写真はJAXA相模原キャンパスで特別公開の日に撮影
糸川英夫 30代の初め頃かもしれない。電電公社記念日に日比谷本社で開催された糸川氏の講演を聞きに行ったことがある。隼の開発からペンシルロケット、さらには音響の研究など話は多岐にわたり、10年ごとに仕事を変えてきた、さらにはバレーダンサーになるとも話していて興味を持って聞いた。
糸川氏は泣くことが精神の一番の解毒になると力説していた。悩みやストレスがあると音楽を聴いても絵画を見てもよい、とにかくアートの傑作は感動が込み上げてきて泣ける。
わざとでも、嘘泣きでもよいから泣いてみるとストレスが解消すると。このことが身近に実感できたのはこの話を聞いてから40年後ということになる。若い時に聞いて記憶に残る話はあとで効いてくる。
77歳を超えた糸川氏にはさらに驚くべき後日談があることを次の記事で知った。へえ、そうだったのか。
https://bunshun.jp/articles/-/47352?page=3
骨片の1つを、糸川が愛したイスラエルの地に、もう1つを鹿児島県肝属郡肝付町(旧・内之浦町)に立つ糸川英夫像の礎石の下に埋めた。
49日を迎えて、彼女は看護師たちとともに、糸川が好きだった静岡県伊東市の城ヶ崎海岸に出かけ、早朝の吊り橋の上から散骨した。