔おばさんのブログ

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パワハラ撃退にはコツがあるのよ♡おばさん~嫌な人との付き合い方 :②パワーハラスメント☆Dr.Yさん

2021-07-11 16:22:54 | Dr.Yさんの心のお話
職場でパワハラやいじめにあったらどうするか。
最近は「マウントをとる」なんて言葉が一般化してきて、
以前に比べると「人の優位に立とうとするヤツなんてアホだ、ダサい」という認識がみんなに根付いてきたかなって気がする。


こいつの功績だなw
「麻生 マウント」でツイッター検索するといっぱい出てくる。
こんなやつはみっともないという意識が人々の間に根付いてきた。
こんなふうにあいつらも、マイナスの形で、人々の意識向上に貢献しているのかもしれないwと思う今日この頃。

仕事にかこつけていじわるしてくる上司というのが必ずいるもんだけど、ちょっともう、そういうの恥ずかしいって感じになってきたかな?

おばさんは仕事でのパワハラ対策のポイントは2つあると思っている。
1、業務の責任に焦点をあてること
2、戦いから降りていること

この2点だ。

Dr.Yさんのパワハラについての動画より引用させていただきます↓

嫌な人との付き合い方 :②パワーハラスメント
動画説明欄より、一部を引用させていただきます。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。

もしもDr.Yが上司からパワハラを受けたとしたら、どうするでしょうか?
模範解答をお示ししましょう。 
教育的な指導で最も大切なことは、相手のやる気を引き上げる事です。その次に大切なことは、知識や技術を教えることです。
問題点を指摘して、どのように改善すべきかということを共に考えていく姿勢は、指導者にとってとても大切なことです。 教育的な指導で絶対にやってはならない誤ちは、相手の問題点を指摘して、それを批判して、相手の人格を傷つけるような発言をして、相手のやる気を削ぐような態度です。
〈おばつぶやき〉
これもね~。露骨な場合はそう言えるんだけどね。実際は、相手はきわどいところを狙っていじめてくるはずだ。
おばさんの経験を書いておこう。
おばさんは、若いころ、語学教師をしていたことがあった。
そのとき、一つのクラスをわたしと、ベテランのおばちゃん先生2人で担当していたんだ。
この時点ですでに波乱の予感だろう?w
もちろんベテラン先生が担任でリーダーで、若かった私が補佐的にたまに授業するって感じなんだけど、経験の浅いおばさんは、教え方がまずいってクレームをつけられるわけだ。ベテランから。
それですいませんって言うんだけど、それからベテラン先生は生徒たちに私の悪口を吹き込んでいたようだ。
こんないじめもある。

なぜこんなことをしたのか。
ベテランおばちゃん先生になりきってみるとわかる。
ベテランおばちゃん先生は、若くて経験が浅い私が足手まといであったわけだけど、そのくせ若かった私は生徒と年が近く、仲が良かったんだ。
打ち解けちゃうんだな。若者同士。話も合うしな。
ここがベテラン先生は気に食わなかったんだと、今になってみると思う。
きっと若いときの、きゃぴっとしてた経験の浅いおばさんばかりが生徒と仲良くて、自分が尻拭いしてやってると思ったらむかついたんだろうな。
それで悪口をふきこんで、私が授業をしづらいように仕向けた。

その職場はほかにもいろいろ問題があって長く続けられないなと思ったから、ほどなくして辞めることに決めた。

辞めた後、元同僚に会って、話す機会があったんだけどね、私がやめたあと、その学校、ものすごく雰囲気が悪くなって先生同士がもめて険悪になってしまったらしい。

今のおばさんには、その理由がよく分かるんだ。
そこの学校はね、業務の責任の範囲がめちゃくちゃなの。
ひとつのクラスを2人3人で担当してたわけだ。
この時点ですでに責任がごちゃごちゃしているだろう?
さらに今日の授業でどこまで教えられるか、そんなのも予定はたてるけど、予定通りいくとは限らない。
さらにどのくらい生徒に定着させられるか、これも先生の力量によるから、予定通り教えたけど、あんまり定着してない、なんてこともあるんだ。

そうすると当然、先生同士お互いに不満をつのらせるわけだ。

だから、業務の責任があいまいな職場って、雰囲気が悪くなっちゃうの。
そういうもんなの。

業務の責任がきっちりしてると、同僚がどんなにアホでひどいやつでもあんまり気にならなかったりする。自分の責任果たしたら、それでOKだから。べつにそれ以上無理に親密につきあう必要もないし。

だから職場の人の人格的なことが許せない場合、もしかしたら業務の責任の範囲があいまいなせいかもしれないんだ。

これは、人の心がそういう法則でできていて、物事をつくっているからなの。

業務の責任を明確にして↓、それを各々が責任を果たせていたら円満♪


業務の責任があいまいで↓、人の仕事の責任をとらされたり、また自分の責任の範囲に口出しされたりする状況だと、職場は険悪。


この状態で、文句いわれても、そりゃ、業務がうまく回らないのは当たり前なの。
例えば業務の範囲がどこまでなのかあいまいだから、人に尻拭いしてもらうことも起きる。最初から、明確にしてないんだから、そんなの当たり前なの。
そこで「おまえは仕事ができない」と言って部下を批判するのは部下がかわいそうなの。すじちがいなの。

で、むかつく上司や困った同僚は、いつの人格うんぬんというよりも、
業務の責任の範囲をきちんと話し合って決めることで、あっさり解決することもたくさんあるんだ。

この記事↑に「ひきこもり」を例に書いたんだけど、その人が選択して決めたことは、その人が全責任をとる。ここに手出し、口出しするとトラブルになる。これが支配の正体なんだ。
仕事の場合は、これを「業務の責任」に焦点を当てて考えるんだ。ここを話し合うだけだ。これがちゃんとできてない職場が多い。

この業務の責任の範囲を、ひとりひとりとコミュニケーションをとりながら適切に割り振りできるのが、よい上司ということになる。
また部下のほうも、業務の量や範囲に無理がないか、自分から言えないと、トラブルになる
ぜったいムリとわかっていて歯を食いしばって「オレの実力を見せてやるぜ!」などとやってはいけないw(上司にむかついているとやってしまいがちだ)
早めに「きびしいです」と言っておく。相談をしておく。
でないと、だれかに迷惑がかかるわけだ。それがまたトラブルの芽となってしまう。
面倒見の悪い上司であれば、なおさら自分から早めに言ってダメだったときのことを決めておいた方がいい。

それでね、おばさんのかつての職場の話に戻るけど、業務の責任の範囲があいまいな職場っていうのは、みんなが自信がない職場であるともいえる。
みんなが責任をとりたくない。
だから無意識にみんなが責任をあいまいにしている。。こうも言えるんだ。
で、あとでもめてトラブルになる。

だから私も若くて経験が浅かったから自信なんてもちろんなかったけど、他の先生たちも似たような感じでなれ合っている、なんともまだろっこしい職場であったと、今となっては思う。
そういう職場にいても、どうせ伸びないんだ。
無理のない適切な業務量を任されて、きちんと責任を果たしていく→果たせました、やったー!
この繰り返しで人は伸びていくんだ。

だから、私のいた職場は、業務の範囲があいまいなのが、それが学校の方針って感じで変えられなかったから、はやめに辞めてよかったわけだ。
案の定、後日談を聞くと先生同士仲が悪くなって、みなさん実力を伸ばすどころではなかったわけだ。
だいたい、生徒に私の悪口を言って、自らクラス運営を妨害していたわけだからな。破滅するに決まってるw

こんなのも仕組みがわかっていれば、こういうことが起きていて、やめてよかったんだ、しかたなかったんだと思える。

でもここがわからないと、いつまでも挫折、失敗として心の傷になってしまうこともある。自分がだめだったのだと自信がもてない状態で何年も過ごしている方もいると思うんだ。
あるいは元上司を恨み続けたり。
しかしそういうことではないと私は言いたい。

仕事でのパワハラ対策のポイント1つめ
業務の責任に焦点をあてること

とはそういうことだ。

ブラック企業で過重労働を押し付けられたときの対処法を書いたよ↓
これも基本は「業務の責任」に焦点を当てることだ。

Dr.Yさんのお話のつづき↓

そのような態度を取る人は、人の上に立ち、人を指導する能力が欠如しているため、管理職としては失格だと思います。 今の自分の態度を心から反省して、今後の行動を改めてください。それができないようであれば、貴方のような人材は、組織にとって有害無益なので、自らこの組織を去ることをお勧めします。私ならば、そのように忠告します。 
〈おばつぶやき〉
うん。いじわるな管理職。業務の責任の割り振りなどに問題がなくて、そんな態度なら、、おばさんだったらほっとくかな。
たいてい仕事にかこつけていじわるしてくると思うんだよな。
てことはたいてい、業務の責任の範囲、割り振りという問題が隠れていると思うんだ。
「指導する能力の欠如」ってのも、部下がきちんと責任を果たせるようにしてやれてないってことだ。
果たせない責任を押し付けて、それで果たせないと「バカだ、ダメだ」といじわる言ってくのだとしたら、それは、自分自身が業務の責任の割り振りが適切にできないダメ上司だということだ。


(中略)
ああ言えばこう言う、矢継ぎ早に正論が口から溢れるように訓練することは、とても難しいことなので、このような正攻法は多くの方々にはお勧めできません。  
〈おばつぶやき〉
それで、部下のほうがパワハラだとキレて、上司の人格的なことを批判始めるのもまた、

こうなっちゃうだろう?
戦うと支配関係に入っていくだろう?
上司の人格や頭の中は、上司の自由だからな。。どんなにゲス野郎だとしても。
だから私は業務の責任以外の人格的なことや道徳的なことは極力言わないの。


その上司とおんなじことやってることになる。
で、嫌な人とくっつくことになるの。支配関係で。

上司が私を「バカ」と言おうが「仕事できない」と思おうが相手の自由だと発想するの。

で、業務の責任をきちんと明確にして果たせているならば、そういうことを言われる理由がそもそもないから、仮に言われてもあんまり気にならないだろう。
すると相手の自由を認める感覚になっていく。



こんなふうにちょっと離れて、相手を認めてる感覚ね。
こういう感覚って相手に伝わるから、心の中でくそーって批判してると、相手に伝わってるのw
で、どうでもいいやと思ってると、その楽な、相手を認めてる感覚も伝わってるの。
そうすると、問題が勝手に解決しちゃうなんてことも起こるんだ!

それに業務の責任を果たせている人にパワハラ的なこと言うのは、さすがに筋が通ってないから、上司もあんまり言わなくなるだろうしね。
周りの人にもおかしいとわかるからな。

だから、私なら、上司に物申すとしたら、「業務の責任を適切に割り振ってくれ」という話ならするな。
そこが話し合えない職場は、改善の余地がないし、自分のためにならないから、早めに離れた方がいいと判断するな。

(中略)
一般的な対応方法としては、人前で叱責された時には、「はい、今後は気をつけます。」神妙な顔つきでそう答えるしかありません。
お説教の時間が長い時には、「すべき仕事が残っておりますので、そろそろ失礼します」そう言って切り上げましょう。
「まだ、言いたいことがあるのに、途中で逃げる気なのか?」そのように言われた時には、「上司のお説教も大切だと認識しておりますが、就労時間内には、それよりも大切なことが色々ありますので、ご理解ください」そう言って切り上げましょう。 
その後もまた、人前で叱責される機会がありましたら、「お説教であれば、手短に簡潔明瞭にお願い致します」そのように話した後で、叱責に耳を傾けてください。 
「今日は、これで良い、早く仕事に就け!」そう言われたら、「今回は簡潔明瞭でとても助かります。今後ともこのように、手短にお願いします。」と返答してください。 
「お前は、俺を馬鹿にしているのか?」と言われたら、「とんでもございません。上司がどのようにお感じになられたのか察することはできませんが、私は自分の考えを正直に申し上げただけでございます。それでは失礼します。」 このように対応するうちに、「こいつを虐めても、面白くも何とも無い、かえって不愉快になる。
馬鹿馬鹿しいから、虐めるのはもう辞めよう!」そう考えるようになります。 相手の過ちを指摘して、それを力強くで変えようとしても、相手を変えることは絶対に不可能です。
〈おばつぶやき〉
もうひとつ、おばさんの経験した話。
営業をしていたときがあった。これはまた語学学校とは全然ちがってな、
ひとりひとりが自分の売上成績をあげるために自分のお客に取り組んでいるから、業務の責任の範囲という意味で言えば、きっちりすっきりしていた。
だから同僚同士はとても仲が良かった。
トラブル起きようがないからな。それぞれが自分の仕事してて、失敗も自分でリカバーするしかないという状況だったから。
仲良く励まし合って、アフター5はいっしょにお酒のんで発散する感じだった、、

しかし営業の場合はな、上司が「売上をのばせ~」と圧力をかけてくるのがつねだ。

営業の「業務の責任」とは、契約や売上をとってきてなんぼだからな。

そこを言ってくる。でも取れないときは当然あるわけだ。

そこでときに、「強硬なことをしてでも契約をとってこい」と強要してきたりするのね。取れないといじわるしてきたり。そこで、パワハラだ!となったりするw

この営業の職場の上司たちは爬虫類脳炸裂タイプが多かった。
参考:

こいつらはパワーや馬力はすごいんだけどね、暴君的なのね~。
むちゃくちゃなこと強要する感じ。
人格否定もむちゃくちゃであんまり筋が通ってない感じだ。勢いだけで、もうどうでもいいのね。契約さえとれれば。

語学学校や事務職の上司は、左脳タイプが多かった。理屈で支配。
仕事にかこつけて一理あるかもと思うことを言ったりやったりして、陰湿だ。

外に出て、獲物をとってくる営業の仕事と、ウチにこもって頭脳労働する仕事で支配のタイプが全然ちがう。

爬虫類暴君タイプのパワハラ上司は、おばさんあんまり気にしてなかった。
だって筋が通ってないこといってわめいてるだけだったからさw
勢いはすごいんだけどね。

で、「業務の責任」も、契約とってくることだけど、どうしようもないときは仕方ないからな。反対に取れるときには、取れなかったときの分をリベンジしたりできることもあったしな。
そして、取るためには日ごろからの仕込みや種まきが大事だから、上司にちょっと手伝ってよって逆にこき使ってたw
おまえ、うるさい!、ちょっとこれ手伝ってってw
いや。じっさいには「売上を伸ばすために、今これを仕込んでいるんですが、どなたか人手をまわしてもらえませんか」ってかわいく言ってたかな?

で、つまり、なにがいいたいかというと、契約を取るという「責任」を果たすためになにをしたらいいかの目的に集中してればいいの。
そのために仕込みをすることのほうが、へんなパワハラのお話聞くよりもよっぽど大事だから、無視したり、聞こえなかったフリしたり、トイレいっちゃったりwしてました。
トイレは、いいよ。「ちょっとすいません」って漏れそうな感じを出せば、「行くな!」とはいえないからな😜
そこで、支配から外れることができる。こういう戦いから外れる小技も大事だw

で、本当に大事な話なら、威圧やイライラからいったん外れて、お互いに落ち着いてから話し合った方がいいの。
「すいません、さっきの件なんですが、よろしいですか?」って、気分を変えてから穏やかにいったほうがうまくいく。

だからおばさんは不快なときは、迷わずトイレいっちゃうのw


しかし、相手の期待を裏切り、相手の誤ったネガチブな企(たくら)みのやる気を挫くことは可能です。そのためには、相手の期待通りの反応をせずに、相手の叱責に対して、「どこ吹く風」という態度で対応することです。 
言い返せば角が立ちます。無視しても角が立ちます。感情的になって怒ったり落ち込んだりしたら、相手の思う壺であり、相手は益々エネルギーを得て、攻撃を強めて来ます。 「なんだこいつ、変な奴だ!何考えているか分からない。馬鹿馬鹿しいから、相手にするのは止めよう!」そう思わせる事ができたとしたら、こちらの勝利です。ですから、どんなに無視されても、いつも笑顔で対応しましょう。


ああ、そうね。仕事は業務の責任を果たせるかどうかがすべてだから。
それだけちゃんとしてれば、あとはどうでもいいのよ。そもそも。
果たせない責任を押し付けるやつが悪いの。
問題を回避したいなら、自分から、ムリかもしれないって相談するだけなの。

これも「相手に認められたい」とか、「できるやつだと褒められたい」とかいう気持ちが強いと言えなかったりするの。そういうの、捨てちゃった方が、結果的に円満になって仕事ができるようになるの。

上司の人格もどうでもいいの。
私の仕事の能力だって、業務の責任が適切でないから、発揮できてないって可能性が高いからな。自己卑下も全然いらないの。

なんてシンプルなんでしょう。

だから、戦う必要なんて、そもそもないのね。

ここさえきちんとしたら、上司の人格や生き方に口出しすることも不要だし。
相手の自由だし。

で、こんなふうに戦いから降りていると、安全なんだ。
すると、言いたいことが言えるのねwかえって。

これが、
仕事でのパワハラ対策のポイント2つめ。
2、戦いから降りていること

腹に一物あると、言えないんだw
戦ってると、恐怖があるから、言いたいことが言えないの。
戦いから降りると、安全だから、いいたいこと言えるの。
戦いから降りた方が自由でいられるのね。

むかつくんだけど、原因はこんなことなんだ。
業務の責任の範囲がめちゃくちゃなせいがほとんどだ。

業務の責任があいまいな状態でなれあっている。
そういう羊の群れみたいな職場も多いだろう。

責任があいまいなせいで業績も伸びず、トラブルが多いのに、そこをちゃんと見ようとせず、酒飲んで上司の悪口を言うだけ。こんなのも多いだろう。
不毛だな。

でも業務の責任をきちんとすることで問題解決するなら、よい。見込みアリだ。

そういうことが叶わない職場もある。



国家権力から犯罪を強要されたらどうするかな。
やっぱ辞めるね。わたしなら。
責任の法則に照らしても。おそろしいもん。
やっちゃったら、改ざんを自分が選択したことになってしまうもん。
いくらあべの犯罪であっても。

だから赤木さん心を病んでしまったわけだ。
「自分が選択して決めたことは自分がその結果を負うことになる」
改ざんに手を染めると自分が選択したことになってしまうんだな。
いくら悪者に強要されたとしても。

私はこの法則で物事がうまくいったり、トラブルになることを知っているので、もはや無視して相手の自由を妨げたり、自分を相手に支配させたりすることができないんだ。つらくなるのは明らかだから。

こんなふうに、かなりすごいレベルの支配の職場もある。


こんな態度もさ、べつに政治家でないただの人ならどうでもいいんだけど、
国民、つまり私たちに対して犯罪犯してるわけだからね。
そこを突かれるたびに、マウントをとることに一生懸命になっちゃうわけだ。
すると、お顔がだんだんこんなふうになってきちゃうのね~。

支配も犯罪を強要するほどのレベルになると、こうなってしまうんだな。

きたないやつらには関わらないと選択することだ。


そして「悪いこと、やってるだろ~」と言い続けることだ。
国民の財産である公文書を改ざんしたということは、
こんなふうに支配者に、我々の権利をおかされているということだ。
だからそういうヤカラをなるべく頼らない、アテにしないことだ。
良心などには期待しないことだ。

これに比べたら、仕事で業務の責任に焦点を当てて、ひとりひとりの責任範囲をきちんとすることで、円満になるのなら全然大丈夫だ!


あいつらは、もう・・・

こういうレベルだ。。。
東スポだけどさ、東スポと日刊ゲンダイくらいしか、今こういうの書けないもんな?w

やっぱ、詰んでるんだな♪あべちゃん。


あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」のブログ記事一覧-丸顔おばさんのブログ、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。


組織を変えることは、案外カンタンな場合もある♡おばさん~ミャンマーの民主化を願い:組織の意識を変えることの難しさについて☆Dr.Yさん

2021-04-24 20:35:41 | Dr.Yさんの心のお話
ミャンマーの民主化を願い:組織の意識を変えることの難しさについて
動画説明欄より転載。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。

ミャンマーでは、国軍によるクーデターが起こり、その後混乱が続いています。民主化を求める市民がクーデターを非難してデモを行い、それに対して国軍と警察が市民に向かって発砲し、多くの市民が犠牲になっています。
〈おばつぶやき〉
わたしもこの件をけっこう書いたけど、あれからまた犠牲者がたくさん出て、昨日スーチーさん側がまき返しをはかっていると、記事が出たね。
2021年04月23日10時01分
【バンコク時事】ミャンマーのクーデターで権力を握った国軍に対抗し、民主派が樹立を宣言した「統一政府」は22日、ミン・アウン・フライン国軍総司令官がデモを弾圧し、多数の死者を出したとして、国際刑事警察機構(ICPO、インターポール)に逮捕への協力を要請した。 

結局、スーチーさんもDSだし、中国共産党が乱入してきているし、国軍の残虐性は相変わらずだし、悪い人たち同士の戦いになっている。
それに国民が怒って立ち向かうので、殺されてしまうという痛ましい状況になってしまっている。

人を殺すことは良くないという教育を受けているはずなのに、なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか? 
 この大きな理由として、ミャンマーで軍人や警察官になっている人たちの
①質の問題と、②意識の低さの問題の2点が挙げられると思います。
 質の問題とは、彼らの中には、利己的で権力欲が強く感情的になりやすい未熟な人間が多いという意味です。
そして、意識の低さとは、反対意見の人間は武力を行使して排除しても構わないという考えを持っているという意味です。
  努力して他人を踏み台にしてでも出世して、権力を手中に収めた人間は、そう簡単に権力を手放すことはしません
〈おばつぶやき〉
軍人、警察官たちね。そういう感じか。
ひとことで言っちゃうと、「自分が生き残り、のし上がるために、他人を暴力使ってでもやっつける、戦っている」って感じの意識か。

言うことを聞かない人間は武力で排除しても構わないと思っている集団の意識を変えることは、至難の技です。
このような状況の中で、ミャンマーに民主国家が誕生し、平和な日々が訪れるまでには、かなり長い道のりを予想しなければなりません。
  平和な日本で生活している私たちには、ミャンマーの人たちが、平和的な解決で良い方向に向かうことを祈ることしかできませんが、改めて戦後の日本という極めて恵まれた環境に生まれたことに感謝しなければなりません。
  本日は、教育の本質である、意識を変えることとは何か?ということについてお話ししたいと思います。
  世の中には、「人としてどう生きるべきか?」ということよりも、「自分の立場を守る」ということを重視して行動する人が大勢います。
  政治家は皆、国民のための政治を心がけると口にしています。あたかも国民の幸せを願って行動しているかのように見えますが、国会議員としての「自分の立場を守る」ために行動している場合が殆どです。苦労して得た地位や特権を手放したく無いので、「自分の地位を守る」為には命をかけたとしても、「自分の命に引き換えてでも、国民を守ろう」などと確固たる信念を持って政治家を目指す人は殆どいません
〈おばつぶやき〉
ガースーは利権まみれですごいしなw
ほとんど893の世界。。
これ以外にもいっぱいあるしな。もう書ききれない。
ガースーはDSのしたっぱだからねぇ。
つねにDSに脅されて、そんな自分を守っているわけだ。

国会議員のみなさん、ほぼ全員そうだもんね。右も左も、あいつらのいいなり。
Aチーム、Bチーム分かれて、やんややっているだけの茶番国会。
結局あいつらのお望みどおりに事が進むようにシナリオを決めている。
あいつらからの指示は、月二回の秘密会議で、官僚に直接下っている。
逆らえないから、みなさん自分守ってまーす。

その証拠に、人目につかないところで、国民を裏切り、自分に利益をもたらすような取り引きをします。
〈おばつぶやき〉
政治家は金と強力な支持者が必要だからなw

それが明るみになると、知らぬ存ぜずという言葉で巧みに交わそうとしますが、週刊誌にすっぱ抜かれ、もう言い訳できないと判断すると、ようやく自らの非を認めて謝罪をします。
  そのように、「自分の立場を守る」ということが目的で、仕事をしているのは、政治家だけではありません。警察官であれ、自衛官であれ、様々な職業に従事している人の殆どが、自分の職務を全うすることで、自分の役割を果たしています。
その背景には、「自分の立場を守る」という意識が働いているのです。自分の立場を守り生活を安定させるために、たとえ上司からのパワハラがあったとしても、我慢して仕事をし続けている人たちが大勢います。
〈おばつぶやき〉
そうね。あいつらに逆らうと消されちゃうからねぇ。
言うこと聞いてると、甘い汁を吸えるわけだからねぇ。

  このように、「自分の社会的な役割」と「人としてどう生きるのか」という方向性が、同じ方向に向いている場合には別段何も問題にはなりません。しかし、「所属する組織の進む方向性」が、「人として進むべき道」と一致しなくなった時に、その人個人の、人間性の真価が問われるのです。「組織の進む方向」が間違っていると感じた時に、「組織の進む方向に異議を唱えて離職するのか?」「組織の改革を訴えて左遷されてしまうか?」「それとも、自分の立場を守ることを優先して、理不尽と思いながらも上官の命令に従うのか?」このような厳しい選択を迫られることになるのです。
〈おばつぶやき〉
「人としてどう生きるか」、かぁ。Dr.Yさんらしいなぁ。(お会いしたことないのにねw)
私、思うけど、組織で働いていて、こんな目にあったら、やつらのそんなメンタリティを頭に入れつつも、業務の責任に焦点を当てて、相手に責任を突きつけたり、責任を返したりの主張をすべきだと思うの。

私の身内が、数年前、過重労働に苦しんでいてね。どう見ても不可能な量の業務を押し付けられるという状況でね。私、言ってやったの。
「ここまではできるけど、これ以上は責任をとれません。できません」と上司にきっちり言ったほうがいいぞと。それやると会社が赤字になるとかごにょごにょ言ってたけど、結局言ったのね。やつは。ムリなもんはムリで、そのままにしてても問題になるのは分かりきっているから。
言っておくってことが大切だ。そして案の定、仕事がやりきれなかったときに、「自分はあのとき『これ以上はムリだ』と言いました」と主張できる。
つまり、業務の割り振りを適切にできなかった上司に責任を返すことができる
言っとかないと、自分が案の定仕事をやりきれなかったときに、全部自分の責任にされるだろう?
この場合、業務の責任の割り振りというのがテーマで、これをやるのはヤツの上司だ。よって上司に責任がある
だから上司に責任を返す必要がある
ここまでレクチャーしてあげたの。

そのための主張をしないで自分が理不尽に責任をとらされたら不満なわけだけど、言わないのも悪い。言えないで不満を貯め込み、陰で文句を言う人が多い。こういうのを犠牲者意識という。
たしかに組織とはピラミッド支配だ。でもそれは業務の指示系統がそうであるだけの話。人としては対等に主張すべきはしないとダメなんだ。
こういう人の多い会社は問題も多いから、わたしは取引したくないんだ。ちょっと社員の人と話すとすぐわかるものさ。

この例では業務量が適切かどうか、部下たちと話し合って、采配する責任が上司にはある。それを「有無を言わさず、不可能な量を押し付ける」というのが問題であったわけだ。

それで結果、彼は上司に言ったよ。そしてスッキリしていた。
それは自力で理不尽から抜けられたという満足感。
自分で問題解決できたという自信。
こんなにカンタンだったのね~という喜び。
いろいろだろうけど、言えたことで、いろんなことがうまく回り出したみたい。
周りの同僚も影響されて、みんなが少しずつ主張し始めたのか、職場が変わり出したみたい。あ、言っても大丈夫なんだ~とみんなが分かるのね。
そうすると社員同士、心が通うのね~♪
そしてそいつは他の場面でも自分から率先して相手に働きかけられるようになったのね。
おばさんはその好転していく様子を見て、言ってやってよかったと心から思った。

根っからの悪いヤツではなかったんだな、上司は。
単に業務の割り振りのやり方を知らなかっただけという場合もある。
もしその人が、理不尽でもなんでも押し付けてくる上司としか出会ったことがなければ、知らないだろう。上司としての仕事のやり方を。
そして周りの同僚たちも素直ないい人達だったのだろう。
こんなふうに理不尽な目にあったら、まず業務の責任に焦点を当てて、話合ったり主張したりしてみることだ。組織においては
それだけで改革できちゃうこともけっこうあるの。
彼の周りは快適になったことだろう。
また影響された人が人事異動などで、他へ行ってもそうするだろう。こうやってじわじわと組織自体をよくすることができる。
社会貢献だな。
これを上司に最初にやるのは勇気がいる。でも、怒って言うのではなく、業務の責任と自分のハートを感じながら話すと案外争いにはならないんだ。
(この話合いもできない人は相当な支配者で話し合える余地がないから、ちょっと無理ということになる。試しに主張してみることで、そこに居続ける価値があるかどうかの見極めもできる。)
むしろ、これは上司のことも守っていることになる。業務がやりきれなくて、最終的に責任をとるのは上司なのだから。だから感謝されるかもしれない。うまくいけば頼りにされる存在となるだろう。

こうして人望を得ることにも繋がっていく。べつに好かれようと意図などしなくても、自然とリーダー的になっていく。自分の意思で適切に働きかけて問題解決できちゃうわけだから。従っているだけの人とは違うわけだ。
みんなに頼りにされ、みんながついてくるだろう。いばる必要なんてないのだw
彼は今、ハッピーだ。でもどうしてハッピーなのか、本人は深くは理解していないようだ。ま、いいかw

理不尽な組織でどうするか、というのがテーマなわけだけど、
この例のような理不尽を部下に押し付ける上司は、そのまた上の上司との関係性も、話し合えずに、一方的に従う関係であることがほとんどだ。
つまり、自分より強い者の前では犠牲者的な犬として生きている人ほど、弱い者に対しては暴君であるという法則がある。
これは仕事だけでなく、夫婦関係も親子関係も全部そうなっているはずだ。
(だからおばさんは、その人の言動を見ると、だいたいその人の人間関係や人生が見えてしまうんだ。)

だから理不尽な場面とは、会社組織であっても警察でも軍でも夫婦関係でも親子関係でも親戚関係でも、きつい支配関係に陥っているということだ。
そういう意味では切り崩す方法も同じだ。
この例は話し合える人だったから成功したけれど、ミャンマーの軍や警察ではムリだろう。よって、離れるしかない、どうしようもない組織ということになる。

  正義を貫くために、理不尽な組織から距離を置き、家族に不安定な生活を強いるのも辛いことです。愛する家族の平穏な暮らしを守る為に、上官の命令に従い人として許されない行為をするのも憚れます。どちらを選択しても厳しい現実が待ち受けています。そこが運命の分かれ道なのです。
〈おばつぶやき〉
組織を抜けても、また別の組織に入るか、独立するか、するわけだ。
責任を適切に主張することを学ぶことなく、犠牲者意識のまま独立したとしても、あまりうまくいかないだろう。
今度は自分ひとりで仕事を取ったり、お客さんを獲得したりするわけだ。犠牲者意識のまま独立しても、おそらく自分が我慢する、とか、自分を犠牲にするやり方しかできないだろう。
そういう意識だと例えば、大きい会社の下請けでまた我慢するとか。そこの会社の体質が支配的であればまた犠牲になる。
商売をするにしても、自分の意思や感性で創造性を発揮して儲けたり、価値を創造するよりも、コスト削減や自分が身を粉にして働くような儲け方になるだろう。従業員や家族も犠牲にするだろう。
人気・高級店路線よりも、激安&重労働って方向にいきやすいだろう。
だから犠牲者意識から抜けてから、対等な関わりを学んでから独立してほしいものだと思う。
単に“業務の責任について、自分が責任をとれるかどうか言うだけ、話合うだけ”なんだけど、それができてうまくいくと、もう相手の人格や組織が理不尽だとかという次元から抜けられる
単に自分が言うだけで、問題解決したら、もうその問題は消えるから。

そしてこういう人は他の人間関係でも愛の関係を築けるので幸せだ。
支配から抜けると、愛もお金も手に入るように、できている。
これは自然現象だ。頭で考えてやらなくても自然にそうなる。

犠牲者意識のまま独立しても、どうせ同じだ。この感覚で、一人ですべてやらなければならないのだから、組織にいたときよりももっとつらいだろう。

人は自分の行動パターンに気づいて変えていかないと、どこでも誰と何をしても同じパターンで動いてしまうものなんだ。

だから本当は、独立や成功やお金をかせぐにあたっては、資金繰りとか採算がとれるかの現実の問題ももちろん大事だけど、それをやるベースとなる意識が大きく関係しているということだ。私はそこから取り組んだほうがいいと思うの。
意識が変わっちゃうと見えてくる景色も変わってくるの。こんなこともできると気づいたり、いつのまにか無意識のうちに能力発揮していたり自分の本来果たすべき役目を果たしていたりする。
だからあんまり頭で考えなくていいの。
思考はあんまりおりこうじゃないからさ。
できるところからやるだけだもん。いきなり会社でムリなら、夫婦で役割や責任を話し合うことから練習したっていいんだもん。
こんな小さなことだけど、成功の種まきをしているようなもんだ。

親子関係においては、子どもに過干渉という支配をやめることで、こどもとも支配関係から愛の関係にシフトさせることができるから、引きこもりなどの問題の解決にも繋がる。
これも親が犠牲者意識から抜けることが大事なの。自分犠牲にしてると、子どもも犠牲にしちゃうの。知らず知らずのうちに、こどもを否定していたりするの。それに親自身がきづいていなかったりするのね。本当は親が自分自身を否定しているだけなのね。問題解決と能力発揮できない自分を分かっていて、責めているから自己否定しちゃってるのね。その感覚でこどもにも接してしまっているのね。
責任を、言うべきを、主張できるようになって、自分を解放してあげても大丈夫なんだと悟ると、子どもも解放してあげられるのね。

親がこんなふうに支配から抜けて愛を知れば、そのように子どもに接するから、子どもも発展し、伸びていくし、人とも愛の関係の築くようになる。

ぜーんぶ繋がっているんだ。

 そのような複雑な事情を考慮したとしても、ミャンマーに於いて、自分の社会的な立場を守るために、理不尽と分かっていても、上官の命令には逆らえずに、市民に対して銃口を向ける警察官の、意識の低さには驚き呆れてしまいます。

  自分の立場を捨ててでも、周りの人の幸せのために生きることができるほど、優しくて意思の強い人は、哀しいかな、日本人の中でもほんの一握りしかいないと思います。そのような人は、国のために一所懸命働きますが、偉くなりたいとは決して思わないものです。 
 日本の自衛官や警察官は、「国民を守るために自分たちは職務を遂行し、国民の税金で給料を支払われている」という根本的な考え方がしっかりと身に付いています。しかし、ミャンマーの軍人や警察官は、「権力を握った軍隊や警察が支配者であり、それに逆らう者は治安を乱すものであり、武力を持って排除すべきである」という意識を持っています。そこにミャンマーの社会と日本の社会の意識の差ということになるのです。
〈おばつぶやき〉
軍や警察、政治家などは、会社とはまた違うわけだけど、国や国民を守ることがお仕事なわけだから、国と国民を愛している人にやってほしい。
それが仕事のモチベーションであってほしい。
けれど、そんな方はどのくらいいらっしゃるのだろう。

おばさんは昔、会社で営業をしていたことがある。警察のお客さんもいた。一般企業にもお客さんがいた。
おばさんの経験だけど、警察のお客さんのなかには、おばさんのような営業を人間として扱わないような人もいた。人前ではとってもいい人なの。でも一対一になると、本性が出るのね。欲張りな面や意地悪な面をいきなり出してくるから、若かったおばさんはびっくりしたものだ。汚いものをいっぱい見てしまったけれど、人間というものを学ぶにはいい勉強にはなった。
一般企業にも多少そういう人はいたけれど、警察のほうがそういう人の割合が高かったの。
やっぱり一般人を取り締まる立場だから、自分たちを人よりも上だと認識しているのだろう。そういう方たちは。
これもまた支配の意識だ。
これが暴走すると、壊れていく。その人自身も巻き込まれた人も。
政治家などは、国民を巻き込んで、「破壊」をやっているわけだ。迷惑な話だ。
彼らは民衆よりも自分が上だという意識でいる。
だからDr.Yさんのおっしゃる、国と国民を守るなどという意識とは程遠いわけだ。
ということだから、上から目線の支配者から離れて自分を守るためには、こちらも犠牲者意識から抜けることが大事なんだ。従うことではないんだ。それだとヤツラと一緒に破滅なんだ。

政治家のみなさんはDSの走狗だと、おばさん毎日にように書いているけれど、それ以前にこういう意識がある。この意識あってのDS走狗なんだw
一家代々政治家の人は小さいときから、そのような意識を植え付けられて育っているだろう。親もまたものすごい支配者であると同時に、卑屈な走狗だ。そんな親に育てられているから、彼らは愛を知らない。
もちろん国も国民も愛していない。
そういうヤカラを我が国の支配者にしたのは、もちろんあいつら!w(あ、またいつもの話になってしまった。。。)

  集団の意識を変えることは、そう簡単にできることではありません。 会社組織には、自分たちはどのような気持ちで仕事をするのか?という会社なりの意識があります。それは、スタッフの仕事に対する情熱や責任感という言葉にも置き換えることができます。
  終業時間が来るのを待ち侘びながら、ダラダラと仕事をとこなし、できるだけ楽をして給料が欲しいと言うスタッフばかりの会社もあります。それに対して、会社のためにそして、お客様のために、チーム一丸となって真剣に努力している会社もあります。前者のような消極的なチームを、後者の積極的なチームに変えることは、不可能に近いと思います。
 例えば、モチベーションの低い組織に、やる気のあるスタッフを1人加えても、その人は浮いた存在として周りから煙たがられ無視されてしまいます。折角入職したやる気のあるスタッフは、遣り甲斐を感じることができず、馬鹿馬鹿しく感じて、その組織を去っていきます。
  伸びてゆく組織は、仕事に対する意識が高く、意欲的な人が入職して定着し、やる気の無い人が息苦しくなって去っていきます。さらにやる気のある人が入職し、やる気の無い人が去るということを繰り返して、組織はどんどん成長します。
  逆に、落ちてゆく組織は、仕事に対する意識が低いので、意欲的な人が入職しても直ぐに辞めてしまい、やる気の無い人が残っていきます。さらにやる気の無い人が入職し、やる気の有る人が去るということを繰り返して、組織はどんどん堕落します。
  そのような堕落し腐敗した組織を改革することは困難を極めます。むしろ一度組織を潰してしまい、新たにやる気のあるスタッフを採用して、新規に会社を始めた方が手っ取り早く、良い組織を作ることができるのです。
  ですからこのように、堕落し腐敗したミャンマーの軍隊や警察を、一朝一夕に改革することは、困難なのです。
〈おばつぶやき〉
そうだろうね。どうせそんなぐーたら組織は業務の責任というのがあいまいだろう。
押し付け合ったり、責任があいまいだから問題がしょっちゅう発生したり。
上記のような働きかけを試しにやってみて、全然ダメならもう潰れてもらうしかない。
無気力というのは、無気力状態になる前に、闘争の段階がある。
支配でみんなが頭にきて怒っている状態だ。これは子どもの反抗期やヤンキー時代。
日本社会でいえば安保闘争してた時代か?
会社組織でもみんなが怒って戦っている時期があって、それでも理不尽な支配が続くと、人は無気力になっていく。そして絶望していく。そして崩壊。という道筋をたどる。
崩壊してから建て直しが始まる。

今、世界が絶望状態だろう。少し前までは無気力だったけれど、コロナで絶望の段階に来たなという感じがしている。

でも大丈夫。破壊と再生の繰り返しさ、しょせんこの宇宙は。
この破滅直前の状態にどっぷりつかって巻き込まれるときついから、おばさんは日々、注意報を発している。
破壊に向かっているときにみなさんがなるべく巻き込まれないよう、被害が最小で済むよう願っている。

でもこんなときは、支配の意識から抜けるチャンスでもあるんだよ!

尾崎豊 - 卒業 (有明コロシアム)

  日本が第二次世界大戦で敗戦し、軍隊は解散し、国民が一丸となって復興のために努力した結果、今日の日本の繁栄があります。
 ミャンマーも、他国に攻め込まれて、軍隊が壊滅的な状況になれば、国民が一つにまとまって、復興のために努力するはずですから、そこから民主国家が誕生する可能性はあると思います。しかし、貧しいミャンマーに攻め込む隣国はありませんので、そのような荒療治は現実的ではありません。
  それでは、非暴力の民衆運動によって、民衆化は達成できるのでしょうか?権力と武器を手にした利己的で権力欲の強い軍部は、自らの良心の呵責に耐えかねて、権力を民主に移譲する、などと言うことはあり得ないと思います。
権力者の交代の時期は狙い目かも知れませんか、権力者というものは往々にして、自分が権力の座から降りる時には、必ず自分と同じ利己的で権力欲の強い人間にバトンタッチします。ですから、権力者の交代による民主化の可能性は低いと思います。
  ミャンマー市民がSNSを通じて国際世論に訴えかけ、多くの民主主義国家がミャンマーの軍部によるクーデターを非難しています。残念ながら、そんな事は軍部にとっては痛くも痒くもありませんので、そこから解決の糸口を見出すことはできません。
  欧米各国は、ようやく経済制裁に踏み切りました、2011年の前回はそれが功を奏して、軍部は民主化へと方向転換を渋々承諾して、民主政権が誕生しました。
しかし、現在はその時とは状況が大きく異なっています。中国が経済発展を遂げたため、欧米各国が経済制裁に踏み切っても、中国が喜んで支援してくれます
ですから、欧米の経済制裁は、軍部にとっては痛みは軽く、むしろ軍部と中国との利害関係が一致して、中国の思う壺となることから、経済制裁は効果はあまり期待できません。
〈おばつぶやき〉
そうそう。

  残された方法は、賢い国民が軍部に洗脳されることなく、国民全体の意識を高めていくしか方法はありません。若い人たちが積極的に海外に留学して、民主主義の息吹を吹き込まれて帰国する。そして、国民の民主化への意識を高め、民主化に賛成する若者たちが、国軍や警察官に入って中から組織を改革する。これができたとしたら、素晴らしいと思います。

  命がけで自分の立場と権力を守ることに固執する集団と、命がけで国を立て直そうとする集団とに分かれて争う事態に、早く終止符が打たれることを願って止みません。
〈おばつぶやき〉
そうそう。この記事↓に引用した、
この記事で↓
スーチーさんの党の若者が、「結局スーチーさんたちも独裁的だよ」とこぼしていた。「抑圧的な仕組みになってしまっている──軍事支配の頃の制度と変わらない」って。スーチーさん、DSだからねぇ。
海外に留学してもDSのしもべになっちゃう人も多いからねぇ。
むしろそっちのほうが甘い汁を吸えるわけで。。
だから海外留学しようとなにしようと、この分かれ道は、やっぱりその人の意識が決めると思うの。
民主主義を知っているうえに、民主化の象徴だったのに、あいつらから抜けられず、やっぱり独裁的になっちゃったわけだ。

  今の日本は、ミャンマーよりも民主的ですが、欧米に比べれば、国会議員の質は低く、名誉欲と権力欲と金銭欲にまみれ、他人の揚げ足取りが得意な人間ばかりです。第二次世界大戦後、日本では軍政は消失しましたが、国会議員の質は戦前と変わっていないように思えます。命がけで国民を守ろうという政治家は、まだまだほんのひと握りであり、成熟した民主国家への道のりはまだまだ長いと思います。 
〈おばつぶやき〉
そういうことです!
だまされちゃいけない。

気づいている人もいらっしゃる↓



でも大丈夫なの

本当は、こうやって、自分の感情が、現実を作ってるの。
だから社会というものも、こんなふうにみんなの感情がカタチになったもの
だ。
集合意識がカタチになっているというのは、そういうことだ。
こんな、私が日々ブログに書いているあいつらの暴走や悪事なんかも。
それを許している、みんなの意識というものがあるんだ。
だから、あいつらをどうにかしようとすることも大切かもしれないが、その元になっている自分の感情をやさしく感じて、循環、解放させることが、実は根本的な問題解決なんじゃないかと思っているの。
そういう人が増えていくと、現実問題も建設的に話し合って改善していける人が増えて、そういう流れができてくるからね。
善なる人たちと心を通わせながら、世の中を良くすることができたなら、それもまた幸せなプロセスになることだろう。それこそが愛だから。
ついでにいうと、人と愛しあうことができるようになるから、あいつらの企んでるロボット社会にはまりこまなくてすむからな。

というわけで、言うべきは言って犠牲者意識から抜けて、自分の感情に戻ろう!

 ミャンマーの紛争が平和的に解決し、ミャンマーの国を愛する人たちが命を大切にして、生きていくことを願って止みません。 Dr.Yでした。 #ミャンマー #クーデター #民主化 #平和的解決

はーい、先生、今日もわかりやすくビシッと言っていただきまして、
ありがとうございました(^◇^)

おばさんは、ミャンマーのこの件について見るとき、民衆や国軍やスーチーさんや中国共産党に着目していたけれど、警察や軍の意識からお話いただいて、とてもためになりました。

そこの着目されるのが正義感にあふれたDr.Yさんらしいなぁと、おばさんは思いました♡

あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」のブログ記事一覧-丸顔おばさんのブログ、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。

新型コロナウイルスの院内感染防止に成功した漢方薬、荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)を広めております。先生の論文も出ております


責任を返すべき人に返して、ちゃんと整理すれば物事って勝手によくなるの♡おばさん~人生は種蒔き:自分で蒔いた種は自分で刈り取る:良い種を蒔き続ける☆Dr.Yさん

2021-04-03 21:30:53 | Dr.Yさんの心のお話
ときどき思うんだけど、
Dr.Yさんはいつも、おばさんの気分にぴったりのお話を動画で配信してくださる。
必要なお話を必要なときに配信してくださる。
Dr.Yさんって、まさか、エスパーなの?w

あ、毎日、こんなふうにブログ書いているから、先生から見たら、おばさんの気分、丸わかりなの?
みなさんにも丸わかりなの?
なんだか恥ずかしい。でもま、いまさらだよねw

とにかく、今回も深く、染み入るお話をありがとうございます。

人生は種蒔き:自分で蒔いた種は自分で刈り取る:良い種を蒔き続ける
動画説明欄より転載。赤、画像、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。
「どのように生きれば、幸せな人生を送ることができるのか?」という問いに対して、最も簡潔な解答を申し上げるとしたら、「良いことをして、悪いことはしない」という一言になると思います。良いことをすれば、後になって良い結果を得ることになり、悪いことをすれば後々になってそれなりの結果が出るという傾向があるということは、紛れも無い真実だからです。
  英語の諺 に「You reap what you sow.」という言葉があります。意味は、「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」即ち、「自分の身に起こることは全て自分の過去の行動がもたらしたものであるから、自分で責任を取りなさい」という意味です。 まさに、仏教用語の因果応報、「人は良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」ということと、同じような意味合いです。 

 また、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助の言葉にも、「全ての因は我にあり」という言葉があります。物事がうまく行ったら、いつもみんなのお陰と考え、物事が上手く行かない時は、すべて原因は自分にあると考えました。上手く行ったときは慢心ぜず、上手く行かなかった時には、厳しく自分自身を反省することをしました。それが、人生を渡る秘訣ですと話しておられました。
〈おばつぶやき〉
これはね、自己肯定感が高くないとできないと思うの。
自己否定が強く、自分責めたり、人を責めている状態だと、本心からこの気持ちになるのはムリだと思うの。
後述するね。

  この「人生は種蒔き」という言葉に関しては、様々な解釈があります。 不幸な結果が現れた時に、「それは自業自得だから仕方ないよ!」というような単純な解釈ではなく、もっと奥深い人生の道標となるような言葉であることを、知っておく必要があります。
〈おばさんつぶやき〉
そうね。おばさんが悲劇だと思うのは、悪い種をいい種と思い込んでせっせと撒いている場合が多くあることだ。
なにがいい種で、なにが悪い種か、われわれは、まだわかっていないんだと思うの。
それが多くの人の苦しみの原因になっているように思うの。


 本日は、「人生は種蒔き」という言葉に秘められた、人間のあるべき姿についてお話ししたいと思います。  こんにちは、Dr.Yです。

  長い人生に於いては、物事がすべて順調に進み順風満帆の時もあれば、逆に必死で頑張っているのに予想外の結果となり波瀾万丈の時期もあります。
できれば、「一生安心して平和な生活を送ることができたら良いのに」そのように誰しもが願いますが、現実はなかなかそのようには行きません。
惨憺たる結果に涙し、「生きていることが辛い」そう思ってしまような試練を、人生のいつか誰しもが体験します。そしてそこから這い上がり、強く逞しく成長していくのです。
逆に、努力が報われて、良い結果を得て喜びに浸り、絶頂を噛み締めることもあります。弱い生き物である人間は、人生が試練の連続であれば、途中で挫けてしまいますので、絶望と絶頂と両方とも体験できるようになっているようです
人生とは、その繰り返しであり、人間は絶望と絶頂の波を乗り越えることで、強く逞しく優しく謙虚になれるのだと思います。

  小学生までは、親は子供を守り、安全な場所で伸び伸びと育て、彼らの成長を見守ります。ですから、この時期には、ある程度の過保護・過干渉は必要なことです。 
 中学生以降は、自立させるためのトレーニングを積まなければなりません。自分で考えて行動し、自分で選択した結果に関しては、自分で責任を取る、という習慣を身につけなければなりません。親が「こうしなさい!」「そんなことをしてはいけません!」というのは、過保護・過干渉であり、子供の自立を阻害します
〈おばつぶやき〉
おーい!丸顔おばさんの父!このブログ見てるな?
あんまりネットができないから見てないと思ってたら、よーく読んでることが判明したのw
あんたこの前、「ブログに人工地震の話書くのはやばいんちゃうか」って言ったな?
それから、「中国共産党の悪事を書いているにもかかわらず、荊芥連翹湯という漢方を広めているけど、漢方は中国だろ?」って文句言ってたな。
それから「本当におまえが書いてるのか?バックに誰かいるんじゃないか?」なんて言ってたなw
まったく。。。ネットを丁寧に調べれば全部出ている情報なんだよ!
点と点を繋ぎ合わせれば、あいつらがおかしいことやってんな!って感じとることができるの。そういう感覚をみんなで鍛えていくのがこのブログの目的だ。
しょうがないだろ?大事なことが報道されないんだから。偏向報道とフェイクニュースとインチキばっかりで。
命と健康守んなきゃしょうがないだろ?国はあてになんないぞ。
こりゃ頭だけで思考だけで読んでる人のコメント↑だ。
あんまり工作員のコメントと変わらない・・・w
親なのに。

こういうことだ。こういうのを過干渉という。
おばさんは小学生ではない。もういいおばさんだ。
その人が決めて、その人が責任をとることに関して、あれこれ言いすぎる。
すごい支配の圧と否定的なエネルギーを込めて。
うん。
自覚ないんだよな。わかってる。これが悲劇だ。ここなんだ。
なにがいい種で、なにが悪い種か、われわれは、まだわかっていない」ってのは。
まぁ、おばさんほどのたくましいレベルに達していて、過干渉(責任の見極め)ができれば、こういうのは歯牙にもかけないけれど、ふつう、こんなふうにあれこれ言うと、相手の自然に湧き出た意思をそぐ。
こうして相手を無力にしていく。
おまえがあれこれケチつけて否定したその人の意思こそが創造の源。
自分の人生を生きる意欲と自信と喜びの源だ。
こういうのがこの社会もよくするんだぞ。
そりゃ、こういう親の言うことを額面どおりに受け取ってたら、引きこもりにもなるさ。
こういう人の言うことを真に受けて、まともにつきあってたら自信なんて持てないよ。
こどもでなくても、誰に対してもやっているだろう。
配偶者、友人、職場の人。人の責任に入りすぎる。その人の領域に土足で踏み込みすぎる。
これでは本当に心の通う関係が築けない。
調子よくつきあってても、うわっつらのノリだけの関わりしかできない。
そして心理的トラブルが多いから、いつしか疎遠になる。
もめることも多い。
そしてこどもなど、素直で繊細な人は、親からしょっちゅうそんなふうにされていたら、自己否定が強くなる。
自分が自然にやりたいと思ったことはやったほうがいい。(他人の責任や領域をおかしていなければOK)その結果の責任をとることが勉強だ。
たとえ失敗したとしても。失敗も経験させてあげることが勉強だ。それが愛だ。
経験しなきゃわかんないんだから。
これこそが人間をやっている意味だ。

にもかかわらず、
支配的な人にもっともらしいことをいわれたら、「こういうのダメなんだ」と思うだろう。言われた人は自信をなくしていく。だんだん自分の意思がもてなくなっていく。キレて反発したり、ひきこもっていく。
こうやって自分を信じられない子に育てている。
親子でそういう関わりをしているかぎり、いつまでたっても自分の意思で行動するということができない。
当然、自信もつかない。
こうやって子の人生を破壊している。

おまえの考えが正しいとは限らないだろう?私から見れば、問題だらけだ。
支配に生きて、感情を抑えて、思考優位でいる人に適切な見極めはできないからな。

バランスだ。カネを稼ぐことが悪いなどとはいってないぞ。わたしは。
過干渉や否定に気づいて、責任を返すべき相手に返すことを覚えれば、もっと稼げるようになるんだぞ。
これが「いい種をまく」ってことだ。
そして、本当に自分を信じることができていないのは、お父、あんただ。

しかし、おばさんは、自分の親に好きにやらせてやろうと思ってるんだ。
やってみたらいい。
その責任をとらせてあげたい。最後まで経験させてやりたい。
それが一番彼のためだ。
自分がいいと思うように、納得するまでやってみたらいい。
あんたの周りにくっついている人たちも自分で選択している。
あんたに支配されることを。
これもまた本人の意思だ。納得するまで経験したらよろしい。

過干渉と引きこもりの観点から、心理的トラブルの仕組みと脱却法を書いた記事↓

おーい、丸顔の父。文句があるならコメントしてこい。
読者のみなさんが、読んでくださるからな。
あ、本名を書くとどこの誰だかわかっちゃうからな。

そしてな、あんたもまたそのまた親からおんなじようにやられている。
つまり、まだ親を超えていない。
親からやられた過干渉支配の否定的なパターンを自分の子にみごとに繰り返している。周囲の人にもやっている。
ここに気づかないで、親と同じパターンを繰り返し、酒を飲んでは親への恨みを言っている。

先祖代々繰り返してきたパターンに気づいて、自分を見つめ、自分の感情の傷を癒し、どうすればいいかわかったならば、あんまり親への文句は出なくなるからな。
だんだん自分と親や先祖をいたわる境地に自然になっていく。
そこのところのカラクリが分かると、恨みなどやたらと言えなくなる。

まー、ゆっくり好きなようにやったらよろしい。

やっぱり具体例があったほうがみなさんにわかりやすいから、あんたの話、書かせてもらったぞ。
こんなふうに恥部をさらして、たくさんの方の気づきに貢献することができたのなら、いいだろう。どこの誰だかわかんないし。
それよりも内面(精神)から崩壊してしまっている人が多い。これが問題だ。
これをみんなで啓発しあって少しずつ立て直していくことが先決だ。

親は、上手く行くためのヒントを与え、リスクを説明し、後はどうするのか?自分で考えて決めさせます。リスクに対するリスクヘッジの方法に関して、子供から聞かれた場合には、「私ならこうやって切り抜ける」と、自分の考え方をアドバイスするに止めます
必要な情報は与えるけれど、自分で考えて選択し、自分の責任に於いて行動し、その責任は自分でとりなさい
そのような指導をしなければなりません。
その時に子供に対して伝える言葉が、「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」自己責任ということなのです。
〈おばつぶやき〉
おばさんは、今、自分の親にこれをやっている。責任は自分でとりなさい
必要な情報やヒントは与えるけれど。
おばさんからすれば、じーさんであっても赤ちゃんだ。育てている。
丸顔の父が親から育ててもらえなかった部分だからな。
気づいたヤツが育ててあげないとな。
子に対してだけでなく、夫婦でも友達同士でも職場の人同士でも、あらゆる人との関わりで、責任をちゃんとすると育て合うことができるんだ。
いくつになっても遅すぎるということはない。
むしろすこしずつでもやっていかないと年とともにキツくなる。
すごく高齢になって状況が激烈になるってのは避けたいだろう?

先生、ありがとうございます。そういうことです。
過干渉、支配関係が当たり前だった人は、
最初は、いろいろ手出し口出ししたいのを、がんばってひっこめることに葛藤があるだろう。
でも、ここをちゃんとしないと物事がいい方向にいかないんだ。
ここが分かっている人は、人にずかずか入らない。よけいなことは言わない。
そういうキャラに自然となっていく。
ゆったりじんわり感じながら人と接する感じになっていく。
そうやって穏やかに発展していってる。これなら破滅しない。
そうやって人と心を通じ合うって感じだ。
これはスローペースだ。
せかせかと、効率効率のデジタルな世の中だから、よけいに難しいのね。意識しないと。

でもね、ここさえ、ちゃんと整理して“責任を当事者に返す、入らない”ってことができると、勝手にものごとがいい方向に向かったりするの。
それは偶然起きることなんかも含めて。
予想もしていなかったことが起こったりするもんだ。
偶然起きているように見えることも、関係者全員の意識が起こしているのだと私は思っている。
だから責任めちゃくちゃな状態で思考だけでムリやりやったってダメなんだ。
責任をちゃんとしたら、あとは力を抜いてリラックスして楽にいたほうがいいんだ。
そして、この状態でだんだん自分の内面や感情を見る割合を増やしていけるといいんだ。

感情を抑えて、すべてを気合いで自分がなんとかがんばってやらねばならぬ、なんて思ってると過干渉しちゃうの。
がんばってるとき、キツさを感じているとき、もう過干渉や支配に足を踏み込んでいる。

楽でひっかかりがないとき、それはOKという無意識からの声だ。

だから我慢はするな、自己犠牲はやめてくれと、おばさんはよく言っている。

  元気で長生きをするためには、日々健康的な生活を心がける必要があります。食事・運動・心の持ち方・環境などに配慮しながら、身体に対して良いことをして、悪いことをしないということを、実践し続ける必要があります。
  飽食の短命に終わらないためには、身体の声を聴き、身体が喜ぶような食事をし、身体に負担をかけないように、身体を鍛えることが大切です。身体に対して良いことをしていれば、健康的な老後を送ることができ、身体に対して悪いことをし続ければ、健康が蝕まれることになります。健康な身体を維持するためにも、まさに、「良い種を蒔けば、良い稔りを刈り取ることができ、悪い種を蒔けば、後々悪い稔りを自ら刈り取る」ということが通用する訳です。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」自分の健康も自己責任ということになるのです。

  人生には様々なチャレンジがあります。努力をして、直ぐに結果がでるような小さなチャレンジもあれば、努力しても結果が出るまでに何年もかかるような大きなチャレンジもあります。例えば、夕ご飯はご馳走を作って家族を喜ばせようと考え、レシピを調べて、ご馳走を作る。これは、小さなチャレンジの良い例です。日々の生活の中の潤滑剤として、こうした小さなチャレンジは必要だと思います。  しかし、人生に於いては、直ぐには叶えられない大きなチャレンジに挑戦することも大切です。自分のお店を出して、順調に行ったらスタッフを雇い、店舗を拡大し、ファンが増えたら地域に支店を展開する。そして、軌道に乗ったら、全国展開し、さらには海外にも進出する。このように、数十年かけて叶えるような大きなチャレンジもあります

  人生の多くのチャレンジは、努力して直ぐに結果が現れる訳ではありません。努力をしても、中々結果が出ない。諦めようか?それとも、もう少し頑張ってみようか?挫けそうな自分に対して、必要な言葉に、「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」というものがあるのです。
 良い種を蒔いたら、いつかは良い芽が出て、素晴らしい稔りを獲るだろう。野菜や果物や穀物は、半年足らずで稔りを獲ること何できるけれども、人生に於けるチャレンジの殆どは、いつ芽が出て、いつ刈り取ることができるのか?分からないものです。
  道のりが長ければ長いほど、そして道のりが険しければ険しいほど、達成された時の喜びは大きいものです。良い稔りを獲ることを夢見て、日々努力し続ける事で、大きな喜びを得ることができるのだと思います。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」チャレンジする人の胸に刻んでおきたい言葉でもあるのです。
嘗て(かつて)蒔いた良い種が育ち良い稔りを得て、それを刈り取りながら、また良い種を蒔く。それが理想的な人生なのです。

  人生も後半に差し掛かると、若い時に蒔いた良い種と悪い種の結果を自ら刈り取る機会が増えて参ります。良い種を蒔いておいて本当に良かった!悪い種を蒔いたためにこのような状況にあり、反省している。そんな体験から、嘗て(かつて)蒔いた種の稔りを刈り取りながら、日々良い種を蒔いて生きるように心がけています。

  周りの人に対して何かを施して差し上げる時に、それに対して見返りを求めるのが、取り引きであり、ビジネスの本質です。それに対して、何かを施して差し上げること自体が喜びであり、見返りを求めないのが「真心」すなわち「愛」です。

 自分と家族の生活を支えるという役割を果たすために、ビジネスとして仕事をし、お金を稼ぐことは、社会人としての義務です。しかし、それとは別に世の中の役に立つことをすることも、人として生きる上で大切なことだと思います。

  日祭日に小動物園に行くと、山羊やウサギに餌をあげている人が大勢います。本来ならばこちらが餌をあげて、動物が餌を食べる訳ですから、餌を貰う山羊やウサギが、餌を与える人間に対してお金を払うというのが、道理だと思われます。しかし、実際にはそうではありません。皆んなお金を払って餌を購入して、動物が餌を食べる仕種を見て楽しんでいます。このように、相手が幸せな気持ちになれるように施して差し上げる、それが自分の幸せという気持ちは、私たちが生きている上でとても大切なことなのです。
〈おばつぶやき〉
人間には本来、そういう気持ちが備わっているんだ。
支配から抜けて、自分の感情を愛することを始めて、心が癒されていくと、自然に相手を大事にしたり喜んでくれてうれしいなというふうになるの。
そういうふうに人の心はできてるんだ。
だからとりあえず自分を愛することをすればいいんだ。
人のためにムリして我慢して尽くそうとしなくていいんだ。
自分の感情を感じてあげてください。
そうできないときもあるかもしれないけれど、必ずそこに戻ってください。
そしたら自然に人にやってあげたいなという心境に気づいたらなっている。

支配に生きていて、心がいっぱい傷ついているのにそれを抑えて生きている(無自覚の人多数)と、勝ち負け意識全開の生き方になっていくのね。他人を押しのけて生きる感じ。
そして自分がそうしなければならないと思っているから
こどもに対しても競争社会で勝つことを強要したりしてね。
あ、以前Dr.Yさんが動画を配信してくれていたね。
わたしはこの動画、好きなんだ。先生のご経験と実感がこもっていて。
勝ちも負けも、本当はないのにね。
こんなのも、人間の脳が作り出した幻なんだ。
学歴に限らず、つねに人と比較して勝ち負け意識でいる方は多いと思うんだ。
自分のこどもと人さまの子を比較して劣等感感じたり、その反対に自慢して優位に立とうとしたり。
こんなのも、幻だ。ただ、そういう意識状態でそういうふうに脳を使っているというだけだ。人間の真相はそんな単純なことではない↓んだ。


  枯れ木に灰を撒いて、花を咲かせた「花咲か爺さん」のように、周りの人たちを喜ばせる為に、様々な種を蒔くことは豊かな人生を送る上でとても大切なことなのです。

  自分が生きている間に芽が出て、花が咲き、実がなるかどうかは分からないけれど、いつかは花を咲かせて、皆んなを喜ばせてくれることを願い、先人たちは草木を植えて下さいました。  私たちは、毎年春になると満開の桜を見て感動します。そして、散りゆく花びらを見て儚(はかな)さ、移ろいやすさに胸をうたれます。  見事に咲いた桜の花に、お疲れ様と言える人間であると同時に、見ず知らずの多くの人たちを喜ばせたいと思い、植えて下さった先人に対しても、感謝の気持ちを持てる人間になりたいものです。

  良い種を蒔いたら、いつか芽が出て、良い稔りを獲ることができる。果たして自分が生きている時に刈り取ることができるのかどうか?分からないけれど、良い稔りを誰かが刈り取り、喜んで下さることを願って、毎日良い種を蒔く。こういう気持ちを多くの日本人が持てるようになれば、世の中はもっと良くなるはずです。このように、自分で蒔いた良い種が良い稔りを獲た時には、誰かに刈り取って頂きたい」という思いも大切な考え方なのです。

   先程の松下幸之助の話しに戻りますが、物事が上手く行ったら、いつもみんなのお陰と考え、物事が上手く行かない時は、すべて原因は自分にあると考えるのが理想的な生き方です。そうすることで、上手く行ったときは慢心せず、上手く行かなかった時は、厳しく自分自身を反省することができます
〈おばつぶやき〉
自分を責めたり人を責めたりしていると、できないんだ。
物事がうまくいかないとき、夫婦で、お互いに相手のせいにしているのをよく見かける。
実際には、夫の視点から見た場合の問題・妻の立場から見た場合の問題・こどもの立場から見た場合の問題、、、とそれぞれ別々に取り組むべき課題がある。
おんなじ問題に向き合っているように見えて、それぞれの立場から見える景色、取り組むべき課題は全然違う。
だから、例えば子どもの問題であっても、見るべきは自分なんだ。
自分自身を見ないで、子どもばっかり見ててもダメなんだ。
自分の言動パターンに気づいて改善すれば、こどもも、妻も勝手に変わるの。変わらざるを得ないの。
こういうふうにすべての物事は起きている。
だから人を責めてるうちは、改善はムリだ。自分自身と向き合う気がないってことだから。
そして人を責めている人は自分も責めている。
こういう状態の人に、その方の本質的な改善について言ってあげようとしても聞く耳持たないんだ。「自分が責められた」と受け取ってしまうのね。
こんなふうに実はものすごく罪悪感や恐怖心が強いんだ。
それは全部、不要なの。
だってそういうことじゃないから。
カンタンなの。楽なの。
責任を当事者に戻してあげるの。
そしたら物事は自然にいい方向に向かうの。
相手も伸びて、力がついていくの。そうやって成長していくの。人って。
あなた自身も問題に悩まなくて済むから、エネルギーをもっと発展する方向に使えるの。
お金儲けが好きな人はもっと稼げるようになるの。
人助けが好きな人は、もっと多くの人を助けられるようになるの。

  日本の将来のために、良い種を蒔けば、いずれは芽が出て、後世の人たちが良い稔りを獲ることを信じて、日々良い種を蒔き続けられる人間でありたいものです。  どのように生きれば、幸せな人生を送ることができるのか?」という質問に対しての答えとして、「良い種を蒔き、いずれは良い稔りを獲て、自分でそれを刈り取る。そしてまた良い種を蒔く。将来の自分のために、そして知らない誰かのために。」  
〈おばつぶやき〉
ちょっと気づくってことが大事なんだ。すこーしずつでいいの。
べつに死ぬまでに必ずこうしなければならないっていうゴールがあるわけじゃないの。
気づいた時点で大成功なの。そこからはもうプラスに行くから。その後すぐに死んだとしても、来世、そこからスタートだからなw
そして残された人が、その続きを引き継いでいくでしょう。

昨日喫茶店から出たら、暗くなっていて、目の前の桜がライトアップされていて、思いのほかキレイだった。







2021/4/2の京都河原町の高瀬川沿いの桜。

これだって、いつか分からないけど、だれかが植えてくれたのね。
それを、あぁきれいだなって今みんなが見ているのね。

また、皆様のお役に立てるようなお話しをしたいと思います。
  Dr.Yでした。 #人生 #種蒔き #自分で蒔いた種 #自分で刈り取る #自己責任

先生、ありがとうございました。
いつもコワいくらいにおばさんの気持ちにぴったりのお話の配信、感謝いたします。

思えば荊芥連翹湯の動画のときからそうでした。

わたし自身は、仮にコロナっぽい症状に見舞われたとしても、荊芥連翹湯飲んで、なんとかよくなって病院に行かずにすむならそれが一番だと思ってるんだ。
肺炎や重症化しなきゃいいわけだから。

喉のイガイガなどがあるときに飲むと、けっこうすぐよくなる。悪いものを出してくれている感じがする。もともと鼻炎やにきびのお薬だもんね。出す力が強そうだ。

医学的なことはわかんないけど、検査で陽性が出ても本当にコロナか疑わしい点があるにもかかわらず、入院拒否したら罰則などと言い出している。
ちょっと今、未知の点が多すぎるから、いろんなことが信用できない。
医療関係者のみなさんも良心からいろいろ問題だと思っていたとしても、従わざるをえないことがいっぱいあるわけだ。
そういうわけで病院行ったら行ったで、具合悪いのにいろんなストレスがありそうだから、
どうしてものとき以外は行きたくないの。わたしは。



それから荊芥連翹湯は日本生まれの漢方だぞ!お父!
そしてそういうことじゃないだろう?
仮に中国のものだとしたって、体が助かって安全なら、なんだっていいだろう!
あんたが飲む飲まないは自由だ。
でも必要な人もいるからな。
それから悪いことしてるのは共産党政府であって、
国の文化や国民や先人の叡智に罪はないだろ!
しっかり心の目を開いて物事を見てくれ。

心の目をしっかり開かないと、こういうやつら↑といっしょになってしまうぞ。

参考:

あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」のブログ記事一覧-丸顔おばさんのブログ、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。

新型コロナウイルスの院内感染防止に成功した漢方薬、荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)を広めております。先生の論文も出ております



心や感性はお金では買えないのさ。まして愛は。デジタルの弊害♡おばさん~おもてなし:日本人の美意識と心遣い☆Dr.Yさん

2021-03-28 09:34:23 | Dr.Yさんの心のお話
先日、こんな話を書いたんだけど

おばさんは江戸っ子だし現代っ子だから、こういった谷崎の風雅、風流に憧れがあるのねw
なんとなく谷崎さんが物語の舞台を関西にした気持ちがわかる気がするの。
日本文化、食とか着物とかは、大阪・京都あたりがやっぱりいいなぁと思ったの。
関東から関西に移り住んだばかりのころ。
江戸っ子のおばさんからすると、京都弁の女性がやわらかくステキに見えたのだった。これがはんなりというヤツか~と。
料理の味もおだしの味が繊細で、なんておいしいんでしょうと感激した。
水がやわらかく、女性も、ことばもやわらかいのね~と憧れたものだ。
(中略)
そういうのは戦時中は弾圧されるのね。
で、今、京都あたりは中国が土地を買い占め、なんだか京都らしさが壊されてる?感じがしないでもなく。。
おばさんの好きな、はんなりを壊さないでほしいのね。
金と勢いで侵略されてる気がするのね。

そしたら、リアルなツイートを発見してね

やっぱり買い占めてますなぁ。
その一方で、コロナ禍で、

賃料の高いところからは、さっさと撤退されている。ゲンキンな方たちだからなぁw

大量の観光客はやかましいとか、バスが混んでて乗れなくて生活に支障が出るとかいう具体的な問題もあるけど、
お金の理論だけで、商売されると、もっとなんていうか、奥深いものが淘汰されていってしまうのね~。京都に限らずなんでもそうなのね~。
それでもね、
べつに贅沢にお金をかけられなくても、身近にあるものを、手に入ったものを味わって喜んでいる。自分の好きな物、なんでもいいのよ♪
そんなことがものすごく強力で、こんな時代に幸せにいるヒントだと思ったの。
外資が横暴して国土や日本企業を買い占めても、我々の感性を買い占めることはできないんだ♡
こんなふうに思っていたら、
Dr.Yさんがステキな動画を配信してくださって、おばさんそこのところの奥深い、ビミョウな、言葉にするのが難しいところ、教えてくださったの↓

おもてなし:日本人の美意識と心遣い
動画説明欄より転載。赤、ピンク、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。

日本人のおもてなしの文化は今や世界的にも有名になっています。
今はコロナ禍でそれどころではありませんが、日本政府は、国家政策として観光立国を打ち出しており、そのためには、おもてなしの心を持ち、心のこもった待遇をすることで、お客様に喜んで頂こうと考えています。
お客様に対して心をこめて歓待や接待やサービスをすることで、来日した外国人たちは、日本の交通機関、宿泊施設、商店、銀行などでのおもてなしに感心して帰国する人が少なくありません。
  また、日本には、お客様に対するおもてなし以外に、仕事の取り引き先に対するおもてなし、即ち「接待」という文化もあります。業務上必要な契約を獲得するために、相手先の企業担当者や、許認可の権限を握る公務員に対して、接待という手段を使用することは、競争の公平性を欠くことになります。ですから、特に公務員の場合は、結果的に主権者たる国民を裏切る行為となるので、公務員は接待を受けることは禁止されており、違反すれば贈収賄罪で処罰されることになります。

  おもてなしすること自体は素晴らしいことなのですが、「誰に対して」「何の為におもてなしをするのか?」によって、その意味合いが全く異なって参ります。  お客様に対して、心を込めておもてなしをして、お客様に気に入って頂き、その結果としてお店のファンが増え、お店の収益が増えたとしたら、それはとても素晴らしいことです。
  しかし、認許可の権限を有する立場の人に対しておもてなしをして、自分の利益になるよう取り計らってもらうことは、権力を私物化すること行為になり、道義上好ましいことではありません。
〈おばつぶやき〉
文春が追及してくれてまーす。ついに大臣まで行きました!

武田さん、今回、維新のやつらに鉄砲玉、頼まないのか??
(茂木)会食、二人での会食
(麻生)フフフ、会食の○▲◇×
(茂木)SPと食ってても会食
(武田)維新がまた足立みたいに言ってくれりゃいいのに。無駄な時間、野党が費やしてくれるって。
〈おばつぶやき〉
たけだ~、おまえ、ゆるさん。
武田大臣。維新といいチームワークだもんな? 
いつもこんなやらせ国会やって、ピンチを乗りきってるんだろー?w
詳細は、リンク先記事をご覧ください♪

おやじさんの金づる状態ではないか。

以下はジュリアーニ弁護士の言葉↓
「私が出したのではなく、ロシアが出したのではなく、私は3000万ドルをもらっておらず、あなたたちの王子、あなた達の暗黒の王子、ジョー・バイデンがやったことだ。彼は自分の麻薬中毒の息子を(金儲けのための)ATMにした。考えてみてください。なぜ彼の息子はまだ40歳なのに自分の歯が全部ないのか。それは彼がこのようなプレッシャーの下にいるからだ。彼は殺人犯、犯罪組織と、例えばミコラ・ズロチェフスキー(ブリスマ創業者)、エレーナ・バトゥーリナ(モスクワ市長の妻)、すでに長江の底に沈んで破滅した葉簡明(行方不明)、凶悪犯ホワイティ・バルジャーの甥のような人らと一緒にいる。父親として、あなたは自分の息子をこれらの人と一緒に居させた。どのようなことが起こるか考えてみてください。彼の麻薬中毒がますます酷くなる一方だ。彼は完全に麻薬中毒者となった。あなた(バイデン氏)はワシントンで彼の代わりを見つけられなかったのか?あなたは自分の息子を使い、彼の一生を台無しにした。我が国の大統領になりたいと?」

古今東西、あいつらのやってることはだいたいいっしょだ。
いけない「おもてなし」で国民を裏切り、我が身を滅ぼす。。。息子も道連れ。。
あ!しまった、脱線した。先生の美しい「おもてなし」のお話に戻ります↓

 私たちは、日本の伝統であるおもてなしの文化を、是非とも良い形で継承し、さらに発展させて行かなければなりません。 おもてなしで大切なのは、「誰に対して」「何の為に」「どのようなおもてなしをするのか?」ということだと思います。 本日は、おもてなしについて考えてみたいと思います。

 こんにちは、Dr.Yです。
〈おばつぶやき〉
こんにちは。おばさんです♡

  茶道ではお客様をお迎えする際には心を込めて準備をします。しかし、その準備する姿や行為はお客様には一切見せることがありません。それはお相手様に対して、余計な気を遣わせないという配慮からです。

そして、心を込めて準備する「しつらい」や「ご馳走」などに、お客様に対して歓迎の気持ちを表現することが、茶道でいう本来の「おもてなし」なのです。
  茶事では、お客様をお迎えする準備が整った際に門前に打ち水をし、支度の整ったことを知らせます。
茶事に限らず、日常でも自宅の玄関先にやはり水を打ち、土埃を静め、清々しさでお客様をお迎えすることが、日本のおもてなしです。
葉から零れる雫や、しっとりと濡らした地面のみずみずしさ、そこからほのかに漂う清々しい匂い、迎えられる側も玄関先からその心遣いに触れる一瞬です。
 そして、亭主がその日の茶会に対する想いを込めて掛け軸を選び花を生けます。
〈おばつぶやき〉
あー、先生のお話聞いているだけで、すがすがしくなりました。
洗練されているんだよね。迎える方も。お客さん側も。
いちいち言わない、わざわざ見せない、思いやり。

千利休の教えでは「花は野にあるように」とあります。即ち、フラワーアレンジメントのように美しく盛り付けるものではなく、まるで自然の中に咲いているような花本来のありのままの姿を表現するため、「投げ入れ」という様式で生けるのが原則とされています。 お客様が訪れた際に、四季に寄り添いながら、その場、その時、その一瞬を優雅に感じていただき楽しんでいただく、これこそが日本人ならではの心配りなのです。
〈おばつぶやき〉
すてき。自然そのもののなかに自分がいるって感じなのね。
自然を自分好みに飾りたてるのではないのね。
宇宙そのものなのね。あるがままなのね。それを味わう。感じる。五感。感情。
それを道にしちゃったのね。日本人、なんでも道にしちゃうの好きだよね。柔道とか剣道とか。
だから茶道はいろいろしきたりが多くて大変そうだけど、大事なのはきっとそこじゃないのね。しきたりもひとつひとつ深い意味があるのだろうけど。
(おばさんは茶道やりたいんだけど、長時間正座する自信がなくてチャレンジしてないのwこれがなかったらきっとやってる)
なんでこういう文化ができたんだろうね。

 つまり、「おもてなし」とは、どうしたらその方に喜んでいただけるか、どうしたらその方に満足していただけるか?ということを常に考えて行動することです。誰に対しても同じサービスをするのは、「おもてなし」とはいえません
〈おばつぶやき〉
本当は、「考えて」行動というよりも「感じて」自然にそうしてあげたいって感じだと思うの。お相手さんに。
茶道は五感にものすごく集中すると同時に、お客さんを感じているんだと思うの。
(やったこともないのにえらそうにすいませんw)
おばさんは、これは愛だと思うんだ。
茶道に集中して味わっているとき、思考が止まると思うの。
思考に囚われている状態からの抜け方も研究してみたところ、単に思考を止めるとちょっと意識して、五感や感情を感じることにシフトすれば、思考ぐるぐる状態から抜けられることが分かった。

思考を止めて、音楽を聞いてみる。
思考を止めて、お茶を味わってみる。同じ茶葉でも毎日味が違うなとか。
思考を止めて、料理を味わう。
思考を止めて、自分の感情を感じてみる。
思考を止めて、好きな人のことを思ってみる。
思考を止めて、食材の鮮度を感じてみる。あー、しゃきしゃきしてんな、とか。
思考を止めて、アロマテラピーやってみる。
思考を止めて、蛇口から流れ落ちる水を感じる。
思考を止めて、外に出てみる。陽光や緑や空気。ただ感じてみる。

これで、思考に囚われている状態から、抜けられる。
五感を感じていると、自然に感情も感じやすくなる。豊かになる。

だから茶道を極めることは、愛を極めることと同じなんじゃないかしら?

おばさんはこんなふうに茶道をとらえているので、戦国の武将たちが茶道にはまってたのが興味深いなぁと思うの。めちゃくちゃな支配と戦いに生きてた人達がねぇって。

そして利休が豊臣秀吉に切腹をさせられたのもわかる気がするの。
支配者である秀吉は、利休の愛・感情・五感、すなわち対等の関係性、最後、耐えられなくなったんじゃないだろうか?
時の天下人、豊臣秀吉はあらゆる事柄の頂点に立ち、できないことはないと考えていたと思われます。
そんな秀吉が唯一嫌い嫉妬の対象としていたもの、それは千利休の「質素でも完璧な美学」だったのかもしれません。無駄な装飾を極限まで削ぎ落とし、たどり着いた美の境地。秀吉は、美の頂点に君臨する千利休が許せなかったのではないでしょうか。嫉妬のあまり切腹を命じたのではないかと、私は思います。例えば、利休が考案したにじり口は、武士も商人も誰もが身分差なく頭を下げて入り、茶室では皆が平等を意味しています。権力を重視する秀吉には、受け入れがたい感性だったのでしょう。

やっぱそういう感じだよな。五感感情を感じて、お相手を感じている人は、対等、平等意識、愛の意識だから、

支配の意識:
他人の評価中心・他人の期待に応える・思考中心・歯を食いしばって努力しなければ・過剰に責任を捉えている

愛の意識:
他人がどう感じるかは自由・自分の感情や五感を中心に感じている・自分の心地よい範囲を選択して責任を果たす

上は支配の意識。
下は愛の意識。当然こっちのほうが幸せに伸びて発展する意識だ。
「責任」って本当は気持ちがよくて楽しいの。そして軽いの。押し付けられるものではなく、自分で決めていいの。それが腑に落ちるとどんどん未来がひらけるの♪ - 丸顔おばさんのブログ より

秀吉とは真逆の意識状態よ。利休さんは。

支配者の人は支配の関わり方しか知らない。たいてい周りの人も同じような人しかいない。
だから愛の対等な関わり方するヤツに出会うと、カルチャーショックで恐怖をおぼえると思うんだ。未知の態度だから、びっくりしちゃうの。
それでおそろしくなるの。。。おれ様の支配が通じない、、、効かない、、、とパニックになる。
しかも利休はそれを完璧なまでに完成している。。。
自分にはとうていかなわない。
それが切腹を命じた秀吉の気持ちではないかなと思うの。

だから、おばさん支配者からは嫌われて正解だと思ってるの。
やつらに嫌われてるなら、自分は愛で人と対等にいられていて、あいつらに屈してないってことだからw
支配者に好かれてるということは迎合しちゃってしもべにされてるってことだから。

最近は、身内でも支配的な人はおばさんに近づいてこなくなった。。。
近づいてくるヤツは、見込みがある。
あいつらに屈しないでいっしょにこの腐った世界をひっくり返す仲間になれると思っているw

現在ですら、人々の意識はまだまだこんな感じだから、戦国時代、利休が切腹になってしまったのも無理ないのかもしれない。
殺し合いと支配が当たり前の時代、その頂点にいる秀吉にとっては、やっぱり利休の対等な愛の態度は、内心恐怖でしかなかったと思うの。完全に理解不能だったと思うの。
そういう意味で利休は偉大だったんじゃないかとおばさん思ってるの。
(茶道も日本文化もわびさびも、たいしてわかってないのに勝手なことばかり言ってすいませんw)

お客様との一期一会を大切にし、相手の立場に立った丁寧な応対をすることこそが、最高のおもてなしなのです。
〈おばつぶやき〉
そうよねぇ。「おもてなし」を道にしちゃったんだもんねぇ。そう考えると、おもしろい国民性だと思うの。日本人。ほかにそんな国あるか?

 幇間(ほうかん)という職業があります。「太鼓持ち」「男芸者」とも呼ばれる幇間は、お座敷で芸を見せて、宴席を盛り上げる仕事です。最近では殆どお目にかかる機会が無くなり、現在は日本中に数人しかいません。
宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げるのが、彼らの役割です。単なるお座敷の便利屋さんなのかと思われたとしたら、それは大きな勘違いなのです。
 お座敷でお客様の相手をしながらも、全神経を集中してアンテナを座敷全体に張り巡らせ、他の客のグラスが空くのを見逃さず、絶妙のタイミングで酒を勧めたり、ひいき客を見つけては挨拶にまわったりと、休む間もなく宴席を行き来しています。あたかも対テロ特殊部隊SATが、立て篭もったテロリストを目の前にして、ピンと神経を張り巡らせ、犯人の動きの気配を感じ取るのと同じくらいに、最大限に神経を集中させて接客しています。自ら芸を披露しながらも、お座敷の気配を真剣に読み取り、宴会の進み具合をチェックしているのです。全身全霊を傾けてお客様の気持ちや気配を読みとっているのにもかかわらず、その素振りを全く見せないところが、おもてなしのプロである所以なのです。
〈おばつぶやき〉
初めて聞きました。幇間。男性のおもてなしのプロの方がいらっしゃるんだね。

  それとは対照的に、精一杯の作り笑顔で、「私は精一杯おもてなしをしていますよ!」という態度を取る姿は、本当のおもてなしではありません
内面を磨くことをせずに外面のみを取り繕う行為は、本物ではなく偽物です。しかし、「偽物は本物以上に本物に見える。」という言葉のとおり、外面のみを取り繕った、偽物のおもてなしに騙されてしまう人が大勢います

そのような仰々しい外面を取り繕う人に限って、根は図々しく、実は心の中には表裏があり、人前では精一杯の作り笑顔を振りまきながらも、陰では人の悪口を言うような人なのです。
〈おばつぶやき〉
その状態だと感じてないもんね。自分のハートや五感を。
外面ばかりを取り繕ったり、相手の評価ばかりを気にしていると、自分の感情を感じる割合が減るんだ。
たぶん、あれだな。先生のおっしゃる考える力のない人というのは、自分がない状態で生きているのではないだろうか。自分の感情や心を感じていない。
じゃあ何に焦点を当てて生きているかというと、他人の目や他者からの評価ばかりをつねに気にして生きている。
怒られたらどうしようとか、批判されないようにとか、褒められたいとか、期待に応えたいとか、こういった思いが強くて、他人の目を中心に据えて生きている。
すると自分のハートを感じることを忘れてしまうんだ。

カンタンなんだ。
自分のハートを感じていると、他者の気持ちも感じられるんだ。
だから仕事でもお客さんの気持ちや要望、同僚や上司の思いや意図なども適切に感じられる。いろいろと解決策も浮かぶだろう。
自分を感じていれば、集中してるから頭の回転も自然によくなるし。

相手に悟られないように、謙虚に奥ゆかしく、さり気なくおもてなしをする、それが日本人の美意識であり、本来の日本のおもてなしなのです。 
〈おばつぶやき〉
あ、そっか。
謙虚に奥ゆかしくしようというよりも、自分の感情や五感を感じて、相手のことも感じ取って「おもてなし」している状態だから、この状態だと結果的に謙虚で奥ゆかしくなるんだ。
この状態のとき、あんまりどうでもいい外面にこだわる気分じゃないと思うのね。
あぁ、もしかして日本人はそういうの、もともと得意だったんじゃないの?
お相手を察するというのは、せまい島国で周りを気遣いながら生きているなかで培われた?よく島国根性と揶揄されることもあるけど、それがこういう感性を育てたのかもしれない。

また繊細で豊かな自然もそういう感覚を育てたのかもしれない。
アメリカのグランドキャニオンとか

中国の長江とかのダイナミックな自然とは違う感じだもんね。

広い大陸のダイナミックな自然の中に生きていると、他人を感じるとか察するという部分は育ちにくいかもしれない。開放的で好きだけどね!(若いときはこっちにほうが好きだった)
他人を察するよりも、厳しい自然の中で生き延びているうちに大胆な性格になりそうだ。

中国人の友達が言ってたっけ。日本語は色や自然を表す言葉がものすごく多いねって。
山吹色とかからし色とか、萌黄色とか、すてきな色の名前がいっぱいあるもんね。
和服を選ぶときや着物雑誌などを見ていると、こういう名前がいっぱい出てきて、それだけで心が豊かになる気がするの。

 このように、日本のおもてなし文化というのは、「笑顔で丁寧に接客をすればそれで良い」というような薄っぺらなものではありません。相手に気付かれないように準備して、皆んなに対して同じように接するのではなく、相手の個性を見抜き、相手が心から喜ぶようなおもてなしを、相手の幸せを願い、行為に念を込めてするのです。

  Dr.Yは若い頃には、毎月能楽堂に通い詰めて幽玄の世界を楽しみ、ある時は日本舞踊の稽古を積んで舞台に立つなどして、日本文化の素晴らしさを学ぶ機会を得ました。一つ一つの所作に心を込めて、「どのように振り付けることで、お客様に美しく見せることができるのか?」ということを徹底的に研究しながら踊るという、日本舞踊の所作や表現の素晴らしさと、その奥の深さに魅了されました。
〈おばつぶやき〉
Dr.Yさんのお話の中にときどき日本文化のことが出てくるので、先生はきっと日本文化に精通されているのだなぁと思っておりました。
日本の伝統文化の中では、匠の技として、ベテランの威厳と卓越した技が持て囃されています。日本舞踊の世界では、長年の経験により磨き抜かれた「枯れた踊り」、「熟成した踊り」と評される、ベテランだからこそ醸し出すことのできる魅力があります。
80歳を越えても、浮世絵から抜け出した娘を演じることのできる舞踊家がいらっしゃいます。皮膚の張りなど肉体的な色気は歳とともに衰えるにしても、表情や仕草の中に色気を感じさせる、その威厳と卓越した技に、観る者は胸を打たれるものです。
歳を重ねるごとに円熟味を増す高齢者の魅力は、人間的には威厳と謙虚さ、技術的には匠の技ということになるのではないでしょうか。

先生は能がお好きで、日本舞踊をやられるのですね。
いつもびしっと芯がとおっていて、それでいてみなさんにおやさしいわけが、ちょっとわかりました😊 
それにしてもお若いころに、幽玄の世界を探求されていたなんて素敵です。
おばさん、若いときは、日本の文化より海外にばかり目が向いていました。
年を重ねてからです。日本もいいもんだなぁと思えたのは。
きっと若いときは煩わしかったのね。おとなりさんを察する日本文化が。
開放的な海外に逃げたかったのね。。。

日本人の美意識から生まれた、気品ある仕草や間の取り方は、日常生活のおもてなしの中でも生かされています。おもてなしというのは、何もお客様に対してだけではありません。職場の同僚や家族の中でも、是非とも心がけなければならないことであると思います。
〈おばつぶやき〉
じつは特別に和の文化をたしなむことがなくとも、普段の人との関わりを、このような意識状態でやっていたりする。ちっとも特別なことではないんだ。

 DrYが診察室で患者さんを診察している時に、クラークさんが数人分のカルテを運んできて、机の脇に置いて下さいます。 パートで入職したばかりの若いクラークさんは、カーテンをバサっと開けて、ツカツカと歩いて入って来たかと思えば、ドサッとカルテを置き、やれやれという顔をして、さっと帰って行きます。しかも、カルテは不揃いで、手を伸ばさないと届かないような場所に無造作に置いて行きます。指示された通りに「カルテを診察室に置いて来るという業務を遂行した」ということには間違いありませんが、そこには「思い」というものがありません。
まるで日本舞踊の初心者のようで、手順は間違えていないけれど、全く気持ちが込められておらず、所作がガサツであり、無味乾燥な印象を受けるのです。

  ところが人生経験豊かなベテランのクラークさんの場合にはまず、ちらっとカーテンを開けて、今入ってご迷惑にならないか?診察室の気配を感じとります。問題無いと察したらそーっとカーテンを開けて、机の近くまでそっと足を進めて立ち止まります。間を置いてさっとカルテを置くのですが、物音一つさせずにそっと置いていきます。置いた瞬間に手を離すのではなく、一呼吸置いて、さっと手を離します。手を引く仕草も美しく蝶が舞うような印象を受けます。

私は患者さんと話をし、電子カルテのキーボードを叩いていますが、クラークさんの所作の一部始終を肌で感じ取っています。「診察お疲れ様です、頑張ってくださいね!」という気持ちを込めて、軽く会釈して帰って行くその後ろ姿に、思わずこちらも「ありがとうございます」と心で感謝の言葉を呟き、頭を下げてしまいます。
〈おばつぶやき〉
あぁ、やはりベテランの方は感じている。感じ取っている。察している。これだね。これを文化や道に昇華させたのが茶道などの日本の文化なのかもしれない。
先生もまたお感じになっている。

  Dr.Yは、入院患者さんを平均30~40人ほど、受け持っています。受け持つ病棟スタッフに対して、何か患者さんの状態に変化があった時に、スタッフが戸惑わないように、指示表を明確に書き記し、家族への説明内容もカルテに明記してあります。自分が病棟に居ない時にでも、緊急時には直ぐに連絡が取れるようにしてあります。「スタッフが仕事をやり易いように、自分に何ができるのか?」これが私なりの心遣いです。スタッフも、私が早朝回診する時には、病棟に立ち寄った時に、私が直ぐにカルテを見ることができるように、予め電子カルテを立ち上げておいて下さいます。
このようなさり気ない思い遣りに支えられて、気持ち良く仕事をさせて頂いています。このように職場のスタッフ同士が、お互いに思い遣りを持って接する習慣が身についていると、お客様に対しても当たり前のように、心のこもったおもてなしができるのだと思います。
〈おばつぶやき〉
ステキだね。感じているからわかるんだ。お互いに。

おばさんが気になるのはね、最近なんでもデジタルでしょう?スーパーのレジも無人になってきたし、携帯の機種変でも契約の内容も手続きも煩雑で、そしてデジタル。紙を省いてデジタルデジタル。
こういう感じだと、人間もロボットみたいになると思うの。とくにそういう所で働いていると。
スピードと効率の追求でさ。
こうなると、思考中心で感情を感じることがなくなっていくの。
すると、ちょっと問題があっても感じ取れないの。最近のシステムトラブルなどの問題は、いろいろ原因があると思うけど、そういうところにもあると思うの。
で、起きると、煩雑なうえに、生活のいろんなところがデジタルで繋がっているから、問題が大きくなる。

そして、ロボット人間ばかりの職場は支配者が多いだろう。殺伐としたものだろう。
先生のおっしゃるさりげない思いやりで、みんなが通じ合ってる状態の真逆の状態になってしまいがちだ。
だから感情をゆったり感じるってとても大事なんだ。幸せにいたいなら。

  私たちは、周りの人たちに、心のこもったおもてなしのできるような人間にならなければなりませんし、逆に、そのようなおもてなしを受けた時に、相手の思いを感じ取り、心の底から感謝の気持ちを持てるようになりたいものです。

  日本には「おもてなし」という文化がある、だから優れた民族であると慢心するのではなく、「本来の日本人のおもてなしとは何か?」ということを振り返り、さり気なくお相手様の個性を尊重しつつ、相手を満たして差し上げるような素敵な日本人になれるよう、日々成長しなければなりません。
〈おばつぶやき〉
なにか、日本人はとくにこういうのが好きで得意なんだよね。
オノヨーコさんが言ってたっけ。日本人は仕事してるとき、瞑想していると。
外国暮らしが長い人にはそう見えるのかもしれないね。

ここのところ、大事にしたいね。けっしてお金で買い占めることのできない部分さ。
これさえ忘れなければ、あいつらが滅びたときに、すぐまた豊かな状態に戻る。
まえよりもっとよくなる。
いいようにとらえれば、いまの、あいつらに買い占められた状態は、こういうことを思い出させてくれているのかもしれない。
日本のよさ、忘れちゃっていいんですかー?って。

  本日は、おもてなしとはどのようなものなのか?ということに関してお話ししました。  また、皆様のお役に立てるようなお話しをしたいと思います。  Dr.Yでした。
〈おばつぶやき〉
先生、むずかしい部分を言葉にしていただき、ありがとうございました!
いつも動画、楽しみにしております。

ところで、Dr.Yさんはお医者様のお仕事に役立つ動画も配信されていますので、リンクを貼らせていただきます。

電子カルテの記入法(外来)①何を書くのか?②どこに書くのか?

電子カルテのキーボードテクニック(外来)③どのようして入力するか:3文字入力・テナント入力・主訴入力セット

電子カルテの操作法:マルチビューアを使いこなす

電子カルテを打ちながら、患者さんとコミュニケーションをとる、というのはお医者さんも大変なのではないだろうか。
「紙を省いてデジタルデジタル」とさっき書いた。
こんなすてきなDr.Yさんだって職場では例外ではないんだ。
そんななかで、うまくやる方法を工夫され、みなさんにシェアされているんだ。
そしてこんなお心のこもった動画も。
先生、ありがとうございます。
そしてみなさんの心がデジタルやコロナ禍やNWOにやられず、豊かで平和にいられますように♡

新型コロナウイルスの院内感染防止に成功した漢方薬、荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)を広めております。先生の論文も出ております

あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」のブログ記事一覧-丸顔おばさんのブログ、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。

感情の取り扱い方法。自分にウソついてもムダよ♡おばさん~理不尽な環境を笑い自分の失敗を笑い飛ばす:上善は水の如し☆Dr.Yさん

2021-03-13 16:45:52 | Dr.Yさんの心のお話

Dr.Yさんが動画を配信してくださった。

理不尽な環境や失敗を、笑いとばす。
笑いたいんならいいけれど、泣きたいのに笑ってしまうと「上善は水のごとし」にならないのではないか。

そんなふうに思った。なぜなら自分にウソついているから。

人は感情を抑え続けると、苦しくなります。見ないフリしてもムダです。
最後は破滅することすらあります。
おそらく多くの人が生まれてきた意味である「精神や魂の向上」からも遠くなります。

私には老子がそのような意味で言ったのか?疑問なの。


理不尽な環境を笑い自分の失敗を笑い飛ばす:上善は水の如し

動画説明欄より転載。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。

貴方が今抱えている問題が、もしも命に関わる問題であれば、それに対して全身全霊を傾けて真剣に対応策を考えなければなりません。しかし、貴方の抱えている問題が、命に関わる問題でないとしたら、そんなものは笑い飛ばてしまうしかないのです。
何故かと申しますと、人生の貴重な時間に、落ち込んだり、腹を立てているような暇などは無いからです。 「厳しいなぁ!でもこれが現実だ!何とかして乗り越えてみせる!」人間という生き物は、このように、理不尽さを笑い飛ばすことで初めて、現実を受け入れることができるのです。そして、直ちに頭を切り替えて、速やかに対応策を練ることに着手しなければなりません。
〈おばつぶやき〉
私は、自分の感情が動いたら、笑い飛ばすことはしないんだ。
ちょっとしたことでも、よく感じてあげるんだ。よく見てあげるんだ。
そうすると、次第に落ち着くんだ。
そのあと、さてどう対処しようかなという気持ちになる。

自分の感情を見ないで無視して押し殺していては、根本的な問題解決はできない。
そのばしのぎの解決しかできない。問題の先送りだ。
人間が歴史的に感情を押し殺して、軽視して見ないできた結果が今の社会だ。
おそらくあいつらがそう洗脳してきた。長年にわたって。
我々はまだ感情の取り扱い方法を知らない。
感情は抑えてていても、蓄積される。それが現実に、「カタチ」になってしまう。
だから感情が納得していないというのは大変なことなんだ。
納得するまでいろんなことを起こしていく。無意識に。
個人の人生もそうだし、社会とは、そんなみんなの集合意識の結果だ。
今なんかみんな怒ってるから、大変よw
とんでもないことやられてるって気づいてる人、多いしね。
マイナスの感情になっているときは、必ずなにかが起きている。
だからちょっとマイナスになったら、なにかあいつらにやられてるサインかもしれないんだ。

個人の人生でも、そういった感情を見てあげて、適切な対処をしなければ、なんどでも似たような問題が起きる。
そして次第にエスカレートしていく。
当然だ。
自分のマイナスパターンを修正せずにやり続ければ、次第に状況がエスカレートしていく。苦しそうな中高年の方はこの状態に陥っている。

それはたいてい支配だ。
自分の感情を見てあげないということは、自分自身を支配しているということだ。
自分への態度と他人への態度は同じだ。
初対面でなんとなく、感情の乏しいロボットっぽい人だなと思っていると、案の定、支配し、される人生を送っていることが、あとでわかったりする。職場でも家庭でも恋人ともそうなっている。
大変だなと思うけど、つきあえないからな。
つきあっちゃうと、わたしもその人と支配関係結ぶはめになるからさ。
わたしはそういう関わりが好きじゃないからさ。
そういう経験することもその人の自由だしな。

 「清く正しく誠実に生きていれば、皆んなから慕われて、楽しくて幸せな人生を送ることができるはずだ!」それは夢物語であって、現実社会では必ずしもそうではありません。 「真面目に努力をして頑張れば、何時かは必ずその努力が報われる時が来るはずだ!」これも、同様に夢物語であり、現実社会はそんなに甘くは無いのです。闇雲に努力をしたとしても、願いは叶うとは限りません。
〈おばつぶやき〉
まじめに生きていても、支配性の強い人は、人との関係においてトラブルを起こす。
そのような人は自分の心や感情を感じることよりも思考偏重で生きている。
「~なければならない」とつねに発想している。人にもそのように要求する。
これだと心通う温かい関係になりにくい。しかし、どうしてかわからず、さらに「仲良くしなければならない」と発想し、「がんばっていい人になって」つきあおうとする。こんな女性たちを都会でよく見かけた。
これじゃ楽しくないだろう。

感情を感じていると、相手の領域に入りすぎているとき、居心地の悪さを感じるものだ。だからすぐ離れてあげることができる。
適切な距離感で、自分の感情を大切にしながらしゃべっていると、相手から見ると相手のことを大切にしているように見えるの。
こうやって自然に「分かち合って楽しいね」と心が通うんだ。

清く正しく生きなければなんて思考するより、こういうことに気づいて経験を増やしていくことが大切だなぁと思う。

 もしも人生に、理不尽な人間関係や、勉強や仕事などの失敗というものが無かったとしたら、人生は無味乾燥な物になってしまうでしょう。
〈おばつぶやき〉
仕事や勉強も、実力が伸びない場合は、感情がなにか嫌がっているからだと思う。
好きだからやっているのではなく、~なければならない、で思考でやっていると伸びない。 感情の満足が伴っていないと伸びないからな。無理にやっても限界がくる。
また、実力の問題ではなく、人との関わりや経験不足からくる失敗もあるだろう。
だから、「嫌なことなんてやめちゃって、自分の感情や五感を感じて好きなことをしなよ」って結論になっちゃうんだけど、いきなり100%そうするのはハードルが高いから少しずつできるところからってことだ。おばさんはそうしている♪

あたかも、波乗りのチャンピョンを目指して海に出かけたけれど、あいにく海は穏やかで波一つ無い状況であった。それと同じことであるとお考えください。荒波に揉まれ、何度も落ちては這い上がり、またチャレンジしてみる。また失敗して再びチャレンジをする。それを繰り返して、ビッグウェーブを自由自在に操ることができる、波乗りのチャンピオンになれるのです。

  人生の目的は、様々な体験を通して多くを学び、人生の荒波の波乗りチャンピオンになることです。 貴方が、理不尽な環境の中で揉みくちゃにされ、必死に這い上がり、絶望の淵に立ち尽くし、「神も仏もあるものか!」そのような体験をしているとしましょう。そんな時に、「悩んでいても仕方ない!世の中は思い通りにいかないものだ!頑張るしかない!」そう思って、笑って現実を受け入れ、今できる最高の選択肢を選び、必死で前進して這い上がるしか無いのです。
〈おばつぶやき〉
むりやり、やせ我慢で、笑って頑張るしかないと思おうとするのではなく、感情の声を聞けば、自分が落ち着くし、解決策も見えてくる
そうなると自然に笑みがこぼれてくるはずだ。
なんでも自然が一番だ。老子が言った「無為自然」とはそういうことだろうと思っている。
そこに熟達すると、波乗りのようにチャレンジしたいという意欲が自然に湧いてくるだろう。

つらい感情をやせ我慢して、やけくそで特攻隊のように突っ込んでいくことは、わたしはおすすめしない。結果が明らかだからだ。
感情を無視しているならば冷静な分析もできていない。その状況で突っ込んでいくことは危険だ。

  本日は、理不尽な環境を笑い飛ばし、自分の失敗を笑い飛ばす生き方についてお話しします。
  貴方は街中で、いつも笑顔で挨拶してくださり、目立たないところで、社会の役に立つような作業をしている、中年期から高年期の人たちを目にする機会があると思います。そのような人たちは、多くの人たちが面倒だからやりたく無い、そう思っているような作業を、嫌な顔一つせずに黙々とこなしています。
若い人の目には、今まで真面目に生きて来なかったから、高齢になってこんな仕事をしているのだろう?そのように映るのかも知れません。しかし、それは大きな誤解です。そのような人たちと立ち話をしてみると、実は強く逞しく優しく謙虚で責任感溢れる優しい人たちであることが分かります。
〈おばつぶやき〉
職業に貴賤はないと思うし、誰もが憧れる職業をプレッシャーのなかでやってるよりも、お掃除などの仕事を気持ちよくやっているほうが幸せということもある。
わたしが中高年の方を見て、ときどき気になるのは、長年にわたって溜めこんできたマイナス感情だ。
うまく自分の感情を感じて、愛することを知っている人は、なんの職業でも、なにをしていてもステキな感じだ。この感じの人は他者の自由を尊重することが自然にできている。豊かな人間関係を築いている。
反対に、マイナス感情がいっぱいになってどうしていいかわからず、垂れ流し状態である人はつらそうだ。こちらはたいてい支配に生きていて、他人とくっつきすぎているのでトラブルが多く悩みがちだ。

自分を大切に、自分の心を軸にして生きている人は、他人に必要以上に干渉しないからな。自然にそうなるんだ。だから自分の感情にいる割合を増やし、思考を減らすと、支配からも外れていく。反対の思考中心の人は支配者になっていく。

例えば、嫁姑問題で悩み、友達に相談。
相手が悪い、相手がこうすべきだ!とあれこれ思考し、その思考からマイナス感情を無限に量産していく。
それを友達にぶちまける。
嫁姑関係がお互いの自由を認めあえない、話合えない関係であって、支配関係であるから苦しく、頭にくるわけだけど、じつは相談した友達とも依存・支配関係だ。
人はいつでもどこでも同じパターンをやっている。
そして、友達ともこんなふうにつきあっていては、やがてトラブルになる。
あるいは友達を味方につけて、姑や夫と争うなど、争いのメンバーを増やしちゃって、よけいにややこしくして、破滅へ向かったりする。
「友達」と書いたけど、これが「子ども」である場合もものすごく多い。
妻が「子ども」と組んで、夫と争うとか。
この場合の子どもは女の子であることが多い。
当事者である自分が相手と向き合うことをしないで、関係ない人を巻き込んで、争う。支配や依存に生きて争っているときほど、これをやりがちだ。
本当に問題を解決したいなら、当事者同士が一対一で向き合う必要がある。
それをしないで争っているのは、つまりは逃げているということだ。
その巻き込まれた子どもも親と支配関係で、親から人間関係のパターンを学んでしまっているから、大人になって親と同じようなトラブルを起こしていく。同じような支配的な戦うお母さんになるだろう。
こうやって親と似たような感じになっていく。代々続いていく。

男の子のほうは引きこもりになりやすいように思う。引きこもりは女性もなるけど、男性が圧倒的に多い気がする。

支配的な親に育てられた結果、女の子は支配的なママ・妻になり、男の子は引きこもり。このパターン、今の日本に多いように思う。

こんなパターンに陥っていたら、笑い飛ばす前に、自分の感情を感じることだ。
当事者も巻き込まれた人も。
それで落ち着いてから、なにが嫌だったのか、どうすれば自分の心が納得するのか。という方向に進み、じゃあ、相手にどう働きかけようか、という発想になっていく。

そのように自分の心を大切にすることで、問題解決ができるようになれば、自信もつくし、不安も恐れも怒りも減っていくし、自然に心が穏やかになり、先生のおっしゃる執着しない心境↓になると思うんだ。

 「上善は水のごとし」という言葉があります。これは「老子」の八章にある有名な言葉です。つまり「最高の善は水のようなものでなければならない」という内容であり、最高の人生のありかたは、水のように生きるべしと説いています。 「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処(お)る。」水は万物に利益をあたえながらも、器に従って形を変えて自己を主張せず他と争わず、誰もが嫌うような低い方へと流れて、自らは低い位置に身を置く」水は自分の存在を主張しないで、低い方へ自然に流れていきます。水のように行動してこそ、心穏かにすごすことができ、また円満な人間関係を創り上げることができるということです。そのような水の性質を、最高の善の例えとした言葉です。
〈おばつぶやき〉
老子。無為自然。孔子の儒教は支配者のためにつくられたように思えるのですが、老子はわりと好きだ。
そう考えていくと、『老子』でいう「無為」とは、意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味しているといえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。

私はここ↑でいう
「意図や意思、主観」=思考、執着
「道」(天地自然の働き)=宇宙=感情=愛
と理解している。

私たちの感情も自然の一部で、宇宙そのものだと思っています。
だから思考で感情を抑えたり無視している状態は、あるがままではないと思うのです支配していると思うのです。愛や宇宙を抑えて生きなければと思い込んでいるということです。これでは最後破滅します。
マイナス感情をやたらと他人にぶつけるのはトラブルになるでしょうが、自分自身でやさしく自分の感情を感じることは無害です。
無害どころか、自分を愛で満たすことも、問題を解決するヒントも、能力を伸ばすヒントも感情を感じることに隠されています。
たぶん実際に経験しないと信じられないかな?
感情のままに生きたら大変なことになると、多くの人が思い込んでいる。社会で一生懸命、現実的に生きてきた方ほどそうだろう。
しかし私にいわせれば、感情を抑えてやみくもに行動すると、自分も他人も支配してしまい、トラブルを量産するだろう。こっちのほうがよほど危険だ。

本当は無意識の自分の深い部分では問題の解決方法も自分の可能性も知っています。その無意識の声が感情です。
だから笑い飛ばしてしまってはもったいないと思うのです。

上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。)

非常にわかりやすいたとえです。水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を私たちに与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります。 
(中略)
柔らかくてしなやかな水は、時には金属や岩のような頑丈で重いものを動かすこともある。さらにどんな形にも姿を変えることができる水は、ちょっとした隙間にも入っていくことができる——たしかに普段は穏やかな川の流れも大雨ともなれば増水し、濁流となって重い岩を動かしたり、山を削り取って地形を変えてしまうこともあります。さらに現代では、水をノズルで噴射して金属を切断することだってできます。
 
古代中国において、水は四角い器に入れれば四角になり、円い器に入れれば円くなるように、柔軟なものの代表でした。老子はもっとも柔らかい水に大きな力が潜んでいることも理解したうえで「上善は水の若し」と述べたのです。

私は
「道」(天地自然の働き)=宇宙=感情=愛
と理解している。
感情は水みたいだと思う。感情もエネルギーだから。
老子も人の心のそんなところ、わかってたんじゃないかな。その老子は水はやわらかいものであると同時に大きな力が潜んでいることも理解したうえで、上善は水のごとしと言ったという。感情は目に見えずカタチがなくやわらかいものだけど、とてつもない力がある。「愛」だからな。すべてを生かし、育て、問題の解決をするのは「愛」だけだ。これがないと問題解決しない。
(だから私はDSの話といっしょにこんな話を書いている。やつらが滅亡し丸くおさまるかどうかも我々の愛の分量にかかっている)

感情は感じてあげることで、流れるようにできている。水のように流れたり、蒸発したり、たまったりする。抑えていると、古い感情が滞って腐敗してしまう。
だからマイナス感情ほど丁寧に目をそらさずに感じてあげる時間をとってあげたい。
それだけで、うつ状態から抜ける運びになったり、いろんないいことに繋がっていくんだ。

上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
【おば解釈】
最高の善は水のようにやわらかく流れているものである。宇宙である。感情である。感情こそは愛であるから、人に恵みを与え、育てる。と同時にマイナス感情になれば苦しいこともある。でもこれを上手に扱えるようになることが道である。

  その一方で、偉くなりたい、お金持ちになりたい、有名になりたいと思い、大成功を収めてマスコミや大衆の注目を集めて、社会の中で活躍している人がいます。その人たちの姿を見て、自分もそうなりたいと思う若者がいるのかも知れません。しかし、そのような人たちの中には、見かけとは裏腹に、現実、即ちプライベートでは、満たされない問題を抱えている人が多いのです。側から見て幸せそうに見える家族はいますが、家族の中では冷たい風が吹き荒れている場合が多いのです。

有名人の自殺や離婚、麻薬などの犯罪に関するニュースを良く耳にします。「幸せはその人の心が決める」という言葉の通りで、「その人が幸せを感じることができるかどうか?」というのは、その人を取り巻く環境によるのではなく、その人の心の持ち方によるのです。

  世の中には夏休みや年末年始にハワイに行かないと気が済まない人がいます。でも、ハワイなどに行かなくても、庭の草木の成長を見守っている方が楽しいと思う人もいます。ハワイに行くことに魅力を感じない代わりに、周りの人たちのために役に立つことに喜びを感じる人たちもいます。世の中には、酒を飲まなければ、生き甲斐を感じることができない人もいますが、逆にお酒を飲むこと自体が人生の無駄な時間であると感じる人もいます。

  地位と名声と富を手中に収め、昼間は胸を張って輝いて生きているけれども、夜になると孤独感に苛まれ、生きていることが虚しいと感じ、酒を飲んで紛らわしているような人たちが大勢いるのです。 人前では胸を張って堂々と生きているのに、独りになると虚しさを感じ、酒で虚しさを紛らわして生きるような、表面的な見せかけの幸せではなく、生きていることそのものが幸せであり、生かされていることに感謝することができるような生き方こそが、「上善は水の如し」ということになるのだと思います。

〈おばつぶやき〉
豪勢に派手に生きようと質素に生きようと、すべては自分の感情を感じているかどうか、他者に支配と依存でくっついてないかどうか、だけだ。
それは他人目線で生きているか、自分目線で生きているか、に言い換えることができる。
豊かに生きること自体は悪くない。質素が好きなのもよい。酒を飲むのももちろん自由だ。
ただ支配のやり方で成功した場合、本人はトラブルが多く、人とも心が通わず不幸であることが多いということだ。すると楽しい酒というよりも、酒におぼれてしまうのだな。なにをしてもそんな感じで破滅してしまう。

  それでは、どのようにしたら、水のように、周りの人たちに利益を与えながらも、理不尽な環境の中で自己主張せず、人と争うことをせずに、誰もが嫌うような仕事を喜んで引き受け、地位も肩書も求めず、自然の摂理に従って生きていくことができるようになれるのでしょうか?
 目の前に起こった出来事から目を背けること無く、自分の役割を果たすために、今できる最高のことを実践していくことで、水のように自然体で生きることができるのです。
〈おばつぶやき〉
自分を愛で満たすことも問題を解決するヒントも、能力を伸ばすヒントも感情に隠されていますから、それが分かれば、自然と他人も幸せにしていると思います。
そうしようとしなくても、愛と調和を実現できる人がいれば、そこは幸せな場所になりますから。
そういう感覚で、争うための主張ではなく、愛や責任に関わる必要な主張はして、環境を改善したほうがいいこともたくさんある。

  人生の目的とは、様々な体験を通して、学び成長することです。そのために必要な体験ができるように、様々な試練が準備されています。その試練を避けて通るのではなく、果敢にも試練と向き合い、解決方法を模索するのです
〈おばつぶやき〉
解決方法は自分の感情が知っている。果敢に向き合わないほうがいいときもある、避けた方がいいときも逃げたほうがいい場合もある。
コワいなら、自分の実力ではまだムリだというサインかもしれない。
あるいは、相手があくどすぎて、離れたほうがいいというサインかもしれない。
ケースバイケースだ。丁寧に見極めることだ。
感情をおろそかにしている人たちは、この見極めがザツなように思う。
自分の心を丁寧に感じていないから、状況の見極めと分析も丁寧にできないだろう。感じ取れないのだろう。
自分と向き合ってないと現実とも相手ともじっくり向き合えないんだ。

その過程で人は成長できるのです。 過ちを犯してその結果、不幸な転機を取ることは、まさに因果応報そのものです。不摂生をして病気になる。危険な場所に立ち入り事故にあう。真面目に勉強せずに試験に落ちる。これらは、誰もが自業自得、仕方ないのでは無いかと思います。 
 しかし、真面目に一所懸命頑張っているのにもかかわらず、パワハラに遭い、悲しい思いをすることもあり、また必死に努力したのにもかかわらず、結果を出せないこともあります。
どうして、人生に於いては、このような理不尽なことが起こるのでしょうか? もう一度人生の目的を再確認しておきましょう。人生の目的は、様々な体験を通して多くを学び、人間性を高めることです。その人には、その人に相応しい試練が、適切なタイミングで、用意されているのだと思います。

果たして自分に試練が乗り越えられるのだろうか?そのように心配されるかも知れません。しかし、心配する必要は全くありません。乗り越えられないような試練は与えられないからです。強く逞しい人には、それに相応しい大きな試練が与えられます。そうで無い人には、それなりの試練が与えられます。「どうして、このような大きな試練が私に降りかかってくるのだろう?」そう思っている人は、私はこのような大きな試練を乗り越えるだけの力があるのだ!そのようにお考えください。貴方よりも大きな試練を乗り越えで頑張っている人が、世の中には大勢います。試練が与えられているのは、貴方だけではないということにお気付き下さい。  冷静に現状を分析して、今できる最高のことは何か?ということを考えて、行動するだけで良いのです。冷静に周囲を見渡せば、自分を支援してくださる協力者や、それを利用すれば解決できるようなチャンスが準備されていることに気付けると思います。どうしよう!と焦る気持ちがあったり、不安に思う気持ちがあったり、どうして!と不満を持つ気持ちがあると、冷静に分析して、名案を思い浮かべることはできません。 現実を受け入れて、初めてどのような状況なのか?どうすべきか?今できる最高の対応策を練ることができるのです。  それでは、絶対の淵に立った時に、どのようにすれば、現実を受け入れることができるのでしょうか?私の成長のために、こんなに大きな試練を準備して下さった。乗り越えられない試練は与えられない。
〈おばつぶやき〉
例えば、理不尽なことをされてもノーが言えない人は、いつどこに行っても、強引な人から理不尽なことをされるという目にあうだろう。でも自分の気持ちを主張することを学び、できるようになれば、もうあまりそういう人に出会わなくなる。

よく人から裏切られるという人がいる。でもよく聞いていると、その人は人に対して強引であったりする。裏切った人は、いいかげんそういう強引なのがイヤになって離れたんだと判明したりする。
ならば、人に対して強引にする癖に気づいて、丁寧に気持ちを確認しあうことを学べば、もうそういう裏切りにはあいにくくなる。

自分自身ができてないから、同じ問題が起きているということのほうが圧倒的に多い。
似たようなトラブルが多いなら、そういう原因が自分側にあることがほとんどだ。
ということは、これも丁寧に見ていかないと気づけない。
自分の感情を感じていないと、丁寧に見るということができないんだ。
そのとき、裏切られて頭に来た、とか、理不尽なことをされて悔しいという気持ちを抑えて笑い飛ばして見ないでいると、こういった根本的な原因に気づけないだろうと思うの。

そう考えて、理不尽な現実を笑い飛ばしてしまうのです。落ち込んでいる暇は無い!よし、何とかしてみせる。乗り越えるためには、どこかに、チャンスがあるはずだ!どこかに、協力者がいるはずだ!絶対に何とかしてみせる。楽しみだなぁ!  このような体験を通して、人は強さと優しさと謙虚さを学びます。「涙の数だけ強くなれるよ!」という唄がありましたが、乗り越えた試練の数だけ、人は強く逞しく優しく謙虚になれるのです。
〈おばつぶやき〉
涙はやたらと流さずにすむならばそのほうがいいと思うの。わたしは。
根本的な原因を丁寧に見つけて改善しちゃえば、もう起きないんだもん。
だから思考で自分を律して生きるのが合理的で安全だとみなさん思っているけど、わたしは感情を感じることを大切にして、根本的な原因を丁寧に探し当てた方が合理的で省エネだと思うの。
だから、私自身はわりと楽に生きてるの。のんきなの。
DSやそれに苦しむ人を見て、泣きながら「あんたそんなのやめちゃいなさい」とブログで叫んでるだけなのw

その結果、「上善は水の如し」という生き方ができるようになるのです。 「お釈迦様 が悟りを開いた」という悟りとは、正にこのことを指しているのだと思います。私たちは、菩提樹の下でいくら瞑想しても、悟りの境地に至ることはできません。自分の意思で、滝に打たれるなどの修行を行っても、それは自己満足であって、残念ながら悟りの境地に達することはできません。自分自身を磨く試練は、自分で自分を追い込むことでは無く、自然界から適切な時期に、試練として与えられるのです。
〈おばつぶやき〉
そう思います。私も周囲の人もちょうどいい時期にマイナスパターンに気づくための試練が来ています。
これ前世からやってるパターンであったりするからねw
気づけないと、死んでも終わんないからねw
受け流してても、気づくまでまた来るし。エスカレートしてw
でも気づくと終わるのね。で、案外カンタンなことであったと分かるのね、過ぎてしまうとw


それが、人間関係の理不尽と、学業や仕事の失敗体験なのです。  そのような試練を幾度となく乗り越えることで、河原の石のように角が取れ、人間もどんどん丸く丈夫になります。いつも笑顔で、謙虚で責任感溢れる、強くて優しい人になり、四季折々の草木に癒され、他人の役に立つことに喜びを感じて、正に水のように生きることができるようになるのです。

  皆さまが逆境を乗り越えで、もっともっと素敵な人になれるよう、理不尽な環境を笑い飛ばし、自分の失敗を笑い飛ばして飛躍する人生を送っていただきたく思います。皆さまに、試練を乗り越えるだけの強さが授かることを願っております。 「上善は水の如し」私の目指している生き方です。  また、皆さまのお役に立てるようなお話しをしたいと思います。  Dr.Yでした。
〈おばつぶやき〉
だから、こんな自分の感情と言動のパターンと現状の関係が分かって、解決できちゃうと、たしかにこれまでの失敗なども笑えるようになるんだ。
けどそれは結果笑えるようになるのであって、心が苦しいうちにムリして笑い飛ばすと、大事なことが見えなくなって、愛から遠ざかる危険もあるよと言いたかったの。
目指す結果のところは賛成です。
ただそこまでに至るプロセスこそが大切で、お勉強で、愛だからさ。
そのために生まれてるんだから。

ここに至らずに、顔で笑って、心で泣いて我慢して生きている中高年の方を見ると、私はすこしつらくなるのね。
でもこの方たちもいつかは必ず、気づく時がやってくるのね。てゆうか自分でそういうチャンスを作るのね。それは来世かもしれないんだけど。
だから人に無理に教えてあげなくてもいいんだ。
単にまだ経験したいというだけなんだ。
時期が来ると自然に話してあげる運びになったりするんだ♡


あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」のブログ記事一覧-丸顔おばさんのブログ、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。

新型コロナウイルスの院内感染防止に成功した漢方薬、荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)を広めております。先生の論文も出ております