まさおレポート

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紀野一義の研究51 日蓮上人 3

2022-01-23 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義氏のyoutube講演メモです。


日蓮上人は寝言のように自然に唱え始めた。ほとけに唱えさせられた。身は牛や羊のようなものと。親鸞の歎異抄にも共通している表現でありこういうところが面白い。真空のようなものから唱題や念仏が生まれてくる。

開目抄 頚はねられぬと過去形で書かれた。本来であれば死んでいると思い定める。


『開目抄』 文永九年二月 五一歳(御書・五六三頁)

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし。


氏も不発弾の信管除去で生きているのが不思議だった。あのとき死んだんだ、これから絶対死なないとの確信が沸き起こった。今生きているのは儲けもの、いつでも原点に戻れるという覚悟ができたのは幸せなことだなとおもっております。


最蓮房は最蓮房日栄とも日浄ともいい元天台学匠だったが佐渡で日蓮上人の弟子となる。その最蓮房に当て祈禱抄というお手紙を出されている。

祈禱抄 文永九年 五十一歳御作

問うて云く華厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈をなさんにいづれかしるしあるべきや、答て云く仏説なればいづれも一往は祈となるべし、但法華経をもつていのらむ祈は必ず祈となるべし


実に男性的な文章ですね。一字一字が魂である。読むにあたって思想とか読み方なんて言うものではない、日蓮上人はその通りに読まれている。また読まれたとおりになっていったんですね。

佐渡御書 

日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず。不軽品に云く「其罪畢已」等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし。何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二渧とせり。其の中に識神をやどす。濁水)に月のうつれるが如し。糞嚢に金をつつめるなるべし。心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐ろしと思はず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり。

西山殿ご返事に

法華経は一切経に優れたり

日蓮は悪くても悪かるべし

それであればこそ法華経はすばらしい

池上本門寺の彫像のこの目が何とも美しい。

日蓮は憎たらしい坊さんだったと思っていたが氏の話を聞いてそんな坊さんさんじゃなくて嬉しいと言う手紙をある人からいただいた。

泣きながら如是我聞と唱え給う

日蓮は泣かねども涙ひまなし

ただひとえに法華経のゆえなり

こういう生き方はエッセンシャルな生き方です。どうでもよいことはすべて捨てておられる。せいせいしたお顔ですね。こういう人の側にいた方は本当に幸せだったろうとおもいますね。

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