まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

紀野一義49 日蓮上人 1

2022-01-22 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義氏の講演メモ(youtube)です。


氏は一匹狼が好きだから山本周五郎が好きだと。山本周五郎は文壇の一匹狼で組織に属する恩恵を拒否する生き方を貫いた。

日蓮上人も一匹狼だと思う。

日蓮上人に対して温かい目で、わたしたちと同じ生きている人間として見ていかなければならない。(これはおそらく聴講の人々が念仏者が多かったためと思われる)

日蓮上人承久4年小湊に生まれている。当時の傑僧の中では例外的に日蓮上人の父母は長命です。

12歳で清澄寺に入り16歳まで仏教の勉強をした。16歳で出家して弁長とい名を。16歳で鎌倉へ出てきていろんな宗派の勉強をされた。21歳になって比叡山に登り天台の学問を。32歳の時に旭が森で南無妙法蓮華経を唱えられた。建長5年4月28日のことです。

6年5月に松葉が谷に方庵を構えて日昭が最初の弟子となる。日昭は元は天台学僧で日蓮上人より年上の人だ。日蓮上人は日昭に言い聞かせる。「お前は助けに来るな、一緒に死んでは後を継ぐ人がいない」と。後継者ができてから初めて日蓮上人自らは大勢のなかで説法を始める。

氏は言う。日蓮上人は感情的ではなく先を読んで行動を起こしている。そうでなかったらあれだけ迫害されていて三度も命を狙われる難に逢い命を全うすることは出来なかっただろう。運がいいお方だが、運だけではああいう生き方はつらぬけなかったと。

当時は天変地変が各地で起きていた。幕府が無策であったので「立正安国論」を表し宿屋左衛門尉光則を通じて執権北条時頼に提出した。

宿屋左衛門尉は今でいえば警視総監みたいな役職だった。

「立正安国論」の建白を漏れ聞いた当時の坊さんたちは大騒ぎになった。極楽寺の良寛は非常に優れた坊さんだったが日蓮上人に目の敵にされた。北条の重臣の奥方がみな帰依していたので女の恨みは恐ろしい。随分しなくてもよい損をしていらっしゃる。

わたしは極楽寺の良寛に対する配慮も氏の仏教観が色濃く出ているところで非常に大事な点だと思う。日蓮上人を非常に好きで尊敬していると講演でたびたび言及しながらもバランス感覚を持って主張している。

北条時頼はあえて日蓮上人を思うゆえに「立正安国論」の諌暁を黙殺したと氏は述べる。公になるとただでは済まなかったからだ。

日蓮上人は最明寺入道時頼にたいしては鋭い筆を向けてはおりません。立正安国論が僧たちに漏れていて極楽寺重時が焼き討ちをする。39歳のときに初めて難に逢う。

日蓮上人は下総に逃れて数か月後にまた鎌倉に舞い戻ってこられる。

北条泰時の作った貞永式目12か条のかどで日蓮上人は伊豆の伊東に流される。


貞永式目第12条:「悪口(あっこう)の罪について」

 争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。


日蓮上人は伊豆の伊東まな板岩に置いておかれる。満潮になってくると溺れ死ぬ。上原弥三郎という漁師が助ける。そうでないという説もある。

上原弥三郎は日蓮上人から感謝されている。ちょうどこのころ親鸞が90歳で亡くなっている。


「日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につ着きて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひきところに、ねんごろにあたらせ給ひ云云」

「しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生まれかわり給ひて日蓮をたす助け給ふか」


元が日本に侵入してくるという。日蓮上人はどうして知ったか知りませんが。

11通御書を幕府と有名な僧侶に出した。そのために佐渡へ流されることになる。


日蓮が申す事を御用ひなくんば後悔之有るべし。
此の趣きを鎌倉殿・宿屋入道殿・平左衛門尉殿等へ之を進状せしめ候。一処に寄り集まりて御評議有るべし。


幕府は文永8年6月雨乞いの祈祷を極楽寺の良寛坊忍性に頼む。僧140人 応援290人で乞うても雨が降らなかった。日蓮上人がやったら雨が降った。

朝比奈老師が頼まれたとき「ギリギリギャルギャル」とやったがあんまり降らなかったと言われたと。

日蓮がクーデターを準備しているとありもしないことを言って寸足らずのお坊さんが騒ぐ。

平左衛門尉は日蓮がクーデターを準備して刀を隠していると讒言したことは実際にあったらしい。

勧持品で刀を防ぐという法華経そのままの展開になる。日本の柱を倒すのかと呼ばわれ兵はひるんだ。龍ノ口へ曳いて行かれるときに日蓮上人は八幡へ怒鳴りつけた。兵は何もしらない男たちですから彼らを心理的に引っ張りまわす。

稲妻が飛んだとの話もありますがそんなの嘘ですよね。それまで日本の歴史でお坊様を殺した例がない。時間稼ぎをしているうちに北条時宗の赦免状をもった人がきて赦免になり佐渡へ流される。

日蓮上人は日郎への手紙を読んでも実に綿々とした情を持っておられた。手紙が人の心にすーっと入ってくる。もっとも格調が高くて情が深いのは日蓮上人の手紙であると言われている。

とくとくきたり給へ。見たてまつり、見えたてまつらん。恐恐謹言。土籠御書

<iframe style="width: 120px; height: 240px;" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=amazonasomasa-22&language=ja_JP&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=B0BHJB4W65&linkId=431198e753f635a31bf92649deab21de" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" sandbox="allow-popups allow-scripts allow-modals allow-forms allow-same-origin"></iframe>


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。