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まさおレポート

草創期のNTTデータ4 開発風景 4979文字

 

 

横浜バンキングシステムはアセンブリ言語で緻密なプログラミングはできるが高級言語ではないため開発効率は低い。ニモニックコードと呼ばれる命令部分とオペランドと呼ばれる演算レジスターの指定を行う部分、それにコメント部分からなっていた。外注するとオンラインプログラムの場合、たしか1ステップ1万円が相場ではなかったか。当時の内蔵記憶容量=キャッシュメモリーは256K語程度でその中にプログラムを詰め込む工夫をするにはうってつけであった。 

当時のCPU処理能力は現在のパソコンの1000分の一でプログラムの組み立て次第では処理速度に大きな違いがでた。先輩のプログラムを再度フローチャートに起こしてプログラミングのコツを学んだ。

羽箒は消しゴムで消したカスを原稿から払うのに使う。当時全員がこの羽箒を使っていた。本物の鳥の羽を使っているが何の鳥かはわからない。形からするとかなり大型の鳥でしっかりとした羽だった、今から推測するにカラスかもしれない。

半透明の設計用紙にシャープペンシルで仕様書やチャートを書きこんでいく。仕様書はA4版、チャートはB3版用紙で書いたかかな。半透明の用紙は青焼きと呼ばれるジアゾ感光で焼きやすくするため。新入りの時代はこの青焼きが仕事の半分をしめた気がする。そのうち一人前の仕事を任されるに従って他人のコピー焼き作業は無くなった。

疲れるとひとときこの箒で頬を撫でたりした。まだタバコの味を覚える前の話だ。この羽箒をネットで見つけて思った、この当時を象徴するものといえばこの羽箒かもしれない。職場のあったビルの思い出とともにこの羽箒も付け加えておきたい。文具の主役がワープロやPCに移っていくのはその後10年もあとのことだ。

出来上がったプログラムを紙カードに鑽孔=パンチして穴を開け、カード読み取り機で読み取り、磁気テープに記録するといった、一連の作業を覚えなければならない。磁気テープのセッティングの仕方さえ最初はわからないので先輩に教えてもらう日々が続いた。

その合間に磁気ディスクの清掃もある。30センチ定規に清掃紙を巻いてディスクの合間に差込んでごみを取り除くのだ。当時の磁気ディスクは15kg程度と重く容量は30MBしかない。

今ではフローチャートは細かい範囲の処理の順序と分岐の条件を整理してくれるだけであり、同じ時間でC言語で記述できてしまうとして作成に懐疑的な意見が多いようだが当時はフローチャートの作成が必須で一命令ずつ書いている人もいれば、処理の内容ごとにおおまかに書く人もいた。

横浜の桜木町に横浜銀行事務センターがあり、その一角にシステム開発事務所とコンピュータ室があった。開発事務所の窓からは横浜港が広がっていて港湾作業のクレーンが林立しているのが見えた。

ある日、机から頭をあげて港の方を眺めて目を休ませているとおおきな爆発音とともに巨大タンカーから白い煙が空高く上がった。船倉の積み荷が清掃中になにかと化合して大爆発を起こしたものだった。これほど大きな爆発を目の前にしたのは後にも先にもこのときのみだ。

コーディングの次は紙カードに電動タイプライター様のもので穴を開ける。紙カードを読み取り機にセットして磁気テープに読み込ませるとばらばらという音を立てて読み込まれていく。

次にアセンブルコンパイラにかけて機械語に変換する。この段階でコーディングの文法ミスをラインプリンターに打ち出してくれる。文法ミスがなくなるまで紙カードを打ち直して部分的に修整していき、最終的に完了コードがでるまで繰り返す。完了コードが出たかどうかは最後のラインプリンターの音が短いのですぐにわかった。この完了コードがでるとほっとしてちょっとした達成感があった。

当時のラインプリンターはダダダダと打ち出すときに猛烈な音がした。一箇所のミスを発見するために30センチ程度のプリンタ用紙1箱を使い切る打ち出しも珍しくない。今から見ると大変な紙資源の浪費時代でもあった。デバッグのためにコンピュータ割り当て時間をもらえるのは夜遅くか深夜が多かったので勢い寝不足になる。

当時一匹狼型の派遣プログラマー(開発の応援に富士通経由で協力会社の派遣社員が2,3名参加していた)過酷な残業をものともせず、職員に比べてかなり高給(倍程度)をとっていたと記憶している。彼らの剛の者はこの猛烈な打ち出し音の中でも短時間眠れるタフなものもいた。見終わったプリンタ用紙1箱に赤いマジックインキで大きく焼却と書き処分するのだがあまりに大量なので重労働であった。

文法ミスのなくなったプログラムを走行させてデバッグ作業に移るために、FACOM230-60系列ではLIED処理と呼ばれるアドレスのリンケージ処理を行う。この処理を終えたプログラムをコンピュータ上で走行させることになる。いよいよ本格的なデバッグなのだが、これが一筋縄では動いてくれない。

コンピュータをテストモードに立ち上げるだけでもかなりの時間を要する。コンソール上のプリンターから延々と処理過程が打ち出され、4,5分もかかってようやく立ち上げが終わる。その後に走行テストとなるのだが、おいそれと走ってくれない。すぐにABORT(異常終了)する。ABORTは今から見れば不適切な用語だと思うが当時はもっぱらこれが使われていた。エラーコードを頼りに原因を探すのだが、限られた時間の中で簡単に見つかればよいが、さっぱり原因がわからないことのほうが多い。特に深夜など一人で作業しているので先輩に尋ねるわけにも行かない。ほんのちょっとしたことでも知らないとにっちもさっちもいかなくなる。そんなときは絶望的な気分で孤独な試行錯誤を延々と繰り返すことになる。少し前の先輩に聞くと走行中にCPUを止めて機械語をスイッチで設定して走行させるといったデバッグもあったという。

1965年5月に稼働を始めた三井銀行では20万ステップの開発を行った。現在では大手銀の勘定系システムは5000万ステップを超え、みずほ銀行では勘定系だけで1億ステップを超える。横浜銀行ではどの程度のステップ数だったのだろう。残念ながら記憶にないが当時の仲間に聞いてみるとほぼ同程度ではないかとの答えであった。開発要員はNTTデ本だけで40名強総勢でも100名程度だった。

みずほ銀行システムでは最大8000人の開発要員、6000人を投じた三菱東京UFJ銀行のシステム統合プロジェクト「Day2」など規模の点では比較にならないが現在では高級言語を使用しているので単純な開発規模比較はできない。

少々退屈だが当時の開発マシンやコンピュータ室にも触れておく。

富士通製FACOM 230-60 FACOM 230-60はICを採用した大型汎用マルチプロセッサ(2CPU)方式コンピュータで1968年3月に完成した。FACOM230-50に比べ最大10倍の性能を有しオンライン機能が強化された。最大256KBメモリと最大768KBの磁気ドラムを採用し,演算速度は固定小数点加減算1.26μs 。130台以上が出荷された。情報処理学会 コンピュータミューゼアムより引用http://museum.ipsj.or.jp/computer/main/0016.html

コンピュータ室 7メートルごとに巨大な柱が立っている。柱と柱の間隔をスパンと呼ぶが映像では三スパン程度が写っている。当時のコンピュータ室を記憶で補うとコンピュータ室全体は6ないし7スパンの正方形で2000平米程度はあっただろう。天井には直径80センチほどの円形をした空調用口が開いている。室の中央辺りにはコンソールが2台並び、その前方には磁気テープが9台設置されている。紙カード読み取り装置が中央に置かれ、その向かいには紙カードさん孔装置が2台置かれている。

3.5メートルの高さの天井には蛍光灯ケースがずらりと列をなして並ぶ。部屋の置くには巨大な空調設備が見える。床面は30センチ四方のフリーアクセス床板が敷かれている。コンピュータ室特有の臭いが今でも思い出される。

人の高さほどの中央処理装置の前面パネルの上方は演算を表示する緑色の小さなランプが並び猛烈な速さで点滅を繰り返している。このコンピュータ操作パネルの前で、一度同僚の肩を何気なく押したら同僚がよろめいて操作スイッチに触れ、CPUが止まってしまったことがある。実際に運用中であったために銀行業務も止まってしまった。再立ち上げで事なきを得たが、後で大目玉を食らったことは言うまでもない。

1970年代初頭つまり30数年前はシステム開発チームが設備の設計まで行っていたケースもある。スタッフの中の設備関連の専門家が中央演算装置を始めとして磁気テープ・磁気ドラム・集合磁気ディスク装置・空調装置・カード鑽孔装置・カード読取装置・などの仕様書を元に縮尺を厳密に設定したミニチュアサイズのボール紙を切り取り、それを大きな模造紙に貼り付けて設備の配置を決めていた。

当然のことだが現在はそういった業務は分業化されている。あるいは請負会社が実施するだろう。もっともこの当時もプロジェクトリーダの判断で外注あるいはメーカに依頼していたチームのほうが多かった。当時のボス平塚清士は特にハードや設営にひときわ思い入れが深いのでそうなったのかもしれない。

50*50メートル程度はあった広大なコンピュータ室のフロアにフリーアクセス(どの床部分も開閉できる構造)が施工された後、その下に太い電源ケーブルや信号線の太いケーブル等を引き込む工事を平塚清士チーム自ら行ったという伝説的な話もある。暑いさなかで全員が汗みどろになりながらやり遂げたと聞いた。

専門業者に任せるのがごく一般的であり効率も精度もいいに違いないが建設工事を部下にあえて施工させるところに戦前・戦中の日本人技術者の心意気と精神性=思い入れを示したかったのだ。

平塚清士はソフト開発には若いスタッフに仕事をすべて任せていたが、ハードに関しては時折口をはさむことがあった。

「分からなくても何時間も機械をながめていれば必ず機械の方から語りかけてくれる」

やや時代性を帯びた精神論で進めた失敗談もある。

大型ディスプレイの開発に力を注がれたことを思い出す。銀行の幹部会議は出席者全員が大型ディスプレイを見ながら最新の経営状況をリアルタイムで共有しながら進めるという発想であった。今では当たり前のことであるが、そのころそこまで進んだ企業はなかったのではないか。それを成功させるためには、銀行側の意識、データを収集し、経営情報に加工するノウハウ、図表でディスプレイするためのハードウェア技術、ソフトウェア技術がすべてそろっている必要がある。しかし、当時はそのどれをとってもまだまだ未成熟であった。平塚さんの熱意は十二分であったが、電光表示式のディスプレイが強引すぎたし、またかなりハードウェア志向が強すぎたのでうまくいかなかったのだと思う。そして何より平塚さんの新しい画期的な発想が銀行にも、プロジェクトメンバーにも、富士通にも通じていなかったのだと思う。(寄稿文より)

1972年2月19日連合赤軍残党と警察との攻防をテレビでみたことも記憶から離れない。職場の誰もが気になり銀行の行員食堂で「浅間山荘立て籠もり事件」を仕事の合間に見ていた。リアルタイムの銃撃戦や丸い巨大なコンクリート玉をぶつけての山荘の取り壊しに目が離せなかった。そんな光景を横目にみながらの開発風景であった。

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