2年以上前の話になるが、あるビラのプールサイドでたまに見かけて話を交わした、ジャカルタからやってきたというその女性は推定年齢30代後半で、両腕の手首から肘にかけて輪切り状の切り傷の跡が一面についている。私はジャクジーにつかりながら、くこの傷痕が気になっている。半年前にバイクに乗っているときに追突されて大けがをおったと話していたのでそのときの擦り傷かとも思ったが、擦り傷ならこんなおびただしい輪切り風傷痕にはならない。
数日たったある日もビラ滞在のドイツ人の知人と一緒にジャクージで歓談していると、その女性が再びやってきて同じジャクージに浸かった。今度は三人で世間話をして、しばらくしてその女性はジャクージから上がり、部屋に帰った。そのドイツ人の知人は「すざましいアームカッティングだね」とつぶやくように言った。私は驚いた。そうかあれはアームカッティングの後なのかと改めて知ってドイツ人の観察眼に驚いた。あるいはこのドイツ人のまわりに、同じような傷痕をもつアームカッティングの知り合いがいるのかもしれないが。
リストカッティングならその意味は知っている。しかしアームカッティングは一体何のためにするのか、よくわからない。そのドイツ人に尋ねると、ドラッグと同じ効果があるらしい。切ると血が出て痛むがそのうち痛みに対してアドレナリンだかドーパミンだかの脳内麻薬物質が分泌され、多幸感に浸れるのだと説明してくれた。薬を買う金の無い連中がやるのだとも付け加えた。
「カラマゾフの兄弟」で自分に鞭打つ男の話を思い出す。ダンブラウンの「ダビンチ・コード」でも自らの背中に鞭打つ男が描かれている。宗教的マゾだとは理解していたが、その後に深い多幸感があるとまでは考えが及ばなかった。そうするとマゾも特別な人の嗜好ではなく、人類誰でもがそうなりえる可能性を持っていることになる。苦痛が快楽に替わるという、対極にあるものが一挙に転換するという不思議が起きる。悪臭も極限まで薄めると芳香になる。親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」なども、対極で転換する例のひとつかもしれないとふと思う。
アームカッティングの痕は白くなっている。インドネシア人の褐色の肌に白い傷痕は目立つ。単なるジャンキーと同じなのか、あるいは耐え切れない精神的苦痛から逃げるための行いなのか、あるいは双方が相まっての行為なのか、その背後にある人生までは見えない。ドイツ人は「あんなことをする連中は幼児期に問題があり、精神的に未熟なのだ」と最後に単純明解に断定した。