253『自然と人間の歴史・世界篇』太平天国の乱(1853~1860)
1850年には、広西省でキリスト教系の宗教結社・上帝会(またの名を拝上帝会)が結成される。この数年前、教祖の洪秀全(こうしゅうぜん、1813~1864)は、自分をキリストの弟と称して、天父=神の意向を伝えるという形で信仰を広げていく。1850年になると、広西省で蜂起した洪秀全は、みずから「天王」に即位して、新たな国家を目指す。
1853年3月には、この太平天国が南京(なんきん)を占領して、ここにかれらの首都「天京」(てんけい)と定める。これを「太平天国の乱」(~1864)と呼ぶ。さらに同年の9月、乱の余波はイギリスやフランス、そしてアメリカの租界もある上海(シャンハイ)にもおよんでいく。
これになだれ込んだのは、太平天国の一派の小刀会(しょうとうかい)であって、彼らは上海城を占拠する。これに押された中国人たちは租界地に逃げ込んだ。3国が作った上海義勇軍が同会の猛者(もさ)たちの侵入を防いだ。それから1860年にこの乱が鎮圧されるまでの間、清国は大いなる「内憂外患」に直面する。
そんな怒濤の勢いであった乱であったのだが、1855年には、精鋭を集めて北伐軍を作り、黄河を渡って天津付近まで迫ったものの、その北伐軍は各個撃破され敗退する。それからは太平天国自体も守勢に向かうことになり、1864年にいたって鎮圧される。
この乱がもたらしたものは、何であったのか。13年間にわたる内乱で、一説には、死亡者数は推定でおよそ5000万人、当時の支那全人口の5分の1位とも言われる。また、一時南京を占領したいたことでの治世に触れると、彼らは天朝田畝制度というものを考えた。その内容だが、小島晋治氏の説明には、こうある。
「およそ天下の田畑は天下の人がみんなで耕すべきものであって、ここの耕地が不足するならかしこに移って耕し、かしこの耕地が不足するならここに移って耕すようにすべきだ。天下の田は豊凶互いに融通すべきであって、ここが凶作なら、かしこの豊作をもって救い、かしこが凶作なら、ここの豊作をもって救う。
こうして天下の人々をしてみなともに天父上主皇上帝の大いなる福を享受できるようにする。田があればみんなで耕し、食物があればみんなで食い、衣服があればみんなで着用し、銭があればみんなで使い、いずこの人もみな均等にし、一人のこらず暖衣飽食できるようにする。」
「天下の人々はすべて天父上主皇上帝の一大家族である。天下の人々がなにものをも私有せず、あらゆるものを上主(上帝)のものとすれば、主(天王=洪秀全)がこれらを運用して、天下の一大家族のあらゆるところの人々を平均にし、すべての人々を暖衣飽食させる。」(小島晋治「洪秀全と太平天国」岩波現代文庫、2001)
とはいえ、この制度の実際は、彼らの理想とするところにはなっていかない。触れは出されたものの、見掛け倒れと化していく。自らの政府を維持するためには税の徴収を行なわなければならなかった。そのため地主を保護し佃戸の抗租闘争を弾圧するなど、かえって民衆を弾圧するのに回る。これでは清朝政府となんら変わるところがなくなり、しだいに農民の支持を失っていくのであった。
(続く)
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350『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(ネップ期の経済と内戦の終結)
ネップについて、レーニンはつぎのように述べている。
「旧社会経済システム-取引、小生産、小所有制、資本主義-を打倒することではなく、取引、小所有制、資本主義を復活させ、他方で慎重にかつ自徐々にそれらに対する優位を獲得するか、あるいはそれらが復活する程度まで国家的規制に従わせるようにする。」
(引用:S.ブルカン著・菊井禮次訳「東欧からみたペレストロイカ」ミネルヴァ書房、1989)(出所:V.I.Lenin,“Our Revolution” in The Lenin Anthology,Robert Tucker,ed.(New York:Norton,1971)
また、こうも述べる。
「新経済政策は、統一された国家経済計画を変えるものでもなければ、その仕組みを越えるものでもなく、それを実現する手段を変更するのである。」
これらから類推すると、この時期の彼は、生産物が商品という形態規定性を失っていく過程と、それが新しい形態規定性を具備していく過程との2側面があり、後者が確立するまでは両者の矛盾が存在すると考えていたのではないか。同時に、当時の状況では、新たな経済は、真っ直ぐに進んでいくものではなく、国民経済の力を付けながら迂回路を通じて近づいていく、という認識に切り替わっているようだ。
この新政策の意義を、後年(1991年)の経済学者のアベル・アガンベギャンは次のようにいう。
「指令・命令型経済から経済的な管理方式を持つ経済への転換をはっきり浮き彫りにして見せた前例としては、「戦時共産主義」に代わる「新経済政策(ネップ)」の導入(1921年)が挙げられる。その前の「戦時共産主義」のもとでは、農民の生産物のかなりの部分が、支払いも補償もなしに強制的に徴発されていた。それは食糧徴発制と呼ばれ、農家には生存ラインぎりぎりの量しか残さなかった。
レーニンが導入した新経済政策への移行とともに、この食糧徴発制の代わりに食糧税が導入された。農民が国家に納入する農産物は従来より少なくて済むようになった。重要なことは、国家納入後には、その分を上回る量の農産物が農民の手元に残され、市場で市場価格で販売できるようになったことだ。この制度は労働刺激を大幅に強めた。収穫量は増え、農業は顕著に高揚し、ひいては工業の活動を活性化させていく。今や工業側は見返りに食糧を手に入れるために、農民向けの製品を生産せざるをえなくなった。その結果、都市と農村との間の商品流通は活発化し、ネップ期間中には経済全体の成長がもたらされた。
今や農民が余剰生産物を抱え、それを市場で販売することを許されたたため、広大な市場が形成され、商品・通貨関係全体を活性化させた。その場合、都市と農村との間の商品流通は対等な関係に基づいて行われ、農民も労働者も各々の労働の効率的向上をともに図りたくなるだけの刺激を生み出す。
このように、十月革命後の数年間に新しい市場が形成される一方で、企業やトラスト(企業連合)が独立採算制に移された。つまり、企業は所要経費を自分の収益から捻出するようになったわけだ。また、賃金が生産を刺激するようにするには、どうしたらよいか、という問題も論議されるようになる。
国家は、その計画立案・実施と財政・信用政策の助けを借りて、市場をコントロールしながら、市場を一歩一歩「支配する」すべを学び取っていた。革命直後の国内戦期間中は、経済封鎖を課され、外部世界との経済関係が徐々に復活していた。その方向への第一歩は、レーニンの指導下に踏み出され、レーニンはこの対外経済関係の発展を歓迎していた。」(アベル・アガンベギャン著・大つき人一訳「ソ連経済開放への道」読売新聞社、1991)
要するに、このネップの性格とは、それまでの「戦時共産主義」の放棄を含意するとともに、社会主義の公的所有原則を一時部分的に棚上げすることを志し、国民経済に私的経済を部分的に復帰させるものであった、といえる。
また、この間の政治体制については、内戦が収束し、革命政府が安定に向かう時期であった。1922年12月30日、ソビエト社会主義共和国連邦(略して「ソ連」)創立の宣言が行われる。この連邦創立時点の構成国メンバーは、ロシア連邦、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカース連邦の4共和国であった。
1922年4月2日、レ-ニンが脳疾患で倒れたのを受け、共産党の中央委員会総会が開かれ、スターリンがロシア共産党書記長に選ばれる。また、同年には金融面で第一次の平価切下げがあり、1923年にも第二次の平価切下げがあった。国立銀行が新政府としての兌換銀行券の発行を始める。
1923年1月21日、さきに脳疾患で倒れ、治療と静養(療養)していたレーニンが死去する。眠るための時間の一部も犠牲にして、生まれたばかりの国家の存続に力を尽くした無理が影響したのは、間違いあるまい。1924年2月には、旧通貨の新通貨への切替えが実施される。
1924年から1928年、ウズベクとトルクメニスタンがロシア連邦から切り出されてソ連邦に加盟する。さらに、1929年にはタジクがウズヘクから分離する。1936年憲法で、ザカフカース連邦が廃止され、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンが加盟国となり、またロシア連邦からカザフとキルギスが連邦を構成する共和国として切り出され、さらに1940年にリトアニア、エストニア、ラトビアのバルト3国が加盟するに至り、ここにソ連邦を構成する15の共和国が出そろう。
(続く)
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348『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(内戦時の経済)
1919年、レーニンらはコミンテルンを結成して、ロシア革命の世界革命への波及に全力を挙げる方向性を内外に宣言した。1920年には、第9回共産党大会が開かれた。この大会では、経済建設における党活動に関する指導原則が決められた。
その翌年、第10回共産党大会が開かれた。この大会では、レーニンの提唱した新経済政策と、「党の統一について」という二つの決議が採択された。この大会でのレーニンの発言の中には、1919年のロシア共産党綱領への次の見解表明も含まれる。
「われわれのこれまでの綱領は理論的には正しかったが、実践的には破綻した。」
この見解では、ロシアは上部構造としての社会主義革命は達成したものの、経済全般に目を向けたときまだ「社会主義への過渡期」の域を出ていない。
レーニンはブハーリンの「過渡期経済」(1920年刊)に寄せて、「商品・資本主義的制度の均衡の範疇としての価値は、商品生産が著しく消滅して均衡が存在しない過渡期には殆ど役に立たない」と書いている。その一方で、「自然成長性にかわって意識的な社会的規制者があらわれるならば、商品は生産物に転嫁してその商品的性格を失う」としつつ、なおかつ「不正確。生産物にではなくなにか別のもの、たとえば、市場を通らないで社会的消費に入っていく生産物に転化する」と脚注している。
この点は、レーニンがロシア革命ののち、ひき続いて世界革命が起こるような世界史の展開を予想し、革命ロシアが生き残れるかどうかは、それに大きく依存すると考えていたであろう、からにほかなりません。私たちは、マルクス・エンゲルスの切り開いた理論上の地平と、ソビエト・ロシアの状況という現実、したがって現実的対応の必要との大きなギャップを埋めることに苦慮する彼の姿を見てとることができるのではないか。
さて、1921年の経済について述べれば、国中には至る所で飢饉が蔓延していた。1921年3月に開催の第10回党大会は、レーニンの「食料税について」の提案を採択する。食糧割当徴発制(食糧徴発制ともいう。)をやめ、食糧税を取り入れる。
この税は、作柄、被扶養者数、家畜を考慮して、農家生産物の一部を現物税として徴収するものであった。併せて、農産物の交換、売買の自由が認められた。農民はこの措置によって、食料税を納入した後の残余の食糧を市場で自由に売買してよいこととなった。
そればかりではない。農業についてのレーニンの報告「モスクワ市とモスクワ県のロシア共産党(ボ)細胞書記および責任代表者の集会での、食糧税についての報告」(1921年4月9日)には、こうある。
「いま農民経済に最大の注意がはらわれるのはなぜか。それは、われわれがそこからしかわれわれに必要な食糧と燃料を入手できないからである。支配階級として、独裁を実現している階級として、経済をただしく運営していきたければ、労働者階級は、つぎのようにいわなければならない。--そこにこそ、農民経済の危機にこそ、最大の弱点があるのだ。これをただして、もういちど大工業の復興に取りかかり、同じこのイヴァノヴォ-ヴォズネセンスク地方で、22の工場ではなく70の工場全部を操業させるようにならなければならない、と。
そのときには生産物は農民から税としてではなく、労働者階級が彼らにあたえる工業製品との交換という形で手にはいるであろう。ここにこそ、残存する工場をも、白衛軍に抵抗するための軍隊をも維持することに欠くことのできない人々を、全国民の空腹という代価をはらってすくうために、窮乏と飢餓を分けあわなければならない、現在の過渡期の意味がある。」(「レーニン全集」第32巻、大月書店、1959年、312ページ)
1921年7月、大衆消費財生産の零細経営に対し、私的な生産が許可され、一連の小企業が非国有化される。流通部門でも、一部私的経営が認められる。その中で、労働者20人以下の小企業の設立が認められ、8月11日、新経済政策(ネップ)の採用が発表される。1921年12月には国有企業のうち労働者5人以下、動力機が無い場合には20人以下の企業が再私有化が認められる。それに、再私有化が認められなかった中小企業についても賃貸経営が認められる。
(続く)
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146『自然と人間の歴史・日本篇』室町文化(猿楽から能楽・狂言へ)
観阿弥(かんあみ、かんなみ、1333~1384)は、室町時代の猿楽師(さるがくし)である。息子の世阿弥(ぜあみ、通称は三郎、実名は元清、1363~1443)とともに、この芸を日本に根付かせる。
そもそも、この芸は大陸から「散楽」としてもたらされたもの、つまり母国は中国なのであったという。これを受け入れた人々が、やがて日本の風土に合うように工夫を重ねていく。室町時代初期の大和国(現在の奈良県)の猿楽結崎座を営み、この芸を大衆に広める。1368年頃には、観阿弥(当時36歳)、猿楽に曲舞を取り入れ、大和音曲を創始する。こうした研鑽により、「猿(申)楽」へと発展していく。
なお、ここで猿楽とは、江戸時代までの呼称であって、明治時代になってからは能と狂言として言い習わされる。「能楽」という場合には、この両者が含まれると見るのが自然なのかもしれない。今日、伝統芸能としてよく比較されるのが歌舞伎なのだが、こちらは江戸時代に入ってからは主として屋内(芝居小屋から劇場へ)で幕や緞帳(どんちょう)を必要としていく。対するに、能楽としての能や狂言は、これも元々は野外劇のようなものであったのだが、歌舞伎に比べると、より野趣豊か、野性味が溢れているというか、幕があってはかえって邪魔になる訳であったらしい。
やがて父の後を継ぎ、一座の頭となった世阿弥は、父が遺した猿楽能に独自の工夫を加えていく。観阿弥の流れを汲みつつ、後に観世流(かんぜりゅう)と呼ばれる一派を形成していくのであった。この世阿弥だが、幼名は鬼夜叉(おいやしゃ)、そして二条良基から藤若(ふじわか)の名を賜わる。父主宰の一座に幼いころから出演していた。おりしも、1374年の12歳の時、京都の今熊野で催した猿楽能に出演するのであったが、その席にて、観世父子が能を演じ、時の将軍足利義満に認められる。そういうことから、世阿弥は観阿弥一座の後継ぎとして見なされる。
さて、1378年頃には、世阿弥は結崎座の名を観世座に変更する。彼は、何よりもまず理論家なのであった。平たくいうと、この芸の中に、貴族社会で需要のあった、「幽玄」とも「幽幻」ともいよれるような美意識を取り入れていく。やがては、「夢幻能」という能の形式と内容を目指すのであった。
そして迎えた1400年、世阿弥は自らの能の理論を記した書物「風姿花伝」(ふうしかでん)を執筆する。1432年、息子の元雅が伊勢の津で40歳で急死する。足利義満の子供である足利義教が6代将軍となっての1434年(72歳)には、世阿弥は佐渡が島に流刑されるなど、厳しい境遇に立たされる。さらに1442年、世阿弥は許されて京都に帰ることができた。ようやく京都へ戻る事が許されたことによる安堵感からであろうか。一説では幼少期に世話になっていた大和国の補巖寺(ふがんじ)に帰依したと言われるのだが。
ここで話を「風姿花伝」に戻したい。そもそも、この書は、世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品だという。能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学などを含む。以下に、幾つかの節を紹介してみよう。
「およそ、家を守り、芸を重んずるによつて、亡父の申し置きし事どもを、心底にさしはさみて、大概を録する所、世のそしりを忘れて、道のすたれん事を思ふによりて、まつたく他人の才学に及ぼさんとにはあらず。ただ子孫の庭訓を残すのみなり。」(「風姿花伝」第三、「問答条々」)
「この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ、声変わりぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし頃の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手立はたと変わりぬれば、気を失ふ。」 (「風姿花伝」第一、「」年来稽古条々」)
「指をさして人に笑はるるとも、それをばかへりみず、(中略) 心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。」(「風姿花伝」第一、「年来稽古条々」)
「このころ、一期の芸能の定まる初めなり。さるほどに、稽古の境なり。声もすでになほり、体も定まる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身なりなり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向かふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそ目にも、すは、上手で来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、いったん勝つときは、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。
これ、返す返す主のため仇なり。これも、まことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の、いったんの心の珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、きはめたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これはいったん珍らしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをもすぐにしさだめ、名を得たらん人にことをこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。」(「風姿花伝」第二十四、五)
これらに窺えるように、自らの芸が大成してからの世阿弥の頭脳の中では、人を感動させる力を「花」と表現していた。この書の中の「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」という一節からは、彼の長年培ってきた日本文化の「幽玄」(ゆうげん)なる精神性のみならず、生真面目(きまじめ)そして真っ直ぐな人柄までもが伝わってくるではないか。
ところが、当時のこの書物は、世阿弥の一族のみが触れる事が許されており、それからも長い間、一般の人は風姿花伝というものがある事すら知られていなかったといわれる。それが長い夢から目覚めたのか、20世紀初頭、吉田東伍(よしだとうご)という歴史学者がこの書物の存在を学会で発表したのを機に、多くの人の目に留まるようになっている、誠に数奇な書なのである。
さて、能楽のもう一つの要素であるとされる狂言については、能との関係性を中心に、どのように理解したらよいだろうか。これについては、現代の狂言師・野村萬氏の説明が入門には手頃であると考えられるので、以下に紹介しておく。
「最近は、狂言は独立して別のパフォーマンスとして演じられたりしますが、本来は能と対義語のような関係、つまり「陰と陽」「明と暗」あるいは「悲劇と喜劇」と言えるでしょう。両者が引っ張り合って「一つの世界」をつくっている。ですから、能だけやってもだめだし、狂言だけでも本来ではないと思います。
学者や評論家の先生は、能は仮面劇で歌舞伎、狂言は台詞劇といった説明をされ、全く別の芸能のような印象をもってしまいますが、もともと同根です。
能の舞台は、音楽的な要素・舞踊的な要素・演劇的な要素、この三つの要素で成り立っています。能が音楽的で抽象的に舞い、狂言が演劇的で具体的に台詞を言う、これは両者の性質や成立の違いというよりも、能舞台の演技の幅の表れだと考えていただいた方が良いでしょう。分業になっていますが、能舞台を支える根幹の技術は同じです。」(野村萬「その先にあるものー芸と"遊・離"するー」:「EUNARASIAーQ(ゆーろ・ならじあ・きゅー)」2017年9月号)
(続く)
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709『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1990年7~12月)
1990年7月、第28回党大会が開催され、政治局の権限は最高会議に委譲されることが承認され、その約1ヶ月後の1991年8月に政治局は解散する。この第28回党大会までにソ連共産党は、既に一枚岩の集団ではなく、幾つもの党内派閥が形成され、事実上裂するにいたっていた。
そんな中、党内のリベラル派は「民主政綱」派に結集し、「正統的マルクス主義」を標榜する人々は「マルクス主義政綱」派がへと動き、さらにそれまで独自組織を持たなかったロシア共和国で、ロシア共産党なるものが結成されていく。このロシア共産党については、当時ソ連共産党員のおよそ58%が所属したと言われているところだ。
1990年11月、こうした状況の中でゴルバチョフはソ連邦を構成する諸民族共和国に主権を与えて新しい連邦を構成する考えを実行に移そうと動く。
新しい国名を「主権ソビエト共和国連邦」とする、体制の選択は共和国の決定に委ねる・連邦会議を政策決定機関とするなどを内容とする「新連邦条約」の最終案をソ連最高会議に提出するに至る。この提案について、ソ連最高会議は同年12月にこの新連邦条約案を承認しました。しかし、バルト海に面する3つの共和国は12月中にこの新連邦条約への不参加を表明するのであった。
そして迎えた1990年11月、連邦体制の崩壊を恐れたゴルバチョフ政権は、連邦と共和国との新たな関係の樹立を模索することになっていた。また、この時期から保守派の巻き返しが目立つようになる。政治は、まさに流動的な状況を呈し始めていたといっても、過言ではない。1990年12月になると、改革派のシェワルナゼ外相が「独裁が到来する」と警告して辞任を余儀なくされる事態となる。
(続く)
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708『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1990年1~6月)
明けての1990年3月、連邦レベルの所有権法が採択される。これによって、市民所有、集団所有及び国家所有が規定される。このうち集団所有については、「長期貸与制企業、労働集団市余裕企業、協同組合、株式組織その他の経済団体、組合・協会・社会組織など法人格をもつ団体」が盛り込まれる。
この間紛糾を来していた市場化移行計画では、アバルキン提案を手直しした「経済健全化プログラム」、ついでそれを1990年3月に修正した政府案「調整市場経済への移行構想」(ルイシコフ首相)の展開があった。後者のルイシコフが採用した案では、価格の市場決定はさらに後退する。
1990年初め、アルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間で民族運動が武力紛争にまで発展する。この二つの共和国には治安維持のための軍隊が投入される。その年の5月を迎える頃には、ソ連邦からの独立を宣言したリトアニア共和国とエストニア共和国(3月)、ラトビア共和国(5月)ばかりでなく、連邦からの独立運動はモルダビア共和国、カフカーズのグルジア共和国、アゼルバイジャン共和国、アルメニア共和国、さらにウクライナ共和国にも見られるようになっていく。
1990年3月末、ゴルバチョフ大統領はリトアニア共和国に対して独立宣言の撤回を要求し、独立宣言を撤回しなければ経済制裁を行なうと警告し、4月には経済制裁に踏みきる。
1990年4月、こうした動きに対してソ連最高会議は連邦離脱の手続きを明確にする連邦離脱法を採択する。それによると、共和国が連邦を離脱するためには住民の3分の2の賛成と連邦人民代議員大会の承認さらに5年の移行期間を必要とすることなどで、連邦からの離脱に歯止めをかけることをねらったものに他ならない。
1990年5月、ロシア共和国最高会議代議員会が開催され、急進派の旗頭で元ソ連共産党政治局員候補のB・エリツィンがロシア共和国最高会議議長職(ロシア共和国元首)に選出される。同5月、政府提案(ルイシコフ報告)があり、その中で3つの段階を漸進的改革プランが提起される。
その1は、市場経済のための法的枠組みの整備であり、その2は財政赤字削減、価格体系の変革、赤字企業の閉鎖、銀行・信用制度の確立、そして、その3として価格の市場決定、外国は競争の導入、ルーブルの部分的交換性の回復など、ということあった。
まず価格の市場決定では、「調整的市場経済」への移行期の価格体系として、国家が定める固定価格、連邦や共和国政府が上限を定め、その範囲内で決定される調整価格、自由価格の3つが提案される。
それらのうち、相対価格体系の改革と価格の市場決定が先送りされる。というのは物価上昇を招くという意味で、大衆と国営企業の反抗を招くとう政治的理由からであった。ルイシコフ首相のプランは1990年5月の消費財値上げ(パンは3倍も値上げ)演説の翌日から始まった買い占め、値上げ反対で棚上げとなった形であるる。
ところが、当時のモスクワ市民の反応、そして物価の動向は、例えば次のように伝えられている。
「ルイシコフが最高ソビエトに価格引き上げ予測を含めた相対的に穏健な最終青写真を提示すると、すぐに買いだめ騒ぎが始まった。モスクワの店には何年かぶりかでスパゲッティ、米、砂糖、その他供給品が不足した訳ではない。製品を購入するために長い列ができた。」(パーヴェル・パラシチェンコ著・濱田徹訳「ソ連邦の崩壊ー旧ソ連主任通訳官の回顧」三一書房、1999)
1990年6月末、ソ連ロシア共和国最高会議議長に当選していたエリツィンが共和国内での影響力を拡大する中、ソ連ロシア共和国人民代議員大会が開かれ、ロシア共和国の主権は連邦の主権に優位するとの主権宣言(国家主権宣言)を採択し、連邦政府と対決姿勢を強めていく。1990年6月~7月、ロシア共和国に続いて、ウズベク共和国、モルダヴィア共和国、ウクライナ共和国までもが相次いで、「主権宣言」を行う。
(続く)
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707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1988)
1988年6月28日から7月1日にかけて、第19回ソ連共産党協議会が開催された。討論の実況が初めてテレビで全国に公開された。
この会議でソ連共産党の書記長であったゴルバチョフは、政治改革の必要を訴える。具体的には、ソ連の最高の権力機関としての人民代議員大会の創設を提案する。これまでの最高会議に変えて自由選挙地方選局、民族地方選挙区、社会団体からそれぞれ750名ずつ選挙された2250名からなる人民代議員大会と、そこから選ばれる400~450名の最高会議議員でもって新たな連邦議会を構成するというもの。しかも、議員の3分の2の選出に当たっては、それまでのような共産党の推薦した唯一の候補者の信任投票によるのみでなく、複数候補の立候補によるロシア革命以来の自由選挙で選ばれるという仕組みに取って代える。
また、人民代議員大会の中から選出される最高会議(最高会議議長職の創設を含む)については、共産党政治局の決定を破棄する権限をもつことが決定される。
1988年10月、ソ連邦最高会議幹部会議長(元首)を兼任したゴルバチョフは、同年11月に憲法改正案と新選挙法案を提出する。国権の最高機関としての連邦人民代議員大会と強力な権限をもつ連邦最高会議議長の創設、それに常設の立法機関としての連邦最高会議の創設などが盛り込まれた。同年12月、憲法改正案と新選挙法案はソ連邦最高会議で採択される。
1988年11月、ソ連の一共和国であるエストニア共和国最高会議は、主権宣言を採択するとともに、共和国憲法を改定し、ソ連邦の法令は享保国最高会議の批准によってはじめて効力を持つことに変えた。これを受けたソ連邦最高会議幹部会は、エストニア共和国のこの決定はソ連邦憲法に違反し無効であると宣言する。翌年になると、エストニアの近くの共和国であるラトヴィア共和国とリトアニア共和国もエストニア共和国と同様な決定を行うに至る。
(続く)
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353『自然と人間の歴史・世界篇』革命期の中国文学(魯迅など)
魯迅(ろじん、本名は周樹人、1881~1936)は、現在の中国の浙江省紹興府城内、東昌坊口に生まれる。家は代々学者の家筋であったのだが、少年期に父が病死して、家も傾く。それでも21歳の1902年、日本へ留学し医学を志す。官費留学というから、優秀だったらしい。
東京の語学学校を卒業後、続いて仙台医学専門学校に入学したものの、中国での民主化運動が気になって、中途退学、今度は東京にもどって文学への道をさぐる。それで何かを得、中国へ戻ってからは教師生活をおくりながら、1918年には「狂人日記」、 翌年には「孔乙己(コンイーチー)」、さらに1921年からは「阿Q正伝」、「故郷」などを発表していく。
それらの中で、「阿Q正伝」の持つ意味とはなにであろうか。その「序言」においては、この書は単なる小説ではなく、どちらかというと、その体裁を借りつつ当時の中国社会に対しもの申すといった姿勢が窺える。
当時の中国民衆の気持ちというと、大した文言が唱えられていた訳ではあるまい。巷にあったのは、政治的には大方屈従の日々ではなかったのか。これが田舎(いなか)となると、西洋列強及び日本による圧力がひしひしと感じられていたであろう都市部と大いに異なっていたのは、想像に難くない。多分に閉鎖的、旧態以前の封建制にどっぷりつかった社会のイメージではないか。そういえば、阿Qは、その中国のとある農村で日雇い労働者をしていた、つまり日銭を稼いでなんとか命を繋いでいたことになっている。
そんなあらすじに従えば、彼はよくいえば楽天的、そうでなければ「国民性の悪い品性を一身に」集めた存在だといえるかもしれない。楽天的といわれる訳は、例えば何かの間違いをしでかしたり、あれこれ辛いことがあっても、「大したことではない」とか「なんとかなるさ」の類で気に留めないことからきていた。
もう一つの評価であるところの「悪い品性」をどうみるかは、難しい。阿Qのような境遇にあっても、すっくと立って生きている人も相当な割合でいたであろう。また、卑屈なともいえる当時の国民性が当時のものであったのかというと、それは魯迅のような知識人からみた場合、いわばつくりあげたところのある民衆像であって、全体ではないとの見方もあったことだろう。
しかし、そうでないとも、言い切れない。強いて言うと中国社会の秀でた部分、頭脳鋭敏な知識人たる魯迅が、警世の意味でこの阿Qという、特異な人間をつくったのではないか。ともあれ、人のいい、あるいはおろかな阿Qは最後は掠奪(りゃくだつ)の罪を着せられて、銃殺刑に処せられてしまう。それを観ていた民衆は、せせら笑うか、どうせ自分のことではない、さらには自業自得だとか、様々な流言が飛びかったことが想像されるのである。
こうした意味あいのことをより広くいうと、「阿Q正伝」・「狂人日記」他12篇(岩波文庫)冒頭にある「自序」において、魯迅と友人の金心異とのやりとりが載っていて、それにはこうある。
「(魯迅)「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう。だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒と思わんかね。」
(金心異)「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか。」」
ここまでくると、もはや当事者たちにしかわからない、「いったいいつまで我慢すればこの世の中を変えることができるのか」との思いは、当時の中国知識人たちの野葛藤であったに違いないようだ。
もう一つ紹介しよう。小説「故郷」においての魯迅は、一転、高級官僚の「僕」が主人公となっている。圧巻は、彼に少年だった頃の友人、閏土(ルントウ)のことを思う、そのしめくくり部分には、こうある。
「僕は希望について考えたとき、突然恐ろしくなった。閏土が香炉と燭台を望んだとき、僕が密かに苦笑さえしたのは、彼はいつも偶像を崇拝していて、それを片時も忘れないと思ったからだ。いま僕の考えている希望も、僕の手製の偶像なのではあるまいか。ただ彼の願いは身近で、僕の願いは遥か遠いのだ。
ぼんやりとしている僕の目の前では、一面に海辺の新緑の砂地が広がり、頭上の深い藍色の大空には金色の満月がかかっている。僕は考えた。思うに希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。」(藤井省三訳「故郷/阿Q正伝」光文社古典新訳文庫)
なお、竹内好訳の「故郷」(筑摩書房版教科書)も有名であり、同じ訳文でありながら、どこか違う、こう締めくくられているところだ。
「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
(続く)
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698『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐソ連・東欧諸国(1980~1990年代)
ソ連・東欧の1980~1990年代の対外経済については、色々な資料があってややこしい。最初に、ソ連・東欧対西側債務状況につき、幾つか統計資料を紹介しよう(単位は10億ドル)。
1982年末の対外債務残高は、ソ連が23.0(単位は10億ドル)、ポーランドが26.0、東ドイツが14.0、ハンガリーが7.0、ルーマニアが9.9、ユーゴスラビアが19.0、チェコスロバキアが0.37%(※)、ブルガリアが0.05%(※)。ここで(※)は、アメリカのモルガン・ギャランティ・トラスト調べほか、での数値とされる。
1983年の対外債務返済額は、ソ連が12.2、ポーランドが7.8、東ドイツが6.3、ハンガリーが3.5、ルーマニアが5.5、ユーゴスラビアが6.0。
1983年の対外債務返済額の輸出入に占める割合は、ソ連が25%、ポーランドが94%、東ドイツが83%、ハンガリーが55%、ルーマニアが61%、ユーゴスラビアが41%(これらの数字の引用元は、野々村一雄「ロシア・ソビエト体制」ティビーエス・ブリタニカ、1983)
二つめの資料は、次のようである。
ポーランドの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に28.2%、31.9%、35.8%、34.1%、37.5%、41.8%。
ハンガリーの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に11.5%、14.7%、18.1%、18.2%、19.4%、20.3%。
チェコスロバキアの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に3.6%、4.4%、5.1%、5.6%、5.7%、6.3%。
ブルガリアの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に1.6%、3.6%、5.1%、6.1%、8.0%、9.8%。
ルーマニアの1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に6.5%、6.3%、5.1%、2.0%、△1.3%、1.3%。
東欧の計の1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に51.5%、60.9%、69.2%、66.1%、69.3%、79.6%。
ソ連の1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年は、この順に15.8%、16.6%、25.1%、27.7%、39.3%、43.4%。
(注)金額は、グロスの債務額からBIS報告銀行への預金を除いたもの。
(ソ連東欧諸国の対外債務、残高(ネット)、10億ドル、出所は、OECD“Financial Market Trends”Feb.1991により経済企画庁「世界経済白書」1991年版が作成したものから引用。)
(続く)
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352『自然と人間の歴史・世界篇』三民主義と孫文
孫文が新国家の理念として唱えたのが、「三民主義」にほかならない。まずは、次の言葉から始めよう。
「こんにち、この自由という言葉はけっきょくどういうふうに使わねばならないのか。もし個人に使うならば、ひとにぎりのバラバラな砂となってしまう。」(孫文著、安藤彦太郎訳「三民主義」岩波文庫)
ここに「三民主義」というのは、国内諸民族の平等と帝国主義の圧迫からの独立(民族主義)、民主制(共和制)(民権主義)、平均地権・節制資本の考えによる国民生活の安定(民生主義)の三つから成る。
この思想の淵源は、1905年、 中国革命同盟会の綱領として採択されたところにある。以後、後の中国国民党の政治綱領となるまでの間に書き足しとかがあるようだが、基本的な視点は変わらない。
彼は、この考え方の趣旨を大衆に伝えるべく、対人説法でいろんな語り口を持っていたようだ。1905年、東京留学生歓迎会での演説で「中国は共和制を建設すべきだ」と主張する。1906年、『民報』創刊一周年記念大会での演説で「三大主義と中国民族の前途」を述べる。1910年にはサンフランシスコでの演説に臨み、「中国革命の難易」と題し手話を行う。
話のついでに、「辛亥革命」前には、手紙もせっせと書き送っていたようだ。1914年には、大隈重信に中国革命への支持を求める書簡を送る。1923年、今度は犬養毅に列強の影響を脱し中国革命の成功を助けるように求める書簡を送る。これらのうちサンフランシスコでの演説では、実利を重んじる人々が集まっていたからなのであろうか、なかなかにざっくばらんな話しぶりとなっている。
「諸君がアメリカに来たのは、金儲けを志したからですが、しかし天下の事柄で金儲けほど難しいことがあるでしょうか。ところが諸君は恐れることなく、数万里も遠しとせず、故郷を離れ当地へ来て、なんとしても目的を達成しようとしているのです。
今、試しに革命の困難と金儲けの困難とを比べてみれば、金儲けは革命の数千・数万倍も難しいことがわかります、
なぜ、そう言うのでしょう。金儲けを志して、アメリカへ来る者は、合わせて百数十万人を下りませんが、本当に金儲けできた者が何人いるでしょう。アメリカで百万ドル以上を稼いだ者は、いまだに一人もいません。
ところが革命を志した民族は、最近百年あまりの間に、アメリカやフランス、イタリア・ギリシャ・トルコ・ペルシャ、そして無数の小国がありますが、成功しなかったものはないのです。(中略)
私は、民族革命とは満洲民族を絶滅させることだと、ある人が言うのを聞いたことがありますが、この言葉は間違いです。民族革命を行う理由は、満洲人が我々の国を滅亡させ、我々の政治を支配していることに甘んぜず、必ず彼らの政府を打倒して、わが民族の国家を回復せねばならないということなのです。このように見るならば、我々は決して満洲人を憎むのではなく、漢人に害を与える満洲人を憎むのです。
しかし、まだ最も重要なことがあって、それは革命を行う者に、少しでも皇帝思想が残っていれば、それは亡国をもたらすだろうということです。
要するに我々の革命の目的は、衆生のために幸福を図ることで、少数の満洲人が利益を独占することを願わないから、民族革命を求めるのであり、君主一人が利益を独占することを願わないから、政治革命を求めるのであり、少数の富者が利益を独占することを願わないから、社会革命を求めるのです。」(「孫文革命論集」岩波文庫)
(続く)
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879『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1992~2018)
朝鮮半島は、朝鮮戦争での休戦ラインを挟んで北と南とで対峙する様になって以来、同じ朝鮮民族同士で軍事的ににらみあってきている。朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」という)は、南の大韓民国(「韓国」という)に長距離砲の軍門を並べでいる。南の方も、北に向かっての戦争に備えている。そして韓国軍の後には、在韓米軍が控えている。米韓は、自分達が取り組んでいるのは北の脅威に対抗しての共同防衛の陣を敷いているのだという。
1992年、南北の間で非核化宣言がなされる。「核兵器の製造、保有、使用は行わない」とするもので、北朝鮮側のキム・イルソン主席が積極的役割を果たす。翌1993年、北朝鮮はNPT(核不拡散条約)からの脱退の意思を明らかにし、国連の安全保障理事会(「安保理」と通称)では、NPTへの復帰を要請する。1994年には、アメリカと北朝鮮の間で、核兵器開発の凍結と原子力発電所・軽水炉の提供についての合意が成ったものの、その後に話は破綻になってしまった。1998年には、北朝鮮が長距離弾道ミサイルのテポドンを発射した。
北朝鮮に対する安保理による制裁決議の採択は度々にわたる。その理由とされる北朝鮮の軍事行動はだんだんと高度化していく。2000年には、アメリカのクリントン大統領が予定していた北朝鮮への訪問を諦める。2002年には、アメリカのブッシュ大統領が、北朝鮮などを「悪の枢軸」と発言する。2003年、北朝鮮がNPTからの脱退を再度宣言したことで、米朝の協議か暗礁に乗り上げた形になると、北朝鮮のさらなる軍事行動をくいとめるべく6か国(中国が議長で米韓日ロが参加)による協議が開始となる。
2005年、北朝鮮が「自営のための核兵器製造」を表明する。これに対し、6か国協議による共同声明が出される、その中で核兵器の放棄と北朝鮮の不侵略で求める。同年、6か国協議がまとまり、北朝鮮のキム・ジョンイル総書記が「すべての核兵器と検討計画を放棄する」ことを表明する。
2006年7月、北朝鮮は弾道ミサイル7発を撃ち、10月には1回目の核実験を行う。これを受けて国連安保理が動く。加盟国に北朝鮮への大型兵器や贅沢品の輸出禁止を求めることを決める。これが、安保理による北朝鮮への最初の制裁措置に踏み切った時であった。2009年6月、安保理において北朝鮮への制裁の拡大を打ち出す。具体的には、すべての武器の禁輸、制裁履行の監視強化の決定が行われた。こちらの制裁の原因となったのは、2006年10月の1回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定0.8キロ・トン、ちなみに広島に投下された原爆の規模は同15キロ・トン)、2009年5月の2回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定3~4キロ・トン)などであった。
2012年4月には、国連安保理において、北朝鮮の核・ミサイル開発への議長声明が出される。2013年1月、ミサイル発射に関与した4個人6団体の資産凍結が行われる。制裁の原因となったのは、2012年12月には、弾道ミサイル・テポドン2改良型が発射された。そして2013年2月に北朝鮮が3回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6~7キロ・トン)を行うと、国連の安保理は、3月にこれの制裁として核ミサイル関連貨物の検査を義務化する。この年、北朝鮮のキム・ジョンオン委員長は、「経済建設と核開発を同時に進める」との並進路線を表明する。
2016年3月、北朝鮮からの鉱物資源の禁輸・制限措置が決定される。この制裁の原因となったのは、同年年1月の4回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6キロ・トン)と弾道ミサイルの発射であった。続いての9月には、北朝鮮による5回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定10キロ・トン)があった。2016年11月、これらに反応した国連安保理が、それまで民生用に限り認めてきた北朝鮮からの石炭輸出に上限を設定する。
2017年2月12日、北朝鮮は新型中距離ミサイル「北極星2」を発射する。3月6日、中距離「スカッドER」4発が発射される。5月14日、中距離「火星12」を発射した。21日には「北極星2」を発射、29日にもミサイルを発射する。6月、ミサイル開発に関与した14個人4団体の資産を凍結する。こちらは、5月に2回目の弾道ミサイルの連続発射があったことへの制裁措置となっている。
さらに、7月4日と28日に大陸間弾道ミサイル(ICBM、「火星14」)発射がある。これに対し、8月の国連安保理で石炭や鉄鉱石それに海産物の同国からの輸出を例外なく禁止する措置(禁輸)を発表する。新規の北朝鮮労働者の受け入れ禁止も決めたのだといわれる。この場では、米国などが当初求めた軍事目的の石油の取引制限を主張したのであったが、これに穏健派の中国とロシアが反対したため、同決議には盛り込まれたなかった。
8月21日からは、米韓による共同軍事演習「乙支(ウルチ)フリーダム・ガーディアン」が始まった。この軍事演習においては、グアム島にいる米軍のB1戦略爆撃機が参加することも含まれるという。8月26日、短距離弾道ミサイル3発が発射される。続いて29日、弾道ミサイルが発射され、日本上空を通過し太平洋上に落ちた。グアム島のアメリカ軍基地に届く飛距離をねらっての発射だとみられる。
これに対し、国連安保理の議長名で北朝鮮を非難する決議を出す。アメリカや日本が北朝鮮に対し石油禁輸も含めた最大限の対抗措置をとるよう働きかけ、中国とロシアは北朝鮮を挑発している米韓軍事演習の中止も求める。9月3日には、北朝鮮は6回目の核実験(TNT火薬換算の規模は日本政府の推定で70キロ・トンとも)を行い、これを「水爆」だと主張する。
2018年に入ってからは、中国も入っての北朝鮮へのかつてない厳しい経済制裁が続く。そんな中、情勢を大きく変える動きがあった。北朝鮮のキム・ションオン委員長が、これまでの経緯から一転、韓国とアメリカへ向け、事態打開のための首脳会談を呼びかけたのだ。3月末には、彼は中国を急遽訪問し、交渉での後押しを頼んだとみられる。4月27日には、南北の首脳会談が予定されている。
さてもさても、21世紀に入ってからは、この両者の力関係に大いなる変化が認められる。その一つは、北朝鮮の核武装化がひとまず成功した、とみられることだ。大陸間弾道ミサイル(ICBM:intercontinental ballistic missile)の開発がかなり進んだことになっている。これには、隣国のロシアが開発をひとまず完了したとの確認情報を入れているところだ。
今ひとつは、アメリカはアメリカ本土を攻撃できる兵器を認めたくない。一方、これを機に米軍と韓国軍との戦闘能力の一体化が進みつつある。こうなると、互いの非難合戦が果てしなく続くことになろう。互いにか、どちらかからか、この動きをとめないと事態はエスカレートしていくばかりであろうにと、世界の世論がこれを心配するのは当然のことだ。双方とも、このまま一触即発の事態となることを望んでいる訳はではあるまい。その先にあるのは戦争でしかない。そして戦争というものは、偶発的に起きることがあることから、互いの自制が求められる。
国際的な核兵器の拡散が進む中、21世紀に入っての国対国での局地戦の特徴は、核兵器の使用が絡んでくることであろう。これには、通常兵器で武装した勢力が、原発など原子力施設の攻撃を計画する場合を含む。朝鮮半島の有事とて、その例外ではない。ちなみに、北朝鮮の核兵器の保有能力については、韓国側の現状認識として、例えば次の紹介記事がある。
「韓国国防白書(2016年版)によれば、北朝鮮は兵器用プルトニウムを50キロ以上保有。北朝鮮の技術力があれば、プルトニウム4~6キロで核兵器1個を製造可能だとされる。高濃度ウラン型と合わせ、20年までに計50個の核弾頭を保有するとの指摘もある。化学兵器や生物兵器も保有する。」(朝日新聞、2017年4月16日付け)
ついては、自国領土に飛来してくるICBMを撃墜できるかどうかであるが、現段階で確実なことは何も言えないという。迎撃をとる場合の技術面で最も難しいのは、当該弾道ミサイルの終末局面(ターミナルフェイズ・大気圏再突入から着弾期)なのだという。音速の20倍からの速度でほぼ垂直に落下してくる核弾頭を迎撃ミサイルでもって撃ち落とす実験を、アメリカ度々行っているという。とはいうものの、成功率は公式報道されているほどには、そう高くないのではないか。しかも、演習では、某かの情報が前もって知れている上、単独弾頭に対応して行うものであり、いわば「模擬実験」のようなものである。それなので、これまでの迎撃システム・技術が、実戦で発射される場合の核弾頭の迎撃にどれほど役立つかは技術的に未知数であると言わねばならないだろう。
これらから、今回の和平進展への転換が行われれば、政治的にも、軍事的にも、それから北朝鮮の経済困窮についても、何らかの改善が期待されるのである。
(続く)
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174『自然と人間の歴史・世界篇』キリスト教学における利子の肯定
アンジェラ・オルランディ(フィレンツェ大学准教授)によると、「利子が公認されるのは1745年のローマ教皇ベネディクト14世による回勅(かいちょく)の後」(NHKテレビ放送番組「欲望の経済史」2018年1月31日放送による)だという。彼女が示した当時のフィレンツェでの史料などの中には、つぎのような文言のものがあるといわれる。
「5%を超える金利を禁じる。違反した場合、元金が没収され制裁金が科される。」
次には、宗教書からこれを紐解いてみよう。旧約聖書の「律法」の中においては、利息についての規定が、さしあたり3か所見つかったので、紹介しよう。
「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。」(出エジプト記22章24節)
「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。」((レビ記25章35~37節)
「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。」(申命記23章20~21節)
それでは、新約聖書では金銭貸借については、どのように書かれているのであろうか。イエス・キリストの言葉から、二つを紹介しておこう。
「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」(ルカによる福音書6章34節)
これにあるのは、貸した金(カネ)に見返りを求めるなという戒めであって、キリスト教徒たるもの、利子を取るというよこしまな欲望に身を任せるなというもの。
それでも、世の中の商取引習慣そのものを無視することはできにくかったものとみえ、こんな下りもある。
預かった一タラントをそのまま返そうとした僕に対して主人は、「わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。」(マタイによる福音書の「タラントのたとえ」)
それから時代は大きく下っての16世紀、宗教改革が起こって、キリスト教学に世の中の現実に目を向けることになっていく。新教徒たらんととするカルヴァンは、フランス国王が新教を禁止し始めたため、スイスのバーゼルという町に逃げ、そこで『キリスト教綱要』(初版1536、最終版1560)という本を著す。
「もし、われわれが天を自分の祖国であると信じるならば、自分の富を、突然の移住によってわれわれから失うようなところにとどめておくよりも、むしろ天に移しておくべきである。しかし、どうすればそれを移せるであろうか。それには貧しい人々の窮乏にほどこせばよい。主はこの人たちにほどこされたものを、御自身に捧げられたものとみなしたもう。(マタイ25:40)」(『キリスト教綱要』3篇18章6)
「われわれが隣人愛の義務にもとづいて、兄弟たちのために役立てるすべてのものは、主の御手に託せられる。」「主は忠実な保管者として、いつの日にかおびただしい利子をそえて、われわれにそれを返したもう。」(前掲)
この彼の示した宗教上の新地平は、フランスやオランダ、それからイギリスなどの商工業者の間に急速に広まっていった。
(続く)
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170『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンスの周辺(ブリューゲルとベラスケス)
ピーテル・ブリューゲル(1525-40年頃~1569)は、ブラバント公国(現在のオランダ)の画家。同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多いとのこと。1555年からは祖国で版画の下絵画家として活躍していく。同じ頃すでに伝説の巨匠であったヒエロニムス・ボス風の幻想や奇怪的な作品を制作していく。1563年にブリュッセルへ移住してからは、画風に独自の発展がある。題材としては、聖書の世界や農民の生活、風景などが多くなる。
代表作の一つに「バベルの塔」があり、旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔のことであろうか。あるいは、紀元前6世紀のバビロンのマルドゥク神殿に築かれたエ・テメン・アン・キのジッグラト(聖塔)の遺跡と関連づけた説もあるようだ。いずれにしても、尋常の沙汰ではない。天に届く塔を建設しようとする人間の激情なり、愚かさを表現したかったのであろうか。二つ目には、ゴルゴダの丘に向かわされる「十字架を担うキリスト」がある。ところが、肝心の主役は画面の中では、眼を皿のようにしないとなかなか見つからない。124×170センチメートルの画面の中に、ゆうに200人はいそうな人並みの中で、一体どこに主題があるのやらと勘ぐってみたくもなる。それでいて、興味が尽きないのは、民衆の顔や格好に表情なり意味ある動きが感じられるからにほかならない。
もう一つの流れとしての農民画だが、最晩年の1568年のものに「農民の踊り」と「農民の婚宴」がある。そこには平和で陽気な農村風景が描かれている。これを、当時の成人の農民の寿命は大体30代であったというのを重ねると、人々は懸命に生きていたのだと伝わる。農村社会の変化を描くことでも、巧みであった。
宗教改革の波は確実に押し寄せてきていたらしく、当時の農村は聖書に引きづられる世の中でもあったのかもしれない。ちなみに、1568年には、ネーデルラントにおいて、カルヴァン派がスペインに対して反乱を起こした。これを契機にネーデルラントは、新教・カルヴァン派を中心とした北部諸州(現在のオランダ)とカトリック信徒を中心とした南部諸州(現在のベルギー)に分裂していくことになる。
これと相当に異なる、どちらかというと、体制側に組み入れられての、「大画家」としての人生を歩んだのが、ティエゴ・ベラスケス(1599~1660)である。かれは、絶対王政期のスペイ南部のセビーリャに生まれる。幼い頃から絵に親しみ、統治の有力画家フランチェスコ・バチェーコに弟子入り、17歳には独立、その娘と結婚を果たす。最初「ボデゴン」(食物や飲み物とともに下層の暮らしを描いた絵)で名をなした。ドラマチックというのではなく、ありふれた題材を選んでいたのではないか。
その中でも、才能を認められものに、1619年作の「東方三博士の礼拝」と1620年の「セヴィーリャの水売り」(油彩画)が名高い。前者では、マリアとキリストの二人が描かれているが、20歳の作者が家族や親戚の中からモデルを選んだと伝わる。これだと権威が感じられないかわりに、親しみが増す。当時のカトリックがプロテスタントの偶像崇拝反対に対し、厳格さを感じさせない宗教がを暗に求めていたゆえなのであろうか。それはともかく、その二人の隣にいるヨセフや博士たちは、どこにでもいるような柔らかな表情にして、これまた薄暗がりの中に浮き上がっている。光と影とのコントラストの手法は、すでに始まっているようだ。
また後者では、その前景にあるのが大きな壷で、その表面には水のしずくが生々しい。人物について、道端で水を売っている老人には、特別の意味がこめられているのではないか。貧しい老人なのに、なぜか気高い人物のように描かれている点でも、もはや老練の境地にいたった筆遣いというところか。
23歳の若さで国王フェルペ4世の宮廷画家となり、故郷セビーリャからマドリードに活動の拠点を移す。「フェルペ4世の肖像」には、王のぎらりとした眼差しにその性格を浮き彫りにさせている。この王の庇護は絶対的なものとなり、本人は得意の絶頂への道を上っていくのであった。その間、22歳年上のルーベンスとも親交を結び、大いに刺激を受けるなど、交友も盛んになる。後の印象派の草分けとされるエドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだのには、明暗の中の人々があたかも生きているかのごとく、その息遣いさえ感じられる。
1629年から31年にかけて、1回目のイタリア旅行を行う。ルネッサンスの巨匠たち、とくにティッツィアーノやヴェロネーゼ、ティントレットといった人たちから影響を受けたといわれる。イタリアから帰国して数年後に、ベラスケスの最高傑作のひとつといわれている「ブレダの開城」を描く。これは、どんな依頼によって描かれたのかはともかくとして、オランダ側がスペイン側に開城の印しに、城の鍵を渡しているのだというのだが。宮廷にいる人々の肖像画などには自身も登場させたりしているらしく、自己の才能というものに大いに自負するところが大きかったのではないだろうか。
(続く)
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227『自然と人間の歴史・世界篇』第一次産業革命(イギリス社会の変化)
T.S.アシュトンは、18世紀後半のイギリス社会の変貌を、こう説明している。
「ジョージ3世の即位(1760年)からその子ウィリアム四世の即位(1830年)に至る短い年月の間に、イングランドの相貌は一変した。幾世紀もの間、開放耕地(open field)として耕され、共同牧地(common pasture)として放置されていた土地は、すっかり囲い込まれてしまった。小さな村々は人口豊かな年に成長し、古い教会の尖塔は、林立する煙突の中で、もはやチッポケな存在でしかなくなった。(中略)(道路は堅固で幅広いものになり、諸河川は運河で結ばれ)(中略)北部では、新しい機関車が走るために最初の鉄製軌道が敷かれ、河口や海峡には定期蒸気船が通い始めた。
それに平行して、社会の構造にも変化が生じた。人口は著しく増大し、児童や青年の占める割合が増加したように思われる。新しい社会の成長は、人口密度の重心を南東部から北部およびミッドランドに移行せしめた。企業心に富んだスコットランド人を先頭に、いまなおつづいているあの移入民の行列がやってきた。工業的熟練には乏しいがしかしたくましいアイルランド人の洪水のような流入は、イギリス人の健康や生活様式に影響を与えずにはおかなかった。農村に生まれ、農村に育った男女が、(中略)工場における労働力の単位として、そのパンを稼ぐようになった。作業は一層特殊化され、新しい型の熟練が陶冶され、若干の旧い型の熟練は失われていった。(中略)
それと同時に、新しい原料源が開発され、新しい市場が開かれ、新しい商業手段が考え出された。資本の量も、その流動性も増大し、通貨は金をその基礎におくようになり、銀行制度が誕生した。多くの旧い特権や独占が一掃され、企業に対する法律上の制約は除去された。国家の果たす役割はますます消極的なものとなり、個人や任意団体がより積極的な役割をつとめるようになった。革新と進歩の思想が、伝統的諸観念を掘り崩した。人々は過去よりもむしろ未来に眼を注ぐようになり、社会生活に関する彼等の考え方はすっかり変わってしまった。」(T.S.アシュトン著・中川敬一郎訳『産業革命』岩波文庫、1973)
続いて、人口の増加の原因につき、出生率の増加ではなく、これを導いたのは「他でもなく、死亡率の低下であった」と結論する。
さらに彼は、なぜイギリスで産業革命が可能になったかを、、こう総括している。
「土地、労働および資本の供給増加が同時におこったということが、産業の発展を可能ならしめたのであった。石炭と蒸気が大規模製造工業の燃料と動力とを準備し、低い利子率や物価騰貴や高利潤の期待が活力を与えた。しかし、これら物質的、経済的要素の背後にそれ以上の何かが存在した。外国地域との貿易は、人々の世界に関する見識をひろめ、科学はその宇宙観を拡大した。すなわち、産業革命は、同時に観念の革命でもあった。」(同)
(続く)
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