70『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)
ソクラテス(ソークラテース、紀元前469?~紀元前399)は、古代ギリシアの哲学者である。一説には、彫刻家、石工の父と助産婦の母のもとにアテナイで生またという。哲学を志してからは、公開の場(招き役の邸宅や広場など)で議論をよくした。
例えば、彼の弟子のプラトンが後に編纂した「プロタゴラス」には、ソクラテスの弁舌に、ソフィストの代表格の一人としてのプロタゴラスが「まいった」と脱帽しているシーンが収められている。
「「しかるに」とぼくは言った、「勇気と臆病さとは反対のものですね」
そうだ、と彼は言った。
「さらに、恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵は、それに関する無知と反対のものですね」
ここでもなお彼はうなずいた。
「そして、それに関する無知は臆病さなのですね」
今度はやっと不承不承、彼はうなずいた。
「してみると結局、恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵こそが、勇気なのだということになりますね。それに関する無知と反対のものなのですから」」(プラトン著、藤沢令夫「プロタグラス」岩波文庫、1988)
そのソクラテスも、一度国家の危難とあれば、重装歩兵として参戦していたという。50歳近くになるまでに三度参加し、アテネ市民としての義務を果たしたと、弟子のプラトンが伝えている。この間のアテネでは、政治家の筆頭であったペリクレスが死去し、ペストも流行する。そうした意味では、市民たる者は、そして広くアテネの人々は概して安住の毎日を送っていたのではなかったといって良いだろう。
紀元前399年、ポリス社会において伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられる。そのことはクセノフォンも取り上げていて、こういう。
「ソクラーテスは国家の認める神々を信奉せず、かつまた新しい神格を輸入して罪科を犯している。また青年を腐敗せしめて罪科を犯している。」(クセノフォン著、佐々木訳解「ソクラーテスの思い出」岩波文庫、1952)
クセノフォンがいうには、ソクラテスは両方ともに無罪に違いない。だが、それを成すには裁判でそのことを弁論し、裁判官とそこに集う民衆とを理解させねばならぬ。その成り行きだが、当時のアテネは対外戦争のためもあって寛容な世の中ではなかったらしい。大概の民衆の暮らしは苦しく、大方の気分はすさんでいたのかもしれない。あれやこれやで、ソクラテスを弁護する世論が盛り上がらなかったようだ。
それではソクラテス自身はどうであったか。裁判では、身の潔白を得意の弁論で証明できたのであろうが、そこは誇り高き彼のこと、慈悲を請うとかはあえてしなかったらしい。
結局、裁判によって有罪とされる。あえて国法に従い、死の道を選んだため、刑死したといわれる。
その彼の著作は現代に伝わっていないものの、弟子のプラトンとの対話編によってその思想のかなりを知ることができる。哲学者としての、その処世の最大の特徴は、「無知の知」ということで、物事の真実、真理の前に謙虚な探求心を貫いたことにある。
プラトン(プラトーン、紀元前427~紀元前347)は、古代ギリシアの哲学者である。また、政治家ではないものの、政治向きの話をよくしたという。ソクラテスの弟子にして、 アリストテレスの師に当たる。
壮年期からは、「イデア説」を研く。中でも、「哲人政治」を志す。その国家論の一節には、こうある。
「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」(プラトン著、藤沢令夫訳「国家(上)」岩波文庫、601ー7)
支配階級の中からの優れた者、保護者としての政治家による政治の実現を唱える。理想国家を打ち立てるための遊説もしていたのかもしれない。また、人材を育てるべく、アテネの北西郊外にアカデメイアと呼ばれる学園(紀元前387~後529)をつくる。その特徴は、今日の大学教育にも通じるものもあるが、かなり異なる面がある。
その1として、ちゃんとした建物は持たず、またカリキュラムもない。その2として、公的援助に頼らない。公共体育場を、その場の一部としていたという。その3として、市民なら階層などでの制限はなかったらしい。女性も参加できたという。その4として、プラトンは校長で、これといった講義は受け持たなかった。まさに、組織者であったのだろう。講師としての研究員は原則として、ほぼ対等であったという。教育に対する熱情は、終生続く。
この間、政治的な実践にも手を染めている。紀元前357年、弟子のディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行する。そこで、シュラクサイの若き君主を指導しての哲人政治の実現を試みる。しかし、ディオンが追放され、計画は失敗したという。紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって、政治的な野望は途絶えたのではないか。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
537の2『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(アイルランド、20世紀から)
1913年、アイルランド自治法案がイギリス上院で3度目の否決にあう。1914年、第1次世界大戦の勃発により、アイルランド議会の復活と、アイルランドの権利拡大に関する法の制定が遅れる。1916年、アイルランドの民族主義勢力が主要な建物を占拠する。これを「イースター蜂起」という。そして、アイルランド共和国の独立を宣言する。しかし、イギリス軍によって鎮圧される。
1919年、前年の選挙に勝ったシン・フェイン党がアイルランド国民議会(ドイル)をつくり、ふたたびイギリスからの独立を宣言。シン・フェインとは、「われわれ自身で」という意味だとのこと。イギリスと国民議会支持勢力とのあいだで戦闘が起きる。1920年、イギリス議会でアイルランド統治法が成立する。北アイルランドの6州にひとつの議会、それ以外のアイルランドにひとつの議会がそれぞれつくられる。
1921年からは、北アイルランド6州はイギリス統治下にとどまろうと動く。1922年、イギリスからの完全独立をもとめる民族主義勢力の反対を押し切り、国民議会がイギリス・アイルランド条約を承認する。それでは収まらず、条約支持派と反対派との1年におよぶ内戦が勃発する。北アイルランドのアルスター地方は、この独立の際にイギリス領に留まり、その後プロテスタント系住民と、独立を求めるカトリック系の住民の対立が続く。
1937年、アイルランド自由国を廃止し、独立民主国家エールの樹立を宣言する新憲法が、国民の投票により承認される。1949年、前のイースター蜂起を記念して、4月、エールが共和制国家アイルランドとなり、イギリス連邦を脱退する。
1949年、英連邦を離脱し,アイルランド共和国となる。1955年、国連に加盟する。1955年、国際連合に加盟。1959年、エーモン・デ・ヴァレラが大統領に就任する。1973年、EEC(ヨーロッパ経済共同体)に加盟する。アイルランド共和軍 (IRA)が北アイルランドでの攻撃を再開する。1973年、アイルランドはEC(欧州共同体)に加盟する。
1985年、アイルランドとイギリスとの間に、ようやく和解の気運が盛り上がり、イギリス・アイルランド協定がむすばれる。これによりアイルランドは、北アイルランド統治に関して提言する役割をあたえられる。1991年、EU(ヨーロッパ連合)に加盟する。1993年、イギリス・アイルランド両首相が、テロ行為が集結すれば北アイルランド和平交渉を提案するという共同宣言(ダウニング街宣言)に署名する。1998年、アイルランドと英国間で北アイルランドに係る和平合意(通称:「ベルファスト合意」)がなされる。
1998年、アイルランドと北アイルランドでの投票により、ベルファスト合意(聖金曜日協定)のしめす北アイルランド問題の政治的解決が承認される。ようやく歴史的和解のまで漕ぎ着けた訳だ。1999年には、欧州共通通貨としてのユーロを導入、ちなみにアイルランドはユーロ創設メンバー。2004年、ヨーロッパ最大の経済成長を達成する。
2005年、IRAが武力闘争の終結を宣言する。2007年、バーティ・アハーンが3期目の首相に選出される。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
537の1『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(アイルランド、19世紀まで)
アイルランド共和国は、北大西洋のアイルランド島に位置する。北東に英国の北アイルランドと接する。首都はアイルランド島中東部の都市ダブリン。
紀元前7000年頃、スコットランドから最初の人々が陸地をつたわってアイルランドに来て住む。紀元前5000年以前であったろうか、精巧な石組みでつくられた古墳群が見つかっている。場所は、ダブリンから北西、ボイン川流域ニューグレンジ、ノウス、ダウスである。3つの大型古墳と、40以上の古代墓が点在しているという。
そんな中でも圧巻なのは、石室を囲むように配置されたストーン・サークルに刻まれた渦巻き文様が特徴。石室内は雨をも通さないほどの綿密さ、精巧さでつくられており、どのようにして可能になったのだろうか。しかも、
冬至のの日には、入り口から墓室まで真っ直ぐ日光が届くような造りになっているというから、驚きであり、1986年にユネスコの遺産に登録される。
紀元前3200年頃、ボイン川流域に墳墓がつくられる。紀元前700年頃、ケルト人がアイルランドにやってくる。432年頃、聖パトリックがアイルランドに来て、この国の大半をキリスト教に改宗させたという。アイルランド南西岸沖少しのところに絶壁の島に、7世紀に建てられたという「スケリッグ・マイケル」と呼ばれる修道院の遺跡があり、1996年ユネスコの世界遺産に登録される。
795年、最初のバイキングがダブリン近くの島ランベイに上陸し、入植地を作る。1014年頃、アイルランドの王ブライアン・ボルーがアイルランド全土を統一する。クロンターフの戦いでバイキングを破る。しかし戦いの直後に王は死亡。
1170年、「ストロングボウ」ことペンブローク泊がアイルランドに侵攻する。ノルマン人のアイルランド侵略が始まる。1年後、ストロングボウがレンスターの王になる。1171年、イングランド国王ヘンリー2世がアイルランドの大部分を支配下におさめる。これが、イングランドによる植民地支配の開始となる。
1366年、アイルランドに入植したノルマン人の勢力をおさえるため、イングランドが「キルケニー法」を制定する。1494年、イングランド国王ヘンリー7世がアイルランド議会をイングランド枢密院の支配下に置く。1601年、イングランド女王エリザベス1世がアイルランドに軍を送る。ティロン伯ヒュー・オニールおよび同盟軍をキンセールの戦いで破る。1603年、イングランドがアイルランド全土を征服する。
1641年、カトリック系アイルランド人が、プロテスタント系イングランド人入植者に奪われた土地を取り戻すべく立ち上がり、数百人のプロテスタントを殺害する。1649年、イングランドの護国卿オリバー・クロムウェル率いる軍が、イルランドのドローエダとウェクスフォードで数千人を虐殺する。やられたら、やり返せということであったろうか。カトリックのアイルランド人の土地をプロテスタントの入植者にあたえる。これにより現地では、宗教戦争の様相を呈していく。
1690年、オレンジ公ウィリアムがボイン川の戦いでジェイムズ2世の軍を破り,北部アイルランドのプロテスタント居住地を守る。1782年、アイルランド議会が独自の法律を制定する権利を得る、1798年年、アイルランドの独立を求め、統一アイルランド人協会などの勢力が反乱をおこす。しかし、失敗に終わり、数万人が死亡したとも。
1801年、イギリスががアイルランドを併合する。そのことで、イギリス本国の連合法により、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立する。
1845年、ジャガイモに疫病が発生する。これを「ジャガイモ飢饉(Potato Famine)」という。西ヨーロッパ全体が被害を受け高、とくにアイルランドの被害が大きかった。4~5年におよぶ飢饉となる。そもそも、イギリスの支配によって小麦の取れる肥沃な大地をすべて接収されていた訳であり、その人々の唯一とも言える主食はじゃがいもであった。その被害は甚大であったらしい。一説には、死者約百万人、さらに百万人以上の国外流出者を出したという。
波多野裕造氏による説明には、こうある。
「1845年の夏、アイルランドは長雨と冷害に祟られ、それだけならまだしも、この年の8月、イングランド南部に奇妙な病害が発生した。それは三年前に北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。しかもヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、9月に(中略)アイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだのであった。」(波多野裕造「物語アイルランドの歴史」中公新書、1994)
かなりの数のアイルランド人が、新天地を求める移民となってアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに渡る。その数は、一説には150万~200万人もがやむにやまれずに祖国をみかぎって海外へ去った、とも言われるのだが。
1870年、ウィリアム・グラッドストーン首相がアイルランド人の小作農の法的権利を強め、土地所有を認める新しい法を成立させる。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
108『自然と人間の歴史・世界篇』古代の奴隷制(古代ローマ)
古代ローマの社会には、どれくらいの奴隷がいたのであろうか。およそ定説らしきものはないようなのだが、ここではローマ人自身に語ってもらおう。橋明美氏のラテン語からの訳にて登場するのは、マルクス・シドニウス・ファルクス、彼は2世紀頃に生きていた。貴族にして元元老院議員、執政官(コンスル)の経験もある大立て者であるからして、述べるところには、なかなかに説得力がある。
「帝国全体を見れば、わが国の総人口は優に6000万、あるいは7000万にも達するだろうか。その8人に1人程度が奴隷ではないだろうか。しかも奴隷は農村地帯だけにいるわけではない。首都ローマにも奴隷があふれ、あるいは活動を担っている。この都の人口は100万人ほどになるようだが、少なくともその3分の1は奴隷だといわれている。(中略)すなわち、奴隷なくしてローマは成り立たない。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、橋明美訳『奴隷のしつけ方』太田出版、2015)
また、彼はこうもいう。
「どうすれば奴隷がよく働くか、奴隷をどう扱うのが最適か、奴隷という資産から最大の喜びを得るにはどうすべきかがわかっているだろう。奴隷に自由への道を歩ませ、あなたのよきワリエンテス(被護者)とするのはいつがいいかもわかっているだろう。」(同)
たしかに、ここでの奴隷というのは、ローマという広い空間のいたるところ、農村や鉱山、都市の工房やあらゆる作業所、貴族や宮廷の現場のどこにおいても、日常不断に、広く見られたことであろう。
そういえば、古代ローマでは奴隷の反乱が絶えなかった。大きなものでは3度あり、一度目は紀元前135年に発生し、同132年まで続いた。当時のローマは共和制であったが、この体制にシキリア属州(現在のシチリア)のエンナの奴隷の反乱をきっかけに、全土に広がる。元奴隷で自身を預言者と称したエウヌスとキリキア出身で軍事指揮官としてエウヌスを支えたクレオンを指導者とし、戦う。
二度目のものは、紀元前104年から同100年にかけての共和政ローマ期に、これまたシチリアで起きた奴隷による反乱であったのだが。いずれも、奴隷に対する搾取を強めつつあった貴族らの大土地所有の進展に対し、反旗を翻したものとしてあったのだが、この両方にローマから大軍が送り込まれて鎮圧された。
そして3度目のものがやってくるのだが、時は紀元前73~同71年、同じく共和制下でのものだった。今度は、剣闘士奴隷が持ち場を脱走し、主力をつくってのものであり、それまでとは異なる展開を辿る。ここに剣闘士奴隷というのは、数ある奴隷の種類中でも、異色の出身者で大方占められていたといわれるのだが。前述のマルクス・シドニウス・ファルクスは、別のところでこう語る。
「剣闘士の多くは奴隷や死刑囚など、もともといちばん卑しい身分の者たちである。(中略)死刑囚が死に値することはいうまでもない。つまるところ彼らは盗人や殺人者なのだから。だが、野獣と人間を戦わせるからには、死の恐怖に耐えながら機転と技能と創造性を示すものでなければならない。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
もう一度、先ほどの3度目の大規模奴隷反乱の話を進めよう、その概略はこうだ。脱走者仲間の中心人物のスパルタクスは、仲間とともに南イタリアのカプアの剣闘士養成所を脱走する。その足で向かったのはヴェスヴィウス山で、ここに立て籠もり、討伐隊を撃退したのである。
その後、近隣の奴隷たちが反乱に加わって、軍勢は数万から十数万人の軍衆に膨れ上がる。その隊列の中には、剣闘士たちの家族もあったのではないか。紀元前72年には、ローマの執政官(コンスル)の率いるローマ軍団を数度にわたって打ち破って、アルプスを越えて解散帰郷の方針を立てる。しかし、仲間の意見はまちまちであり、一本化することはついにできなかった。 そこで、当面イタリアにとどまることとし、一時はローマに迫ったという。
ひとまず体制を立て直したローマ元老院が切り札として送ったローマの正規軍団であり、それが迫ると、反戦軍はじりじりと後退を余儀なくされていく。一説には、スパルタクスらは向こうの正規軍との激突は不利とみてこれを避け、南進してシチリアに向かい、そこからアフリカへ逃れようとする。
イタリア半島の南進を続ける。彼らの脳裏には、そろそろ新天地をどうしたらよいかが浮かんでは泡となって消えていく、それを繰り返していたことだろう。そして迎えた紀元前71年、元老院が兵の増派に動く中、反乱軍は反転してクラッススの率いる軍団との決戦を決意するに至る。そして激戦の到来により、さしもの奴隷反乱も鎮圧される。
この「スパルタクスの蜂起」と称される奴隷反乱の掲げたものは、世直しというよりは
かなり違っていたのかもしれない。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
107の2『自然と人間の歴史・世界篇』古代社会の階級制(ギリシア)
古代ギリシア社会が階級によって仕切られ、それぞれの人生がその制約なりを陰に日向に、強くあるいは弱く受けていたであろうことは、様々なエピソードとともに、今日に生きる者に伝わる。例えば、その頃に生きた一人であるところのクセノフォンは、ソクラテスと(ソクラーテス)とアリスティッポスのやりとりの一端を、こう紹介している。
「そこでソクラーテスが言った。
「では、治める者と治められる者と、どちらが愉快な生涯か、これを考えてみようか。
「ええ、考えてみましょう。」と彼が言った。
「第一にまず、われわれの知ってる国民からいうと、アジアではペルシア人が治める者でシュリア人、フリュギア人、リューディア人が治められる人間だ。そしてヨーロッパでは、スハュリティア人が治めて、マイオーティフ人が治められている。リビュアではカルタゴ人が治めて、リビュア人が治められている。この両極の民のどちらが愉快な生涯であると君は思う。
あるいはまた、君自身もその一人であるギリシャ人にも、支配階級と被支配階級と、どちらが楽しく暮らしていると君は思うかね。
「いや、私は」とアリスティッポスが言った。
「決して奴隷の部類にも自分を入れはしません。それよりも、その両方の中間の道があるように私は思います。ここを私は歩いて行こうと思うのです。それは支配をも奴隷をも通らないで、自由を通っているものであって、これが幸福に至る最上の道です。」
「なるほど、この道が支配および隷属の中も通らぬとひとしく、人間の世界も通っていないのであったら、あるいは君の言うことにも幾分の意議があろう。しかしながら、もし人の世に住んでいる以上、もし君が治めることも仕えることもいやだというなら、君は見るであろうと思う。いかに強者は弱い者を公(おおやけ)ならびに私の生活において泣かせ、奴隷同様に扱う術を心得ているかということを。」(クセノフォン著、佐々木理訳「ソクラーテスの思い出」岩波文庫、1952)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
107の1『自然と人間の歴史・世界篇』古代ギリシアの奴隷制
古代社会にあっては、奴隷制が広く行われていたのであろうか。また、そうであったなら、それはどのようなものとしてあったのかを、ほんのしばらくながらも振り返ってみたい。
顧みるに、古代ギリシア文明は、「ポリス」と呼ばれる都市国家の連合体により営まれていたことがわかっている。古代の民主社会とも言われる。ところが、そのギリシア社会の中で民主の恩恵に浴していたのは、オイコス(家産)の家長とその家族、親族らであった。
オイコス同士については、基本的に平等であったという。彼等は、お互いに家産の運営に就き干渉しないことになっていた、少なくとも、そうであるべきことが社会的に尊重されていた。しかし、オイコスに共通する問題、例えば戦争の開始や他国家との協定の締結などについては、各単位毎に分散的に決定するのでは解決できない。それゆえ、これらの問題は家長たちがアゴラ(広場)に集まり、衆人が観ている前で議論し、最終的には投票で事を決着する慣習が通用していた。
では、かれらは日々の生活を成り立たせるために、どのような日常を送っていたのだろうか。例えば、戦ったり、議論したり、芸術にいそしむばかりでは、社会は存続できなかった。家内労働や手工業の発達も色々とあったしても、農業が主体であったことは、疑いあるまい。おまけに生産性がまだ低かったであろうから、日がな一日、戦ったり、議論したり、芸術にいそしむばかりでは、社会は存続できなかった筈なのだ。
その答えとは、この社会では、奴隷の使用が不可欠とされていた。奴隷とは、自分たちの共同体を失い、家族をもつことも許されない、人格も認められない存在なのであった。
それでは、奴隷とされた人たちは、一体どんな生活を強いられていたのだろうか。つづめていうと、古代ギリシアの奴隷には、奴隷のなかには公共の仕事につくものもいたが、少数であった。主として家内奴隷と、それ以外の奴隷とがいた。農業や工業などの労働に従事させられる奴隷も、かなりの数いたであろうと推測される。
では、それらの奴隷たちの供給源は、何であったのか、彼等はどこから来たのであろうか。その途には、幾つかもあったことがわかっている。ざっというならば、「捕虜や借財のために奴隷としてみずからを売り転落した市民、奴隷として輸入された小アジアや東方・北方の異民族が、奴隷商人によって売買された。デロス島などには大きな奴隷市場があった」(木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究』山川出版社)より)とされる。
では、そのギリシア社会において奴隷の数は、どれくらいであったのだろうか。同書によれば、「とくにアテネではきわめて多くの奴隷が用いられ、前5世紀には奴隷が人口の3分の1を占めたといわれる」(同)。
とはいうものの、「ギリシアではのちのローマにみられるような大規模な奴隷農場は見られず、わずかに鉱山で大量に使役された程度であった。普通の市民は奴隷とともに農業や建築労働をおこなった。富裕な市民は手工業の作業所で奴隷を働かせたが、人数は、古典期のアテネでもひとつの作業所に20~100人程度であった。また自分の所有する多数の奴隷を、作業所や高山に貸して利益をえる市民もいた」(同)という。
その当時、奴隷を使う側はどんな風に奴隷をみていたのかを伝えるものに、万能人と評されていたらしい、かのアリストテレスに次の言葉がある。
「奴隷は生ある所有物である。そして凡て下働人はいわばその他の道具に先きだつ優れた道具といったようなものである。
何故ならもし道具がいずれも人に命じられてか、或は人の意を察してか自分の為すべき仕事を完成することが出来るなら、例えば人のいうダイダロス作の彫像や詩人が「ひとりでに神の集いに入り来りぬ」と言っているヘパイストスの三脚架が自ら動くように、梭(ひ)が自ら布を織り琴(キタラー)の撥(ばち)が自ら弾ずるなら、職人の親方は下働人を必要とせず、また主人は奴隷を必要としないであろう。」(アリストテレス著・山本光雄訳「政治学」岩波文庫)
もう一つ、奴隷たる人は生涯、その身分から抜け出すことはではなかったのだろうか。奴隷は解放されることも珍しくなかったが、解放奴隷には市民権は与えられず、在留外人と同じ身分におかれたらしい。
このように奴隷が厳しい状況に置かれていたのには、「ギリシアにとっては周辺・辺境の異民族から供給されることが当然のことと思われて、ギリシア人たちの異民族への軽蔑の念がいっそう強まり、また農業以外の労働を重要視しない傾向が生まれたのである」(木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究』(山川出版社)より)とされる。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究)
ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845~1923)は、ドイツの物理学者。
オランダで初等教育を受ける。チューリヒの大学に入って機械工学を学んだものの、やがて物理学に転じ、1879年にはギーセン大学教授となる。
1895年11月の彼は、内部の空気を抜いて真空状態にしたガラス管に数千ボルトの電圧をかけて放電させるという実験を行う。陰極線(電子線)を発生している真空放電管を紙で包んで行っていたという。
すると、その放電管から少し離れたところに置いてあった蛍光物質・白金シアン化バリウムを塗った紙(スクリーン)が光るのを見つける。つまり、その管を厚い紙で覆っているにもかかわらず近くに置いてあった蛍光物質が発光しているのを偶然に発見する。その管からは「目に見えない物を突(つ)き抜ける光が出ている」と解釈し、その光線をエックス(X)線と名づける。
こうしてつくられることのわかったX線が威力を発揮するのは、工学などのほか、医学で用いられていく。1896年1月日にレントゲンが撮ったX線の写真には、手がすきとおって骨が見えている。レントゲンは、また弾性、毛管現象、熱伝導、電磁現象などに関する研究も行う。
フランスの物理学者ベクレル(1852~1908)は、パリのエコール・ポリテクニクを卒業後、土木学校で学んとで土木技師となった。その後物理学の研究に携わるようになる。そして迎えた1896年、研究でウラン化合物(ウランを含む岩塩)を置いて暗いところにしまっていた写真乾板を現像していた。すると、太陽の光を受けていないのに感光しているではないかと。ベクレルは、ウラン化合物にX線に似た何らかの放射線を出す力があると考える。
ワルシャワ(現在のポーランド)生まれのマリー・キュリー(1867~1934)は、
物理学者。研究者となった後に故国を追われ、フランスに亡命する。物理学者ベクレルの影響を受け、放射性物質の研究を行う。やがて、夫ピエール・キュリーたちが発明した計測器を使って、ウラン化合物から放射線を出しているのを研究し、それがウラン原子であることを見つけ出し、その放射線を出す性質から「放射能」と名づけられる。
その学問的評価の全体としては、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証したのが大きいといわれる。
1898年には、イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォード(1871~1937)たちが、ウランから2種類の放射線が出ているのを発見する。それらをアルファ(α)線、ベータ(β)線と名づける。
アルファ(α)線は、プラスの電気を帯びた重い粒子の流れ、それも「ヘリウムの原子核」であることを突き止める。またベータ(β)線は、「マイナスの電気を持った軽い粒子(電子)の流れ」であることを発見する。さらに、透過性が高く電荷を持たない放射線を見つけ、ガンマ(γ)線と名づける。エックス(X)線はガンマ(γ)線の仲間だとされる。
1911年、ラザフォードたちは実験で原子の中に原子核があることを発見する。これの意議について、ニールス・ボーアは、こう語る。
「古典物理学の理論が量子的現象を説明できないということは、原子の構造についての私たちの理解が深まるにつれと、よりいっそう明白なものとなっていった。とりわけラザフォードによる原子核の発見(1911)は、古典力学と古典電気力学の諸概念が原子に固有の安定性を説明するにはおよそ無力であることを、ただちに明らかにした。ここでもまた量子論は、事態の解明への鍵を提供したのである。」(「アインシュタインとの討論」:「ニールス・ボーア論文集1」岩波文庫、)
続いての1832年、ラザフォードの弟子のチャドウィックは、ベリリウムにα線をあてて出てくる放射線を発見し、ガンマ(γ)線では説明できない大きな質量を持ったものであるとし、中性子と名づける。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
367『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)
1915年から16年にかけて、物理学者のアルバート・アインシュタインは、次の重力方程式を世の中に提出する。
{Rμv-1/2(gμvR)}+Λgμv={(8πG/Cの4乗)Tμv}
ここに左辺の第1項は、時空(時間と空間)のゆがみ具合、第2項は宇宙定数で宇宙が重力で潰れないための押し返す力(斥力)、それらを足したものが右辺の物質が持つエネルギーとなっている。この式で彼は、「相対性」という概念を広げる。重力や加速度が関係する運動にまで適用できる一般式を考えたのだが、この式にいわれる重力理論の基本部分、光の経路が曲がるという予言の正しさを証明したのが、イギリスの天文学者エディントンである。
1919年の彼は、皆既月食の際の太陽周辺の星の光に注目する。なにしろ太陽は相当に大きいので、その重力によって周囲の時空が歪み、そのため太陽の裏に隠れているはずの星の光がカーブして地球までやってくる筈だと考えたのである。そして、その観測は成功したのであった。
1919年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブル(1889~1953)は、ウィルソン山天文台にいて、宇宙が膨張していることを発見した。「光のドップラー効果」と呼ばれる物理法則によると、移動する物体の発する電磁波の波長では、その物体の後ろ側では長くなる。これを天体観測に使えば、遠ざかる銀河からの可視光の光は波長が最も長い赤に近い方に引き延ばされる。これが「赤方偏移」である。ここで光の色は波長の短い方から長い方向へ、つまり紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の順に変化していく。つまり、近づいてくるものの波長は縮み青っぽく見える、遠ざかるものの波長は伸びて赤くなる。だから、青い光は緑に、緑の光が黄色に変化して見える場合は、その光が観察者から遠ざかっていると考えられる訳なのだ。
この赤方偏移を用いる接近方法が正しいと考えられる根拠については、彼自身こう述べている。
「この問題を研究を通して、次のような結論が得られた。赤方偏移を起こさせるいくつかの方法がある。それらの中でただ1つだけが、観測で分かるような他の効果を作らずに、大きな偏移を作ることができる。それはドップラー効果である。これは、赤方偏移は銀河が実際に後退していることに帰する。赤方偏移は速度によるものであるとかなりの信頼性を持って言える。さもなくば、今まで未知の物理法則を考え出さねばならない。(中略)
しかし、銀河の赤方偏移は非常に大きなスケールにおけるものであり、私たちが今までに、ほとんど経験していないものである。必要な研究は困難と不確実性につきまとわれており、現在つかえるデータからの結論はかなり疑わしい。
赤方偏移の解釈は、少なくとも部分的には実験的な研究の範疇(はんちゅう)にある事実をここに強調しておきたい。望遠鏡の能力をまだ使い切ってはいないので、赤方偏移が実際に運動を反映しているのかどうかがわかるまで、結論を先に延ばしてもいいと思う。」(エドウィン・ハッブル「銀河の世界」岩波文庫、1999)
ともあれ、ここまでは1914年のアメリカの天文学者スライファーによる「光波のドップラー効果による赤方偏位」の観測により、私たちの銀河系の外にある銀河から届く光の観察で、秒速1000キロメートルで後退している銀河が発見されていた。
その際のハッブルは、このスライファーの発表に着目し、さらに遠くの銀河の光を当時の最新鋭のハッブル望遠鏡で観察を始める。銀河からの光を分光(その光をさまざまな成分に分解すること)していく。そのハッブルは、1929年、各々の変光星が属する銀河までの距離を推算する作業を進め、それらのうち24の銀河について、光のドップラー偏移を調べたところ、それらのどれもが赤方偏移を起こしていることを発見した。これはつまり、ハッブルが観測した銀河間の距離、つまり宇宙が膨脹していることを意味している。 その際、かかる赤方偏位は、銀河の後退速度によって生じたものではなく、光が天体を発した時の宇宙の大きさと、その光が地球に到達したときの宇宙の大きさとの違いのために生じたものだと考えられている。もっとも、個々の銀河の大きさはこれによっても変わらない、銀河の中の恒星と恒星の間の距離が広がっているということでもない。広がっているのは、重力が及ぶ範囲の天体間の距離ではなく、あくまで、それらを包摂した、より遠くにある「銀河」と別の「銀河」との距離なのである。
そればかりではない。ハッブルは、18個の銀河までの距離と、それらの銀河が地球から遠ざかる速度(「後退速度」と呼ぶ)の定量的な関係式、「1メガパーセク(326万光年)離れた銀河は秒速530キロメートルで遠ざかっている」(この値は、今は秒速71キロメートルと言われている)のを探し当てた。
この作業のときハッブルが着目したのがセファイド変光星であって、この変光星は、その絶対光度と変更周期との間に特定の関係、すなわち周期が長いほど絶対光度が大きくなることが、1910年代までにはわかっていた。そこで、その変光星の変光周期を観測して絶対光度を求め、割り出したその値を見かけの明るさ(これは地球からの距離に比例するのであるが)と比較することにより、目的とする変光星までの距離を割り出すことができるのだ。
参考までに、この変光星の割出しについて、ハッブル自身は、こう述懐しているところだ。
「状況は1885年と1914年の間に急速に進展した。M31渦巻銀河に出現した明るい新星は、距離問題に対する新しい興味をまきおこした。(中略)
解決は10年後にやってきた。この解決には、その間に完成した巨大望遠鏡、100インチ反射望遠鏡が大きな役割を果たした。いくつかの最も明るい銀河は銀河系の外にあり、天の川銀河の外の空間にある独立した恒星の集団、つまり系外銀河であることが明らかになった。(中略)
100インチ反射望遠鏡は近傍の銀河を部分的に星に分解した。これらの星の中に、天の川銀河の中にもある、いろいろな型の明るい星と同定されたものがあった。それらの固有の光度は、ある場合は正確に、ある場合には近似的にわかっている。したがって、銀河の中の発見された星の見かけの暗さは、その距離が大きいことを示している。
最も信頼するに足る距離の値は、セファイド変光星によってもたらされる。しかし、他の星からも距離の桁を決めることができる。それらは、セファイド変光星によるものとほぼ一致していた。最も明るい星の光度は、ある種の銀河でほぼ一定のようなので、銀河の群の平均距離を統計的に決めるのに用いられた。」(エドウィン・ハッブル著、戎崎俊一(えびすざきとしかず)訳「銀河の世界」岩波文庫、1999)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
143『自然と人間の歴史・世界篇』マグナカルタ(制定まで)
ここに「マグナカルタ」(憲章)とは、「極めて重要で根本的な決まり事」を文書化したものであり、1215年6月15日、イングランド王のジョンが、ロンドン西方のラニーミードで貴族と会見し、彼らの要求を受け入れ、大憲章として発布した。納得づくでというよりも、渋々のことであったらしい。
その基本的性格からいうと、国王が封建貴族たちの諸要求を承認した契約文書だといえる。言い換えると、個人の権利・自由を宣言するものではなかった。
その体裁は、前文と63条からなる。元々は個々の主題があれこれにはまっており、後代の編集により箇条書きにまとめられた。その内容としては、教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、それに度量衡の統一などに広範囲に及ぶ。
その中から、特徴的なものを幾つか並べてみよう。
その前文
「神の恩寵により、イングランドの国王、アイルランドの王、ノルマンディおよびアキテーヌの公、アンジューの伯であるジョンは、諸々の大司教、司教、僧院長、伯、バロン、判官(中略)およびすべての代官ならびに忠誠な人民にあいさつを送る。
神の御旨を拝察し、朕および朕のすべての先祖ならびに子孫の霊魂の救済のため、神の栄光と神聖なる教会の頌栄のため、かつまた朕の国の改革のために、尊敬すべき諸師父すなわち(中略)およびその他の朕の中正なる人民の忠言を入れて。」(田中英夫訳「人権宣言集」岩波文庫)
その第14条には、こうある。
「(軍役免除金、援助金の賦課に関して)王国の一般評議会を開催するためには、朕は、大僧正、僧正、僧院長、伯、および権勢のあるバロン達には、朕の書状に捺印して召集されるように手配する。(中略)召集は一定の日に、すなわち少なくとも40日の期間をおき、一定の場所において行われるものとする。」(同)
これは、国王の徴税権を制限し、王権を制限、封建貴族の特権を再確認したものだ。
その第39条には、こうある。
「自由人は、その同輩の合法的裁判によるか、または国法によるのでなければ、逮捕、監禁、差押え、法外放置、もしくは追放をうけまたはその他の方法によって侵害されることはない。また朕は彼の上に赴かず、また何人をも彼の上に遣わさない。」(第39条)
また、これと日ものとしての第40条には、こうある。
「何人に対しても正義と司法を売らず、また拒否または遅延せしめない。」(第40条)
こちらの文面だが、一説には、「これまでジョン王が方の形式を踏むことなく敵と考える人に対して自ら兵を率いて攻撃するかあるいは兵を派することが慣わしであたものを禁止したもの」とされている(森岡敬一郎「西洋史特殊Ⅲー近代イギリス国家の成立(中世から近世へ)」慶應義塾大学通信教育教材、1978)。
その第52条には、こうある。
「同輩の合法的裁判なしに朕によって土地もしくは城の占有を奪われ、または免許もしくは権利を剥奪された者があれば、朕は直ちにこれをその者に返還する。そしてこれに関して争いが発生した場合には、後記の平和の保証の項に記されている25人のバロンの裁判によって、それについての裁定がなされるものとする。(以下、略)」
さらに、その第61条には、極めつけでもあるかのように、こう述べる。
「さらに、朕は、神のため、また朕の王国を改革し、朕と朕のバロンとの間に発生した紛争をよりよく鎮圧するために、(中略)朕は以下に記す保証を彼らに対してなし、彼らに対して許容する。すなわち、バロンたちは、その欲するところにしたがい、平和と、朕がバロンたちに許容し(中略)確認した諸自由を、その全力をあげて遵守し、保持し、遵守せしめる義務を負うべき25人のバロンを選出するものとし、もし、朕(中略)が、何らかの点において何人かに対して不法を犯し、または平和の条項もしくは保証のうちのある条項を蹂躙し、上記25人のバロン中の四人のバロンにその不法が示された場合には、この四人のバロンが、朕(中略)のもとに来て朕にその違反を挙示し、その違反が遅滞なく改められることを要求するものとする。
そして、朕(中略)に、違反が示された時からかぞえて40日の期間内に、朕が違反を(中略)改めなかった場合には、上記四人のバロンは25人のバロンの残りの者にその事件を回付し、この25人のバロンは、全国の人々とともに、あらゆる可能な手段によって、すなわち、城、土地、財産の差押え、その他可能な手段によって、かれらの〔適当と〕判断する通りに改められるまで、朕に苛尺と強圧とを加うべきものとする。ただし、朕、朕の妃、及び朕の子の身体は〔これらの強圧の手段の対象から〕のぞかれる。そして違反が改められた際には、彼らは朕と従前どおりの関係になるものとする。(中略)
さらに、(中略)ある事項について意見が一致しなかった場合、または、かれらの中の何人かが(中略)出席できない場合には、出席したものの多数が定めまたは命じたことは、25人全部がこの点について意見が一致したのと同様に、有効かつ確定的なものとされる。」
これらのうち後段の「そして、朕(中略)に、違反が示された時からかぞえて40日の期間内に、朕が違反を(中略)改めなかった場合には、上記四人のバロンは25人のバロンの残りの者にその事件を回付し、この25人のバロンは、全国の人々とともに、あらゆる可能な手段によって、すなわち、城、土地、財産の差押え、その他可能な手段によって、かれらの〔適当と〕判断する通りに改められるまで、朕に苛尺と強圧とを加うべきものとする」という下りこそは、古来絶えざる論争がなされているところだ。
一説には、これを国民に武力による抵抗を認めたことにもなろう。また別の一説によると、 国王の有する城、土地その他の財産を差し押さえる権利を認めたのだともいう。これらを評して、「いずれにせよ、この条項は、友好に働くことは不可能であったであろうが、国王・臣民の関係にも、封建主従関係の双務性原理を適用している点で注目に値する」(森岡敬一郎「西洋史特殊Ⅲー近代イギリス国家の成立(中世から近世へ)」慶應義塾大学通信教育教材、1978)というのだ。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
248『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動
チャーチスト運動というのは、1830年代から40年代にかけてのイギリスにおいて、成年男子に限った普通選挙権・無記名投票・議員財産資格の廃止・議員の有給制(歳費性)・毎年選挙・平等選挙区制の6か条の人民憲章を掲げて、労働者階級らが中心となって進めた運動をいう。
顧みれば、1720年には「主従法」がつくられ、それには団結禁止条項が設けられていた。1795年には、50人以上の集会の禁止令が出される。1799年には、労働者の団結そのもの、労働組合を禁じるものとしての「結社禁止法」(Combination Act)が制定された。1801年には、人身保護法も戦争中は停止されることとされる。
それにもかかわらず、イギリスでは労働者・人民の民主主義運動が組織されていく。1811年から1816年ごろにかけて、労働者による工業用機械の打壊し(ラダイト)運動が行われた。この運動は、ノッティンガムの編み物工たちによって始められ、のちヨークシャーの羊毛工業労働者、ランカシャーの綿工業労働者などに波及していく。
こうした労働者運動の展開に対し、政府は厳しい姿勢をとりつづける中にも、ある程度の妥協を余儀なくされていく。労働者の掲げる多面的な要求のうち、1819年に工場法の制定(女性と児童労働の制限)が実現される。そして1824年には、労働者弾圧法の名をほしいままにした結社禁止法が、ようやく廃止される。
1830年代になると、労働者の闘いは組織的になりつつあった。当面の経済的要求のみならず、資本主義社会という世の中を、その仕組みを変えようとする運動の広がりが増していく。前述の6項目を掲げるにいたる。
労働者たちはまず、選挙権を獲得して自分たちの意見を政治に反映したいと考えていた。しかし、1832年の第1回選挙法改正では労働者に参政権が与えられなかった。1833年には、工場法に監督官制度が盛り込まれた。
1838年2月には、ロンドン労働者協会の主催下にチャーチスト大会が開催された。同年5月にかれらの要求を前述の6か条にまとめたチャーチスト憲章を採択し、議会に対し請願することを決定した。
政府は、こうした運動の高揚に危機感を覚えたのであろうか、かかる運動を血眼になって取り締まる。1839年には約1000人の民衆が武装してニューポート市内を行進して入獄者の釈放を要求したという。これに対し、軍隊と警察とが発砲し、10名のチャーティストが死亡する。政府により武力反乱と見なされたこの事件以後、イギリスではチャーティストの大量逮捕・裁判が続くのであった。
顧みるに、この運動には、およそ次の3つの流れがあった。第一のグループは、ロンドンの労働者のグループがつくった「ロンドン労働者協会」であって、ウィリアム・ラヴェットを指導者とする。熟練労働者が中心である。二つ目は、1837年に復活した「バーミンガム政治同盟」で、銀行家ながら急進的政治家でもあったトーマス・アトウッドを指導者とする。中産階級の利益を代表する。そして三つ目は、北部工業地帯の労働者グループで、下層階級の利益を代弁する。その指導者のオコンナーは要求実現のためには武力革命をも視野に入れることをも唱えていた。
その後のチャーチスト運動だが、1848年からは内部対立や弾圧によって、しだいに衰えていく。1850年代には消滅に向かうのであった。
この運動の総括については、この間に色々と書かれ、現在も議論が尽きないでいる。その一つには、こうある。
「1839、42、48年の3回にわたって、チャーチストたちは厖大(ぼうだい)な請願書を議会に提出し、示威運動を展開したが、組織が不完全であったうえに、指導者間の分裂、運動を指導する共通の思想の欠如などのために、なんら目的を達することが出来なかった。しかし労働者階級に自力による闘争の可能性を教え、有産階級を反省させた点に彼等の運動の意義があった。なお「人民憲章」の諸要求は、議会の毎年改選を除いて、すべて19世紀後半から1918年までの間に実現された。」(米田治、東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶應義塾大学通信教育教材、1988)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
206『自然と人間の歴史・世界篇』オランダの発展とイギリス、フランスとの戦争
16世紀後半から17世紀始めにかけては、オランダとイギリスとはスペイン、ポルトガルなどのカトリックの勢力に対して協力関係をつくって対抗していた。しかし、それが1648年のウェストファリア条約での、オランダの独立の承認という形で決着すると、新たな政治状況が生まれる。
その状況とは、17世紀後半の3次にわたるイングランドとネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)との戦争である。その3次とは、1回目が1652~1654年、2回目が1665~1667年、そして3回眼が1672~1674年。
両国間がこうなるにいたるきっかけとしては、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回る勢いの中、1623年のアンボイナ事件などが起こったことがある。この事件は、1623年のインドネシア東部バンダ海の小島アンボンにおいて、両国の商館間の紛争である。イギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館の様子を調べているのに不審を抱いたオランダ商館長が、イギリスの商館長以下全員を捕らえて拷問を加えたという。
イギリスは、当時、東南アジアや東アジアでもオランダとつばぜり合いを演じていた。そこで退けば、宝の山の商売のチャンスから撤退せざるを得なくなるし、これまでの権益も守れなくなる。本国に近い大西洋なども心配だとかいうことで、危機感を覚えたのであろうか。そして迎えた1652年、戦いの幕が上がる。戦いの舞台は主に海の上で、ここではやはりイギリスの力の方が上まわっていた。
しかし、若いオランダも負けてはいなかった。この戦争を指導したのは、ホラント州の首相ヨハン・デ・ウィットであったのだが、1672年にはイギリスとフランスの両国の挟撃により、一大ピンチに陥った。そこでオラニエ家のウィレム3世が指導することになる。オランダ軍は堤防を切って洪水を起こし、フランス軍を阻止するのに成功する。また、デ・ロイターを使って英仏艦隊を撃破する。これで勢いを増して、和平に持ち込もうとした。
オランダは1674年にイギリスと、1678年にはフランスと和約を結ぶのに成功する。そればかりではない。立役者のウィレム3世だが、なんとイギリスから招請状を受ける。ジェームズ2世の暴政を倒す企てに加わる形でイギリスに渡り、翌年には妻メアリー(ジェームズ2世の長女)とともに国王に即位する、つまり、夫婦でもって大国イギリスの共同統治を行うことになる。これにより、オランダとイギリスとは「同君連合」の間柄となり、今度はフランスに対抗するという新たな構図となっていく。
とはいえ、オランダのこの戦争での人的・経済的疲弊はかなりのものであった。だから、1702年にウィレム3世が死ぬと、イギリスとの関係はなくなり、またオランダ国内は不安定となる。ほぼ80年にわたる独立戦争の時からの、国内権力のもう一方の雄であるところの州の独立性が再び強力化し、その分王党派は劣勢に追いやられていくのであって、1702年から1747年にかけてのやや長い「無総督時代」を迎えるのであった。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
183『自然と人間の歴史・世界篇』ネーデルランド独立戦争(16世紀)
さて、ここにネーデルラントとは、低い土地という意味にして、現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの地域のことをいう。
この地域の特色としては、かなり古くから商工業が盛んである。特に、南部はフランドル地方と呼ばれ、中世以来毛織物工業が発達し、ガン・ブリュージュ・アントワープなどの都市が繁栄していた。
この地域の領有をめぐっては、1477年、マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国の継承者マリーと結婚して、領有権を相続した形であった。以来、ネーデルラントは、彼の出身であるハプスブルク家所領となる。
それから約70年が経った1556年には、スペインの王室は、カルロス1世から息子のフェリペ2世(在位は1556~1598)に引き継がれ、ネーデルランドもその支配下におかれる。
一方、ネーデルラントにおいては、スペインからの独立の気運が高まっていく。プロテスタントのルター派が広まっている上に、スイスで始まったカルヴァン派が広がり始める。
こうなるに従い、フェリペ2世は、スペイン国王カルロス1世からのプロテスタント弾圧政策をさらに強化していく。それとともに、都市の自治権を制限し、重税を課す。
これらの政策により、中小貴族たちを中心とする住民の反発が強まると、スペインの将軍アルバ公に1万もの部隊をつけ、この地域に派遣する。現地での総督は、「血の審判所」と呼ばれた異端審問機関を設けるなど、恐怖政治をしく。
1568年、こうしたスペインの圧政に対抗して、オランダ独立戦争が始まる。その途中で、元々カトリック教会の勢力が多数の南部10州はスペインに屈し、戦争から脱落する。なお、ここでの南部10州だが、後に北部と異なる道を辿る。1714年のラシュタット条約で1815年のウィーン議定書でオランダ領となり、さらに七月革命後の1830年にベルギーとして独立を宣言をするのに繋がっていく。
北部7州に話を戻すと、彼らはユトレヒト同盟なる軍事同盟を結成して抵抗を続ける。その指導者は、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、後のウィレム一世(在位1579~1584))であった。
1581年7月、「ネーデルラント連邦共和国」として独立宣言を発す。その具体的な名称としては「統治権否認令」というもので、7月26日のネーデルラントの全国議会(連邦議会)の発議によりハーグで開かれた集会で可決された。その中での結論としては、スペイン王フェリペ2世たる者が暴政によりネーデルラントを統治する国王としての資格を失ったとしている。
これに参加したのはホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、フリースラント、フロニンゲン、オーヴァーエイセル、メヘレン、フランドル、ブラバントの諸州であった。
この宣言のもう少し詳しい内容だが、まだ共和国としての独立を打ち出したわけではなく、フランスの王子アンジュー公の保護下に入る、としていたという。それというのも、この段階では南部ネーデルラントから離れてのオランダという単位が構想されているわけではなかったから。メヘレン、フランドル、ブラバントといった南部諸州も入っていたのだという。
1584年、戦いの渦中のウィレム1世はカトリックの刺客に暗殺されてしまう。この独立陣営の難局に際して、その子マウリッツはオルデンバルネフェルトと協力してスペインへの徹底抗戦を継続するのであった。
1588年には、スペイン軍はアントウェルベン(現在はベルギー)を破壊した。また、スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊より大敗北を喫すると、スペインの国際的地位は大いに傾き始める。また当時のフランスは、ユグノー戦争(1562~1598)の最中にあった。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
205『自然と人間の歴史・世界篇』三十年戦争
ここに三〇年戦争というのは、1618年から1648年にかけてヨーロッパのかなり広い地域を巻き込んで戦われた、キリスト教の新旧両派による一連の戦争のことをいう。当時のドイツのベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)でのプロテスタント諸侯・住民の反乱から始まった。
事の発端は、神聖ローマ帝国皇帝のフェルディナンド2世がかれらをカトリックに改宗させようとした。そこのカトリック系諸侯・住民との間で小競り合いから、しだいに内戦状態へと発展していく。1623年には、カトリック系がひとまずの勝利をものにする。
ところが、これで収まらなかった。1625~29年、デンマーク王クリスチャン4世が、イギリスとオランダの資金援助を受け、ドイツのプロテスタント側の軍事的支援に動く。ドイツの施政者側は、旧教徒同盟軍やヴァレンシュタインの傭兵部隊を動員して、コこれを封じる動きに出る、そしてプロテスタント連合軍を撃退する。
さらに1630~35年、今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフの軍が、フランスの資金援助を得て、神聖ローマ帝国内のプロテスタント擁護のため、ドイツに進出してくる。フランスが、これを間接的に支援する。神聖ローマ皇帝の北上阻止を唱え、政治色が濃くなっていく。神聖ローマ帝国側にはスペインが、これまた間接支援にまわっている。
そして迎えた1631年のリュッツェンの戦いでは、スウェーデン軍は勝利したものの、グスタフ・アドルフ自身が戦死を遂げる。ここで、両軍による停戦と和議が成立する。
それでも戦いは吹き返してくる。1635から48年にかけて、3回目の戦いが繰り広げられる。今度は、フランスのルイ13世の軍がドイツのプロテスタント側の劣勢を挽回するためドイツに進撃、これにスウェーデンも同調する。これに対し、カトリック側を支援するスペイン軍も直接介入してくる。1643年には、フランス北部ロクロワの戦いでフランス軍とスペイン軍が交戦する。もはや、自らの戦いに成り代わった形だが、両軍ともに宗教上の対義名分は捨てなかったと見える。
このように、ヨーロッパ各地に飛び火した、始は宗教戦争、しだいに政治の戦いに発展していった戦争であったのだが、両軍入り乱れて戦ううちに戦局は膠着状態になっていく。それに両者ともに疲れたのであろうか。1644年から和平へと動いていく。1648年のウェストファリア条約(ネーデルラントに接した地域の名をとった)により、ようやく講和が成立するのであった。
この会議に参加したのは、神聖ローマ皇帝とドイツの66もの諸侯、そしてフランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの面々がいた。世界で最初の大規模な国際会議であった。その内容とは、次にあるように、それまでのヨーロッパの政治的な勢力地図をある程度に塗り替えることになっている。
まずは、1555年9月に神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において下されていた決議「アウクスブルクの和議」の内容を再確認した。なお、この決議では、ドイツ・中欧地域における新教(プロテスタント)を容認した。また、その由来だが、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世が、新教諸侯のシュマルカルデン同盟との戦争に勝利したものの、ザクセン公モーリッツの離反を招いたことが契機となり、帝国側がプロテスタント側に立つ諸侯・都市の立場に歩み寄る形で、同国内でかれらが新教側かカトリック教会側かを選択できることとしたもの。
ついては、この和議のあることに鑑み、それから90年余を経て結ばれたこのウェストファリア条約においても、かかる和議において個人の信教の自由を認めていないのを踏襲するとともに、この条約によりルター派と並んでカルヴァン派の信仰も認められる。
その2として、この条約によりドイツは、約300の諸侯が独立した領邦となる。具体的には、神聖ローマ帝国は皇帝、八選挙侯、九六諸侯、六一自由都市で構成される。各領邦そして都市のそれぞれが立法権、課税権、外交権を持つ、大方の主権を認められる。これにより、神聖ローマ帝国は実質的解体に向かう。
その3として、フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とロレーヌの「三司教領」の領有を認められる。
その4として、スウェーデンは北ドイツのポンメルン、「ブレーメン大三司教領」などの領有を認められる。
5番目として、オランダの独立が承認され、積年のオランダ独立戦争は終結する。また、スイスの独立の承認があった。
そして6番目、ドイツ内部では、ブランデンブルクが、東ポンメルン、「マグデブルク大三司教領」などの領有を、バイエルンが南ファルツの領有と選挙侯の資格を与えられ、ファルツも旧領土の大部分の領有と選挙侯の資格を与えられる。
ただし、フランスとスペイン間の戦争は継続され、両国は1659年のピレネー条約で講和に漕ぎ着ける。イギリスは、清教徒革命の最中であったことなどにより、この条約には関わっていない。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
882の2『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2017~2018現在)
国連人道問題調整事務所の2017年1月時点の報告によると、2011年3月以降、シリアでは死者約25万人、負傷者は100万人を超過している。国外へ逃れた人々は490万人、国内避難民は650万人に上る。また、シリア国内では1350万人が人道支援を必要としている旨。
2017年2月には、国連安保理がアサド政権の化学兵器使用に対する制裁決議案なるものを採決に持ち込むが、ロシアと中国が拒否権を行使して不成立となる。
2017年4月、シリア北西部のイドリブ県で空爆がある。住民80人以上が死亡したと伝えられる。アメリカは、化学兵器使用とみられると発表する。シリアのアサド政権は、そなんことはやっていないと否定する。これに対し、アメリカが、地中海に展開の空母からシリアに数十発の巡航ミサイルを発射する。政権軍の空軍施設などを狙った。
6月には、OPCWがイドリブ県で使われたのは猛毒のサリンを用いた化学兵器であったとの見解を調査報告書にして発表するも、使用者は特定しなかった。
この年の2017年10月になると、アメリカ軍が支援するクルド系のシリア民主軍(SDF、「人民防衛隊」)が、ISの首都とされる北部の都市ラッカの解放を表明する。ここにSDFとは、ISの掃討作戦を行ってきた少数民族クルド人勢力中心の部隊であり、自らの大義のため命を惜しまず、頑強に戦うことで知られる。
追い出された側のISは2014年にラッカを占拠し、一方的に「首都」と宣言し、以来、この地を死守してきたのだが、ついに落城となった。
SDFは米軍の支援を受け、2017年6月から市内で軍事作戦を展開していた。激しい戦闘により、推計3000人もの兵士が死亡したとされる。SDFは17日に大規模な戦闘の終結を宣言し、残る戦闘員の掃討や地雷除去などを行ってきた。SDFは、ラッカは「地方分権が進んだ民主的なシリア」の一部を構成するとして、シリア北部に広がるクルドの勢力圏に組み込みたい考えをにじませている。より俯瞰して言うと、ISから街を奪還したことで、クルド人自身による国づくりを視野に入れたい。
そして迎えた2017年12月、ロシアのプーチン大統領が、シリアからのロシア軍の撤退開始を命令する。同12月時点のダマスカスと周辺の支配図(12月22日付け毎日新聞)によると、市の北東部の一角を反体制派が占め、旧市街の南にあるスペイナ地区には、反体制派地域とIS地域が混在する。アサド政権が全体的に優勢であるものの、反政府勢力との和平の見込みは立っていないし、ISの抵抗も散発的だが残っている。
2018年1月、アメリカのティラーソン国務長官が、IS掃討後もアメリカ軍のシリア駐留を継続する考えを示す。2月、シリア首都ダマスカス近郊の反体制派支配地域「東グータ地区」をアサド政権軍が攻撃する。これにより、反体制派の在英NGO「シリア人権監視団」によると、18日から22日朝までに少なくとも市民335人が死亡、1700人以上が負傷したと発表される。
また、2月21日のシリアの少数民族クルド人勢力主体の武装組織「シリア民主軍」(SDF)は、同組織が支援を受けるアサド政権側の民兵部隊が、シリア北西部アフリンにおいてトルコ軍による砲撃を受けたと発表する。これに対しドルコの大統領報道官は、「政権軍であろうが別の部隊であろうが、クルド人に加勢する者は重大な結果を被る」と警告する。
2018年4月3日、アメリカのトランプ大統領がアメリカ軍のシリアからの早期撤収につき、「すぐに判断する。撤収させたい」と表明する。4月7日、東グータ地区とドゥーマ地区へ空爆が行われる。救助組織などは、49人の住民が呼吸困難の症状で死亡、化学兵器が使われたのではないかと指摘した。10日、国連安保理において、化学兵器使用の調査チーム設立案を採決したところ、ロシアが拒否権を行使して廃案となる。13日、これをアサド政権側が仕掛けたと判断したアメリカ、イギリス、フランスの軍による、シリア政府軍軍事施設へのミサイル攻撃が1回にかぎり実施された。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
882の1『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2011~2016)
シリアは、北をトルコ、西を地中海とイスラエル、南をヨルダン、東をイラクと接する。宗教面では、首都ダマスカスの旧市街には、715年に完成の世界最古のモスク(イスラム教礼拝所)があり、イスラムの聖地の一つでもある。ゆえに、ここでの政治情勢の変化はとたんに近隣諸国に影響を及ぼす。
このシリアでの内戦は、2011年に始まる。まずは、これより前の2010年12月、チュニジアで反政府デモが起こる。これが中東各地に広がり、「アラブの春」と呼ばれる。その本質は民主化運動だといえよう。
その波はシリアにも及び、2011年2月にダルアーで小規模なデモが起こると、3月には、反政府デモが開始される。国内各地に政権打倒を叫ぶ大規模デモが広がっていく。やがて、民主化運動は内戦へと変化していく。内戦は、かたや政府軍に対し、反政府勢力というのが主な構図だが、その他多くの武装勢力も参加していく。それらの対立によって泥沼化していく。
明けて2012年7月、北部の都市アレッポでアサド政権と反体制派の戦闘が本格化する。
2013年8月、首都ダマスクスの近郊の東ゴータ地区にて、反体制派が「政府軍の猛毒ガスで1350人が死亡」と発表する。ダマスカス近郊でアサド政権軍による化学兵器使用が取り沙汰されたのだ。
9月には、アメリカとロシアとがシリアの化学兵器を国際管理下におくことで合意し、アメリカのオバマ大統領はシリアへの軍事介入を見送る。
2014年6月、イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」(IS)が、北部の都市ラッカを首都とする国家樹立を宣言する。この同じ月、アサド政権が保有しているとみられる化学兵器の原料となる物質につき、化学兵器禁止機関(OPCW)が国外搬出を終えたと発表する。
9月には、アメリカ軍を中心とする「有志連合」の軍が、がシリアでISへの空爆を開始する。2015年9月、アサド政権を支援するロシアがシリアで空爆を開始する。
2016年8月、国連が2014年4月と2015年3月における、アサド政権によるシリア北西部イドリブ県の反体制派拠点への化学兵器の使用を裏付けるとした、調査報告書を発表する。
2016年12月、アサド政権・政府軍が反体制派の拠点アレッポを制圧する。ロシア・トルコ主導の停戦が全土で発効する。しかし、この間も戦闘は続く。つまりは、停戦は合意されたものの根本的な解決に向かって動くことなくいるうちに、その合意は順守されることなく、戦闘がぶり返している。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆