後任防衛相は小池百合子氏 参院選前、首相に痛手(朝日新聞) - goo ニュース
日本国の洗濯と人を見る眼
指導者の資質として、まず第一に挙げるべきは、「人を見る眼」ではないだろうか。国家や企業などの組織の指導者は、自ら個別具体的な業務に直接従事するわけではない。指導者の仕事は、業務の分業に応じて、いわゆる人材として、それぞれにふさわしい能力を持った人間を見つけ選び出し、時には人材を育成して、適材適所に配備する。そうして、彼らをいわば道具として手段として用いて、国家なり組織なりの理念、目的を追求し、実現してゆくことになる。そのときに、指導者は瞬時にその人間の資質と能力を的確に判断する能力がなければならない。この能力がなければ、人材の適材適所への配置もできず、したがって、国家や組織の所期の目的も遂行することができない。指導者に必要な能力は、何よりも「人を見抜く能力」「人を見る眼」ではないかと思う。
安部晋三内閣が発足して、九ヶ月を経た現在、先に松岡利勝農水相が「緑資源機構」にからむ汚職疑惑で自殺し、そして、今度は久間章生防衛相が「原爆投下しようがない」発言の責任をとって辞任した。そして、その後任に、小池百合子首相補佐官(54)を充てることを決めた。4日の午後にも皇居で認証式が行われ、正式に就任するそうである。
このたびのこの安部首相の泥縄式の人事を見ても、安部首相の指導者としての「人を見る眼」に深刻な懸念を抱かざるを得ない。少なくとも、前の小泉首相のときは、幹事長に武部勤氏を据え、金融相、あるいは財務相には慶応大学の教授だった竹中平蔵氏を内閣に組み入れて、かねてからの持論であった「郵政改革」断行しようとした。また、作家の猪瀬直樹氏を道路民営化諮問会議の議員に採用するなどしてそれなりに事態の打開を図ろうとした。それらはいずれもきわめて中途半端な成果に終わったとはいえ、そこには小泉純一郎氏の「人を見る眼」というか直覚的な政治的な勘が、小泉氏なりの見識が働いていたと思う。
「英雄のみが英雄を知る」とか「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とか「下僕に英雄はいない」ということわざがあるが、それらは要するに、人は誰でも自分の器量に応じてしか他人を判断できないということである。同等以上の人物については、判断能力は及ばない。これは類は友を呼ぶということでもある。ある人間を判断するのに、その人の奥さんや友達を見ればその人となりがわかるように、安部晋三氏の人としての資質は、安部内閣を構成する政治家たちを見れば大体わかる。そして、今回の新人事で、小池百合子新防衛相を通して安部首相を資質を見てみると、安部内閣の成立以降もこの九ヶ月ウォッチングを続けてきて、残念ながらもうこれ以上に、安倍晋三氏に期待はできないという思いが強い。
しかし、自民党に彼に代わる人材はいない。政界にもいるようには思えない。それほどに日本の政界には、いや政界だけではなく、ちょうど香川県の早明浦ダムのように、日本国全体に真の英雄が、すぐれた人材が枯渇し始めているのかも知れない。これこそ、日本国の真の危機というべきだろうか。
少なくとも一国の国防の軍事指導者は並みの人物で務まるポストではない。高度の見識、経験、能力を必要とする。国民から尊敬され憧憬される軍隊を持たない国家に品位と安定はない。その人事を誤れば、潜在敵国からは侮られ、同盟国からは不信を買い、部下の軍人武官からは軽侮を買って、その文民統治の原則にもひびを入れかねない。安部政権については「論功行賞のお友達内閣」とうわさされてもいるようだけれど、安倍首相の頭の中にある選択肢に、志方俊之氏や森本敏氏などの名前が浮かぶことはなかったのだろうか。人事に同じ失敗は許されない。
「日本国の洗濯」は他の誰かを指導者に選ぶことによって、また、もう少し遠い先の課題として、期待すべきかも知れない。さしあたっては、現在の自民党と公明党による連立内閣与党を、まず野に下して壊し、それを契機に、自民党を結党以前の自由党と民主党に分割分離して、自由主義と民主主義の理念の実現を、それぞれ自由党と民主党に担わせる。それによって、日本においてもまともな政党政治を実現させてゆくことだと思う。来る参議院選挙を日本の政治の再編成の始まりにしたいものだ。日本の政治家たちにも、茶番劇のお笑いはこの程度にしてもらい、子供の政治から大人の政治へと、品位と落ち着きと本当のユーモアの余裕の政治を早く見せてほしい。