ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

阪大生の尊属殺人事件

2006年07月08日 | 教育・文化

また、痛ましく悲しい事件が豊中でおきた。留年中の阪大生がパチンコばかりしていることを母親に注意されて腹を立てて犯行に及んだという。先月にも奈良の田原町で高校一年生が自宅に放火して、医師である義理の母親と弟妹が亡くなるという事件があったばかりである。一昨年には、東京の板橋区で、高校一年生が両親を殺害しようとして、ガスで部屋を爆破させるという事件があった。今年の三月には、中学生が自宅に放火して、幼い妹が焼死するということがあった。


前途有望であるはずの青少年が引き起こすこうした一連の犯行を見ると、何か日本国崩壊の前兆をみるような気もする。深刻な危機感をもたざるを得ない。

もしこれらの犯罪が、三十歳以上も過ぎた青年男女によって引き起こされたものであるならば、その責任は100パーセント彼ら本人に問われるべきであろう。しかし、それが高校生や大学生、さらに中学生という青少年によって引き起こされた犯罪となると、大人が、両親が、社会が、国家国民が、その責任の連帯の一端を担わなければならないのではないかという思いが強い。

こうした青少年犯罪に、今日の日本社会の教育や文化上の深刻な問題をその根底に見るのが自然ではないだろうか。青少年の犯罪の低年齢化が進むほど、その責任を大人たちが自覚しなければならないと思う。こうした悲惨な事件が巻き起こす損失は計り知れず大きい。家族や周囲に与える打撃の大きさのみならず、前途有望な青少年の未来をも閉ざすという点で、絶望的なほど問題は深刻である。

このような事件は日本社会からは決して起きさせないという、教育的にも文化的にも質の高い国家と国民にしてゆく決意がまず必要だと思う。


これらの悲惨な事件から伝えられることは、今日の青少年の多くが、自分たちの抱える問題や悩みを、合理的に解決する方法を持ち得ていないらしいということだ。

もちろん何の問題も、トラブルもない個人や、家族、社会、企業というものは考えられない。それぞれ、多かれ少なかれ問題は抱えている。ただ、たえず起きてくるそうした問題に対して、その解決のための手段や方法が、いつでもつねに提供され利用されるような成熟した社会になりえているかが問題である。この点で現実が教えるのは、犯罪行為として暴発するまでは、解決しうる環境を青少年たちが持ちえていないということであり、大人が彼らに用意し提供できていないという事実である。

それは日本の教育文化の問題として根源的に解決されるべきであり、犯罪者個人の心理的な問題に矮小化されるべき問題でないように思う。
そうした意味で、首相、文部科学大臣、教育行政官僚、教育委員会、学校関係者がそうした観点からその責任を切実に自覚してしかるべき問題であるように思える。

以前、現在の文部科学大臣の資質を問題にしたことがあるが(「政治家の品格」)、果たして彼らにそうした問題意識を期待できるだろうか。明治の森有礼文部大臣などに比較しても、平成の政治家の資質はどうか。

それはとにかく、今日の青少年は自分たちの青年期特有の悩みや矛盾を、有意義に合理的に解決する方法を教えられず、また、その支援も十分に得られているようには見えない。家庭教育と同様、学校教育の責任は重い。クラスの友人や学校の教師は何の相談にも成らなかったのだろうか。そこに見えるのは、学校や学級の共同体としての性格の喪失である。

国家と同じように、家族や学校などのそうした小さな共同体が健全に機能してゆくためには、そこに何らかの倫理規範と、問題解決の方法が本来伝統的にも形成されているべきものである。それが、太平洋戦争の敗戦を契機として失われたままで、新しく確立されてもいない。そこに問題の根源があるのではないだろうか。その意味では、こうした犯罪を犯さざるを得なかった青少年もまた被害者である。

これらの青少年たちの両親の世代も、ある意味では同じである。人格の尊重と自由ということを知らず、自分たちの価値観を無反省に子供たちに押し付けて、その結果、自分の人格も無視されて、この上なく手ひどいしっぺい返しを子供たちから受ける。日本人の意識は本当には自由に解放されてはいないのである。

問題の核心は、家庭や学校、さらには国家社会における新しい倫理規範の確立と、様々な人間関係において生じる諸問題の法律的な処理以前の問題解決のための文化、その精神と方法の―――それは「正しい民主主義」以外にはありえないと思うが―――確立である。

参照 「学校教育に民主主義を

 

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