まさおレポート

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の不思議ワールドと虚数、トンネル効果

追記

頭の片隅に居座っていた、村上春樹がなぜオカルトに興味がないと述べたかの理由、それが解けた。

村上春樹はメタファとして表現すると数学の虚数の世界を文学として追っているのだと気がついた。現実(実数)には現れない物語世界(虚数)は一見オカルトだが、実はオカルトではない。オカルトは現実の世界で起こると考える人達の現象だが、村上春樹が追っているのは非現実の世界(虚数)つまり非オカルト世界が現実(実数)に及ぼす物語を描くことであり、つまりオカルトではない、したがってオカルトに興味がないと強調したのだろう。

幾何学でいうところの補助線に近い考え方だが、実数と虚数と捉えるほうがもっと時空的な広がりの感がしてメタファとしてより面白い。

右脳左脳の考え方もメタファとして有効だ。右脳はいわば虚数の世界で、左脳は実数世界だ。右脳が考える虚数世界を左脳は実数部分しか理解できないが、行為は虚数として行う。無意識のうちに行った行為は右脳のビッグデータ解析結果として解析に至る道筋は苦手だが結論として感じたことを虚数世界が命じている。

実時間に虚数時間を導入することで量子論が成り立ち、「トンネル効果」でボールが極めて低い確率で壁を抜ける話は村上作品にも壁抜けの話が出てくるのでニンマリしてしまう。

 

 

 

以下は2014-06-15の掲載記事

村上春樹は「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」のなかでオカルトにはまったく興味がないと述べている。ところが「ねじまき鳥クロニクル」にはオカルトとも呼べる話がふんだんに出てくる。彼の他の作品にもふんだんに出てくるその種の不思議ワールドが彼の小説の魅力にもなっている。この一見矛盾する事実はどう解釈するべきなのかと読むたびに疑問に思い、なかなか説明がつかない。(別に説明がつかなくても彼の作品はスーパー級に面白いのだが。)

「ロング・グッドバイ」の訳者あとがきに村上春樹はチャンドラーのある覚書を引用して次のように記している。

「もしあなたが、朝起きた時に腕が三本になっていた人間の物語を書くとすれば、その物語は腕が一本増えたためにどんなことが起こったか、というものでなければならない。腕が増えたことを正当化する必要はあなたにはない。それはすでに前提としてあるのだ」と。つまり腕が一本増えたことにより、主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである。

つまり、オカルト的な話(不思議ワールド)を信じているかどうかは説明する必要がないのだ。読者にその話が「本当かどうか」を信じてもらう必要は全くないのだ。それによって引き起こされる物語にこそ、そのオカルト的な話が書かれた理由も自発的に暗示されていくべきだと言う。

「ねじまき鳥クロニクル」の不思議ワールドについてメモをしてみた。

生霊

「撫でて、という声が聞こえたような気がした。それはあの電話の女の声だった。」 1巻p26

妻は電話で岡田に失踪した猫を路地で探してみてほしいと言う。妻は岡田の知らない間に路地に行っている。そこで会う笠原メイと話しているときに、見知らぬ女(実はクミコ)が電話で陰毛を「撫でて」みてという、その声が聞こえた気がする。クミコが笠原メイに生霊となって「撫でて」とテレパシーで語りかける。

間違いない。あの女はクミコだったのだ。 2巻P352

動物園に来た中尉(シベリアに送られ炭鉱の縦穴で溺れ死ぬ)は生き延びた間宮中尉と当然に異なる人物なのだが岡田は同じ中尉ではないかと思う。動物園に来た中尉は間宮中尉の生霊と見るのだろう。

輪廻転生

「人が死ぬって素敵よね ・・・そういうのをメスで切り開いてみたいと思うの。死体じゃないわよ。死のかたまりみたいなものをよ。」一巻p35

岡田を井戸の中で縄梯子を外して置き去りにして死の恐怖を与え間宮中尉と同じ心境に追い込もうとした。この井戸で壁抜けをし、中国の動物園の獣医と同じようなあざが頬にできる。ノモンハンの苦境を時代も年齢も異なる岡田が引き受けることを象徴する。後に井戸に水が戻り、綿谷ノボルを異界でやっつけるとアザは消える。ノモンハンのボリスの悪は綿谷ノボルに後継している。輪廻とは言わずに悪の継承による仕業と解釈するべきかもしれないが。

我は彼、彼は我なり、春の宵。我を捨てるときに、我はある。 一巻p94

本田老人は占いをする老人で、岡田にあった時にこの謎めいた台詞をはく。本田老人はノモンハンで伍長として凄惨な戦いを経験する。このときの本田老人の話で、読者は岡田がノモンハンで死んだ、あざのある男(獣医)の転生ではないか、あるいは獣医の「業」を引き受ける男だと気が付く。「我は彼、彼は我・・・」の台詞は転生を意味していると読める。

ひとたびその舞台を下りてしまえば、そこで交換しあっていた暫定的なイメージを取り去ってしまえば、僕らはみんなただの不安定で不器用な肉のかたまりにすぎない。 一巻p195

岡田が結婚して遠くに去る事務所の女性を抱きしめて「充電」しているときの叙述。「暫定的なイメージ」が「転生する自己」とはかけ離れた、かりそめであることが説得性をもって語られる。

本田さんが僕に残してくれたのは、ただの空っぽの箱だった。 一巻p308

ノモンハンの「業」を岡田は引きずっている事を本田は見抜いており、そこから脱却するには岡田に空っぽになれ、我を捨てよとのメッセージ(我は彼、彼は我なり、春の宵。我を捨てるときに、我はある)だろうと思うが、同時に間宮中尉を岡田に引き合わせる手段だとすると納得がいく。

あるいはこのあざは、あの奇妙な夢なり幻想なりが僕に押した烙印なのかもしれない。 2巻p210

あざが時代を経て引き継がれる。三島由紀夫の「豊穣の海」の主人公が転生してあざをもつ。このあざは転生の徴だがこの作品は獣医のほかに間宮中尉の業も引き継ぐ。

獣医は三十代後半の背の高い男で、顔立ちは整っていたが、右の頬に青黒いあざがついていた。 3巻p111

ソ連の新京侵攻により軍の命令で動物園の主任獣医は動物園の虎などを銃殺する。その獣医は岡田とおなじく背が高く頬に赤ん坊の手のひらくらいのあざがあった。作者は獣医の転生が岡田であることを読者に伝えようとしている。

 

そのあざはあなたに何か大事なものを与えてくれるかもしれない。でもそれは何かをあなたからうばっているはずです。 3巻P218

あたえたもの 人を癒す能力。うばったもの クミコ。

肉体などというものは結局のところ意識のために染色体という記号を適当に並べかえて用意された、ただにかりそめの殻にすぎないのではないか、と僕はふと思った。 2巻P112

仏教では阿頼耶識あるいは非我などと表現される肉体外の存在を岡田は井戸のなかという過酷な環境で実感することになる。

あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたのつもりだって、それもやはりどこかよそでつくられたものなの。 2巻p166

一体何を言っているのだろうか。縁起という言葉を思い浮かべるとぴったりくる。

そしてすべてはよそから来て、またよそに去っていくのだ。僕はぼくという人間のただの通り道にすぎないのだ。 2巻p167

「僕はぼくという・・・」のぼくは輪廻転生する「世界外存在」であり、僕という肉体と精神を通り過ぎていく。

たとえば、ひとは自分の顔を自分の目で直接見ることはできません。・・・そして我々はその鏡の映し出す像が正しいと経験的に信じているだけなのです。  2巻p202

加納マルタが岡田に何か変化がないかと尋ねた後の台詞。人は「我」をみることはできない。

あなたの中にはなにか致命的な死角があるのよ。 2巻P351

笠原メイは「死のかたまり」に興味がある。 私という人間は私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうとしているのよ。 2巻p294

笠原メイが井戸の中に入ったときの感想。

 ねえ、ねじまき鳥さん、私には世界がみんな空っぽに見えるの。インチキじゃないのは私の中にあるそのぐしゃぐしゃだけなの 2巻p298

これが悪なのか善なのか、善悪を超越したものか。

ねじまき鳥

その声は世界に対する善意に満ちていた。それは夏の朝を祝福し、一日の始まりを人々に告げていた。でもそれだけではだめなんだよ。だれかがねじを巻かなくてはならないのだ。 2巻p262

やがてそれに混じって鳥の声も聞こえた。その鳥はまるでねじを巻くような奇妙な特徴のある声で鳴いた。 3巻p116

赤坂ナツメグは新京の動物園ねじまき鳥を語る。しかしその語る内容は実際には目にしたことがないと言う。

しかしその若い兵隊には自分の未来は見えなかった。・・・彼は目を閉じて、ただねじまき鳥の声に目を澄ました。 3巻p326

バットで中国人を撲殺した若い兵隊はシベリヤに送られシャベルで頭を潰されて死ぬ。ねじまき鳥は因果と縁起を推進する。

地下の世界(異界)

ノモンハンの悪夢の井戸の「悪」は笠原メイの向かいの家、宮脇さんの家の枯れた井戸にも通じている。この井戸が岡田やクミコ、笠原メイなどまわりの人々を損なっている。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」にも通じる地下の闇世界。

ところが深い暗闇の中にいると、自分の今感じている感覚が本当に正しい感覚なのかどうか、それがよくわからなくなってくるのです。 一巻p293

ノモンハンで間宮中尉が銃殺か井戸に落ちることかの究極の選択を迫られ井戸に落ちることを選択したあとの暗闇の描写。後に岡田が井戸に入るのと対応している。

画題:Alfonse Mucha (1860-1939)
         "Le Gouffre"
         

予言

岡田は獣医のみならず動物園に来た中尉(縦穴で溺れ死ぬ)の業も引き受けている。そしてこの溺れ死ぬ中尉は生き延びた間宮中尉と当然に異なる人物なのだが岡田は同じ中尉ではないかと思う。

本田老人は岡田に水には気をつけろと言う。岡田が井戸で溺れ死ぬ直前までいくことを予言する。

でも、霊感と言う言葉は自分の心情にはぴったりこないのです。そういう大袈裟なことではないのです。さっき申し上げましたように、自分にはただそれがわかるのです。 一巻p269

本田伍長が間宮中尉にノモンハンでは死なないで長生きすることを予言する。運命は前もって知ることではないのですとも述べるが間宮中尉はそのとおり長生きし、抜け殻の人生をおくることになる。本田の遺品を岡田に届ける役割を担う事で間宮と岡田は出会い、岡田は間宮の業を引き受けるきっかけをつくる。

気がつくと僕は暗闇の中で虫の羽音に似たぶうううんという低い単調な唸りを耳にしている。・・・その波長は短波放送のチューニングがちょっと高くなったり低くなったりするみたいに微妙に変化した。 3巻p391

虫の羽音に似た音はかつて私も身近に見聞したことがある。異界に近づくときに聞こえるようだ。

至福体験

私は自分が圧倒的な光に包まれていることを知りました。・・・この見事な光の至福のなかでなら死んでもいいと思いました。いや、死にたいと思いました。そこにあるのは、今なにかがここで見事に一つになったという感覚でした。圧倒的なまでの一体感です。そうだ、人生の真の意義とはこの何十秒かだけ続く光の中に存在するのだ  一巻p298

間宮中尉が井戸の中で太陽の光をあびる。光との一体感は宇宙との一体感でもある。「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャが大地にひれ伏して感じる一体感と同じように思えるがしかしその後の人生が虚しいことを強調する。

私はあの井戸の底の、一日のうちに十秒か十五秒だけ射しこんでくる強烈な光のなかで、生命の核のようなものをすっかり焼きつくしてしまったような気がするのです。 一巻p305

2006年 カンボジアの旅(4月4日~6日)(第2版)

私には、誰かを愛するということはどういうことなのかが、わからなくなってしまったのです。 一巻p306

日本に戻ってきてから、私はずっと抜け殻のように生きておりました。そして抜け殻のようにしていくら長く生きたところで、それは本当に生きたことにはならんのです。 一巻p307

 そしてそこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐに下りていけたのではないでしょうか。 2巻P66

それは私になにか恩寵のようなものを与えようとしているのです。・・・その光のなかにある何かの姿を見極められない苦しみでした。 2巻P66

でも、それはむしろ呪いに近いものだったのです。私は死なないのではなく、死ねないのです。・・・おそらく、その啓示なり恩寵なりの発する熱が、私という人間の生命の核を焼き切っていたのです。 2巻P67

人生というものは、その渦中にある人々が考えているよりはずっと限定されたものなのです。・・・そしてもしそこに示された啓示を摑み取ることに失敗してしまったら、そこには二度目の機会と言うのは存在しないのです。 2巻P68

啓示

 間宮中尉は啓示を摑み取ることに失敗しており、岡田は同様の体験から啓示を摑み取ることに成功する。間宮中尉が岡田にやり直しを物語として暗黙の裡に委託している。本田伍長が間宮中尉に遺品として空箱を預けたのは間宮中尉が岡田に話をする機会を与えただけで、しかしこうすることで岡田を救うことになる。

これだけはいえる。少なくとも僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある。 2巻P355

間宮中尉は何を啓示として受け取るべきであったのか、そして岡田はプールでの体験から、絶望的な状況から探し求めるべきものをついに見出す。

それは信仰告白のようなものである。自分が闇をそのまま受け入れようとしていることを僕は彼らに向かって示しているのだ。 3巻p99

そしてまた私は、ロシア人将校とモンゴル人による地獄のような皮はぎの光景を目撃し、そのあとモンゴルの深い井戸の底に落とされ、あの奇妙な鮮烈な光の中で生きる情熱をひとかけら残らず失ってしまっていたのです。そのような人間にどうして思想や政治などというものが信じられるでしょう。 3巻p371

岡田と間宮中尉の体験は似ているが「闇をそのまま受け入れようとしている」点が決定的に異なる。一般的には鮮烈な光は恩寵に通じると思いたいのだが、間宮中尉は生きる情熱を失うのは、闇をそのまま受け入れなかったからか。

結局のところ、僕はこうして井戸をよみがえらせ、そのよみがえりの中に死んでいくのだ。そんなに悪い死に方ではない。 3巻p460

間宮中尉は本田老人の予言により死を受容できなかったが、岡田は闇と死を受容している。

あざが消えているのだ。3巻p479

岡田のあざが消えることは業からの脱却を意味する。

綿谷ノボルはより洗練された新しい仮面を手に入れたのだ。 2巻p47

僕はあなたのつるつるとしたテレビ向き世間向きの仮面の下にあるもののことを、よくしっている。 2巻p57

綿谷ノボルは悪の化身、邪悪のかたまりなのだが「ねじまき鳥」とも同根である。「カラマーゾフの兄弟」にも悪がなければ人生は進まず「長い祈りとかしてしまいます」とある。

たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ 2巻P310

岡田の叔父が岡田に簡単なことから初めて、それに時間をかけることを勧める。しかし「復讐」の意味が岡田にわからない。悪に対する復讐。

ねじまき鳥さんはたぶんクミコさんのために闘いながら、それと同時に、結果的に他のいろんな人のためにも闘っているんじゃないのかなって 2巻P344

予言と呪いの力によって、誰をも愛することなく、又誰からも愛されることのないものです。 3巻p416

間宮中尉は本田伍長の予言と皮はぎボリスの呪いによって愛と無縁の人生をおくってきた。予言も呪いもなにか共通したものを持っている。

妊娠したことが君のなかにあった潜在的な何かを刺激して呼び覚ましたのかもしれない。そして綿谷ノボルはそれが君に起こるのをじっと待っていたんだろうな。彼はおそらくそのようなかたちでしか女性と性的にコミットできないからだ。だからこそその傾向が表面にでてきた君を、僕の側から自分の側に強引に取り戻そうとした。・・・かつてお姉さんが果たしていた役割の継承を、綿谷ノボルは君に求めていたんだ。 3巻p444

悪の継承を望んでクミコを囲い込み、不必要になったクミコを岡田に帰そうとする。なぜ不必要になったのかは不明のままだが、綿谷には汚すことに意味があり、いったん貶めたものには既に価値がないと言う事か。あるいはクミコのお腹の子どもを堕胎したことで綿谷の悪の継承の望みが消え、次なるターゲットを選ぼうとしたのか。「1Q84」のリーダーは娘と交わり悪を継承しようとし、途中でターゲットを変えるが、それを彷彿とさせる。

それでは本当の私とはいったいどの私なのでしょう。 3巻p484

これはクミコの手紙の台詞。クミコは悪の通路になる遺伝子を持っている。通路から悪が出てくるときに別の私になる。それが綿谷家の遺伝子に伝わる。

あの猫は私とあなたとのあいだに生じた善いしるしのようなものだったのだと、私は思っています。わたしたちはあのときに猫を失うべきではなかったのですね。 3巻p486

猫はクミコが悪の通路になることを防いでいた。その猫がいなくなるとクミコの悪の通路が発現する。猫が返ってきて通路がふさがれる兆しが現れる。

千葉

でも電車に乗ってその千葉県の小さな町にいって、そして又電車に乗って帰ってくるあいだに、僕はある意味では別の人格に変わってしまっていた。 2巻P118

旭川、札幌とともに千葉もこの作品では重要で、岡田は千葉から帰って変化する。「1Q84」でも猫の町であり異界に接する街になっている。作者が何故千葉に思いを仮託するのかは明示されないで謎のまま。

ドッペルゲンガー

少年がそこでみたのは少年自身の姿だったからだ。 3巻p144

シナモン(と作者は書いていないが)が5歳の時にした不思議な体験。背の高い男が地面に埋めるものはシナモンが11歳のときに父が殺されてひきだされた臓物(心臓、腎臓など)と同じ。あえてこの思わせぶりな叙述で何を言いたかったのかはまだ謎だ。母親が語った物語の中から出てきたものを少年が見たということだろう。「その物語から出てきたものが彼の舌を奪ってもっていってしまったのよ。そしてそれが、その数年後に私の夫を殺すことになった。」 3巻p185

少年自身の姿をみること(ドッペルゲンガー)が少年から言葉を奪ったらしいのだが、何を暗示するのかは不明なまま。

物語からでてきたものが舌を奪ったり、ナツメグの夫を殺したりする。物語には呪力が潜んでいると言いたいのだろう。1Q84は物語が天吾と青豆の運命を運び、「海辺のカフカ」では絵がカフカの運命を運ぶ。

まるで「お母さん」という言葉そのものが世界から消え失せてしまったみたいに。でも消えたのが言葉ではないことに少年はやがて気づく。 3巻p146

これも同様で「物語」が少年から言葉を奪う。

別の扉と物語

そしてその頬にあざのある獣医は、回転扉のべつの仕切りにはいったまま心ならずも満州国と運命をともにすることになった。 3巻p133

獣医はその後シベリアに送られて坑内の出水で死ぬ。縦穴の坑内は井戸に似ている。獣医も岡田も運命には受け身だ。岡田は獣医の転生(あるいは業を引き継いでいる)だから、獣医の娘である赤坂ナツメグが痣を目印に見抜いて岡田の土地購入を金銭面で助ける。

彼はそれを自分がまだ生まれる前に遡って探索していたに違いない。・・・それは事実は真実ではないかもしれないし、真実は事実ではないかもしれないということだ。 3巻p331

彼にとって祖父が何をしたかではなくて、なにをしたはずかなのだ。そして彼がその話を有効に物語るとき、彼は同時にそれを知ることになる。 3巻p332

「話を有効に物語る」とは「なにをしたはずであるか」を語ることで、それによって救いを与える。これは村上作品に共通する物語の定義ともいうべきテーマ。

 

 追記 2015年1月18日

村上春樹がなぜオカルトに興味がないと述べたか。次のwiki記述がこれに対する答えになりそうだ。彼は世間の目でキワモノとして扱われる対象としてのオカルトに興味がないと言っている。不思議な現象はオカルトでもなんでもない。人間の心の底にある現実なのだと言いたいのだ。

この語は、ヨーロッパにおいては、論敵にレッテルを貼るために使われてきた歴史を持つ。特に、正統派を自認している側から、そうではない側をこの名称で呼ぶことが行われた。ただし、その正統派が誰なのかという点は時代とともに変遷する。by wiki

 

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