丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

やさしい方、自分を守ることを忘れていないかい?

2022-09-30 20:55:22 | 心の解放シリーズ
今回は、周りの方を思って、ここまでできる限りのことをしてきた実感のある方に向けてのエールだ。

みなさんは自分にやさしくしているかい?

私はなんだか最近、自分がかわいそうになってきた。

けっこう自分の心が傷ついていることに気が付いた。

身内の健康を案じて、さりげなく嫌がられないように、この危機を伝えなければと思ってやってきたけど、通じないことのほうが圧倒的に多い。

できる限り発信したけれど、ついに、自分の身近でも訃報やら痛ましいことが聞かれ、陰謀論や妄想でなかったことが証明されつつあって、今、とても悲しい。しみじみ悲しい。

なのに、通じないだけならまだしも、嫌がられたり、嫌われたり、攻撃されたり。(工作員の攻撃はべつにいいの。今回は身近な愛する人からって意味ね)
そして愛する者と疎遠になったり。
(分断ってやつだね。これもあいつら狙ってやってるよ)

愛している者のことを誰よりも思って、ベストと思う行動をしているのに。
選択を押し付けているつもりはなく情報を伝えたたけなのに。
なんだ?この疎外感は。

これでは「私」が相当にかわいそうではないか?って。

ふと、こんなふうに思った。

こんなふうに人の立場にたって一生懸命になってしまいがちなときほど、
自分をかえりみることを忘れているもんだ。

相手に傷つけられても関わり続けるということは、
私が私を粗末に扱ってしまっているともいえる。
そのとき、相手に入りすぎていて、相手の選択に入りすぎている。

相手の選択を認めることはわかっているけど、それでも今回は命かかっているから、なるべくギリギリまでできることをしたいのが人情だ。

じつは、こんなときほど、いったん「自分を大事にする、守る」っていうところに戻ったほうが、相手に対しても、適切になれるんだ。

相手が嫌だという反応をしているなら、これ以上関わると、争いになるし、自分もきつい。傷つく。
自分がそんなふうに扱われる理由はない。だって、私はただ相手を守りたいだけだ。

最終的には相手の選択を尊重するしかないことも知っている。大変なことになったとしても。

ならば死ぬ恐れがあるとしても離れるしかない、私のことも守ろうってすると、相手の選択も尊重してあげられる

なんという、きわどい恐ろしいご時世になってしまったんだ。。。
と思ってまた悲しくなるんだけど。

でも、
私を攻撃したり「黙れ」と命令してでもそうしたいわけだから、もうここまでだ、と。


ワクチンを打ちたいという意思がある。
情報を教えてあげた結果、死んでも、障害状態になったとしても、自分でいろいろと解釈して打ちたいとする。

ならば相手にはそうする自由がある。
つらいけれど。

人によっては、
自分を心配してくれる人を攻撃したり、恫喝したり、疎遠にしてでも打ちたいんだと。
こう発想すると、大事な人が厳しい結果になったとしても、少し、心のつらさが軽減されるかもしれない。
それほどまでの意思だったんだと。
同時に、そう自覚することで、「私自身の心」が少し楽になるのではないか?って。




人の反応は、本当にそれぞれで、
ちょっと言われただけで過敏に反応して嫌がる人もいれば、
「聞きたい、教えてくれてありがとう」という方、
「うんわかった、でもやっぱ打つわ」という方までいろいろだ。

攻撃したり嫌ったりする人は、
深いところで本当は自分をものすごく責めていて、自分の判断に誤りや非があるとなると、受け入れることができないという方も多い。

すでに残念な結果が出ているならばなおさら、「もう言わないでくれ」という反応をされる。

あるいは攻撃したり、キレたりするしかない人もいる。
これが自己否定の裏返しだとしたらどうだろう?

これまで俺の判断が正しいんだから黙ってついてこい、と生きてきた年配の男性などに多いかな?

この感じだと、純粋な思いやりから言ってあげたとしても、
責められたと受け取って、キレたり、ふてくされる人も
(ワクチンに限らず)

これだと建設的な話し合いができないから、今までも問題を解決したり、危機を回避することができていないわけだ。
そういう実績は本人が一番よくわかっているので、その方は、根底では自信がないはずなんだ。
だから、なにか言われるとすぐ責められたと感じて、話ができないんだ。

問題解決できる人は話し合える人だから、そういう方はそんなに支配的ではないはずなんだ。
対等に人と向き合えて、聞く耳があるはずなんだ。
これだと人と心が通う関わりができて、いい結果になって幸せっていう経験をたくさんしているはずだから、精神状態もいいはず。

命がかかってきた今、
問題解決・危機回避したければ、そんなつまらぬプライドは置いといて、
これまでの価値観やプライドのフィルターを排して、
物事をなるべく公平公正にあるがままに見て、
素直に自分に落とし込んで「感じる」ことが不可欠なわけなんだけど、
自分の心のこだわりがそれを妨げる。

こうして心がどんどんかたくなになっていってしまう。
頑固にもなるし、だんだん年とともに感情が麻痺してしまうのね。
感じない心は、言ってあげても心に響くことなく、相手の愛までも、はじいてしまうんだね。

その状態でできることといえば、左脳でロボットのように情報処理することくらいだ。
それだと真実とプロパガンダとの峻別もできないから、デジタルに処理しちゃっていて、なおさら話が通じない、となってしまう。

あるいは、そんな俺様タイプでもなく、自信がなく、日ごろから自分がダメだと思い込んでいる人も、人に何か言われると、「責められた」と受け取ってしまう

こちらは「こうすると楽になるよ、これはこういうわけなんだよ」と、楽になる方向、助かる方向に導いてあげたいだけで、責める意図などみじんもなくても、そういうふうに聞こえちゃうんだ。

だからいつまでもこちらの心が届かない。こちらには愛や思いやりしかないとしても。

自分についてなにか言われただけで、「おまえはダメだ」と言われているように聞こえてしまう。

それで攻撃してきたり、嫌ったり避けたりするわけだ。

するとこちらは関われば関わるほど、悲しくなってしまうのね。

こんなふうに自分の心の作り出した世界をみんなそれぞれ生きているんだ。

あなたがどうであろうと、その人は今、そういう意識なんだ。

ときどき、こっちの意図と全然ちがう受け取り方を相手がしていたと判明して、びっくりする。

でもそれもまた本人の自由なのね。自分自身もまたそうだったりするわけだし。

人間のコミュニケーションとはあやふやなものだ。

自己否定が強ければ強いほど、勝手に人から否定されたと受け取る。
相手にそんな意図がなくても。
これだと目の前に愛があったとしても感じられず、受け取れないんだ。
(その逆の状態も、ある。これはハッピーだ。他人やいろんなことが気にならない、こだわりがない状態。ただ状態を経験しているだけなんだ、私たちは。それを否定したり、いい・悪いと勝手に決めているだけだ)

自己否定するのも自由だけど、それも意味がないからやめていいんだ。思い込みだから。

でも、その人が今まだそういたいなら、そういう心のフィルターがかかってしまっている状態だから、人と話をして、自分を建設的に少し変えたり良くしていくってことが難しいだろう。今はまだ。

だから、俺様タイプも気弱なタイプも、同じだ。
根底で自信がなく自分を否定している意識があるので、人の言うことが責められているように否定されているように聞こえてしまうというのがある。

自分を肯定的にとらえている人は、俺様(支配者)にも気弱(犠牲者)にもならないんだ。
誰とでも対等に向き合う意識になるんだ、自然に。(これが自立している状態。自然体で素直だ)

だから自分や他人を否定したり責めてばかりいるうちは、精神的に自立できないってことなんだ。
いくらカネを稼いでいても。立派そうに見えても。

支配者も、犠牲者が支えている。
両者はくっついていて、じつは支配者は犠牲者なしではいられないんだ。

だから、犠牲者が離れると、支配者は一気に崩れる。
犠牲者たちが離れるそぶりをみせると、支配者は慌てて、すごい勢いでキレたりするんだ。
それは恐怖から来るわけだ。わかっているんだな。自分が存在できなくなることを。

そして支配者も、自分より強いものの前では卑屈な犠牲者だ。

だから100%支配者だけの人、100%犠牲者だけの人というのはいない。
相手との力関係によって、両方をいったりきたりしている。
それはあべちゃんでなくとも一般人も同じだ。
はたから見ていると、こんな命の危機せまっているご時世でこんな状態では、心配になってしまう。
これだと情報を伝えても、勝手に否定的に解釈してキレたり、現実を適切にとらえられないからな。

それでも、待つしかないんだ。

非常に、やきもきする。

こんなとき、私だってそういう方たちに傷つけられて、かわいそうなんだから、まずは私を守ってあげよう。
離れて、せめて私だけでも楽しく幸せにいていいんだよって、私に目を向けてあげる。
相手ばかり心配して、忘れていた自分自身。。。
よくがんばったよって。

こうすると、まず自分が楽になる。
そして結果的に相手にとってもそれが適切となる。

必要なことはもう言ってあるので、あとは相手の心の変化や目覚めを待つ必要がある
命かかっていると思うと、そんな悠長なこと言ってられないと思うんだけど、
きつい関わりを続けて、関係が悪くなって心を閉ざし、意地になられるよりは、
そこから離れて、相手の心の成長や気づきを邪魔しないであげたほうが、急がば回れで気がつくのが早まるかもしれない。

関係性も風通しよくなり、よほどいい結果になる場合が多い

ヒントは十分与えたわけだし。


私が楽だと、相手も楽
→相手を手放すのは心もとないけど、相手にも魂の力があって、つねに気が付いたり成長しているからそれを信じてあげる。
本当は、言葉にしなくても愛が通じていて、申し訳ない思いや、
「あいつがそこまで言うということは・・・」と考えていたりもする。
よくなる可能性が出てくる。

私がきついと、相手もきつい
→泥沼になっちゃう。いっしょに破滅?

ってなるのね。

不思議なんだけど、そうなるの。

人の心は。

いっさいの矛盾なく、つじつまがあうんだ。

愛とは。

自分に対する愛とは、他人に対する愛となるんだわ。
私がうれしいと、相手もうれしいのね。

自分を犠牲にすると、相手も犠牲にしてしまう。
結果、周りのみんなが不幸せ、ってなってしまう。

これはやっぱり人間は愛の動物だからなのかもしれない。

だから一言で言っちゃえば、「自分が楽にいる。幸せにいる」ってことなの。なによりも。悩んだら。
すると相手にとってもいいんだわ。

いろいろぐるぐる悩み考えてもいいけれど、結局たどりつく答えはシンプルなんだ。

命かかってるとしてもそうなんだって最近思いました。

そうすると、「相手にどこまで言ってあげるべきか」は、「私が守れる範囲くらいまで」が適切だなとわかる。

それ以上は、もう言っても伝わらないし、相手も意固地になるし、私も傷つくし、お互いにどんどんマイナス状態になっていくということだ。

いやね、私自身が今きつさを感じているわけだけれど、
ほかにもいっぱい、この事態に気が付いて周りに警鐘を鳴らしているやさしい清い方がいて、そういう方が相手との関係がこじれて、悲しみのあまり絶望して生きる気力をなくしてしまってはいかんと思ってね。


打とうとしている人をなんとか守ることも大事だけど、
あなたの心を守ることを忘れちゃうと、これから世の中がどんどんすごくなっていくことが予想されるから、
気が付いてて打っていなくても、絶望したり、もういやだって自滅したくなる気分になるおそれがあると思ったの。

そんなときは、自分を守ってそんな相手から離れたほうが、相手にとってもいいことが起こる可能性が高まるよと言いたかったの。

言えるところで、通じる方に、発信を続けたらいいんだ!

顔が見えなくても、同じ思いの人はたくさんいる!

そしてゲンキンなもので、その人も、自分が苦境を越えて、楽になると、かつて自分が人にしたひどいことを忘れてけろっとしているもんだ。
家族や兄弟であればなおさらそんなもんさ。

だから、しばし疎遠なときがあったとしても、未来は全然わからないんだ。




最新の画像もっと見る