まさおレポート

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気になる言葉 「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」

2023-01-18 | 源氏物語

源氏物語の評価は折口信夫と鈴木大拙や梅原猛が真っ向から対立している。なぜこうも評価が分かれるのだろうとの疑問を呈した下記のブログ稿で書き足したいことがあった。

それは折口信夫が古代の世界を渉猟し巨大な民俗学を構築しながら無信仰であったことであり、一方で鈴木大拙や梅原猛が仏教信仰者あるいは賛同者であることです。

折口信夫は源氏物語の光源氏を神の化身と考え、鈴木大拙や梅原猛は光源氏を単なるスケベ野郎と考えたことも両陣営で際立っている。

もののあはれを西洋風に理解しようとした鈴木大拙や梅原猛は光源氏をスケベ野郎ととらえ、日本古代に足をすえ西洋思考を否定した折口信夫は神の化身と考えた。

明治維新以来の大波の影響を鈴木大拙や梅原猛はもろに受け、折口信夫は揺るがなかった。そう考えると日本は明治以来150年で西洋思考を十分するほど吸収したのだから正反合で再び統合した源氏物語復権があってもいいのではないかと考えるようになりました。それは古代日本思考のままの復興ではなく一旦洗い流された日本思考復興になるのではないかと。


初稿 2020-03-11 09:10:28

源氏物語の評価は折口信夫と鈴木大拙や梅原猛が真っ向から対立している。なぜこうも評価が分かれるのだろう。もののあはれに至高の価値を見るか、そうでないかの判断にあるらしい。折口信夫はもののあはれに至高の価値を見、鈴木大拙や梅原猛は異なる。

戦時中のこと、小林は大森の折口宅を訪れたことがあるらしい。何かのはずみに話が『古事記伝』におよんだところ、折口は橘守部の批判的宣長評を話してくれた。
 宣長に詳しくなかった小林は、それでもちょっとした読みかじりの印象から、「宣長の仕事は、批評や非難を承知のうえのものだつたのではないでせうか」と言ってしまった。
 「折口氏は、黙つて答へられなかつた。私は恥かしかつた。帰途、氏は駅まで私を送つて来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に」と書いて、小林はそのときの折口の言葉を書きとめている。「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」。https://1000ya.isis.ne.jp/0992.html

鈴木大拙は「否定せられたことのない直覚」としてもののあはれを退ける。

「なに故に神道的直覚は情性的であるかというに、それはまだ否定せられたことのない直覚だからである。感性的直覚もそうであるが、単純で原始性を帯びた直覚は、ひとたび否定の炉はいをくぐってこなければ霊性的なものとはならぬのである。・・・・神道にはかくのごとき霊性的自覚の経験が欠けている。」

この精神的反省こそが、霊性の覚醒に必要な条件なのである。しかし、この外的要因は内的要因と相互作用しないならば、それは単に外的なものにとどまる。霊性が覚醒するには、外的と内的の二つの要因が創造的に相互作用しなければならない。

蒙古来襲は、平安期の都の享楽的生活と頽廃が、「日本人の生活全体の上に、何となく、『このままでは、すむものでない』と云ふ気分を、無意識ではあるが、起させた」(p108)

「この本は・・・生まれながらの人間の情緒そのままで、まだこれがひとたびも試練を経過していない。全く嬰孩性を脱却せぬと言ってよい。・・・恋愛そのものからくる悲苦につきての反省・思索などいうものは、集中どの作にも見えない。子供らしい自然愛の境地を出ていない。」

生まれながらの人間の情緒そのままでも価値があるではないかと思うのだが、鈴木大拙に言わせるとわざわざ書くべきものではないということだろうか。やや反感を覚える箇所だが。

・・・これには成熟した頭脳がなくてはならぬ。人間は何かに不平・失望・苦悶などいうことに際会すると、宗教にまで進み得ない場合には、酒にひたるものである。・・・或る意味で酒に宗教味がある。ところが古代人の日本人には、こんな意味の酒飲みはいなかったようである。・・・「万葉」の歌人は宗教的な深さを示さぬ。・・・万葉歌人には、人間の心の深き動きにふれているものがないと言ってよい。」

鈴木大拙は執拗にもののあはれを否定する。

梅原猛も「日本人のあの世観」で源氏物語は上流貴族の生活を描いており、源氏はモテ男で好きではないと書いている。それに比べて能を称揚している。又、浄土系思想を日本仏教の大事と考え、日本人の「あの世観」をベースに日本化した仏教はもはや外来の宗教ではないと記している。梅原猛は鈴木大拙のことは書いていないが、知ってか知らずか、なんとよく似たことを記していることか。

梅原猛も鈴木大拙も否定する源氏は無明と聖のはざまに翻弄されながら懸命に生きる人間を描いている。もののあわれに至高の価値を認めるのであれば貴族も庶民もないのではないか。梅原猛は能を好み鈴木大拙は禅だ。いずれも仏教の空の世界を好む姿勢だとみる。一方、空の世界では一瞬たりとも生きていけないのが無明に生きる人間であるから現世にいきる人間のもののあはれを描いたのが源氏物語だといえる。

空と現世を往還することが大乗仏教の根幹であるからどちらも相補的に働いてこそではないかと思える。お互いをけなしあうものでもなかろうと考えるのだが。

 

この論争はプラトンとアリストテレスの2大潮流がうねりをもって歴史に現れるという話を思い出させる。具体と抽象、現世とイデアの論争だがどちらも相補的に思える。優劣はないというのが持論だ。

ところで文学として面白いのはやはりもののあはれだろう。能や禅の先にみるものは人の生きていけない世界でありモノトーンの世界だ。やはり色彩にあふれた世界がよい。それも悲劇が人のあはれ感を誘いやすい。

「うれしくば忘るることも有なまし つらきぞ長かたみなりける」(新古1403)は無明に生きる凡夫のもののあはれを見事に表現している。

アンナ・カレーニナの冒頭 「幸せな家族はいずれも似通っている。だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸な形がある」も同様のことを言っている。

「しかし、万葉に学んだ直き心が安波礼に達するには、どうしても対決すべき邪魔があった。それは「からごころ」というものである」(千夜千冊より)

もののあはれとからごころはいよいよプラトンとアリストテレスの2大潮流の対決のように見えてくる。どちらがプラトンでアリストテレスかはこのさい問題ではありませんが。

誤解していた「もののあはれ」

小林秀雄の無私 無明と空 メモ

 

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