♦️9『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系近傍

2018-04-09 21:27:53 | Weblog

9『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系近傍


 人類のような生き物は、地球以外にどのような環境で生きていられるのだろうか。ざっと考えただけでも、適度な温度、適度な水分、適切な組成の空気などが必要だ。某かの食べ物もなければならぬ。それらから類推すると、私たちのいる太陽系内には私たちが安全に住むための自然環境はまだ見つかっていない。それでは、他にどんなところがあるのだろうか。
 想像力をたくましくして空を眺めてみよう。すると、天気のよい夜なら、自然豊かな場所に行くと満天の星が見える。数多(あまた)の星々があるうち、私たちの近くにあるのは、どんな星なのだろうか。それに、輝く星には、そのまわりに輝かない星が隠れている筈だという。その輝いていない方の星を探す。そんな中で、生物環境に適した星を探してみる。
 人類の近代に入ってからは、その大いなる仕事に望遠鏡が使用される。偶然の巡り合わせに期待して多方面にそれを向けたり、ある推定、しかも理屈に合った方向にそれを向けてみる。その数をこなしていくうちに、某かの発見に域当たることがある。
 現在までに、太陽系に近いところの星の中から、有望とみられるものが現れてきている。ただし、有望といっても、実にかすかな可能性でしかないし、確かめるすべもない位だ。もう一つのアプローチは、もっと遠くにある星の中から、地球と似たような環境にある星を探し出すことだ。
 前者の試みでは、南半球でよりよく見える、南十字のそばに薄く輝く(-0.0等星)ケンタウルス座α(アルファ)星が見つかっている。この星だが、地球から4.3光年の距離にあるという。冬の夜空に青白くかがやく「おおいぬ座」のシリウスは 地球から8.7光年にあるというから、それの半分くらいか。
 ちなみに、地球と太陽の距離は、1億4960万キロメートルと見積もられている。かたや、光の速さは毎秒29万9792.458キロメートルにして、その光が1年かかってた進む距離を1光年という。つまり、1光年とは9兆4600億キロメートルということになる。そこで、地球と太陽の距離を1光年の距離で割ってみると、0.00001581光年、これを分(ふん)に直せばおよそ8分19秒となるではないか。
 つまり、太陽から出た光は約8分後に地球に届くであろう。私たちの眼に見えている太陽は、肉眼(裸眼)で見ると失明するのでそのままで見てはならないのものの、約8分前の姿を写したものなのだ。したがって、ケンタウルス座α星までの4.3光年という距離は、地球から太陽までの距離と比べ天文学的に大きな距離であると言わねばならない。
 また後者では、地球から39光年離れた恒星(「TRAPPIST-1」という)の周りに、地球に類似した7つの惑星が回っているのを見つけたという。そして、これらにつき水が液体の状態で存在しているのではないかと想像している。また、それらのうち3つの惑星には海や大気圏がある可能性があるとまで語られる。もしそうであるなら、それらの星に何らかの生命体が存在する可能性が出てくる。ただし、この推論においては、今のところ、それらの可能性がどのくらい高いかは触れられていないようである。

(続く)

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♦️317『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(「資本論」)

2018-04-09 09:01:45 | Weblog

317『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(「資本論」)

 マルクスの「資本論」は、世界で今も読み継がれている。しかも、全世界の人々にである。この種の書物としては、他に類例を見ないだろう。生前の出版という意味では第1巻だけであり、彼の死後膨大なノートが残された。未完の書ではあったが、友人であり盟友のエンゲルスらの努力により、後に第2、3巻が追加される。
 この書は、なんといっても論争の書であって、しかも21世紀に入っての現在、過去の問題を取り扱っていない。将来の話も入っている。したがって、これを擁護する側も批判する側も、その意議と限界を見極めようとする人々も、色々と論じられてきた。経済学を取り扱っているのだが、その中に含まれる学問領域には歴史学も含まれる。一説には、このことは「歴史的・論理的」と評される。
 ここでは、第3巻第1部第3篇第15章の中の末尾の節を、紹介しておきたい。
 「資本主義的生産の3つの主要事実。
(1)少数の者に生産手段が集積されること。これによって、生産手段は、直接的労働者の所有として現れることをやめ、反対に生産の社会的な力に転化される。最初は資本家の私的所有としてであるが、資本家はブルジョア社会の受託者であるが、しかし彼らはこの受託の全事実を取込む。
(2)労働自体の社会的労働としての組織。協業、分業、労働と自然科学との結合、によって。二つの面から見て、資本主義的生産様式は、私的所有と私的労働とを止揚する。もろん対立的な諸形態においてである。
(3)世界市場の形成。
 資本主義的生産様式の内部で発展する人口に比して巨大な生産力と同じ割合においてでないにせよ、人口よりも遙かに急速に増大する資本価値(単にその物質的基底のみでなく)
の増大は、この巨大な生産力がそのために作用して、増大する富に比して相対的にますます狭隘となる基礎とこの膨脹する資本の価値増殖関係とに矛盾する。かくして恐慌か生ずる。」(向坂逸郎訳、岩波文庫)
 
(続く)

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♦️36『自然と人間の歴史・世界篇』人類の兄弟(ボノボとチンパンジー)

2018-04-08 10:24:08 | Weblog

36『自然と人間の歴史・世界篇』人類の兄弟(ボノボとチンパンジー)

 さて、後の人類が比較的最近に袂を分かったの同じ動物の中に、ボノボとチンパンジーがいる。彼らの今は、人類と近縁であるばかりでなく、かれら二つの種においても近縁、でも大きな違いがあるといわれる。
 ざっと、これを箇条書きにすると、次のようであるという。
 「まずボノボの平均的体格は、雄(オス)が体重45キログラム、体長131センチメートル。雌(メス)が体重34キログラム、体長128センチメートル。その社会性の1としては、雌が実権をもつ。2として、性行動で対立を解決する。その3として、雌同士の絆が強いという。
 一方、チンパンジーはどうなのかというと、こちらの平均的体格は、雄が体重60キログラム、体長134センチメートル。雌が体重42キログラム、体長125センチメートル。またその社会性は、雄(オス)が実権をもつ。2として、暴力で対立を解決する。その3として、雄同士が同盟するという(以上は、デビッド・クアニン(ジャーナリスト)「人間に最も近い類人猿の意外な素顔」:NATIONAL GEOGRAPHIC・ナショナル・ゲオクラフィックの2013年3月号による情報)。
 この両者が隣合わせに住んでいるところが、アフリカ大陸にあって、その場所は中央アフリカの、今は今後共和国とその北隣の中央アフリカ共和国に跨る。

(続く)

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♦️277『自然人間の歴史・世界篇』「共産党宣言」

2018-04-08 09:18:27 | Weblog

277『自然人間の歴史・世界篇』「共産党宣言」

 1848年にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる「共産党宣言」が出される。当時の組織「共産主義者同盟」の綱領を宣言した。その冒頭には、こういう。
 「ヨーロッパに幽霊がでる――共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な討伐の同盟をむすんでいる。 法王とツァーリ、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの官憲。
 およそ反政府党で、その政敵たる政府党から、共産主義だといってののしられなかったものがどこにあるか、およそ反政府党で、より進歩的な反政府派にたいしても、また反動的な政敵にたいしても、共産主義という烙印をおす非難をなげかえさなかったものがどこにある。」(「共産党宣言」の序文)
 この文書の中で意外に知られていないのは、共産主義者の当面の活動についての、例えば、次の場面である。
 「この方策は、もちろん、それぞれ国が異なるにしたがって異なるであろう。
 とはいえ、もっとも進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。
一.土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。
二.強度の累進税。
三.相続権の廃止。
四.すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
五.国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、国家の手に信用を集中する。
六.すべての運輸機関を国家の手に集中する。
七.国有工場、生産用具を追加し、共同計画による土地の耕地化と改良を行う。
八.すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。
九.農業と工業の経営を結合し、都市と農村との対立を次第に除くことに努力する。
一〇.すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育と物質的生産との結合、等々、等々。」(向坂逸郎・大内兵衛訳、岩波文庫)
 これら当面のスローガンを、21世紀に生きる人々は、どう受け取るのか。かつては、そうであったが、今はそうではないというのなら、彼らがそうであったように、国際的な視野に立っての一つひとつの未来社会に切り開くための鍵を、当面の課題を語る、少なくともその作業を始めることであってほしい。
 
(続く)

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♦️235『自然と人間の歴史・世界篇』百科全書

2018-04-08 08:27:45 | Weblog

235『自然と人間の歴史・世界篇』百科全書

 それまでの啓蒙思想の集大成である「百科全書」は、ドゥニ・ディドロ(1713~1784)、ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717~1783)ら当時の知識人らの協同編集によって、進められる。そして迎えた1751年には、刊行が開始される。それから1772年までの間に、本卷17巻、図版11巻の各巻が発行されていく。続いて、マンモルテルの編集により1776~1780年にかけて補巻4巻、図版1巻、それに以上に関しての索引2巻が発行される。
 当時はまだ「絶対王政」と呼ばれる封建体制下であった。厳しい身分制度が生きていた頃のことだ。その序文には、代表格のダランベールが「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするにも役立つような」(桑原武夫訳編「序論および代表項目」岩波文庫、)と述べている。
 なししろ、執筆者の総数は184名にもなったというから、驚きだ。それに図版、印刷事業などにに携わった人を加えると、実に多くの人々が参加したのだという。哲学者と文学者にして、百科全書派の頭目であったディドロは、唯物的無神論を主張したため、一時は投獄される、また彼は、ロシアのエカテリーナ2世から支援を受け、ペテルスブルグに赴いたこともあるというのだが。どうやら、暖かな陽が注いだりする中での閉鎖的な貴族風サロンには馴染めなかったらしい。
 その影響だが、当時のルソーやヴォルテール、モンテスキューといった啓蒙思想家が加わっていたことから、人々の政治意識の向上に某か寄与していったのは疑いなかろう。また、数学と物理学者それに哲学にも精出したダランベールが参加したりで、自然科学の分野にも貢献を成したに相違あるまい。
 さらに、哲学者、美術批評家、作家の肩書きをもったディドロは、初期は理神論の立場に立ったが後に無神論へ転向した、独特の経歴の持ち主であったらしい。彼によるによる、「各人がばらばらでありながらそれぞれ自分の部門を引き受け、ただ人類への一般的関心と相互的好意の感情によってのみ結ばれた文学者、工芸家の集まり」に支えられたとの述懐を残している。これにあるように、人間知識の順序と連関を出来る限り明示しようとしたことの意味は大きいのではないか。
 さらにその時代そのものへ、大きな影響を及ぼしたであろう。これの編集そのものが、体制に批判的であったためか、王政や教会から何度も弾圧や嫌がらせなどに遭う。その中でも『百科全書』を刊行したことで、民衆に合理的・進歩的な啓蒙思想を広め、ひいては後のフランス革命を思想的下地の一端をつくった。なお、このような取組のそもそもはイギリスで端緒が付けられていたらしく、フランスの自由を夢みる知識人らがこれに進取の気概を感じて取り組むにいたったともいわれる。

(続く)

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♦️272『自然人間の歴史・世界篇』農奴解放令

2018-04-07 22:52:05 | Weblog

272『自然人間の歴史・世界篇』農奴解放令

 農奴解放令(皇帝や国王による勅令の形)といわれるものには、1781年に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が発布したものと、1861年3月にロシア帝国のアレクサンドル2世(在位1855~1881)が発布したものがある。
 後者については、それまでの封建制下で、少数の地主が多数の農奴をかかえていたのをやめさせる。そうなると、それまで農奴には国家から地主に対し人頭税(じんとうぜい)をがしていたのをやめる。その代わりに、国家が直接に農民たちを支配する道が開けると考えた。時代背景には、クリミア戦争での敗北があったという。
 一つには、これによって農民は人格的に自由の身となったが、なにしろ土地の分与が有償となっていた。かれらが分与地を手に入れるには、地主に一定額の買戻金を支払わねばならず、その金額の80%を政府が払ったとしても、その残りについて、農民は例えば49年賦でいうと、6.5%の利子とともに毎年返済しなければならなかったから。
 二番目は、かかる分与地は農民個人に別々に与えられたのではなくて、かれらが所属するミール(農村共同体)に共有地となる。ついては、そのミールが買戻金の支払いにくょう同で責任を負う、そして各人はかかる分余地の割当てを受けるということで、新たな規制に束縛されることになっていく。
 おまけに、これに関連しての次なる事情、すなわち、土地が狭いため、多くの農民は引き続いて地主の土地を小作しなければならず、経済的従属は続く。また、国家の収税がこの共同地の経営にのしかかる、そのことで、国家による搾取強化にもなっていくのであった。
 ともあれこの改革は、不十分さを抱えていたにも関わらず、ロシアの近代社会を確立するうえで大きな第一歩となった。さらに、これをもって一説には、かかる農奴解放は土地を奪われた農村プロレタリアートを作り出すことによって、将来のロシアにおける資本主義発展への道を開くのに繋がった、といわれる。 

(続く)

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♦️365『自然と人間の歴史・世界篇』量子力学の発展(アインシュタイン・ボーア論争)

2018-04-07 21:49:47 | Weblog

365『自然と人間の歴史・世界篇』量子力学の発展(アインシュタイン・ボーア論争)

 私たちが肉眼で見ることのできない、およそ1ミリメートルの1千万分の1よりもっと小さなミクロの世界での出来事を述べるのが、量子力学の世界だといわれる。そうなると、どのようになるかをめぐって、アインシュタインとボーアは対照的であった。実際のそれは、「思考実験」なるものを見立てて、議論の正当性を闘わせた。
 その手始の議論が二人の間で行われた際、アインシュタインが問題としたものに量子力学では「実在」というものの理解がよろしくないということがあった。それというのも、それまでの物理学の伝統的な解釈では、実在とは人間が介在ないところに既に成立している。そればかりでなく、彼は、量子力学が確率でものの実在性や性格、運動の在り方までとりしきろうとしているのに反発し、例えば、友人宛にこんな手紙をしたためている。
 「確かに量子力学は重視するに値するでしょう。しかし、私の内なる声が言うのです。これは真のヤコブではない。この理論から沢山のものが得られるでしょうが、しかしこれによって神の秘密に近づくことは、ほとんど不可能です。いずれにせよ、私は神がサイコロを振ったりしないと確信しています。」(1926年12月14日付け、ボルン宛て書簡より)
 なお、ここに「ヤコブ」(ヘブライ語起源の人名ヤアコブの日本での慣用表記)というのは、「旧約聖書」の創世記に登場する当時のヘブライ人社会の族長たる者をいう。その別名をイスラエルといい、その民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。アインシュタインは、ここでユダヤ教もしくはキリスト教を比喩に持ち出している。
 これに対し、デンマークにいたボーアは、常識では考えられないような理屈を提示するのであった。かれによると、量子的レベルでの対象は、予め何らかの性質をもっていない。例えば電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるまでは、どこに存在するともいえないし、そもそも実在というに値しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、人間により測定されるまでは物理的な属性をもたないのだという。
 では、どうやって実在のものとなるかというと、それに向けて測定という人間の行為がなされたときにのみ、その電子は「実在物」になる、つまりその限りにおいて人間から見えるもの、理解可能なものになると。ついては、ひとつの測定が行われてから次の測定が行われるまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたのか、と問うことには意味がないとされる。量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らないし、そもそも語ることができないのだという。
 この両者の議論のどちらが正しいのかは、未だに決着がついていないようだ。

(続く)

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♦️89の2『自然人間の歴史・世界篇』空想的社会主義

2018-04-06 22:59:57 | Weblog
89の2『自然人間の歴史・世界篇』空想的社会主義

 「空想的社会主義」という言葉は、なかなかの命名だといえよう。かれらの説に批判的検討を加えたのはフリードリヒ・エンゲルスとマルクスであり、例えば、こうある。
 「三、批判的・空想的社会主義および共産主義。(中略)本来の社会主義的および共産主義的諸体系、すなわち、サン・シモン、フーリエ、オーウェン等々の体系は、われわれがまえに述べた、プロレタリフ階級とブルジョア階級との闘争の最初の未発達な時期にあらわれる。
 これらの体系の創始者たちは、なるほど階級の対立を、また支配階級自身のなかにある解体的要素の活動を見る。しかしかれらは、プロレタリア階級の側に、歴史的独立性を、独自の政治的運動を、まったく認めない。
 階級対立の発展は工業の発展と歩調を一にするであるから、そのため、かれらは、プロレタリア階級解放のための物質的諸条件をほとんどまったく見出すことができなかった。そしてかれらは、この諸条件を作り出すために、一つの社会科学をさがしもとめた。
 社会的活動の代わりに、かれら個人の発明的活動があらわれざるをえない。解放の歴史的諸条件の代わりに空想的諸条件が、次第に行われる階級へのプロレタリア階級の組織の代わりに、自分で案出した社会の組織があらわれざるをえない。」(マルクスとエンゲルス著、大内兵衛と向坂逸郎訳「共産党宣言」岩波文庫、1946)
 ここにサン・シモン(1760~1825)は、フランスでも高位の貴族の家に生まれる。16歳にしてラファイエットの義勇軍の士官としてアメリカ独立戦争に参加する。同時に、合衆国の産業階級の勃興に感銘を受けたらしい。フランスに帰国してからは、社会の基礎は産業であり、資本家と労働者は対立する関係ではなく、愛し合うべきだ、などと唱える。
 またシャルル・フーリエ(1772~1837)は、フランスの裕福な商人の家に生まれる。幼年時代には家業になじめなかったが、9歳の時に父を亡くし、彼は家業を継ぐ。やがては、ブルジョア社会の悪弊を厳しく攻撃し、思想家として身を立てようとなっていく。その持論としては農業を重視し、そこでの「ファランジュ」という自給自足の共同社会を描く。すでに資本主義の足音が高まりつつある中、独特の社会発展論を唱えていくのであった。
 さらにロバート・オーエン(1771~1858)は、イギリスの生まれ。実業家として当時のイギリス社会に広く知られる。具体的には、スコットランドのニューラナークにおいて、紡績工場を経営する経営者であり、労働者に労働させる側の立場にあったが、労働者の労働条件の向上を目指して色々な事を試みる。協同組合を作るなどの拾い視野での事業も提案するのであった。さらにオーウェンは、労働者の理想的な共同体(ニューハーモニー村)をアメリカで作ろうとしたが、成功するには至らなかったらしい。
 そのオーエンには、「社会変革と教育」と題される一連の論文集があり、たとえばこの中の「ラナーク州への報告」では、「人的利益中心原理は、巨大なおもしのように、このうえなく貴重な能力と性質をおさえつけ、人間がどんな力を発揮しようとするさいにも、誤った方向を指示するものであります」とした上、新しい社会をこう提唱している。
 「現在の制度のもとでは、労働者階級の諸個人の精神的能力と肉体労働とは、とてもはっきりと分割されております。(中略)ところで、私がいま述べようとする細目の案は、それとは反対のことをやらせることを考え方にもとづいて工夫されています。その考え方というのは、労働者階級の諸個人の広い範囲にわたる精神力と肉体力を結合し、私的利益と公共的利益を完全に一致させ、それからまた、諸国民を教育し、自分の国との国力と幸福が平等に増大しなくては十分に本来の姿で発展することができないものだと納得させていく、そのような原理なのであります。」(ロバート・オーエン著、渡辺義晴訳「社会変革と教育」明治図書出版、1963)

(続く)

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♦️354『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮の三・一独立運動

2018-04-06 09:21:37 | Weblog

354『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮の三・一独立運動

 「三一独立運動」というのは、1919年3月1日、朝鮮半島での大衆行動のことである。これの先駆けともいえるであろう動きが日本にあったらしい。2月8日、在東京留学生が集会を開いて決議した「二・八独立宣言」があり、彼らはそれに某か励まされ、パリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとする。33人のキリスト教、天道教、仏教徒からなる「民族代表」の名で、これを企画したのだという。
 この日、現在の韓国の首都ソウルのバゴダ公園に、かなりの民衆が集う。人々は、「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これを世界万国に告げて人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に告げて民族自存の正当な権利を永久に享有させようと思う。」から始まる宣言文を発す。そして、「独立万歳」を叫びながら、市街に下っていった。この宣言文の体裁は、いわば知識人たちがまとめ、「民族代表」の名で公表する形をとっている。
 この独立運動は、それから日を経るうちに朝鮮全国に広がっていく。日本が韓国を併合し、植民地支配を強いている中での出来事であったから、日本の官憲はこれの取締まりに動く。しかし、比較的穏健な行動でもあったことから、当初は大規模な衝突ではなかったものとみえる。
 それでも、数ヶ月にわたって行われた示威運動の中で、一説には延べ200万人以上の民衆が参加したと言われる。そうなっては、日本側が民衆に発砲したりの場面も相当数出てくる。どれくらいの犠牲者が出たのかにについては、日本側の史料では明らかでない部分が多く、朝鮮側の史料に頼るしかないのが現状のようだ。
 この運動は、直接的にはパリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとしていたといわれる。朝鮮の国益が損なわれているのを何とかして盛り返したいとの思いが強かった。そのためには、民族としての誇りに訴えねばならないと。
 この運動は、外国にもかなりの影響を与えたという。それは、ひとつの世界としての朝鮮半島にとどまらない、第一次世界大戦後のアジアの民族運動高揚の先駆けとなる。中国大衆による五・四運動も、これに触発された一つであろう。ただし、当時の朝鮮王朝の有様なとど絡んでの評価は、なお追求されるべきものを含んでいる。
 一方、人民への圧政を行っていた側としての日本では、この運動に対する評価は大方、限られていたらしい。自称「民本主義者」の吉野作造は、これを看過できなかった。彼は、当時の日本の知識人の良心を述べるべきと判断したものとみえ、こういう。
 「我が国民は、由来政治問題に関する道徳的意識は甚だ鈍い。」(評論集『中国・朝鮮論』)
 「一言にして言えば、今度の朝鮮暴動の問題に就ても、国民のどの部分にも「自己の反省」が無い。凡そ自己に対して反対の運動の起った時、これを根本的に解決するの第一歩は、自己の反省でなければならない。たとい自分に過ち無しとの確信あるも、少くとも他から誤解せられたと言う事実に就ては、なんらか自ら反省するだけのものはある。」(同)

(続く)

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♦️351『自然と人間の歴史・世界篇』辛亥革命(1911)と五・四運動

2018-04-05 21:46:30 | Weblog

351『自然と人間の歴史・世界篇』辛亥革命(1911)と五・四運動

 1911年には、中国で辛亥革命(しんがいかくめい、命名はこの年の干支(えと)からのもの)が勃発する。これより前の1894年、中国では興中会が結成される。この結社は、清朝を倒し、漢民族主体の国家をつくろうとする。その後、1895年に広州(こうしゅう)武装蜂起を試みるも、失敗し、指導者の孫文(そんぶん、1866~1925)らはちりぢりになる。
 1905年には、東京で中国革命同盟会を結成し、「三民主義」を綱領とする。この三民主義というのは、国内諸民族の平等と帝国主義の圧迫からの独立(民族主義)、民主制(共和制)(民権主義)、平均地権・節制資本の考えによる国民生活の安定(民生主義)の三つから成る。
 そして迎えた1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起を起こす。こうなると、革命の炎はもはやとどまることを知らない。各省がこれに呼応して独立を訴えるという、全国的な闘いへ発展していく。
 当時、指導者の孫文はアメリカにいた。独立した各省の代表は、清朝を打倒した後の国家を相談する。俗に武昌派と上海派に分かれ、革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争うのであったが。しかし、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、大同団結を誓う。
 そんな中、翌1912年1月1日を期して、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京(なんきん)に成立する。2月に入り、清朝を倒すため軍閥の袁世凱(えんせいがい)の力を借りる。そして迎えた2月12日、清朝の宣統帝(溥儀(ふぎ))が退位し、清朝が終幕する。
 その後、孫文は政権の実権を実力者の袁世凱に譲る。しかし、その独裁政治に抗して第二革命を開始するのを決意するのであった。いまさらながら、「こんな筈ではなかった、もう一度」というところであったろうか。
 1919年5月4日からの、いわゆる「五・四運動」の盛り上がりをまのあたりにしてからは、大衆的な運動をめざして、それまでの中華革命党を中国国民党と改組し、再出発するにいたる。そこでこの五・四運動だが、日本で伝えた新聞記事に、こうある。
 「北京に排日の暴動起り、親日派と目され居る曹交通総長初め前駐日公使陸宗輿氏及び最近帰国の章公使等の邸宅を襲撃し、章氏は負傷したりとの報あり。如何に公憤の発露なりとするも奇禍に罹れる諸氏に対しては気の毒の感に堪へず。
 支那人は平常温和の如きも悲歌慷慨の士乏しからず、とくに南方人士中に熱烈の人多く、加ふるに雷同性に富めるより、最初は理路整然たる討論も動ともすれば激越に流れ演壇に立つ弁士の如きも声涙共に下るは珍らしからず。(中略)
 今回の暴動其ものは巡警、兵士等の実力を有するものの加入し居らざるより暴動自身は直ちに鎮定すべきも、支那人一般に日本に対し非常なる反感を有する国辱記念日なる五月七日、即ち大隈内閣当時所謂二十一箇条の要求を貫徹する為め最後通諜を送りたる日近寄り、其際に前述の国民外交協会は大会を五月七日中央公園に開催し、山東問題に関して全国輿論の喚起を画策し居りたる際とて、今回暴動の余波が若し北京政府にて完全に抑圧されざるに於ては、再び同様の挙を繰り返さずとも限らず。又右暴動は巡警、兵士を以て抑へ得るとするも、支那一流の激烈な排日檄文電報の全国各要地に発せらるるは勿論なるべく、又中央政府も此際に言論の自由まで束縛し得る事も容易ならざる事とて、決して楽観は出来ざる可し。
 殊に今回は巴里会議に於て日本の主張多く容れられず、山東問題の如き漸く通過したる状況にて、恰も日本は国際間に孤立の状態にある如く表面よりは観察せられ、支那委員の報告も動もすれば日本を軽侮し、英米委員の前にては日本委員は何事も為し得ざる如く報じ、又在支英米人は自己の利害より打算して陰に陽に排日思想を鼓吹し居れるより、世界の事情に暗き学生は此の機会に於て日本の勢力を打破するは易易たりと誤解したる点もある可しと思はる。要するに後報を待つに非ざれば何人も今後の成行に就て確言し難かるべし。」(東京朝日新聞、1919年5月6日付け)
これにも窺えるように、中国では1919年のパリ講和会議において、列強による21ヶ条要求の取り消し、それに山東(さんとう、現在の山東省)におけるドイツ利権の返還を提訴するのであったが、列国はこれらを認めない。帝国主義者にとっては、そもそも反省などはなく、あるのはますますその相手国を食いちぎることなのであった。中国の民衆たるものは、これに激しい衝撃を受け、同年5月4日、北京大学の学生を中心に立ち上がったのであると。
 そんな中でも、北京大学の学生代表が、「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」などと宣言する。ここに、第一次大戦後のパリ講和会議で、山東半島の利権返還などの中国の要求が通らず、また、日本の対華21か条要求に対する不満と怒りがまさに爆発したのである。かかる学生デモを契機として全国的規模に発展する。これに押される形で、中華民国政府はベルサイユ条約調印を拒否せざるをえなくなった。これはこそは、状況に応じて、対外面で力を得てのことだったのであろうか。
 1924年には、中華民国政府は、中国共産党との間に、国共合作を実現する。当時5億といわれる中国人民をまとめ、民族を統一し、封建勢力を倒そうとするのであった。だが、孫文らは革命推進のため広東から北京に入ったものの、彼自身は「革命いまだならず」の言葉を残して病死した。孫文自身は、中国共産党のマルクス主義思想について、これといった書き物や演説の類は残していないものの、大方は親和的な態度をとっていたやに伝わるものの、これといったマルクス主義文献を読み込んでいたかどうかはわかっていない。孫文の後は、政治力にたけ、軍事も握っていた蒋介石が引き継いでいく。

(続く)

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♦️330『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と南アフリカ

2018-04-05 21:09:01 | Weblog

330『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と南アフリカ

 1852年には、欧州から南アフリカを中心に移民が始まる。主にはオランダ系の人びとであった。1867年には、現在の南アフリカ共和国キンバレー付近にてダイヤモンドの鉱脈が発見される。さらに、1886年にはその東方のウイットウォーターラントにおいて、金の新鉱脈が発見される。その金の鉱脈は当時、世界最大級のものであった。
 遅れて、イギリスからの移民が南アフリカに進出してくる。白人の鉱業資本家が生まれる。これは、先住民たる黒人から土地を奪うものであり、伝統的な黒人社会の農業は根こそぎにされていく。
 1890年、イギリスは、セシル・ローズの指揮にて、パイオニア・コラムとして知られる多数の入植民部隊を南ローデシア(現在のジンバブエ)に送る。そのイギリスは、1871年にはグリカランド・ウエストを、1877年にトランスバール共和国を併合、着々と勢力を拡張してきていた。
 1893年には、イギリスの第二次セシル・ローズ内閣が南アフリカ原住民を抑圧する基本方針をうち立てる。1895年には、トランスバール政府転覆計画(ジェームソン侵攻事件)を試みるが、これは失敗する。
 このセシル・ローズがどんな政治思想をもっていたかについて、レーニンによる興味深いスクープがある。
 「セシル・ローズは、彼の親友でジャーナリストであるステッドの語るところによれば、1895年に、帝国主義的思想についてステッドにつぎのように述べた。
 「私はきのうロンドンのイースト・エンド(労働者街)にいき、失業者のある集会をたずねた。そして、そこでいくつかの荒っぽい演説をきき、ー演説と言っても、じつは、パンを、パンを、というたえまない叫びだけだったのだがー、家に帰る途中でその場の光景についてよく考えてみたとき、私は以前にもまして帝国主義の重要さを確信した。(中略)私の心からの理論は社会問題の解決である。
 つまり、連合王国の400万の住民を血なまぐさい内乱から救うためには、われわれ植民政策家は、過剰人口の収容、工場や鉱山で生産される商品の新しい販売領域の獲得のために、新しい土地を領有しなければならない。私のつねづね言ってきたことだが、帝国とは胃の腑の問題である。諸君が内乱を欲しないなら、諸君は帝国主義者にならなければならない。」(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957:「レーニン全集第22巻に所収)
 その後1899年から1902年にかけて、イギリスのケープ総督ミルナーは二つのボーア人国家と戦い、これに勝利する。トランスバールとオレンジ川植民地(自由国)はイギリス王領地に組み込まれる。これに対しボーア人の方も、団結を強めていく。
 1910年になると、新たな動きがある。ケープ、ナタール、トランスバール、オレンジの4州は、南アフリカ連邦を結成する。その結果、「リンポポ川の南では、スワジランドとバストランド(現レフト)がイギリス保護領として命脈を保ったものの、実質的に南アフリカ全土でアフリカ人は独立を失い、イギリスの支配が完成することになった。」(宮本正興・松田素二編「新書アフリカ史」講談社新書)
 1910年には、イギリスとの同盟関係を維持しつつ、イギリスが一時占領していたトランスバールおよびオレンジ州を譲り受け、アフリカーナ系(オランダ系白人(アフリカーナと呼ぶ))のSANP(South African National Party:南アフリカ国民党)がこれらの地を基盤して南アフリカ連邦を樹立する。これに対し、1934年にはUP(United Party:統一党)が結成される。

(続く)

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♦️337『自然と人間の歴史・世界篇』義和団の乱(1899~1900)

2018-04-05 20:54:13 | Weblog

337『自然と人間の歴史・世界篇』義和団の乱(1899~1900)

 義和団の乱というのは、1899年から1900年の世紀の変わり目に起こった、中国の民衆の排外主義に基づく一連の闘争をいう。始は、西洋列強や日本といった帝国主義勢力に対する自然発生的な反発であったものが、やがて広まるにつれ、山東(現在の山東省)にみる如く、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げるにいたる。
 これに集まったのは、宗教的秘密結社である義和団が中核であるが、列強の横暴に業を煮やしていた民衆の不満のはけ口ともなっていく。ここに義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば鉄砲も刀も怖くないという迷信を持った人々の集団なのであって、かかるスローガンがなぜ採用されるに至ったのかは、そして彼らがこの民衆蜂起にどれくらいの指導力を発揮したかは、よくわからない。
 1900年に入ってからは、彼らは山東省時代からの、キリスト教徒を悪者呼ばわりする姿勢を強める。これには、1860年の北京条約でキリスト教の布教が自由になって外国人宣教師が奥地に入るようになった。そして、治外法権を利用した横暴なふるまいによって中国民衆との紛争が頻発するようになっていたこともあろう。
 やり場のない不満や怒りを抱く大衆の暴動は、華北一帯に波及していく。そして、彼らは清朝の首都・北京へ向かって進軍を開始する。一方、清国政府としては、これを鎮圧するか、それとも利用して列強を牽制し、全面的植民地化を免れるべく体制を立て直するか。とにかく、どうにかしなければならない。一説には、紫禁城の中では後者の思惑が働いた、とされるのだが。 
 そて迎えた1900年4月、民衆は北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、これに驚いた日本・イギリス・アメリカ・ロシア・ドイツ・フランス・イタリアそしてオーストリア・ハンガリーの8か国がこぞって参加しての連合軍の出兵を決意するにいたる。彼らが救おうとしたこの区域には、一説には4000人もが脱出できなくなっていたというから、驚きだ。総司令官にはドイツ人のガスリーが就任し、戦いが繰り広げられ、約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は首都北京及び紫禁城を制圧し、さしもの暴動も鎮圧されるのであった。

(続く)

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♦️252『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(北京条約、1860)

2018-04-05 10:14:20 | Weblog

252『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(北京条約、1860)

 続いての1860年10月24日、清国は、賠償金の増額、天津の開港、九龍半島南部のイギリスへの割譲など、さらに過酷な内容の北京条約を結ぶ羽目に陥る。その第6条には、こうある。 
 「清国皇帝陛下は香港の港湾内及びその付近における法律及び秩序を維持する為、大ブリテンアイルランド女皇陛下及びその継承者に対し、広東省内九竜地方の市街地にして英国政府の為、…その永代借地権を付与せる部分を、英国女皇陛下の香港植民地の付属地として保有せしむる為割譲することを約す。」(「支那関係条約集」)
 続いての25日にフランス、11月14日にロシア帝国と同様の条約を締結する。
 これらを受けて、清国内に西洋列強による新たな出先が出来ていく。1861年には、清朝政府に外交を管掌する官庁として総理各国事務衙門が設けられる。また、1862年からのアヘン輸入税は一担あたり350両にも引き上げられる。いよいよ清国の財政の中に深く食い込んでいく訳だ。
 そればかりではない。その後のインドの対中国・香港輸出商品は、アヘンが主役になっていく。綿花の輸出は、対中総輸出の30%程度から激減の一途を辿る。それに替わって、1870年頃からインドからの綿糸輸出が急ピッチで伸び続け、1880年には綿糸がアヘンを抜いて対中輸出のトップに躍り出る。
 1863年6月になると、やや遅れて上海にやってきたアメリカが、清朝政府から上海に新たな地を与えられる。彼らは、「アメリカ租界」を開設する。11月になると、上海におけるイギリス租界とアメリカ租界は合併し、「上海共同租界」が生まれる。それから20年位が経った1885年、清仏戦争の結果として清とフランスの間で締結された条約も天津条約、また同年、甲申政変を受けて日本と清で締結したもの天津条約と呼ばれる。さらに1898年になると、イギリスが九竜半島北部(新界)と付属する島嶼(とうしょ)を99年間の租借とすることを清国に認めさせる。

(続く)

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♦️251『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(天津条約、1858)

2018-04-05 10:13:19 | Weblog

251『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(天津条約、1858)

 アロー号事件を契機とする戦争は、イギリス側が仕掛けた戦争なのだが、かねてから中国進出の野望を持っていたナポレオン3世が、兵を発して英国と力を合わせることを約す。それからは、英仏の連合軍対清国の戦いとなる。1858年6月になると、清国政府は軍事的に追いつめられる。イギリス・フランスの連合軍にもはや対抗できないと判断する。
 そして迎えた1858年6月、双方の代表が天津条約に署名する。清がその批准を拒否したため、英仏が北京を攻撃する。1860年10月に天津条約の批准書交換が行われ、条約が発効する。
 それには、こうある。
 「第3条:清国皇帝陛下は大ブリテン女皇陛下の任命せる大使、公使その他の外交官が、英国政府の意志に従いその家族及び従者と共に首府に常住し、又は随時首府に来往し得べきことを約す。
 第8条:キリスト教は新教徒又はカトリック教徒の何れの信仰する所たるを問わず、共に徳義の実行を奨め、己の欲する所を他に施すべきを人に教うるものなり。従ってその宣教者又は信仰者は、清国官憲の保護を受くるの権利を有す。
 第11条:南京条約に於て開放せられたる広州、厦門、福州、寧波、上海の市邑に加うるに、英国臣民には牛荘、登州、台南、潮州および海南の市邑及び港に来往することを得べし。(「支那関係条約集」)
 清は、このような条約を、フランス、ロシア、アメリカとも結ぶ。
 その中でも、公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・阿片の輸入の公認化が盛り込まれたのは、大きい。
 これにより、以後、外国公使(外交官)が北京に駐在する。
 
(続く)

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♦️250『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(アロー号事件)

2018-04-05 10:12:18 | Weblog

250『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(アロー号事件)

 1843年11月、上海がイギリスに向けて開港した。その前の1842年には、南京条約が結ばれていた。香港島のイギリスへの割譲、賠償金支払い(銀での支払い)、広州・厦門・福州・寧波・上海の5つの港の開港、公行の廃止、対等の国交と領事駐在の承認。清国が西洋に屈した第一歩である。翌年この条約に対する追加事項を盛り込んだ虎門寨追加条約が締結される。その中では、領事裁判権(治外法権)の承認や関税自主権の喪失が含まれる、「不平等条約」となっていた。1845年11月、イギリスとの間で上海でのイギリス租界設置に関する第一次の協定「土地章程」が締結される。
 続いて上海にやってきたフランスも、1849年4月には負けじとフランス租界の設置に漕ぎ着けた。そのフランスは、南京条約の2年後の1844年に、イギリスとほぼ同様の望厦(ぼうか)条約を、清朝政府と結んでいた。ここに租界というのは、ある区域としての「界」を「租」ということで借りるという意味合いがある。イメージとしては、清国の特定の土地を、ある特定の国が借り、その土地を自国民に貸し出す行為(コンセッション)に近い。
 この戦争後のアヘン貿易については、戦争集結とを境に中国はイギリスからアメリカ、ロシアまで複数の国に門戸を開かざるを得なくなる。中でも、戦勝国のイギリスは、賠償取立てによる2100万銀元(清朝政府の1842年歳入の約3分の1)に始まり、中国の輸出入の部署である海関の総税務司にイギリス人を就任させたり、清国内でのアヘン貿易の合法化を獲得したりで権益を拡大していく。一国への強要とはいえ、アヘンの合法化は、清国とっての関税収入に寄与する面もあった。具体的には、これを「洋薬」と改名し、当初は一担(ピクル、約50キログラム)につき銀30両のアヘン輸入税を徴収していた。
 1856年10月には、「アロー号戦争」(「第二次アヘン戦争」ともいう)が勃発する。清国の役人が、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行う。清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した。これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは、清国政府に対しイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張した。イギリスはまた、清国の官憲がイギリスの国旗を引き摺(ず)り下ろした事を咎めた。

(続く)

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