「信じない人のための<法華経>講座」を以前に読みメモをブログに掲載した。ついで「ほんとうの法華経」植木雅俊を読み、今日は図書館で法華経 梵漢和対照・現代語訳を読んだというより眺めてみた。途中には立川武蔵の空の思想をよみ宮元啓一の一連の著作も読んだ。おそらく10数年かかって読んできたことになる。ぼんやりとそれらが結び付いてきた気がする。
「ほんとうの法華経」植木雅俊では法華経が編纂された時点でそれまで考え出された仏について、あれはすべて私(釈迦)だったとうちあける。つまり法華経の前半では三乗の教えを一仏乗によって統一、後半、宝塔出現の際に十方の分身の諸仏が招集され空間的に諸仏を統一し寿量品で過去の諸仏を時間的に統一し集大成している。
三乗とは声聞、縁覚、菩薩のことで小乗では声聞、縁覚を是とし大乗では菩薩を是としてお互いに避難し差別しあっていた。法華経では大乗の菩薩を超えた菩薩をたてて声聞、縁覚、菩薩を止揚した。大乗の菩薩を超えた菩薩が本来の釈迦の教えということになる。
一旦は完成した仏になるがしかし娑婆世界にもどってくるのが大乗の菩薩を超えた菩薩ということになる。植木氏は法華経 梵漢和対照・現代語訳のあとがきでこの点を力説している。
釈迦滅後に思想が硬直化し出家が在家や女性を差別をし始めた時代、さらに小乗と大乗が互いに罵り合いを始めた時代に釈迦に戻れと法華経が生まれたというのはとても新鮮で納得がいく。立川氏も時節ということが大事だと述べていたが現代はキリスト教、ムスリム、仏教、ヒンドゥ教が原因で互いに血を流す。止揚する思想が求められているが法華経はその核になり得るのではないか。植木氏は法華経 梵漢和対照・現代語訳を時節として書いているそう思った。
空を体験したものが空には長くいることができずに再び戻ってくると立川武蔵は述べているがまさしく大乗の菩薩を超えた菩薩と一致する。キリスト教、ムスリム、仏教、ヒンドゥ教で開示悟入したとしてやはりその場には長くとどまれまい。娑婆にかえってきたら何をするか、止揚した思想で宗教間の争いを諫めるだろう。いまだそういう人が出てこないということは大乗の菩薩を超えた菩薩の出現がいかに困難かを示している。
植木氏は常不軽菩薩を「常に軽んじないのに、常に軽んじられていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」と訳している。石を投げられているあの図の菩薩だが大乗の菩薩を超えた菩薩の出現のありようをよく説明している。ついでながらこの植木氏は大学時代に悩み鬱まで患ったとある。つらい経験の中から救いを求めるために法華経を研究してきたという、わたしなどそれだけで信頼のおける著作と思ってしまう。
遠藤周作もこの常不軽菩薩を作品にしょっちゅう登場させていた。ガストンさんなどは常不軽菩薩そのものだ。宮沢賢治のデクノボウも同列に連なるだろう。つまり常不軽菩薩は現代風には一見かっこよくないのだ、市井にひっそりと存在しているのだが注目されないしメディアにもでてこない。