まさおレポート

恩師を想いながら四天王寺を散策する

所要で大阪に向かったが9時過ぎに着いてしまったのでさて時間までどこに行ってみようかと思いを巡らせると四天王寺が浮かんだ。小学校時代の恩師である滝口先生の著「記憶の風景」が頭をよぎったからだ。滝口先生はこのなかで「明日を観た人」と一章を設けて厩戸王子のことを書いている。「明日を観た人」で等身大の聖徳太子をみようとして比較的長い文章を書いておられる。その中に描かれていることをこの眼で眺めてみようと思い立った、時間ならたっぷりとあると谷町線に乗り込み一路四天王寺夕陽丘前で降り立ち、短い参道を抜けると広大な四天王寺に着いた。

いかにも大阪の寺らしいな、XX供養一体50万円などの看板が目立ちすぎ、厩戸王子もくしゃみをしそうだな、五重塔もコンクリートで風情がない、たまたま消防訓練を行っていてハンドスピーカをくちにあてた僧が訓練を指揮しているがもっと実践的な訓練でないといくらコンクリートづくりとはいえ真剣さが見て取れない、などとやや批判的な眼で見て回る。どこかに「明日を観た人」の影響があるのだろう。

だがこの中庭の砂利はシンプルであるが清潔で、なによりも厩戸の精神性を表していて和を感じる。

厩戸は崇仏、それにしても厩戸は中国に対して毅然とした態度をとっていて単なる外国崇拝だけではない、法華義疏にたいする自らのコメント書き込みなどからも自らの見識をもった人であることがわかる。

シルエットが中庭の砂庭に映る。後の枯山水ではない砂だけの、筋を装飾としたシンプルな庭で、当時の日本の美意識を残していると感じた。

それにしても厩戸王子は聖徳太子として1万円札に使われ強く記憶に残っているが、最近は厩戸王子であり、教科書にも既述の変化があるらしい。「聖徳太子」「厩戸皇子」「聖徳太子(厩戸皇子)」「厩戸皇子(聖徳太子)」と四種の既述が存在することが揺れを表している。

 金堂の救世観音像を拝する。一見すると救世観音像は百済顔だがよくみると日本人の顔立ちだ。筆者の知人やご近所にもこの種のお顔を見ることができる。「きばった顔したはりますな」と滝口先生は記している。広隆寺のいかにも優しい慈悲を体現した弥勒菩薩像が比較の対象になっている。

滝口先生の著「記憶の風景」の「明日を観た人」は原稿用紙400枚近いエッセイで、「聖徳太子」ではなく「厩戸皇子」の本質を梅原猛説などを否定しながら、自らの仏教感も交えて語りかけてくる。

世間虚仮 唯仏是真を世間の常識と人の心は虚仮・虚妄・嘘・欺瞞に満ちており、真実は無い。ただ、仏の教えのみが真実であるとする解釈と、厩戸皇子が諦観に収まったとする考え方にも疑問を投げかけている。虚仮という言葉を誤解しているのではないかと考えてしまった。これについてはいずれ改めて書きたい。

厩戸皇子は救世観音菩薩の生まれ変わりだと書いてしまうと熟達した教師の書くエッセイにならないのであえて記述せず、その周辺を記述しながら思いに迫ったのだと感じた。


世間虚仮は実はポジティブな視点ではないか

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