仏教界の最大の嫌われものといえば提婆達多と相場が決まっている。この提婆達多について興味深い話を聞いた。彼は釈迦教団の有力者で非常に能力の高い人だった。教団の発展にも尽くした。釈迦も舎利弗などを使わしてその能力を称えたほどだ。
ところが釈迦が老いてくると教団運営に非難を初め、釈迦は教団運営から離れて自分に任せろと言い出した。なぜそんなことを言い出したのか。教団の戒律が生ぬるいと言い出したのだ。
- 人里離れた森林に住すべきであり、村邑に入れば罪となす。
- 乞食(托鉢)をする場合に、家人から招待されて家に入れば罪となす。
- ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着るべきであり、俗人の着物を着れば罪となす。
- 樹下に座して瞑想すべきであり、屋内に入れば罪となす。
- 魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。
街に住むな。林の中に住め。
肉や魚を食うな。釈迦は殺す場面を見なければ食べても肉や魚を食べても良いとした。
金持ちから布施を受け取るな。
など極端に厳しい戒律を要請し、大勢の弟子を引き連れて釈迦から離れていった。
この極端な厳格主義はピューリタンに近いのだろうか歴史上でも常に繰り返し危険な行動を生んできた。ウンベルトエーコの「バラの名前」でも多くの異教徒と断罪された火炙りの刑が死臭が立ちこめるほどの筆力で描かれる。
創価学会が極端な他宗排斥を行い、ついには守るべき宗門にも他宗排斥以上の攻撃をして決別するという問題行動を起こした。自らが育てた有力政治家竹入氏や矢野氏をも断罪し追いやった。
提婆達多は最終的には釈迦が切っている。そして法華経で最終的に救われる。ここに今後の創価学会の蘇るべき道筋がひょっとしてあるのだろうか。池田大作氏の亡き後にこれを機会に宗門と手打ちが行われたとしてそれですむ問題だろうか。宗門自体にも極端な他宗排斥のカルトの萌芽を宿すことはよく知られている。果たしてどのような運命を辿るのかはよくわからない。しかし今後の日本で再びこうした異常な権力構造が生まれないためにもウンベルトエーコの名作「バラの名前」のように異端排斥のテーマに取り組んだ文学作品が生まれることを期待したい。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」も宗教の持つ一筋縄ではいかない問題点を抉り出した作品と私には思える。ゾシマ長老が死んだのちに腐臭を発したというエピソードは俗臭芬々たる批判の典型だろう。すでにそのようなことをドストエフスキーは起こり得ることとして見据えていたのだろう。
俗臭芬々たる批判も事実を知るには大事だが、戦後創価学会の引き起こした一大事のことの本質は一層深い。文学作品でしか本質に迫れないと信じている。それは宗教に対する寛容さがいかに大事か、そしてカルトだけは決して許してはならない人類の敵であることの2点だ。
カルトの見極めは非常に簡単だ。極端な排他不寛容だ。そして性急すぎることだ。そして自身に酔っていることの3点だ。私は戦後の長い人生と上記の文学からこの大事を学んだ。