Dr.Yさんが安楽死と尊厳死に関する動画を配信してくださいました。
わたし、これを見て、ALSの方の安楽死ニュースを思い出し、調べてみた。
「全身の筋肉が動かなくなっていく神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症した京都市の女性から頼まれ、薬物を投与して殺害したとして、京都府警捜査1課などは23日、嘱託殺人の疑いで、呼吸器内科医の大久保愉一容疑者(42)=仙台市=と、医師の山本直樹容疑者(43)=東京都=を逮捕したと発表した。 」
ご本人から依頼を受け、医師が安楽死させたという事件だ。この事件、いろんな方向から考えさせられるな。まずは、医学的な面。緩和ケアというのだろうか。苦痛をやわらげるとか、そういう面。
それから介護の面。そして、ご本人の心の面。そして、医師の倫理などの面。などなど。
それでおばさん、自分自身が感情的な人間だから、この亡くなられた林さんのお心について、感じたことを中心にちょっと書かせていただこうかと思う。
まずね、この林さんはとても優秀でキャリアウーマンでご自分の意志もしっかりした方だったようだ。
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一部、引用。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。***************
また、自分と同じ悩みを抱えた人々に対する関心と共感と配慮も示し続けている。大人の重度障害者が子どものように扱われているというツイートに「看護婦さんにも多いんだよね。幼児に話しかけてるの?と思う」と反応し(2018年5月31日)、「難病があろうが障害があろうが、一人の人間として尊重され、尊厳をもって扱われなくてはならないはずだ」「介助者や医療従事者が、障害者や高齢者や患者に対して、上から目線のパターナリズムを発揮するのは暴力」と読み取れるメッセージを発している。林さんのツイートからは、「社会的に意義ある存在でいたい」という願いが伝わってくる。
〈おばさんつぶやき〉
他の方のツイートに対する返信ということだが、ご自身も介護されるという状況の中で、いろいろと複雑な思いがあったことが記事から読み取れた。どうしても自分の体が動かず、人さまに生活のすべての面倒を見てもらうというのは、弱い立場に陥りがちだ。
たとえばな、さっきの記事、脳タイプ別悪人 - 丸顔おばさんのブログだけど、わかりやすく、「悪人」と書いたがな、すべての人が多かれ少なかれこういった感じになることはあるのだ。左脳も爬虫類脳もみんな持ってるからな。
こうした特性を少し知って、脳みそを調和して使えるように、すなわち物事はすべて多面的だ - 丸顔おばさんのブログで述べたように、「感じる」ことによって脳を調和させて愛の状態にしていかないと、どうしても支配関係になってしまうんだ。いつまでたっても。あいつらが滅びたとしても。
ほとんどすべての問題の根源に、これがある。介護の問題ももちろんそうだ。
自分の意志で自分の体が動かせない、というのは究極の弱者の状態に置かれるということだ。それでいてALSは、頭や精神ははっきりしているということだ。
まだ、こういったこと↑がうまくできない私たちだ。
介護状態、おつらかっただろうと、思う。
また、脳みその話、書くからな。なかなか実感するのが難しいと思うから。
いっしょに練習していけば、大丈夫だからな。
林さんは、自分が安楽死することに社会的意義を見出していたようでもある。そのことは、「私も安楽死を受けられることになれば、記録を残して公開したい。同じ願いを持つ患者さんに希望を与えたい」(2018年5月10日)というツイートから読み取れる。「安楽生」「尊厳生」といった方向性は見られない。
「死ななくては」という思いは、発病したころから概ね一貫していたようだ。「(筆者注:闘病の)初期の頃 『自分はもはやなんの生産性も無く、税金を食い潰しているだけの人間だから死にたい』と主治医に詰め寄ったことがある」(2018年6月30日)というツイートもある。「生産性」「社会」「コスト」といった用語の意味や範囲によっては、「死んで自分の生存に関わるコストを最低限にするという社会貢献」は、正解となりうる。
〈おばさんつぶやき〉
この部分がわたしは非常にひっかかった。それはあまりにも人間の思考がもたらす思い込みなのではないか?人間を自分の価値をデジタルに考えすぎなのではないか?
人間も、アリンコも、全員がバリバリ働いて、生産性が髙けりゃいいってもんじゃない。バリバリ行くやつと、のんびりしたヤツといろいろいて初めてバランスがとれる。
そして、長い人生を通してみれば、バリバリ活動的に行く時期と、停滞しつつも己を振り返って自分をバージョンアップさせる時期とか、人にお世話になることを学ぶ時期とかいろいろあるぞ。お世話になる側のとき、申し訳ないなって思う気持ちはわかるが、お世話するほうはするほうで何か学ぶこともあるんだぞ。
お世話になっちゃいけないってのは思いこみだ。絶対迷惑かけちゃいけないなんて思わなくていい。困ったときは、助けを求めていいに決まってるんだ。
親の介護などもそうだと思うが、
何が何でも助けろと強要するとトラブル確実だけどな、
いろんな人に無理のない範囲で助けてもらえないだろうか?って言えることが大切だ。
それで頼まれた側も全部引き受けなければならないって思わないで、できる範囲で、なにか楽な方法も探しながら、他の人にも助けを求めながらやっていいと、心から思っていることが大切だ。
「ちょっとこれ以上は無理なんだ」と言えることも大切だ。
そういう話をしながらお互いにちょうどいいやり方をみつけるんだ。
家族だろうとプロの介護の方だろうと。
依頼していい、依頼できるんだってことと、それを心からOKと思えることが超大切だ。
自分が人に頼ることをOKしてないということは、他人に対しても、厳しい目で見ているはずだ。依頼したり、頼ったりするより、自力でやらなきゃだめだろって。そういう人が増えると厳しい社会になっちゃう。
無理なときやしんどいときは人に頼るのOKという感覚で、なるべく楽な方法を話し合いながら、介護される側、する側、ほのぼのと過ごせたならば、それが愛だ。幸せなはずだ。ものすごく貴重な時間になるはずだ。この状態なら、たとえ難病であっても心は幸せだからな。死んだとしても、いい人生だったって思えるはずだ。
だから、病気だから不幸ってのも思い込みだ。
べつに病気だろうと、健康だろうとこの点はみんな一緒なんだ。
その感覚でいられれば、生産性がないから死ななければって思考には絶対ならないはずだ。
難病になろうが、ガンになろうが、老化しようが、そのような気持ちでいたいと思っている。
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でもブログを読ませていただいて、いろんな苦労や、おつらい気持ち、そんななかで大変気丈に心を保っておられたことなどが、現在健康そのものである自分にも感じることができました。動物が好きだったんだね。
介護の関係で、ネコちゃんをとりあげられてしまって、今まで気丈にがんばっていた状態から、なにかがぷっつり切れてしまったのかもしれないね。。。。
あ、また、あつく語りすぎてしまった!Dr.Yさんの動画のご紹介がしたかったのに。
これまで医療の現場でたくさんのご病気の方と接してこられたDr.Yさんのお言葉は実感がこもっています。専門家としてのご見解も単なる医学的知見にとどまらず、先生のハートの温かさやご自身の人生経験から得たことなどを交えて、やさしくお話くださっています。
それではDr.Yさんのご登場です。どうぞ!
安楽死と尊厳死:安楽死は困難からの現実逃避(自殺幇助)・尊厳死は人生をやり遂げたご褒美(自然死)
説明欄、転載****************************************
仏教用語に生老病死(しょうろうびょうし)という言葉があります。文字通り、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことが、人生に於いて人間が免がれることのできない4つの苦悩とされています。
若くて体力のある時には、死は遠い先のことであり、今の自分には無関係なことと感じ、死を意識しながら生きることはありません。 しかし、歳を重ね身体の自由が利かなくなり、将来に対して夢も希望も無くなり、移動するのにも介助が必要になると、周りに迷惑をかけずに早く逝きたい!そのような気持ちになることは仕方が無いのかも知れません。
老化に伴う体力の衰えと生き甲斐の喪失が高齢者の苦痛なのです。
癌の末期で、亡くなる数週間前になると、食欲も無くなり、身体が怠くて歩くこともできなくなるため、排泄するにも人の手を煩わせるようになります。
定期的に痛み止めを服用して痛みを抑え、息苦しい時には酸素マスクを使用します。時間とともに病状が悪化していくことを実感しながら、無力感の中で、家族に対して責任を果たせなかったことに後ろ髪を引かれます。このような数ヶ月間の肉体的苦痛と精神的苦痛が癌の末期の苦痛です。
筋萎縮性側索硬化症ALSを煩い、手足に力が入らなくなり、徐々に症状が悪化すると歩くことが困難になり車椅子の生活になります。口や喉が動かなくなると、会話で自分の気持ちを伝えることが困難になります。口から食べることもできなくなり、栄養補給のために胃瘻から経管栄養を実施することになります。
さらに進行すると、自身で呼吸することができなくなり、気管切開をして人工呼吸器の補助が必要となります。ところが意識は清明で精神的な活動は障害されないので、年余にわたり、自由が効かないという精神的苦痛がこの難病の苦痛です。
この世に生を受けた人は、いつの日か必ず死を迎えます。死を恐れるという言葉には2通りの意味合いがあります。1つは、死んだ後どうなるのかという恐怖と、2つ目は死ぬ時に苦しむのではないかという恐怖です。
死んだ後どうなるのかを心配しても仕方ありません。誰もが順番に体験することであり、生まれる前の世界に戻るだけだと、気軽にお考え下さい。
死ぬ時に苦しむことは避けたいと、誰もが考えます。私の医療経験を振り返ってみますと、人間は重体となって命の危機に瀕した時には、脳からモルヒネ様物質が出て意識が朦朧となり、苦痛を感じないようにできていると思えます。その理由として、回復して集中治療室から一般病棟に転床できた患者さんに対して、退院の時に集中治療室での体験を聞いてみると、誰一人として苦痛の体験を覚えていないからです。
しかし、末期の状態の患者さんが苦痛を訴え始めて朦朧となるまでの短期間、一時的に苦しみを強く感じてしまうこともあります。
このように、この世を去る時に少しでも苦しみを少なくするようにお手伝いする行為が尊厳死を認める医療です。 生きているのが辛いから自殺したいけれど、身体が不自由なので自殺することができないという状況下で、本人の意思を尊重して自殺を幇助する行為が安楽死であり、これは正しい医療行為とは言えないと思います。
本日は、安楽死と尊厳死の違いについて考えてみたいと思います。
誰もが平穏無事な毎日を過ごすことを願って生きています。しかし、生きている限り様々な問題が後から後から噴き出してきます。そのような試練を乗り越えることで人間は成長します。
書物を紐解いて知識が身についたとしても、それは人間の成長には繋がりません。自ら試練を体験して、試行錯誤の中で道を切り開く過程で人間として成長できるのです。 人間が成長する為に必要な試練は、必要なタイミングで必要な種類の試練が与えられます。
親子関係、友人関係、夫婦関係、上下関係、近所付き合いなどの人間関係は大切なカリキュラムです。また勉強や仕事の成功や失敗の体験も貴重なカリキュラムとなります。そして、老化や病気も人間の成長にとってとても重要なカリキュラムの一つなのです。
人間という生き物は、大切なものを失って初めて、その価値に気付き、感謝の気持ちを持つことができるようになります。 健康の有り難さに気付く為には、度々病気を体験する必要があります。 生きていることに感謝し、その有り難さに気付く為には、生きるか死ぬか瀬戸際の体験をする必要があります。
Dr.Yも東洋医学を学び、生き物は自然界の中で生かされているということに気付かされ、私達は太陽のお陰で生命を維持できていることを理解できました。しかし、太陽を見ても「ああ、有難い!」と感謝の気持ちを持つことはできませんでした。
40歳の時に急性虫垂炎・腹膜炎で手術を受け、その半年後に絞扼性イレウスで手術を受けました。お腹の中で腸が捻れて腐る病気です。激痛に悶絶しモルヒネを3回注射されても激痛は治らず、「間違いなく腸が腐りかけているから手術して!」と自ら同僚の外科医にお願いして、緊急開腹手術を受けました。結果的には、腸が捻れて紫色に変色していましたが、間一髪腸切除は免れました。
麻酔が覚めて、あの激痛が無くなっていることを実感し、健康の有り難みを感じ、生かされていることに感謝することができました。
そして、朝日が昇るのを窓から眺め、太陽に感謝して涙が溢れました。自らの身体が腐っていくという壮絶な苦痛体験のお陰で、それまで自分が抱いていた感謝の気持ちは偽物であり、本当に感謝の気持ちを持てた時には、嬉しくて自然と涙が溢れ出ることを学びました。
今になって考えますと、感謝とは何かということを学ぶ機会となった壮絶な苦痛体験に対して、有難い体験をさせて頂いたと感謝しています。
絶望の淵に立っている時に、何故このような事が起こるのだろう!と落ち込んでいるだけでは先には進めません。これは、自分の成長の為に必要な試練なのだ!落ち込んでいる場合では無い!何とか乗り越えて見せよう!そのように考えて現実を受け入れ、前向きに考え乗り越えて初めて人間は成長できるのです。
回復の見通しが立たない進行性の病気を患い、自分の思い通りに身体を動かすこともできず、自分の気持ちを周りに伝えることもできない。私のせいで家族や介護者に膨大な労力・経済力の負担を強いている。もう生きていても仕方無いから早くこの世を去りたい。絶 望の淵に立った時に、誰もがそのように考えると思います。 そのような状況の中で、困難な現実から逃避するために、自らの命を断ちたいけれと、身体が思い通りならないので、自らの手で自殺することもできない。それで、協力してくれる人の手を借りて自殺する行為が安楽死なのです。 安楽死は現実逃避であって、折角の学びのためのチャンスを奪う事になります。困難な状況に対して不満や不安を持つのではなく、現実を受け入れて、命ある限り精一杯生て自分の役割を果たさなければなりません。
生きていることを恨むほどの辛い状況であっても、それを受け入れることで、生きていることに感謝でき、この世界を作り上げた創造主に感謝できるようになります。また、自分を支えてくださる人達に対して、深く感謝の気持ちを持つことができるようになります。
ALSの患者さんは人工呼吸器を装着しながらでも、眼球運動によるパソコン入力が可能な時代になり、様々な手記を私達は目にすることができます。「最初は絶望し死にたいと思いましたが、現実を受け入れた今は、生きている幸せをしみじみと感じ、皆様のお陰で生かされていることに深く感謝できるようになりました!」という内容の手記を拝見すると、健康な人には得られない大切な心の財産を勝ち得たのだなぁ!と思わざるを得ません。ですから、この喜びを感じていただく為に、絶望の淵に立っている患者さんの自殺を幇助して安楽死を手伝うのではなく、生きる勇気と強さを授かるように支援することが、周りにいる人間の役割なのです。
癌の末期の患者さんは、怠さ、痛み、息苦しさなどの肉体的苦痛で苦しむ人がいます。痛みに対しては痛み止めで対処できますが、息苦しさは酸素マスクをする以上の方法はありません。酸素マスクをしても息苦しく、もがき苦しむような状況になる患者さんが時々います。そのような患者さんに対しては、麻薬や鎮静剤で苦しみをとるような処置をします。必死でもがき苦しんでいる患者さんに麻薬や鎮静剤を使用すると、患者さんの苦痛が取れ、表情が穏やかになりますが、その代わりに血圧が下がり、そのまま意識が無くなり、呼吸も止まってしまい死期を早めてしまうことになります。これが尊厳死です。
麻薬や鎮静剤を使用すると、患者さんの苦痛は取れますが、そのまま血圧が下がって呼吸が止まる可能性があることを、予め家族に伝えておきます。ひと昔まえまでは、「できるだけ心臓を長く動かしておいて欲しい』と主張する家族の為に、苦しみを我慢させるような状況もありましたが、現代では、「もう充分尽くして頂きました、早く楽にしてあげてください」と患者さんの苦痛を取り除く医療を希望される家族が殆どです。家族が横で手を握りなから、「良く頑張ったね!お疲れ様!もうこれ以上頑張らなくて良いからね!ゆっくり休んで下さいね!」というような言葉をかけながら最期を迎える。これが尊厳死なのです。
人生とはトランポリンのようなもので、落ちたり昇ったりの連続です。落込みが深いほど、乗り越えた時には高くまで昇れます。絶望が深ければ深いほど、乗り越えた時の喜びはより高く絶頂感を味わうことができます。
絶望の淵に立ちそれを乗り越えて絶頂に沸き、また絶望の淵に立たされてまた乗り越えて絶頂を味わう。それを繰り返す過程で、豊かな人間性を獲得できるのです。辛いからと言うことで、人生半ばにしてトランポリンから降ろしてしまうのが安楽死、トランポリンを充分使いこなし人生トレーニングが終了しトランポリンから降りる時にお疲れ様と言って手伝って差し上げるのが尊厳死なのです。
予期せぬ事故や病気で障害者となり不自由な状況に追い込まれた時にその人がとる行動パターンには、卑屈になる人、悲観的になる人、悟りを開く人の3通りのパターンがあります。その比率は、卑屈になる人が60%.悲観的になる人が30%.悟りを開く人が10%であると思います。
悲観的になっている人を励まし、悟りを開く方向に支援することが、周りの人達に与えられた使命なのだと思います。
本日は、安楽死と尊厳死は似て非なるものであるというお話しをしました。 また、皆様のお役に立てるようなお話をしたいと思います。 Dr.Yでした。
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