松岡正剛の千夜千冊1300夜で梵漢和対照・現代語訳 法華経|上・下を取り上げ、その中で次のことを記している。長い間「ドストエフスキーが常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはず」と。
もしもドストエフスキー(950夜)やトーマス・マン(316夜)が常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る(なぜ日本文学はこの問題をかかえないのだろうか)。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は作者自らアリョーシャの伝記小説だと宣言している。アリョーシャは、いったいどこが優れているのかは「たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです」(p9原訳)と述べ、また、「奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」(原訳)と書き、アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出す。「誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年」は当時も今も十分に奇人なのだ。奇人アリョーシャにドストエフスキーの宗教観を託していることがわかる。(ドミトリーもイワンも、さらにスメルジャコフもフョードルも奇人だが)
アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出すドストエフスキーは常不軽菩薩が、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言ったことは知らずに同じキャラクターを主人公に置く。
常不軽菩薩は、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言った。すると人々はその言葉に怒り出して、「この無智の坊主め、どこから来たって『私はあなた達を軽んじません。』われらがためにまさにみ仏になるでしょうと嘘そらごとを言うのだ。
お前みたいな坊主がそんなに言ったからといってどうしてありがたかろう」と罵られ、杖で追い払い、瓦や石をもって殴りかかってきた。菩薩はその場をにげては、遠くから大声で「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじません。あなた達はみんな仏になるでしょう」と叫んだというのである。
なるほどアリョーシャは常不軽菩薩だったのか。