368『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルの発見を受けて)
ハッブルのこの発見は、人びとに大きな衝撃を与えた。この宇宙膨張の動きは、それまでの「宇宙が膨張しているはずはない」と考えられていたからである。つまり私たちのいる銀河から見て、遠方にある銀河ほど早いスピードで地球から遠ざかっていることなのである。そのイメージとしては、例えばボールをゴムひもで結んで引っ張ったとき、ゴムひも(宇宙)が広がるほど、一つひとつのボール(銀河)間の距離も広がる、つまりお互いが遠ざかっているのである。
1931年(昭和6年)、アルバート・アインシュタインはウィルソン天文台にハッブルを訪問し、銀河が光のドップラー偏移を捉えたスペクトル写真を見せてもらった。すると、そこには彼の思惑とは異なって、宇宙がじっとしておらず、膨脹しているという事実が「赤色偏移」となって確認されたのである。それまで、膨脹なんてことはありえないとして、定常的な「止まった宇宙」を前提に話しをしていたアインシュタインがびっくり仰天したことは疑うべくもない。もっとも、アインシュタインがハッブルの発見まで考えていたのは、膨脹も収縮もしないという意味での定常的な宇宙に限られる。アインシュタインの、当初の理論では、星や銀河などの重力に引っ張られて、宇宙は最終的には収縮する。最終的には一点に戻って潰れてしまう。これを「ビッグクランチ」という。これでは宇宙を定常に保てないと思って、彼は宇宙をビッグクランチから救い、定常を保つための「宇宙項」を自分の方程式に追加していた(前掲)。
ところが、ハッブルの宇宙膨張に接し、それが揺らぎのない真実だということになる。そこでアインシュタインは、この「宇宙項」を破棄したのである。彼はこれを「人生最大の不覚」とみなしたのだが、皮肉にもアインシュタインの死後21世紀になってからの、ダーク(暗黒)エネルギーの登場(2003年)によって、宇宙の加速膨張を説明するために、この項は再び必要となっていく。
そこで、テレビ画面上のクラウス教授は、宇宙がこれから先もずっと膨張を続けるのか、それともある時点で収縮に転じるのかを問いかける。それは、宇宙に存在するこの二つのエネルギーの和がプラスなのか、マイナスなのかがわかれば、宇宙が永遠に膨脹するのか、収縮に転じるのかがわかるというのが、この議論のそもそもの出発点になっている。
1933年、スイスの天文学者フリッツ・ツヴィッキーが論文を発表し、銀河の観測から後の「暗黒物質」の存在を予言した。彼は、かみのけ座にある「銀河団」(銀河が約100個から1000個程度重力を介して群れ集まっている集団をいう)を観測する。物質の発する光の量はその質量によって変わることを利用して、その総質量を、まず光の量から算出した。それぞれの銀河は重力によって動いている。ニュートンが発見した「重力の逆二乗法則」を使い速度を調べることで重力の大きさがわかり、重力がわかれば質量も求まる。そこで次にはこの法則を使って、銀河団に属する、つまりその銀河団の中に残っている銀河の動き(速度)から逆に、その銀河団が閉じ込めることのできる重力の大きさ、ひいてはその銀河団の総質量を算出した。
ところが、これら二つの方法で算出した質量の間に、400倍もの開きがあった。後者の運動速度から求めた値の方が、前者の光の量から測った値の方、つまりその銀河団の明るさ(それは個々のメンバー銀河の明るさの単純な和とされる)から予想される質量値を大きく上回っていたのだ。すると、このかみのけ座銀河団にはそれだけの差分だけ、つまり光っている物質以外に、目には見えない(光を発していない)、けれども質量のある物質が大量に存在して銀河を動かしていることになるのではないかと考えた。
1947年、宇宙の出発点が「ビッグバン」にあったとする「ビッグバン宇宙論」を、アメリカの理論物理学者のジョージ・ガモフが提唱した。これによると、宇宙がハッブルの法則に従って今もなや膨脹しているのであれば、過去に遡って考えると、宇宙の最初は超高密度の状態の一点に集約されるだろう。それを時間でいえば、宇宙は約137億年前に誕生したと見積もられることになる。つまり、宇宙の最初は超高温、超高密度のいわば「火の玉」が大爆発を起こして誕生した。その時の温度は、「10の27乗(10億の3乗)度」もの高温であったと言われる。これは、それまで主流であったアメリカの天文学者フレッド・ホイルの「定常宇宙論」、つまり、「ハッブルが発見した宇宙の膨張は認めつつも、次々に銀河が生まれることで、結局、宇宙の物質の密度は保たれ、永遠に不変だとする考え方」を打ち砕こうとするものであった。ホイルにとっての宇宙には、始まりもなければ終わりもない。この考えに凝り固まっていた彼にして、ガモフの理論を「あいつらは、宇宙がビッグバン(大爆発)で始まったといっている」と挑戦的な調子で述べたのは、科学の世界でもよくあることなのだろうか。
(続く)
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115『自然と人間の歴史・世界篇』ヘレニズム文化
顧みて、アレクサンドロスの東への遠征(紀元前334~紀元前324)により、アケメネス朝ペルシアの滅亡後も東方遠征は続き、アレクサンドロス大王はギリシア・エジプトからインダス川西岸までの広大な地域を自らの帝国としていく。
驚くことに、彼は、戦いにだけ明け暮れていたのではなかった。自らの名前を冠したアレクサンドリアという諸都市を各地に建設していく。そのことを含めて、彼はギリシア文化などを地中海沿岸、中東そして西アジアの文化と融合させていった「功績」がいわれる。ここに東西の文化が出会って、その融合するところからヘレニズム文化が形成されていった。
ここにヘレニズムとは、元々「ギリシア風文化」の意であって、ドイツの歴史家ドロイゼンの造語だと伝わる。ギリシア人がポリス時代に使用した、ギリシア人の自称としての「ヘレネス」にも由来しているとのこと。その広まった期間としては、紀元前334年のアレクサンダーの東方遠征開始から、紀元前30年のプトレマイオス朝エジプト滅亡(女王クレオパトラの死)までの約300年間をヘレニズム時代ともいう。
こうしてヘレニズムとの言葉をかぶせられた文化・文芸のうち、東西の美術の出会い、そして融合ということでは、その時間領域は1世紀後半~2世紀中頃の北インドのクシャン王朝の最盛期カニシカ王の時代にいたる。すなわち、ガンダーラに大乗仏教や、それに類しているであろう数多(あまた)の仏像などが造られ、それを中心に文化が咲いた。それは、1世紀から5世紀の長きに亘るのであった。
これらをもって、ギリシア文化と東洋の文化が融合したものであった、そう取りまとめるのが20世紀までの歴史学なりの定説であったとするなら、21世紀に入ってはかかる文化形成の捉え方が異なってきており、例えばこうある。。
「日本でヘレニズム文化の代表と見なされているガンダーラ美術も、ギリシアの影響だけでは説明できない。仏像が作られ始めるのは、ギリシア人がガンダーラ地方を支配してい前一世紀から後一世紀前半でなく、クシャン王朝時代の後一世紀後半のことである。現在の研究によると、ガンダーラの仏教美術にはギリシア、イラン、ローマという三つの様式と技法が用いられており、「ギリシア起源説」よりも「ローマ起源説」の方が有力である。
このようにヘレニズム時代のアジアは、さまざまな文化が織り込まれた多元的な世界として理解されねばならない。ギリシア文化はその中の重要ではあるが、あくまでも一つの要素なのである。」(森谷公俊「アレクサンドロスの征服と神話」講談社学術文庫、2016)
ついでに、その後のガンダーラのことに触れておくと、カニシカ王の後のクシャン王朝はふるわなかった。241年にはパルティア王国のシャープル一世に攻められてヒンドゥークシ山脈の南北に分裂する。その後は、ササーン(ササン)朝ペルシア(226~651))の支配下に入っていく。そんな中でも、西洋文化の流れをそのまま色濃く伝えつつ、ガンダーラに育まれた仏教芸術なりには、さらに西の世界へと広がっていく。
その中国に仏教が初めて入ったのは、紀元前後の漢代のことであったという。それが広まるにつれ、ブッダその人は、人間の顔をした神々の一人として変容させられ、人々に受け入れられていく。その中国において、造寺造仏が盛んになるのは五胡十六国時代(304~439)からである。すでに儒教や道教が根付いていた中国で、仏教は人々に排撃されなかった。
わけても、クチャ出身の仏僧・仏図澄(ぶっとちょう)は後趙(こうちょう)に来て、仏典を訳出した。同じクチャ出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)も、「阿弥陀経」、「法華経」など多数の仏典を訳出した。仏像も、ガンダーラの風貌(彫りの深い顔、大きなひげなど)をしたものが、見られる。
さらに5世紀になると、このガンダーラの地は北の遊牧民族、エフタルに拠って占領され、仏教施設はことごとく破壊された。その後再興することは無く、仏教施設の一大群生地としてのガンダーラの名声も消えてゆく。
一方、イラン東北部に栄えたイラン系のアルサケス朝パルティア王国(中国文献では「安息」、紀元前250年頃の建国)は、その最盛期にはメソポタミアを領有し、コーカサス山脈南のアルメニアにも勢力を伸ばしたりで、ローマ帝国と西の国境を接していた。この王国による統治は3世紀前半に、復活したササーン朝ペルシアにとって代わられるまでの約400年間続く。その後半期において統治能力がしだいに弱体化する中にあっても、東西文明の結節点としての役割にはなお大きなものを維持し続けた。
わけても、ガンダーラの隣国であった、バルティアが支配していた頃のタキシラ地方からは、化粧皿(けしょうざら)が出土している。それらに共通しているのは、表面に描かれている図柄にギリシア・ローマの神話がやクシャーン服を着た人物の描かれていたりで、国際色が豊かなことだ。
これらを評する際には、どの文化圏の影響が色濃く見られるるかの見極めが重要であって、例えば西方風の化粧皿のにつき、「ただし、この彫刻がパルティアを経由したヘレニズムの残映なのか、ギリシアの植民地バクトリアを経由してのヘレニズムなのかは難しい問題です。むしろ筵後者であるインド・グリークの作と考えるべきではないでしょうか」(栗田功「愛しき仏像・ガンダーラ美術の名品」二玄社、2008)とも評されるところだ。
そのあたりの事情について、伊藤清司氏は、こう述べておられる。
「しかし、この国は中国からあるシルクロード上にあり、東西交易の盛況によって、交易品の関税収入も多く経済的に富んだ。この王朝はイラン化の傾向のつよいゾロアスター教を保護し、イラン民族文化の興隆をはかるとともに、ギリシア系文化に理解を示し、歴代の王は「ギリシアの友(ヘイルヘレン)」(Phillen)という称号をもっていたほどで、とくに前一世紀前半の十一代のオロデス一世は自からギリシア語を話し、宮廷ではギリシア古典が読まれ、ギリシア悲劇が上演されるなどの心酔振りであったので、ヘレニズム文化がいよいよ栄えた。」(伊藤清司・尾崎康『東洋史概説1』慶應義塾大学通信教育教材、1976)
(続く)
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111『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(ペルシアを征服)
こうしてアレクサンドロスの活躍が始まった頃、現在のイランには強大な帝国としてのアケメネス((アカイメネス)朝ペルシア(紀元前550~同330)が、ペルセポリス(イラン南西部シーラーズの北東約70キロメートル)に壮大な首都を築いていた。以前のペルシア戦争でギリシアに敗れたペルシアはマケドニアに対して警戒感を露わにしていた。
紀元前334年春には、コリント同盟の盟主として、ペルシア遠征(「東征」といい、紀元前334~同324)を始める。マケドニアとギリシアの連合軍は、アンフィポリスに終結し、東方への遠征に出発した。ヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)を渡り、アジア側に上陸を果たす。グラニクスの海戦に勝利するとともに、小アジア西岸地方のギリシア諸都市を攻略、平定する。その頃の「兵力は合計で47100に達した」(森谷公俊「アレクサンドロスの征服と神話」講談社学術文庫、2007)という。
そして迎えた紀元前333年春、パルメニオンの部隊がゴルディオン(フリュギア地方の首都)で合流し、遠征の2年目の幕が切って落とされる。ダレイオス3世の率いるペルシアの軍は8月にバビロンを発ち、10月にはソコイに到着する。そこは海に面した平坦地にて、大軍を展開するにはより有利であったろう。
ところが、ダレイオス3世(在位は紀元前336~330)はその地で待ちきれずに、自ら軍を動かして、東に向かう。アマノス山脈の北側から地中海東岸シリアのイッソスへと進む。そして両軍は、この地の山裾から海にいたるまでの幅約2.5キロメートルの平地で向かい合う。その戦いでは、中央突破マケドニア・ギリシア同盟軍がペルシア軍の先陣が破られ、ペルシアの中央布陣に殺到した時、これに立ち向かおうとせず、ダレイオスはいち早く逃げた。これでペルシア軍は総崩れとなる。これを「イッソスの戦い」と呼ぶ。
大王は、引き続き同地のアモン神殿で、そなたは「神の子なり(=ファラオの後継者)」との神託を受ける。彼自身、おそらくこの頃から世界帝国形成への野望を抱くに至ったのではないか。その紀元前333年の冬には、アェニキアの諸都市を手に入れる。明けての紀元前332年夏、地中海沿岸の要衝テュロスを7か月の包囲の末に占領する。初冬には、エジプトの無血占領に成功する。
紀元前331年2月、リビア砂漠のアモン神殿を訪問する。4月には、ナイル河口に新都市アレクサンドリアを着工する。
同年10月になると、マケドニア・ギリシア連合軍は、後退するダレイオス3世の軍隊を追撃して、ティグリス川中流のガウガメラ~アルベラ間で戦いを交える。これを「ガルガメラの海戦」と呼ぶ。ダレイオス3世の軍は敗走し、アレクサンドロスはバビロンに入城する。紀元前330年夏、家臣によってダレイオス3世は暗殺された。この年の秋、アレクサンドロスは中央アジアへの侵攻へ動いていく。
アレクサンドロスの軍は、ついにアケメネス朝ペルシアに攻め入り、都のペルセポリスを破壊した。それまでの大王は、ペルシアに対するギリシアの報復という大義銘文を掲げてきたのだが、それがほぼ果たされたのである。彼はまた、エジプト、バビロニアといった伝統ある国々をほぼ平和裡に占領していく。
紀元前327年、大王は、更に東進し、ガンダーラの地を勢力圏に収めた。この地は、現在のアフガニスタンの東部からパキスタンの東部に渡る広大な地域。この地域に当時、ガンダーラと呼ばれる、北インドでは「16大国」の一つがあった。
(続く)
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358『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツのワイマール体制
世に「ワイマール共和国」とか「ワイマール体制」と呼ばれるものは、1918年のドイツ革命に伴い成立したドイツ共和国(1919~1933)の通称である。そのドイツにおいて、共和体制がもたらされ、社会民主党・中央党・民主党が連立内閣を結成し、、ワイマール憲法が制定されたことにより、成立・発足したもの。
その歩みとしては、ざっと次にみるような紆余曲折であった。1918年11月には、ドイツ革命。水軍がキール軍港を制圧し、ヴィルヘルム2世が退位を余儀なくされる。彼はその後に亡命し、ドイツ帝国が崩壊する。オーストリア皇帝カールも退位。ドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結する。
1919年1月、スパルタクス団が蜂起するも、失敗に終わる。6月にはパリ講和会議が開催される。ベルサイユ条約で、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲することを約される。同時に、多額の賠償金を負う。スパルタクス団のリープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが惨殺される。ワイマールで国民議会が召集され、エーベルトが大統領に就任(在~1925)する。
7月には、ドイツ共和国(ワイマール)憲法が制定される。議会制民主主義を謳う。1020年3月にはカップ一揆が勃発する。.彼らは、ワイマールの共和制打倒を目指す。
1921年、ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)を結成する。ワシントン軍縮会議が開催される。1922年4月には、ラッパロ条約。イタリアでは、ムッソリーニがローマ進軍を行う。
1923年1月には、フランスとベルギーが、ルール地方へ進駐する。ドイツに圧力をかけた形だ。ドイツは、経済大混乱とインフレに陥り、レンテンマルク銀行券発で切り抜けようとする。ローザンヌ会議が開催される。11月になると、ヒトラーらがミュンヘン一揆を起こす。ナチ党は禁止されたものの、後継組織が国会議席を獲得する。1924年には、ロンドン会議でドーズ案が承認され、ドイツに対する賠償軽減がなされる。
1925年には、ヒンデンブルクが大統領に就任する(在~1934)。12月には、ロカルノ条約が締結され、西部国境の不変更・中欧の安全保障体制を謳う。1926年9月には、ドイツは国際連盟に加入する。1928年6月には、ミュラー大連合内閣が成立する。1928年には、パリ不戦条約が締結される。この年、ナチ党として初の国政選挙に取組、12議席を獲得する。1930年、選挙でナチ党は第2党の地位を獲得する。
1929年6月、ドーズ案の修正案としてのヤング案の調印が行われる。7月、そのヤング案反対闘争にナチスが参加する。1929年の世界大恐慌もあって、1930年3月にミュラー大連合内閣が崩壊する。9月の.総選挙でナチス党が第2党となる。ヤング案が発効する。1930年には、ロンドン軍縮会議が開催される。
1931年10月には、ナチスを含めた右翼が国民戦線を結成、これを「ハルツブルク戦線」という。1932年3月~4月、大統領選挙にヒトラーが出馬し次点となる。1932年6月には、ローザンヌ賠償会議が開催される。7月の国会議員選挙で、ナチスは230議席を獲得し第1党となる。そして11月、国会議員選挙で34議席を失ったものの、196議席を確保し第1党の地位を保持する。
1933年1月にはヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命する。ナチスによる国会放火事件が起こる。同時に、ナチスによる、自由主義者や社会主義者らへの大弾圧が行われるのであった。3月には、全権委任法でナチスがワイマール憲法および、これによる民主主義体制を崩す。10月には、ドイツは国際連盟・軍縮会議を脱退する。
では、ワイマール共和国はなぜ亡んだか、その問いに答えるのは、なかなかに複雑な事情が介在していたのではないか。その中から主に言われているのは、一つには、それの樹立は、周到に準備された上でのことではなかった。二つは、そもそも国民の間に下からわき上がるような共和主義への待望が上がらなかった。
その三つ目は、ヴェルサイユ平和条約締結の大きな重荷として、莫大な賠償金をおわされていた。四つめは、革命後の民主化は進展しなかった。官僚制度も軍隊も司法も大学も、民主化はほとんどといってよいほどに進まなかったのではないか。また、民衆の草の根からの共和制の樹立、民主主義の拡充がなかなかに進まなかった。そして五つには、共和制末期には議会が機能しなくなりつつあった。
(続く)
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357の2『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのモンロー主義
1823年12月、アメリカの第5第代大統領モンローは、その教書の中で、次のように述べる。
「われわれは、率直に、また合衆国とこれらの諸国との間に存在する友好関係のために、次のように宣言する義務があります。
すなわち、われわれはヨーロッパの政治組織をこの西半球に拡張しようとするヨーロッパ諸国側の企ては、それが西半球のいかなる部分であれ、われわれの平和と安全にとって危険なものとみなさねばならない、と。
われわれは、いかなるヨーロッパ諸国の現在の植民地や従属地にも干渉したことはなかったし、今後も干渉するつもりはありません。しかし、すでに独立を宣言し維持している政府、しかもその独立をわれわれが十分な検討を加え正当な原則にもとづいて承認した政府の場合には、これを抑圧することを目的としたり、ほかのやり方でその運命を支配することを目的とするヨーロッパ諸国による介入は、どのようなものであっても、合衆国に対する非友好的な意向の表明としか見ることはできません。」(富田虎男訳「史料が語るアメリカ」有斐閣)
これにより、ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱する。その背景には、特にラテンアメリカにおいて、ナポレオン戦争後に本国スペインなどの束縛を破って独立を達成しようとの動きが出て来ていた、ウィーン会議(1814~1815年に、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議)後のヨーロッパ列強はこれを押さえようとしたことがある。これは、アメリカ独立の理念の理念と衝突するものであったから。
それに加えて、アメリカは、自らにほど近い場所での列強の活動に脅威を覚えたのであろうか。むしろ考えられるのは、それから前に向かってのアメリカの国の在り方をめぐらしている中での、より積極的な出来事であったのではないか。
その後、ラテンアメリカ諸国はこの宣言の力もあって、ブラジルなどが独立に成功していく。ところが、その間に、アメリカはこの地域に新たな権益を獲得し、それを拡大していくことになっていく。
(続く)
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356『自然と人間の歴史・世界篇』国際連盟
さて、第一次世界大戦も押し詰まっての頃、アメリカのウィルソン大統領が、戦後の国際平和をめぐっての枠組に関する、提案を行う。
第1条として秘密外交の廃止、第2条として海洋の自由、第3条として経済障壁の撤廃、
第4条として軍備の縮小、第5条として植民地問題の公正解決、とある。
第6条からは個別の課題に移り、ロシアの回復、第7条としてベルギーの回復、第8条としてフランス領の回復、第9条としてイタリア国境の調整、第10条としてオーストリア・ハンガリー帝国の自治、第11条としてバルカン諸国の回復、第12条としてトルコ少数民族の保護、第13条としてポーランドの独立と続く。
さらに締めくくりとして、第14条に国際平和機構の設立を充てる。
これが契機となって、戦後の1920年に創立されたのが、国際連盟なのである。本部をスイスのジュネーブに置いた。アメリカは、議会の承認が得られずに、不参加であった。後には、ファシズムに傾いた日本、ドイツ、イタリアが脱退する。さらにソ連も除名されるなどして有名無実となっていく。
これらのうち、1933年の日本の国際連盟脱退については、こうある。
「本年二月二十四日臨時総会の採択せる報告書は、帝国か東洋の平和を確保せんとする外何等意図なきの精神を顧みさると同時に、事実の認定及之に基く論断に於て甚しき誤謬に陥り、就中九月十八日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非すと臆断し、又同事件前の緊張及事件後に於ける事態の悪化か支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因をつくれる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。(中略)
帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にすることを確認せり。 仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信し、連盟規約第一条第三項に基き帝国か国際連盟より、脱退することを通告するものなり」(「日本外交年表並主要文書」)
これの手続き面では、同年3月24日の国際連盟総会では、中国の国民政府の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1で可決したのであったが、反対票を投じた日本代表が、同議場から退場する。日本側に一切の反省はなく、3月27日には国際連盟脱退に関する「詔書」を発表し、連盟に脱退を通告するのであった。
第二次世界大戦後の1946年には解散し、その後は国際連合が結成され、現在に至っている。
(続く)
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110『自然と人間の歴史・世界篇』マケドニアの覇権(コリント同盟)
ギリシアの北方にあって、ギリシア全体が衰退した時期に頭角をあらわしてきたのが、マケドニア王国である。ギリシア北方に、ドーリア系と考えられているギリシア人たちがこの国を建てた。紀元前338年、マケドニア王フィリッポス2世(在位は紀元前359~同336)は、アテネ・テーベの連合軍をカイロネイアの戦いで破る。マケドニアは全ポリスを制圧してギリシア全土を支配するまでに至った。
紀元前337年、そのフィリッポス2世は、スパルタ以外のギリシア全都市をコリント同盟(別名ヘラス同盟。盟主は、フィリッポス2世。紀元前337~同301)を結成し、ペルシア軍との戦争に備えた。本拠地はペロポネソス半島の商業都市コリントであった。
「誓約。私はゼウス、ガイア、ヘリオス、ポセイドン、アテナ、アレス、すべての神と女神に誓う。私は平和を守り、マケドニアのフィリッポスに対する誓約を破らず、誓いを守る者たちの誰に対しても、陸上であれ海上であれ、敵意をもって武器を取らない。私は和平に参加している者たちのどのポリスも要塞も港も、いかなる手段方法によってであれ、戦争のために奪うことをしない。
私はフィリッポスとその子孫たちの王権を破壊せず、諸ポリスが平和に関する誓いを立てた時に各々にあった国制を破壊しない。私自身がこの条約に反することを行わず、他の者がそうすることも可能なかぎり許さない。もし何人(なんびと)かがこの条約を侵害するなら、私は不正を受けた者たちの求めに従ってこれを援助し、評議会の決議と総帥(そうすい)の命令に従って普遍平和の侵害者と戦うであろう。」(森谷公俊「アレクサンドロスの征服と神話」講談社学術文庫、2007)
マケドニアはこの同盟を巧みに利用し、ギリシア世界を支配するとともに、東方へ進出する力を蓄えていったのである。
しかし、ペルシア遠征計画途中に、フィリッポス2世が部下の貴族に暗殺され、彼の遺志は子アレクサンドロス3世(むしろ「アレキサンダー大王」と呼ばれることの方が多い。紀元前336~同323)に引き継がれた。
そのアレクサンドロス大王は13歳の時、父が家庭教師として招いた哲学者アリストテレス(紀元前384~同322)に学び、20歳で王位に就いた。紀元前335年には、北方バルカン半島の諸民族を平定することで、ギリシアにあったマケドニア反対勢力を制圧し、ドナウ川を渡る。それに、マケドニアに対し反乱を起こしたテーベを徹底して破壊する。
(続く)
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66の2『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの階級差別(アテネとスパルタの場合)
アテネでの自由人が誇るべきものとしては、市民権があった。これは、主として、政治活動に参加する権利とみなされていた。ここに市民とは、元々はすでに市民である父親をもつ成人男子出なければならなかった。あるいはアテネでは紀元前451年から同450年にかけての改革によって、市民である父と、アテネ人である母の間に生まれた成人男子をいう。したがって、女性や子供は市民からは除外されていた。
その男子も、一種の兵役義務(エフェビアと呼ばれる一種の軍事訓練)に応じた中から、通常18歳を迎えた者が完全な権利をもった市民となることができたという。もっとも、市民の間においても、「五世紀においてなお市民のあいだに富におうじた四つの階級があり、その富はかつてのようにコムギの収穫量や牛馬の所有能力によってではなく、ドラクマの年収額によって計算されるようになった」(ジャン・ジャック・マッフル著、幸田礼雅訳「ペリクレスの世紀」文庫クセジュ、2014)ともいわれる。
このようなアテネとは別に、ギリシアにはもう一つ、有力なポリスが存在した。ここにスパルタというのは、実はペロポンネソス半島にあったラケダイモンという国の支配階級の名称なのであった。こちらの階級制はアテネの場合より相当厳格で、明確であった。一種の兵役義務(ゴーゲーと呼ばれる一種の軍事訓練)に応じることが必要だが、それよりも、次に紹介される軍制の方が極めつけであった。
「すなわち平等者(ホセイオイ)と呼ばれる少数の軍人貴族のみが市民手あり、二〇歳から六十歳までのごく少人数の彼らの活動は、国家により厳密に組織された軍務だけであった。平等者がつくる共同体の活動で最も実践的な形式は共同食事(シユンテイア)で、そこでは各人が応分の負担を負って共同で食事をとるが、負わない者は不名誉の罰として劣等市民(ヒユポメイオン)に降格される。この降格は卑怯者(トレサンテス、戦闘において震えた者)にも適用される。」(同)
スパルタの下にはヘイロータイと呼ばれる被支配階級がいて、歴史的にはスパルタに征服されて奴隷になっていた部族の総称と成り立っていた。
その社会だが、かなり殺伐としていたのではないか。それというのも、階級による差別が大きかったらしい。毎年スパルタがヘイロータイに対し、形式的な宣戦布告を行い、ヘイロータイを辱め、反抗する者があれば殺すことも、おおっぴらに行われていたというから、驚きだ。スパルタの子弟においても、まだ幼い子供男子に対し身体検査などを行い、体力の劣る者を穴に埋めたり谷底に投棄するなりして、選別していたとのこと。強者だけによる国造りを目指して手段を選ばなかったのが伝わる。
(続く)
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86『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ社会(職業に対する偏見)
共和制末期頃の古代ローマに、キケロ(マルクス・トゥリウス・キケロ:Marcus Tullius Cicero、紀元前106~同43)という雄弁な政治家にして思想家がいた。ちなみにこの名前の意味あいだが、個人名、氏族名それに家名の順になる。より細かくは、彼の場合これに「マルクスの息子、コルネリア地区所属」が加わる。
当時のローマ市南東方のアルピヌムの貴族の家に生まれる。まずは、若くして法廷弁論家として登場し、その後東方に遊学し、アテネ、小アジア、ロードスで先学の教えを受けたという。
紀元前75年には、クワエストル(財務官)としてシチリアに赴任する。紀元前69年にアエディリス(按察(あんさつ)官)、同66年にプラエトル(法務官)に就任する。元老院議員から紀元前63年にコンスル(統領)に上り詰めていた。その彼は、貧民の不満を利用して反乱を起こそうとしたカティリナ一派の陰謀を鎮圧する。その功績で、「国父」の称を得たというから、驚きだ。
けれども、彼の民衆を下におく姿勢は民衆派政治家の攻撃の的となる。紀元前58~同57年にかけてはローマから追放される。紀元前49年からのカエサルとポンペイウスとが覇を競った内乱においては、カエサルの側につく。ポンペイウスの敗死後はカエサルに許され、ローマに戻る。
紀元前44年の政変でカエサルが暗殺されて後は、元老院の重鎮として、オクタウィアヌスと手を組む。アントニウスと「アントニウス弾劾演説(フィリッピカ)」(現存14編)などで闘うのであったが、紀元前43年にはアントニウスの部下によって殺される。その彼が、当時の色々な職業について品定めしている文章が残っていて、その一節にはこうある。
「税吏や高利貸のように、人々の嫌悪する職業は非難に値する。技術ではなく労働を得る賃金労働者の職業も、自由人にはふさわしくない。この職業においては、賃金が隷従に対する報酬と見なされるからである。小売商人たちもいやしいものと考えられる。この世において不正直ほど恥ずべきものはないのであるが、小売商人たちは不正直であることによって利益をあげている。職人はすべて下劣な仕事しかしない。仕事場に高尚なものが何一つとして存在しない。
あらゆる職業の中で、もっとも称賛しがたいのは、テレンチウスも指摘しているように、魚屋・建築家・肉屋・ソーセージ屋・漁師など、快楽につかえるものである。これに香水屋・舞踏家そしてある種の芸人を加えてもよい。」
なお、これらの職業のうち職人や雇われ人は、自由民であるか、解放奴隷であるかを問わず、ときに同業者組合を組織しており、政治的な意思表示も行う社会集団を形成していた。
このように、キケロは「自由人」たる者の道を大っぴらに説いて止まない。その道すがら、彼自身は支配階級の有力な一員であることを誇りこそすれ、その逆では全くなかった。その生涯を通じ、上から目線の姿勢は微動だにしなかったという。すなわち、一方には「名誉ある人」(honestiores)のグループがあり、自由人の中でも貴族や官僚、地主などがそれに属している。その対極には、「卑賤なる人」(humiliores)のグループがあって、彼らはいってみれば三角錐の底辺への途上に身をおく諸階級をなす者なのであって、職人や商売人、農民、奴隷などがそれに属していると。
これら二つの異なるグループは、異なる権利をもち、異なる義務を科せられ、そして法にたがう行いをした場合は異なる刑罰を課せられるものとする。キケロのような当代最高レベルとされる頭の中も、こういう社会の仕組みの中でつくられた、職業に対する偏見に凝り固まっていたのが窺える。
(続く)
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112『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(さらに東方へ)
大国ペルシアを滅ぼした後も、大王は、さらに東征を実行するべく、ギリシア同盟軍を解散させ、ペルシア軍も使用して新たに軍隊を再編成した。そして、バビロン・スサなど有力都市を次々と占領していく。
バクトリア地方やソグディアナ地方などを征服し、西北インドのパンジャーブ地方まで進み、要地に次々と「アレクサンドリア市」と呼ばれるギリシア風の都市を建設していく。これより後の東征完了までのそれらの都市の数は、およそ70とも言われる。
紀元前326~同325年にかけて、アレクサンドロスの軍は西北インドに侵入する。しかし、インド侵入の同326年にインダス川を越え、ヒュファシス(現在のベアス)川にいたったその時、彼の部下たちはこれ以上の進軍を拒み、やむなくこれ以上の遠征を中止する。
やむをえず、そこからは反転を決意し、インダス川を下ってアラビア海に至る。さらに西へ進んで、紀元前324年にはバビロンのスサ(スーサ、現在のイランとイラクの境あたりか)に帰着し、この年が東征の完了となっている。それからほどなくの紀元前323年、アレクサンドロスは熱病に罹って急死を遂げるのであった。
この頃になると、大王の統治も変わりつつあった。なにしろ、広大無辺化する領土なのであった。そのことを考慮して、征服地の統治を旧ペルシア要人や土着民族たちに任せる。彼はもはやマケドニア王だけではなくなっており、オリエント専制君主・ペルシア王としても振る舞わねばならなくなった。政治感覚の鋭い彼は、征服した領地の統治にペルシアの制度を取り入れる。
ギリシアとオリエントの東西文化の融合を試みて、大王自身がバクトリア王女やダレイオス3世の皇女との結婚、部下のマケドニア人男性とペルシア人女性の集団婚礼なども奨励した。経済においても、宏大な領土での交易を奨励した。金貨・銀貨の鋳造で貨幣経済が普及し、東西貿易が発展した。
(続く)
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80『自然と人間の歴史・世界篇』エトルリア
紀元前9世紀世紀以降、紀元前1世紀頃にかけてのイタリア半島中部には、総括してエトルリアと呼ばれる都市国家があった。それらの小国家は、現在のイタリアのトスカーナ州にあたる地域を核に蝟集(いしゅう)していた。そうでありながらも、最盛期の紀元前750~500年にかけては、北はアペニン山脈を超えてポー平原に、南はカンパニア州(州都ナポリ)に至るまで広がっていたとも伝わる。
エトルリア語を用いる人々がこれらの小国家をつくっており、一説には、各都市国家は宗教・言語などをほぼ共通にしながらも、緩い国家連合ということで政治的な独自性をもっていたのではないかと考えられている。
その起源については、実は未だに定まっていない。小アジアのリュディアからイタリアへ渡来した民族であるというヘロドトスの東方起源説と、元々イタリアのその地域にいた先住民であるとの説とが、対立している。前説の代表は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前485年頃~同420年頃)によるものだ。
その彼によると、エトルリア人が小アジアの国家、リュディア(現トルコ西部)からやって来たという伝説の通りだとなる。また後者の流れの中には、トスカーナ地方においてエトルリア文明に先立つヴィッラノーヴァ文明(紀元前12世紀)から分岐したという説があったりするものの、はっきりしたことは分かっていないようだ。
そんな中でも注目されているのが、民族としての特性であり、例えば、こういわれる。
「それでも確実にこう答える。すなわちエトルリア人は民族的一体性を表明するような連合をその歴史の幕開けから形成した。そしてこの民族的一体性は一二連合の形をとり、連合は一柱の神への礼拝を共同で行うために集合し、こうして神は重要性をまして「ノーメン・エトルスクム」を指し示す語となったと。この(一二単位からなる)連合の規模は、軍事・政治面にはほとんど結果を及ぼさなかったにせよ、理念的にはきわめて重要だったので、現存する史料には一二都市に組織される同じ構造がー間違いであれ、正しいにせよーエトルリアの外縁部にも存在し、ある期間にポー川流域地方とカンパニアがそうであったと伝えている。」(ドミニク・ブリケル著、平田隆一監修、斎藤かぐみ訳「エトルリア人ーローマの先住民族。起源・文明・言語」白水社新書、2009)
やがては、ローマとの関係がのっぴきならぬものになっていくの。だが、これの過程もよくわかっていない。というのも、一説には、紀元前8世紀から同3世紀にかけてのローマは、まだエトルリアの諸国家同様の、単なる都市国家の一つだったからだという。
また一説には、王制ローマの王はエトルリア人であったといい、それから異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行したとも言われる。さらに後者の亜流の立場からは、ローマは当時、エトルリアの一都市に過ぎなかった、エトルリア出身の王がローマにいたとの説もあるところだ。こちらの方の話は、初期のローマがどのようにしてつくられたかにも関連しうるものの、その確証は得られていないようだ。
それが、ローマがイタリア半島において力を奮い出してからは、エトルリアは揺さぶられ、圧迫されていく。それは、紀元前396年の都市国家の一つウェイーの陥落をもって本格化し、紀元前264年のウォルシニイの陥落をもって終わる。この約150年足らずの間に、エトルリア諸国家へのローマの支配が定まる。ローマは、トスカーナのぼぼすべて、12都市連合なるものを解体し、各都市の独立性を形式的に尊重しながら、自らの支配に組み込んでいくのであった。
(続く)
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719『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995の農業民営化)
それでは、農業ではどうであったのか。農業の私有化のプロセスの進捗については、さしあたり幾つもの情報をつないだり、空白部分は空想をたくましくして関連情報をかき集め、できるだけ線につないで全体状況を表現してみるのを有効なアプローチとする他はありません。
ロシアでは、1991年12月に個別農家(自営農)を創設することを目的とし、集団農場や国営農場を解体に向かわせることを規定したエリツィン大統領による大統領令を布告しました。
とはいえ、この大統領令では、各々の集団農場、国営農場はメンバーの集会を開いて、個人農からはては農業株式会社への改組まで、多様な非集団化、非国営化への道をさぐっていかなければならなかったわけで、中には右往左往かるところも多くあったに違いありません。ただし、コルホーズ形態の維持という現状維持の経営形態でいくことも選択肢の一つとしてありましたし、赤字企業についてはそのままでの存続は許されないとのことでした。
この非集団化・非国営化の経営形態への移行は、1991年12月から数えて2、3ヶ月の間の短期決戦でなんとか仕上げたいというのが新生ロシア政府のもくろみでした。1992年当初からこれらの集団的経営を行ってきた農場の再登録が進められていきました。当時の全農場が訳2万5千あった中で、1993年6月末までに約2万3千の農場(全農場の約91%)が再登録を終了したようです。ただし、従来から効率的な黒字経営を行ってきた農場には従来の経営形態のままで再登録したところが約8千農場(再登録数の約34%だけあれました。それ以外の農場の大方は、経営形態を変更して再登録したことになったようです。というのも、赤字のところがロシアの全農場の約10分の1にあたる約2600程度はあったとされていて、これらの行く先については、これまで必ずしもつまびらかな報告は見あたりません。
その内訳としては、株式会社形態をえらんだところが約300、企業・組織の副業経営体が約400、協同組合等その他の組織となったところが約2000、自営農への道(分割)を選んだところが約6万2千、等々となったようです。これにより、自営農は1991年末に約4万9千戸であったものが、1992年末には約18万4千戸、さらに1993年6月末には約25万8千戸に増加したことで、自作農家1戸当たりの農地面積は平均で約42ヘクタールとなった、と伝えられているところです。
また、自営農の生産に自留地や自家菜園の生産を加えた「小規模農業生産」の状況をみると、「1992年にはジャガイモの80%、野菜の55%、肉の36%、ミルクの31%卵の26%が小規模農業生産によるものとなっている。また、小規楳農業生産者の家畜保有高の割合は1991年末から1992年末にかけて、肉牛は19%から22%へ、乳牛は28%から31%へ、豚は22%から25%へ、羊及び山羊は31%から36%へと高まっていることになっています」(経済企画庁「年次世界経済報告1993年版」より引用)。
これらをもって、国有及び集団所有の下での大規模農場の生産から、農地の私有を基礎とした小規模農業生産への転換がうまく行われたとし、かかる農業の私有化は軌道に乗りつつあると見ている論考が多いですが、これは楽観的過ぎる途中経過の報告であったと言わざるをえません。というのも、1991年から1992年にかけてはロシアの農業経済が困難に直面していた時期で、その困難とは①穀物収穫、肥料・飼料の供給不足と食糧輸入問題②集団農場からの改組の過程で経営が行き詰まるところの顕在化、中でも経営基盤の脆弱な自営農は困難に陥っており,自営農を放棄せざるを得ない農家も出始めている、③農民が農産物を政府に売りたがらない傾向、④農業機械の高騰,機械用燃料の不足と高騰、⑤農業生産物の収穫上の諸々の遅れや損失、輸送の障害など、多々あった、というのが、1993年6月末時点での非集団化、非国有化の状況でした。
(続く)
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