ドストエフスキーはそれまでの各人の物語を集約して見せるのに最適の舞台として裁判を描き、検事イッポリートと弁護士フチュコーイッチの両サイドを中心に登場人物のそれぞれからみた多面的な兄弟の真実をあぶり出す。一人の見ただけの真実などあり得ないとでも言うように。ここで芥川龍之介の作品である藪の中を思い浮かべてしまう。あるいはこの裁判シーンの影響を受けている可能性はある。黒沢監督も大のドストエフスキー好きであり、やはり藪の中を映画化している。裁判を小説にしようと思うとこうする他無い。つまり単眼では説得性を欠くので複眼で描き、しかもその捉え方のあまりの違いを強調すると読者が自らその差を読み手なりに整えてくれ、共感が生まれる。なかなかよく考えられた手法だ。
婦人たちの顔にはヒステリックな、貪欲な、ほとんど病的とさえ言える好奇の色が読みとれた。
事件を見るときの好奇の目が卑しい事は今も変わらない。
おそらく、その最大の理由は、彼に関して、女心の征服者といった観念が作られていたためであろう。
人々は、プライドの高い貴族の令嬢と《高級淫売》という二人のライバルの法廷での対決を、苦しいほどの好奇心で待ち受けていた。
男性側はすべて被告に反感を持っていた。
有名なフェチュコーウィチの到着が、みなを興奮させていた。
このあたりも今のバラエティー番組を見る我々の意識そのままだな。
裁判長は中背よりやや低い、がっしりした、五十くらいの男で、痔のわるそうな顔をし、白いもののまじった黒い髪を短く刈り上げ、赤い大綬をつけていたが、何の勲章だったかはおぼえていない。
痔の悪そうな顔とは一体どんな顔だろう。一種のユーモアのつもりか。
もちろんいまだかつて一冊の本も読みとおしたことがないにきまっている。
これは陪審員の描写で、ドスト氏が彼らを露骨に馬鹿にしている。
こんな連中がこういう事件の何を理解できるのだろうか?という思いがうかんだものである。
ふと日の名残で執事が馬鹿にされるシーンが浮かんだ。
法廷内はひっそりと静まり、蠅の羽音さえきこえるほどだった。
蝿の羽音が聞こえるほどの静粛か。
何よりも、彼は仕立ておろしの真新しいフロックを着こんで、ひどく伊達男気どりで入廷してきたのだ。あとで知ったのだが、彼はこの日のためにわざわざ、自分の寸法書きの残っているモスクワの昔馴染みの仕立屋にフロックを注文したのだった。彼は真新しい黒のキッドの手袋をはめ、しゃれたシャツを着ていた。そして微動だにせず、まっすぐ正面を見つめたまま、歩幅七十センチほどもある例の大股で通りぬけ、きわめて落ちついた態度で自分の席に腰をおろした。
これはミーチャの出廷風景。
弁護人フェチュコーウィチも入廷し、なにか押し殺したどよめきのようなものが廷内を流れた。これは、細くて長い足と、度はずれに長い青白い細い指をした、瘦せたひょろ長い男で、顔をきれいに剃り、かなり短い髪をつつましく撫でつけ、ときおり嘲笑とも微笑ともつかぬ笑いに薄い唇をゆがめていた。見たところ四十前後だった。彼の目それ自体は小さくて表情に乏しいものだったが、珍しいほど両眼の間隔がくっついているので、やや長目の細い鼻の細い鼻梁だけでやっと隔てられているにひとしく、目がこんなでさえなかったら、その顔は感じのよいものだったにちがいない。一口に言うと、その容貌は何かびっくりするくらい鳥に似たところがあった。
これは弁護人の出廷風景。
ミーチャのだしぬけの言動であった。スメルジャコフの死が報告されたとたん、彼はふいに自分の席から法廷じゅうにひびくほどの声で叫んだのだ。「畜生は畜生らしい死に方をするもんだ!」
「被告は自己を有罪と認めますか?」 ミーチャはふいに席から立ちあがった。「深酒と放蕩の罪は認めます」
ドミートリイ・カラマーゾフは卑劣漢ではあっても、泥棒ではありません!」
ミーチャの人となりを表す。
この興味深い被告の無罪をあれほどやきもきして待ち望んでいた婦人たちも、一人残らずみな、一方では被告の全面的な有罪を心から確信していたとさえ、わたしは思う。そればかりではなく、もし被告の有罪がさほど立証されなかったとしたら、婦人たちはがっかりしたのではないか、という気さえする。なぜなら、そうなると被告が無罪放免になるというハッピーエンドに、それほどの効果がなくなってしまうからだ。
作者は傍聴人は要するにドラマを求めていると言いたいのだ。和歌山のドンファン事件を思い浮かべる。
彼は検事側のすべての証人に要所要所で《小股すくい》をかけて、できるだけまごつかせ、何よりも証人たちの道義的な評判に泥を塗り、したがっておのずから彼らの証言にも泥を塗る手腕を示した。
米国テレビドラマのスーツにも盛んに登場するテクニックだ。
死んだスメルジャコフに関しては、十字を切ってから、才能のあるやつだったが、愚か者で、病気にさいなまれており、そのうえ不信心者だった、彼に不信心を教えこんだのはフョードルと長男とだ、と言った。しかし、スメルジャコフの正直さについては、ほとんどむきになって請け合い、その場でさっそく、かつてスメルジャコフが主人の落した金を見つけたとき、それを猫ばばせずに主人に届け、主人はその褒美に《金貨を与え》、それ以後すっかり信用するようになったという話を披露したほどだった。
グリゴーリイはスメルジャコフを愛していたのだ。
グリゴーリイは口をつぐんだ。何かをさとったかのようだった。「純粋のアルコールをコップ一杯半もね、これは実にわるくありませんな、そうでしょうが? それなら庭へ出る戸口と言わず、《天国の扉が開いていた》のだって見えますね?」
「じゃ、今年は紀元何年です、キリスト降誕後、ご存じありませんか?」 グリゴーリイは迫害者をひたと見つめながら、まごついた顔つきで立っていた。どうやら今年が何年であるかを彼が本当に知らぬらしいのが、実に奇妙な感じだった。
グリゴーリイの愚かさを弁護人があばき出すところ。
みんな、あたしが悪いんです。あの二人を、あの老人とあの人をあたしがからかって、二人ともこんな羽目に追いこんでしまったんです。みんな、あたしのせいで起ったんです」と付け加えるのだった。何かのはずみに話がサムソーノフのことに触れると、彼女は「だれにも関係ないことだわ」と、すぐに不遜な口調で食ってかかった。「あの人はあたしの恩人です。あたしが両親に家から放りだされたとき、あの人ははだしのあたしを拾いあげてくれたんです」
「あのときの自分の気持はおぼえていませんけれど」グルーシェニカが答えた。「あのときはみんなして、あの人がお父さんを殺したと叫びだしたので、あたしは、これはあたしのせいだ、あたしが原因でお父さんを殺したんだ、と感じたのです。でも、あの人が自分は無実だと言ったとたん、あたしはすぐにそれを信じました。今でも信じてますし、これからも信じつづけます。噓を言うような人じゃありませんもの」
彼女は傍聴人にきわめて不快な印象を残した。彼女が証言を終えて、カテリーナ・イワーノヴナからかなり離れた廷内に着席すると、数百の侮辱的な眼差しが彼女に注がれた。
これも和歌山ドンファン事件を思いうかべて読んだ。
「証人、あなたの言葉は不可解で、この席では許されぬものです。できるならば気を鎮めて、もし……本当に言うべきことがあるのなら、話してください。そういう証言を、いったい何によって裏付けられるのですか……かりに、うわごとを言っているのでないとしたら?」
これはイワンが狂った描写。
カーチャはそれのできる性格であり、それのできる瞬間にあった。それは、あのとき父を救うために若い放蕩者のもとにとんで行った、あの一途なカーチャと同じだった。先ほど全傍聴人を前に、誇り高い清純な姿で、ミーチャを待ち受けている運命をいくらかでも軽くするために、《ミーチャの高潔な行為》を物語り、わが身と処女の羞恥とを犠牲にした、同じあのカーチャだった。そして今もまったく同じように彼女は自分を犠牲にしたのだが、今度は別の男のためにであり、ことによると、今この瞬間になって彼女はようやく、別なその男が自分にとってどれほど大切な存在であるかを、はじめて感じ、完全に理解したのかもしれなかった! 彼女はその人を案ずる恐怖にかられて、自分を犠牲にした。犯人は兄ではなく自分だという証言によって、その人が自己の一生を破滅させたことに突然思いあたるや、彼女はその人を救うために、その名誉と評判を救うために、自分を犠牲にしたのだった!
カテリーナの高貴であることよ、父を救うため、ミーチャを救うため、イワンを救うために証言を変える女。愛の種類を豊富に持っているが、それが結果的に裏切りにも通じる。
「ミーチャ!」彼女は叫びたてた。「あの毒蛇があなたを破滅させたのよ! ついにあの女が正体を現わしたのよ!」
これはグルーシェニカの発言で、彼女もサムソーノフやポーランド人、ミーチャの間を揺れ動いているが、その揺れ動き方はカテリーナほどの高貴さはない。
首をくくって、『だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ』
これはスメルジャコフの遺書で、生前中も不可解で謎めいていたが、遺書まで謎めいている。
被告は絶対にそんな一面を示しえぬ人間であるような気がしていたのに、真実と、女性への尊敬と、彼女の心の権利の承認との、やみがたい欲求がふいに生れたのです。
狂おしいばかりに混乱し、もはや自己を大切にしようともせぬこの男の有罪性が、消しがたい強さで浮彫りにされた。
ドミトリーは狂おしいほど純粋な男なのだ。
以上はドストエフスキー.カラマーゾフの兄弟(下)(新潮文庫)Kindle版.からの引用。