紀野一義は色即是空を学問的ではなく人に役立つ知恵として考える。色は迷いで空は迷いのない世界だが突き詰めていくと
本当は迷いもなく迷いが無くなることも無いという。仏教独特の言い方をする。あると言えばある、ないといえば無いとしか言えない。この理解は説明されてわかるものでもないので皆さんでそれぞれ考えて下さいと。
それを空即是色というと。
悟りもなければ迷いもない。叡智と無明この二つが人間を動かしている。無明があるから人間は生きている。無明の方が面白いとおよそ大胆なことを述べる。
無明はない、また無明の無くなることはないことは「人間は生きている限り迷うものだ」ファウストで18歳の時にわかった。
気に入った 気が滅入る 気が合う 気が抜ける 気まぐれ 気おくれ 気になる 気が散る 気がふれる 気がかりと気について考えさせ、心と気は違うものだと。
気は末那識で迷いの元で意=心という六識のさらに一段深いところで働く自我意識。
心が散るとはいわない。無明と気の流れは関係があるのではと考えている。(氏が44歳の頃の見解)
迷いが無くなると人は死ななければならない。人間は無明=迷いを利用してこれを楽しみながら生きていく。仏教者は無明を避けようとするがそうではないと。
食欲は無明だが楽しいもので氏は食べることは大好きだと言う。おばあさんの汚い店で1300円でおごってもらったジャガイモとベーコンや酢漬けにしんがうまかったことなどで堂々と食欲は楽しむものだと。
小さいもので人生がひっくり返る例として孔子は奥さんが料理下手で離縁したことを挙げる。ささいな無明で人生は変わる。
食べることを例示として無明は暗い方ばっかりではおかしいと再度述べている。
色即是空で一旦は空の世界に行くがそれがわかったら空即是色で色に帰り人生を楽しめばよいと理解した。立川武蔵氏の述べているところと同じだ。
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