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まさおレポート

因果と縁 わかったようでわからない。フィルター能力とは

拙ブログ「因果と縁 わかったようでわからない。」で次のように記した。

人の思考にはフィルター能力が自動で働き、プロットでありパワーポイント的なもののみを抽出する。たしかショーペンハウアーは空間と時間も人のフィルター作用の結果だと述べていた。

ここでフィルター能力とはなんだろうかと少し掘り下げてみる。(あるいは愚考かもしれないが。)

たしかにわれわれの前にはただ無だけが残っている。しかしこのように無に帰してしまうことに抵抗するものがあり、これがわれわれの本姓なのだが、またこれこそはほかならぬ生きんとする意志である。・・・われわれがこれほどにも無を嫌悪しているということ自体が、われわれが生きんとする個の意志以外の何者でもなく、個の意志のほかにはなにも知っていないということを、別様に言い換えていることにほかならない。http://dekansho.net/dekanshode/waw.htm よりショーペンハウアーを引用。

「個の意志」がつまりフィルターをかけているということだろう。そして「個の意志」が死を嫌悪させる。つまり「個の意志」は無明ということを述べている。

我々がそもそも意志するということが、我々の不幸なのだ。http://dekansho.net/dekanshode/waw.htm よりショーペンハウアーを引用。

「個の意志」が死を嫌悪させる。つまり無明が死を嫌悪させるが死は誰もがのがれることはできない。だから 我々がそもそも意志するということが、我々の不幸なのだとなる。仏陀の四苦八苦とおなじことを哲学的に述べている。「個の意志」そのものがつまりフィルターの役割を果たしている。この「個の意志」から脱却しないと真の安穏はないと言っている。

関数で言えばy=f(x)が因果でy=f(x1)+f(x2)+・・・f(x∞)が縁だと記したが実はy=f(x1)+f(x2)+・・・f(x∞)ではなく

y(human)=f(human)(x1)+f(human)(x2)+・・・f(human)(x∞)であり

解脱したものからは

y(mokṣa)=0となるのではないか。

これでは究極のペシミズムとなる。なんだかプロテスタントみたいだ。

そこでこれではいかんとy(mokṣa)=0から帰還した後の世界の見え方をy(bodhisattva)=f(bodhisattva)(x1)+f(bodhisattva)(x2)+・・・f(bodhisattva)(x∞)

としたのが大乗や法華経が勃興した理由との理解だが果たしてどこまで迫れたものやら。

因果と縁 わかったようでわからない。

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