カラマーゾフの兄弟 次男イワンの宗教観について
・イワンはもうひとりの主人公か
カラマーゾフの兄弟3人はいずれも個性的で作者は肯定的に奇人と称している。イワンは旧来の教会が主導する神と近代人の理性の相克を克服できない、我々の身につまされる人物として描かれる。競争社会には向かないが聖性にあふれる人物を代表する三男アリョーシャと双璧をなす主人公といってもよい。もう一人の長男ドミトリーはロシアの大地を表現するリアルな人間くさい男を代表する。三人はそれぞれを代表するがリアルな人間としてお互いの面も併せ持つ。
作者自身の救済の意味をこめて、あるいは当時の世相、読者のし好、政体とのおりあいをつけるためにアリョウシャを主人公に置いたが実は作者はこの劇薬のような男イワンも同等の主人公と想定していたのではないか。作中でドストエフスキーはイワンのために別の物語を想定していることをほのめかす。これは作者が相克する多面を持っており、愚劣な親父ヒョードルやスメルジャコフも含めてのそれぞれを自分自身が併せ持つと自覚していたことを示している。
作者ドストエフスキーは自らの信仰と理性ではアリョーシャを主人公にしたかった。しかし自らのリアリズムに従うとイワンを主人公として作品が歩みだす葛藤の中でこの物語を描いたのではないか。作者は冒頭からアリョーシャの物語であると強調している。これは作者の信仰と理性がそうさせている。一方イワンの物語も別の作品として書くつもりであったと記している。なによりイワンや大審問官の人物と迫力がアリョーシャを圧倒している。イワンはもうひとりの主人公ではなく作者のリアリズムがとらえた真の主人公なのだ。
・脳科学を補助線に
左脳、右脳がことなる人格をもつ、さらには免疫機能まで人格をもつという脳科学の事実が複雑なイワンを読み解く補助線になると思う。左脳は理性を司り、イワンの悪魔を出現させる。右脳は直観的であり、イワンに聖性を出現させる。脳梁が二つの脳を結び付け統合する。この脳梁をかつて手術で取り去るロボトミーが行われたが、術後患者の観察によりこの左右の脳は統合ができなくなり、奇妙なふるまいをすることがわかっている。
右脳が支配する左手と左脳が支配する右手がお互いに相反する行動をするためにいつまでも靴の紐を結べない術後患者が観察されている。左脳は散歩にでかけるのが体に良いと考えるが右脳は寒いので外に出たくないためにこうした行動が起きる。イワンは右脳で信仰を必要とし、左脳で神の作った世界に我慢がならない。イワンは理論的知性の経験論では物事の本質は見えてこないことに気が付かなかった。物事の本質は本来は脳梁が左右の脳を統合して見えてくるものだろうがイワンはある理由によってできない。作者はある理由を特に子供時代に必要な、ごくささやかな愛情が欠如しているといいたいのだと私には読める。
人の脳はもっと複雑で右脳、左脳のみならずもっと多くのいまだわかっていない個別の脳を、つまり人格をもつのだろう。多重人格者ビリーミリガンに見られる24の人格はそのことを示している。この左脳、右脳はあくまでも作品を読み解くための補助線であり、便宜上のあてはめであり、人には個別の人格とそれを統合する働きがあるということの例えである。
作者はドミトリーを感情の支配する人として描き、ゾシマ長老やフョードル、スメルジャコフその他多数の個性を登場させ宗教観を中心に複雑な人の有り方を腑分けしながら描こうとする。ドストエフスキーの描き方がポリフォニーと呼ばれるゆえんだろう。作者の抱える多重性を統一したい願いでこの作品を描いたのだがその結果はイワンがドストエフスキーの主たる分身であることを示している。
・神と悪魔あるいは精霊の共存
「カラマーゾフの兄弟」はキリスト教の神をめぐる、兄弟と彼らを取り巻く人々のドラマだが悪魔、訳によっては精霊が登場し、重要な役割をする。
イワンの悪魔がたびたび登場するが、アリョーシャにもゾシマ長老にも悪魔は登場する。カラマーゾフの兄弟にスメルジャコフを入れると全く個性の異なる4兄弟+父親の物語ということになる。しかし「きみたちカラマーゾフ一家の問題と言うのは、女好き(リサに持つ屈折した性壁やグルーシカに対する態度にそれは見て取れる)、金儲け(作品にはアリョーシャの金儲けに関する話は描かれていない)、神がかり(彼の母親と同じ神がかり体質)、この三つに根っこがあるってわけさ」とラキーチンに見透かされるように4兄弟は共通のカラマーゾフ的性格をも併せ持つ。賭博癖に苦しみ借金を繰り返した作者ドストエフスキー自身のことを言っていると考えていいだろう。そして農奴に殺された父から受け継いだ遺伝子も合わせてカラマーゾフ的性格と言っている。つまり作者自身の複雑な人格や宗教観を兄弟にことよせて多面的に描くことになる。
また、アリョーシャが甘いもの好きであり、ゾシマ長老の死体からでる腐臭に動揺する凡人ぶりなど型にはまった神学的優等生ではない描写をリアリズムとして描き出すうちに当初の構想とは拮抗する物語が出来上がっていく。あたかも頭と筆を持つ手が相克するように当初の思惑と結果が作者の意に反して食い違っていく。
・アインシュタインを魅了したもの
アインシュタインはドストエフスキーを愛読していたという。科学の進展で一頭地を抜いた存在のアインシュタインにドストエフスキーの何が魅了したのか。
ドストエフスキーの問いは未解決の問いである。
彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与へてくれる。
アインシュタインも宇宙の調和を物理学で目指すが特殊相対性から一般相対性へとたどり着くがその先には量子力学が広がり彼の調和追及は一筋縄ではいかない。ドストエフスキーの問いは未解決の問いである。これがアインシュタインを魅了したのだろう。
イワンが非ユークリッド的調和を受け入れることを拒否するのはなぜか。
私は大っぴらに自分の絶滅を要求する。奴らは、だめだお前がいなければ何もかもなくなってしまうから生きていろという。もし地上のあらゆるものが理性にかなってしまったら何事もおこりはしまい。出来事はなければならんというわけさ。・・・苦しみがなければ、人生からどんな喜びが見いだせるかね。なにもかもが無限のお勤めに代わってしまうのが落ちだろう。それは神聖かもしれないがいささか退屈というものだ。
わが地球と来たら百万回繰り返してるのかもしれないんだぜ。地球は死に絶え、凍り、罅割れ、粉みじんにくだけ、その構成要素に分解されて、水が再び天空を多い、そして再び彗星が生まれ、再び太陽が生まれ、再び地球が太陽から生まれる この進行はおそらく無限回繰り返される。はなはだ体裁の悪い退屈な営みなんだ
アインシュタインは神はサイコロを振らないと量子力学を終生拒絶した。アインシュタインは非ユークリッド的調和を受け入れないイワンに自分を見ているのかも。(非ユークリッド的調和そのものは受け入れたがゆえに一般相対性が生まれたのだが、ここでは自分の感性に合わないものを受け入れないということのみがポイント)
作者は神と悪魔をセットで取り上げ、それが共存する世界が現実だとリアリズムで考えている。しかし読者に対する反発を避けるためにあからさまに述べるのを避けたとも考えられる。実際は作者自身の両者の相克を表している。
・一粒の麦
この小説のエピグラフがカラマーゾフの兄弟の行動に残響する。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)
登場人物のそれぞれが一粒の麦となり実を結んでいく。
①ゾシマの兄→ゾシマ→アリョーシャ
②アリョーシャの母、ゾシマ→アリョーシャ→イワン、ドミトリー、フョードル、コーリャ
③グルーシェンカ、カテリーナ→ドミトリー
④フョードル→ドミトリー、イワン、アリョーシャ
この実はフョードル→ドミトリー、イワン、アリョーシャのように必ずしも善なる実とは限らない。悪徳の実の遺伝子も伝わっていく点が作者のリアリズムだ。
この一粒の麦のエピグラフからは作者の輪廻感を感じ取ることができる。西洋で輪廻の思想を具体的に述べると一粒の麦のエピグラフとなる。つまり遺伝子的輪廻と解釈するのが合理的に見えるのだろう。このあたりに仏教的輪廻との差を見ることができる。
・両親からの麦
次男イワンが気持ちの上では「父親殺し」を行ったとスメルジャコフに指摘されて動揺し、精神的におかしくなった後で彼の自宅で幻覚をみる。見知らぬ男がイワンの部屋に現れて彼と会話を始める。会話と言うより審問といった方がふさわしい。私も含めて読者は一体何か超常現象でも起きたのかと思いながら読むことになる。この幻覚の中でイワンはスメルジャコフの縊死による自殺を知る。イワンは神がかりの母親から超能力を引き継いでいるようだ。母親の一粒の麦はイワンにも引き継がれている。一粒の麦は肯定的な継承だけではない、否定的にも引き継がれる。
父からはイワンは統合失調症を引き継いだのではないか。見知らぬ男の幻覚を見ることで病気を示唆している。スメルジャコフも統合失調症と深い関係があるてんかん持ちであり、共通の病気は二人がフョードルの血を引いていることが暗示される。
「両親の家庭から、私は大切な思い出だけをたずさえて巣立った。なぜなら、人間にとって、両親の家庭での最初の幼時期の思い出くらい貴重な思い出はないからである。それはほとんどいつもそうなのであって、家庭内にほんのわずかな愛と結びつきさえあれば足りるのである。もっとも劣悪な家庭の生まれであったとしても、大切な思い出というものは、本人の心がそれを探し出す力をもっているならば、心に保たれているものなのである」原訳
しかし、イワンはアリョーシャと同じで、もっとも劣悪な家庭の生まれであったが、アリョーシャが見つけ出した大切な思い出というものは探し出せなかった。このあたりも予定調和を拒むリアリズムが顔を見せる。
・イワンの麦の継承
ことによると、俺にも罪があるかもしれないし、ことによると俺は本当に、親父が……死んでくれることを、ひそかに望んでいたかもしれない。しかし、誓って言うが、俺にはお前が考えているほどの罪はないし、ことによると、全然お前をそそのかしたことにならぬかもしれないんだぞ! そう、そうだとも、俺はそそのかしたりしなかった! しかし、いずれにせよ、俺は明日、法廷で自分のことを証言する。決心したんだ! 何もかも話すんだ、何もかもな」原訳
イワンはスメルジャコフをそそのかしたことを否定するが、実はそそのかしている、つまり負の意味で作者の麦の継承を行っている。イワンとスメルジャコフはその宗教観は同質であり、西洋的教養を備えているといないの差があること、イワンが自立しているのに対してスメルジャコフはイワンに完全に従属していること、スメルジャコフが猫を殺すなどの悪魔性を表に出していることが彼らの行動の違いを生み出す。
イワンがスメルジャコフの縊死を感知するサイキックな現象は二人の同質性とイワンの精神変調それに腹違いの兄弟であることが総合してテレパシー現象を引き起こしたことを示唆しているのだろう。
・無意識と理性の葛藤
悪魔脳と神脳はあたかも脳梁を欠いた右脳左脳のように分裂し相克する。右脳が神をもとめ、左脳が悪魔を求める。
「あの最後の夜、いったい何のために、泥棒さながらこっそりと階段口に出ていき、親父が階下で何をしているか、じっと耳をすましていたのか?あとからこのことを思い出した時に、なぜいやな気持がしたのか?…モスクワ市内に列車が入るころ、自分はなぜ、<おれは卑劣な男だ!>と心のなかでつぶやいたのか、という問いである。」亀山訳4巻p285
親父を獲物としてみていた自らの残忍性に対する後悔であり、<おれは卑劣な男だ!>とつぶやくからには自ら手を汚さずにスメルジャコフそそのかしたとの自責の念だろう。
「殺すなどということは……どんなことがあっても、あなたにはおできになりませんし、お望みでもありませんでしたが、だれかほかの人が殺すことは、あなたが望んでいたことでございます」・・・おまえに言わせると、このおれは、ドミートリ―兄貴にあの仕事をまかせ、ひたすらやつを当てにしていたということだな?」亀山訳p296
イワンの純粋な人柄の一面が表現されている。それをスメルジャコフに見透かされているようだ。
「そこで彼はなぜかふと、兄のイワンが妙に体を揺らしながら歩き、後ろから見ると右肩が左肩よりもいくぶん下がっているのに気づいた」
「兄さん、話しているときの顔が変です」亀山訳
前述の台詞を語るイワンに向かってアリョーシャが言う台詞。語っているイワンの顔が悪魔に似ていると言うことだろう。不条理に悩む分裂した心のイワンが狂い始めている。イワンの行動を悪魔の仕業として罰しようとする作者の予定調和の主張だが。
理性と感情は神の存在を認めるが、しかしその認め方は中途半端である。神がなければつくらなければならないという過去の哲学者の言葉をかりて理性による神の認知とし、神の作ったこの世界はあまりに理不尽で(不条理で)認められない。理想の世界つまり理不尽が無くなる世はそのうちに現出するはずだが、それまでの理不尽な世界では暫定的に「賢い人は何ごとも許される」と考える思想をイワンは育てあげる。理不尽な世界の理不尽な条理に従うわけにはいかないとの考えだろう。近代合理主義の行く末に望みを託しているようだ。それまでの間はかしこい人は何事も許されると。
この悩みは現代の民主主義のほころびを感じている我々にも魅力的な苦悩として受け取れる。つまり悩めるイワンはアリョーシャよりもはるかに魅力的なのだ。作者は頭でイワンを否定しようとしてなおかつイワンが一層魅力的に描かれてしまう。
日本人にはなじみのすくないこんな込み入った悩みが一神教の支配した西洋やロシアの人間、そして近代合理主義を達成した彼らにはおおいに深刻な問題となり得ることを教えてくれる。イワンは神に疑問をもつ知識人の苦悩を一心に体現する。小説のなかでは幻覚症とされているが宗教観の悩みからくるトーレット症候群のようにも見える。それが幻覚をも引き起こす。こんな深刻な悩みを持たずに済んだ日本人でよかったとも思うが、果たして西洋に民主主義が生まれていなければ日本は手本がないので果たしてどんな国になっているだろうか心もとない。
こんな込み入った信仰感情は日本人の大多数には存在しない。日本人の汎神論的な宗教観からくる宗教的寛容性によるものだが、時に非寛容な新興宗教やカルト集団に洗脳された後の信者には退会後に同じような苦悩が待ち受けている。その意味で、日本人には何故そのようにイワンが深刻に悩むのか理解と共感が得にくくとっつきにくい小説だろう。しかしオームなどのカルト集団による事件を経験した後には身近なテーマとして少しは関心を集め、まだまだメジャーな感覚でもないしこれからもメジャーになる可能性は多くないが理解するよすがになるだろう。
・大審問官になれないイワン
イワンは神の創った世界を認めない
「世界のフィナーレ、永久調和の瞬間にはすばらしく価値ある何かが起こり、現れてすべての人間の心を満たし、すべての怒りを鎮め、人間の罪や、彼らによって流されたすべての血をあがなう、しかもたんに人間に生じたすべてを許すばかりか、正当化までしてくれる、とな。・・・やがて平行線も交わり、おれ自身がそれをこの目で見て、たしかに交わったと口にしたところで、やはり受け入れない。」
「俺が受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで、こいつをうけいれることに同意できないんだ」
イワンの宗教観つまり神の存在は認めるが創った世界は認めないというの核心部分が語られている。別のところではこの世界への入場券を返すといっている。予定調和的な運命論、宿命論に対する痛烈な批判は説得性がある。両親の愛を受けそこなったイワンは人間が作った神の存在は理性として認めるが創った世界は認めない。そして人間が作った神の存在は悪魔とも共存している。
「じゃ、だれが人間を愚弄してるんだい、イワン?」
「悪魔でしょう、きっと」イワンがにやりと笑った。
「じゃ、悪魔はあるんだな?」
「いませんよ、悪魔もいません」
神と悪魔を人間が作った、イワンはそう考えている節がある。
「人類は最終的に形が整う。だが、人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後1千年間は整わないだろうから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則にしたがって、完全に自分のすきなように身の振り方をきめることが許される。この意味で彼には「すべてがゆるされている」ってわけ。…神の立つところ、そこがすでに神の席ってことだ!」亀山訳4巻p395
イワンの説である「賢い人はすべてがゆるされている」の説明。すべてがゆるされているのも今後1千年間と期間限定、暫定的であることが強調されている。つまりイワンは真理を認識したローマ教会と同格に立ったと宣言している。ちなみに「薔薇の名前」においても14世紀当時の異端は「なにをしても罰せられないと考えていたのですから。」と考えていたとある。
おわかりのように、パタリーニ派、カタリ派、ヨアキム主義者、厳格主義者、その他どのような類であれ、異端の掟と生活とは、大なり小なりこのようなものだったのです。驚くには当たりませんよ。最後の審判における死者の蘇りを信じないし、悪人を罰する地獄も信じませんでした。かれらはなにをしても罰せられないと考えていたのですから。 薔薇の名前 上巻p240
人間の根底にサド・マゾが潜んでいる。つまり悪魔が潜んでいる。そんなやっかいな呪われた「人間」を何故神は創ったのだというイワンの非難だ。鞭身派及び去勢派らしいスメルジャコフを無意識に非難している。
「この子が犬に石をなげ、足にケガをさせたとのことですという報告がなされる。・・・仕置き小屋から子供が連れ出される。・・・『追え!』将軍が命令する。・・・犬どもは、子どもをずたずたに食いちぎってしまう!・・・こいつをどうすればいい?・・・銃殺にすべきか?」亀山訳
そうすると神と悪魔は一体で不可分のものとなる。ここまで考えがいたると西洋の二分法の世界に生きていて、天上のより高い世界と生ける連結関係を有しているところの、神秘的な尊い感覚が欠落したイワンの頭が統一を失い狂い始める。人間とその他、神と人間等々分けるという思考方法が文化として深く根づいている西洋文化のイワンは排除しようとする。イワンの思想に作者の思想をにじませるが、作者ドストエフスキーはイワンを狂わせざるを得なかった。
「この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代わりわれわれは他の世界-天上のより高い世界と生ける連結関係を有しているところの、神秘的な尊い感覚が与えられている。それに、われわれの思想、感情の根源はこの地にはなくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上にまき、おのれの園を作り上げられたのである。そして人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。そのときは人生にたいして冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる」
アリョーシャやゾシマ長老は甘いものが好きであり、アリョーシャもゾシマも悪魔と共存していることは次の文であきらかだろう。
「・・・ついでに言っておくと、・・・悪魔は甘いものが大好きなんだそうだ・・・俺はこう思うんだ。もしも悪魔が存在しないなら、つまり悪魔を人間が作ったんだとしたら、人間は悪魔を自分の姿に似せて作ったという事さ」亀山訳p226
「銃殺にすべきです」・・・「おまえの心のなかにも悪魔のヒヨコがひそんでいるってわけだ、アリョーシャ! ・・・この世には、そのばかなことがあまりに必要なのさ。世界はこのばかなことのうえに立っているし、もしもこのばかなことがなかったら、世界にはきっとなにも起こらないかもしれないんだ。おれたちが知っていることなんて、たかがしれているんだよ!・・・おれは理解しないって決めたんだよ。・・・事実に寄り添っていることに決めたのさ」 亀山訳p241
イワンはアリョーシャの銃殺にすべきだとの答えにも悪魔をみる。人間にひそむ悪魔と悪魔の繰り広げる「ばか」な世界に絶望して理解しないことに決めたという。
しかしアリョーシャやゾシマ長老は日本、東洋古来の分けない思考あるいはロシアの土着思考と共通する思考であり、それぞれが対照的な人生となる。
「苦しみは現に存在する、罪人はいない、万物はしごく単純素朴に原因から結果が生まれ、流転し、均衡を保っている。・・・おれに必要なのは復讐なんだよ。・・・無限のかなたじゃなくてこの地上で実現してほしい。・・・おれが苦しんできたのは、自分自身や、自分の悪や苦悩で持って、誰かの未来の調和に肥やしをくれてやるためじゃないんだ。おれは自分の目で見たいんだよ。鹿がライオンのとなりに寝そべったり、切り殺された人間が起き上がって自分を殺した相手とだきあうところをな。・・・調和なんていらない、人類を愛しているから、いらないんだ。それよりか、復讐できない苦しみとともに残っていたい。・・・おれは神を受け付けないんじゃない。・・・その入場券をつつしんで神にお返しするだけなんだ。」 亀山訳p243
調和なんていらない、人類を愛しているから、いらないんだと言い切るイワンの不条理に対する復讐の渇望はすさまじい。「万物はしごく単純素朴に原因から結果が生まれ、流転し、均衡を保っている」一種の輪廻観に見えるこの考えもイワンに救いを与えることはできない。神を引きずりながら無神論の共産主義にもいきつけない宙ぶらりんの人間の深い悩み。
「おまえはすべてを法王にゆだねた。・・・おまえはもうまったくきてくれなくていい、すくなくとも、しかるべきときが来るまでわれわれの邪魔はするな・・・おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。・・・人間というのはもともと反逆者として作られている。だが反逆者ははたして幸せになれるとでもいうのか?」 亀山訳p263
神は人間を反逆者としてつくられた、つまり神が不条理に造り上げられた人間の不条理の世界の後始末は悪魔にまかせろということか。「おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。」は反逆者を開放することになることを指す。
「第一の問いを思い出してみろ。・・・おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」 亀山訳p267
「こうしてついに自分から悟るのだ。自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、両立しがたいものだということを。なぜなら、彼らはたとえ何があろうと、お互い同士わけあうということをしらないからだ!そしてそこで、自分たちがけっして自由たり得ないことも納得するのだ。なぜなら、彼らは非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者なのだから」 亀山訳p269
イワン(この台詞は大審問官に言わせているのだが)はこの2つの台詞で人間に対して実に鋭い、しかし誰もが認めたくない見解でもあるように見える。しかしまだまだとはいえやはり社会システムは苦しみながらも進もうとしているように見えるし、人類は希望も持ちたい。
「いっしょにひざまづける相手を見つけるという事が有史以来、各個人のみならず、人類全体のもっとも大きな苦しみだった。普遍的にひざまづける相手を探し求めようとして、彼らはたがいを剣で滅ぼしあってきた。・・・そうなのだ。彼らはどの道、偶像の前にひれ伏さずにはおれない連中なのだ」 亀山訳p271
偶像とは権威である。人間は権威を常に求めている。ブランド、著名人、流行にひれ伏さずにはおれない。人間のDNAに刻まれた根源的なものであるとイワン(大審問官)は述べる。
「この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らの幸せのために打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ。・・・おまえはしらなかった。人間が奇跡を退けるや、ただちに神をも退けてしまう事をな。・・・そもそも人間は奇跡なしには生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。例え、自分がどれほど反逆者であり、異端者であり、無神論者であっても。・・・おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。・・・誓ってもいいが、人間というのは、お前が考えているよりもかよわく、卑しく創られているのだ!・・・人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」 亀山訳p277
大審問官はローマ教会・カソリックを代弁し、降臨した男がプロテスタントと同じ主張をしていることを示唆している。つまり作者はここで新教、旧教の対立概念を極めて危険な形で述べていると思えるのだが。
大審問官は奇跡による信仰を人間の非力の故だと述べ、この非力な人間を導くための必要悪であり、奇跡を悪魔の所業としている。オームの麻原が見せたとされる奇跡に優秀とされる若者がころりとまいった謎がこの奇跡であったのだ。カソリックが奇跡を重要視しているのはしられたところだ。
ゾシマ長老が奇跡を起こさず死臭を放つことはカソリックの奇跡を否定する事であり、奇跡を否定した降臨したキリストと同じ考えをもっていることを示している。
大審問官のすごみはイワンの中途半端さを強調して見せる。
お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間たちで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てば、それでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。原訳
16世紀を舞台にイワンが語る「叙事詩」のなかで、再臨したキリストが90歳になる枢機卿の大審問官の「言葉のみでは人類の救済に実際に役に立たないぞ」とキリストを非難する。
これに対して、言葉で反論するのではなく大審問官に無言のキスを与える。大審問官の内心の苦悩に対する再臨キリストの共感をあらわすのか、あるいは救いを表わすキスかの議論が起きるところだが、共感と救いの両方を表わすキスなのだ。キリストみずからイワンの苦悩に深い共感と慰藉を与えて超越的な偉大さを示す。ここで悪人は人類を思えばこその悪人であり、親鸞のいう悪人ではない。しかし悪人こそが、救済の対象だという考え方つまり親鸞の悪人正機説が補助線となって理解することができる。。
イワンは大審問官でキリストの慰藉を潜在的に求めていることがわかるのだがもう一方の「科学的」理性は反発している。しかし、イワンは大審問官の内心の苦悩を持っているわけではない。イワンは大審問のように悪を持っての救済に乗り込むほどの気持ちは全くない。すべては許されるという自己満足に終わるのみの人間だ。
ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明白に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う。生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。しかし、死は得られないだろう。 原訳
その結果、ゾシマに地獄に落ちると予言されるのだ。次の文章は亡くなる直前の神父たちに対する説教だがイワンに対して述べているように思えてくる。
神父諸師よ、『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた。そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた。それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば、金持とラザロの寓話に示されているように、アブラハムの懐ろも拝めるし、アブラハムと話もする。天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。しかし、愛したことのない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。なぜなら、このときには開眼して、もはや自分自身にこう言えるからだ。『今こそ思い知った。たとえ愛そうと望んでも、もはやわたしの愛には功績もないし、犠牲もないだろう。地上の生活が終ったからだ。地上にいたときはばかにしていた、精神的な愛を渇望する炎が、今この胸に燃えさかっているというのに、たとえ一滴の生ある水によってでも(つまり、かつての実行的な地上生活の贈り物によってでも)、それを消しとめるためにアブラハムは来てくれない。もはや生活はないのだし、時間も二度と訪れないだろう! 他人のために自分の生命を喜んで捧げたいところなのに、もはやそれもできないのだ。なぜなら、愛の犠牲に捧げることのできたあの生活は、すでに過ぎ去ってしまい、今やあの生活とこの暮しの間には深淵が横たわっているからだ』地獄の物質的な火を云々する人がいるが、わたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。それに、この精神的苦痛というやつは取り除くこともできない。なぜなら、この苦痛は外的なものではなくて、内部に存するからである。また、かりに取り除くことができたとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。なぜなら、それに報いうる実行的な、感謝の愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役立つはずである。なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人々の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影ともいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見出すことができるはずだからである……諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。
つまりイワンの悲劇は大審問官にもなれなかった悲劇なのだ。イワンは大審問官になってもよかったのだが作者ドストエフスキーが理性で抵抗した結果である。
・イワンは個々の人間を愛せないと作者は描こうとするがじつはカテリーナを愛している矛盾。
謎の紳士の台詞である「私は人類愛に燃えているが、自分で自分にあきれることがある。・・・人類一般を好きになればなるほど、個々の人間を愛せなくなる」はイワンの性格でもあるが、作者自身の性格でもあり、人類全般にひそむ性格でもある。世界の不条理の根源をたどるとこの個々の具体的な隣人を愛せないという点に辿りつくのではないか。
男女の愛もこのことの裏返しに見えてくる。また、嫉妬の感情もこのことが淵源だろう。まったく自分で自分にあきれるほどの不条理に満ちている。ちなみに仏教では常不軽菩薩がすべての人に仏性があるとして礼拝して回る。これなど人間が「平凡な隣人」を敬うということがもっとも苦手な難行であることを示していると同時にこの不条理を克服する道をしめしている。
「神は欠かせないといった考えが、人間のような野蛮で獰猛な生き物のあたまに忍び込んだという点が、実に驚くべきところなのさ。その考えは、どれほど神聖で、それほど感動的で、どれほど賢明で、それほどまで人間に名誉をもたらすものなんだよ」 亀山訳p216
「仮に神が存在し、この地球を実際に創造したとしてもだ、おれたちが完全に知りつくしているとおり、神はこの地球をユークリッド幾何学にしたがって創造し、人間の知恵にしても三次元の空間しか理解できないように創造したってことさ・・・そもそも俺の持っているのは、ユークリッド的、地上的頭であって、だからこの世界とかかわりのない問題は解けるはずもない、とな・・・つまり神はあるかないかという問題はな、・・・三次元だけの概念しか与えられずに創られた頭脳には全く似つかわしくないんだ。だからこそ俺は神を受け入れるのさ」 亀山訳p218
イワンに非ユークリッド幾何学を理解できる頭脳なら、神が理解できるか。それは又別の次元の話だろうと思うが、この時代、イワンや作者は非ユークリッド幾何学を凡人には理解できない深淵なものと必要以上にとらえている感があるのは時代性の反映だろう。いずれにせよ、自分の頭脳の限界を感じることを神の存在理由にしていることに注目する。どちらか判断できない場合は神の存在を信じようとする、イワンの意外な謙虚さからでた言葉だ。つまりイワンの本質は謙虚で信仰心があるのだ。そのイワンが神の創った世界の不条理に対してのた打ち回るように悩むところにこの小説の切実さがある。しかし理性で理解しようとする彼に欠けているものがある。少年時代に両親の愛を受けそこなった男はその背後にある神の愛も実感できない。作者は地上の愛は神の愛を知るための通路であるといいたいようだ。
地上の愛に欠けているイワンは統一性を破壊しついに狂う。
「彼らはついに自覚する。自分たちを反逆者に仕立て上げた神は、まぎれもなく自分たちを笑いものにしたかっただけだ、とな。・・・自由というあれほど恐ろしい贈り物を受けいれることができなかったからといって、このか弱い魂のどこが悪いと言うのか?」亀山訳 p278
映画「アマデウス」に登場する作曲家サリエリのセリフを思いだす。サリエリはアマデウスのあまりに非凡な才能に嫉妬し、それに釣り合わない下品な品性に対して絶望と矛盾を覚える。サリエリの努力が報われないことに対して「神は私を笑いものにした」として磔刑像を暖炉にくべる。大審問官はこの世の不条理については承知であり、イワンやサリエリのように絶望したりもしない。つまり迷いのない人格であり、それだけに現実の人ではなくイワンの頭で作り上げられたものだ。
・イワンのローマ教会を見る目
「大事なのは、心の自由な決断でも愛でもなく、自分たちの良心にどれだけもとろうと、やみくもに従わなくてはならない神秘だとな。われわれはおまえの偉業を修正し、それを奇跡と神秘と権威の上に築き上げた。・・・われわれはおまえとではなく、あれとともにいるのだ」 亀山訳p281
イワン(大審問官)はローマ教会が奇跡と神秘と権威つまり人間の理性と対峙する考えのもとにシステムを築き上げつつある途上にあるとみる。
「人類は総じて、いつの世も例外なく、全世界的にまとまることをめざしてきた。偉大な歴史をもつ偉大な民族はいろいろあったが、それらの民族は、偉大になればなるほど不幸せになった。というのも全世界的な人間の統合に対する欲求を、ほかのどの民族よりもつよく意識していたからだ。・・・自由な知恵と、科学と、人肉食という暴虐の時代がこれからも続く。・・・しかしそのとき、われわれのもとに一匹の獣が這いより、われわれの足を舐め、その目から血の涙をしたたらせるのだ。そこでわれわれはその獣にまたがり、高々と杯をさしあげる。そしてその杯にはこう書かれるのだ。「神秘!」と」亀山訳 p283
自由な知恵と、科学と、人肉食という暴虐の時代がこれからも続くとの意味は、科学文明の下で資本主義の競争に明け暮れる現代のありようが暴虐(人間疎外)であると述べていると理解できる。全世界的な人間の統合に対する欲求が巻き起こり神秘を求めることでますますローマ教会は盤石になる。イワンはこのことを根源的に否定している。これがイワンのローマ教会を見る目だが、今日的にはイスラム原理主義その他原理主義的宗教全般にたいする批判だとみなせる。
「彼は、無言のままに老審問官に近づき、血の気の失せた九十歳の人間の唇に、しずかにキスをするんだ。・・・そこで老審問官は、ぎくりとみじろぎをする」 亀山訳p296
大審問官は何故ぎくりとしたのか。なぜ火あぶりの処刑を放免に変えたのか。言葉ではなく沈黙のキス、それこそが完全に理論武装された老骨の大審問官に最も強烈なショックを与える。
沈黙のキスはローマ教会を見る目に対する承認であり、キリストの意味した本来を見失っていることへの不承認でもある。本来を見失っていることの指摘に気が付いている老骨の大審問官は激しく動揺する。
・イワンの宗教観に対するドストエフスキーの反論
作者になりかわってゾシマ長老がイワンの大審問官に反論する。しかし個々の非難に対して個別の反論を行うわけではない。
「本当にね」わたしは答えた。「何もかもがすばらしく、美しいからね。それというのも、すべてが真実だからだよ。馬を見てごらん、人間のわきに寄り添っているあの大きな動物を。でなければ、考え深げに首をたれて、人間に食を与え、人間のために働いてくれる牛を見てごらん。牛や馬の顔を見てごらん。なんという柔和な表情だろう、自分たちをしばしば無慈悲に鞭打つ人間に対して、なんてなついていることだろう。あの顔にあらわれているおとなしさや信頼や美しさはどうだね。あれたちには何の罪もないのだ、と知るだけで心を打たれるではないか。なぜなら、すべてみな完全なのだし、人間以外のあらゆるものが罪汚れを知らぬからだよ。だから、キリストは人間より先に、あれたちといっしょにおられたのだ」
人間以外のあらゆるもの、つまり理性を持たぬものたちが罪汚れを知らぬとイワンの理性万能を退ける。そして「何もかもがすばらしく、美しいからね。それというのも、すべてが真実だからだよ」と直感により神をみることを説く。神を仏と言い換えてもまったく差し支えない。
兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得するすべを知らなければいけない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる、悪人でも愛するだろう。青年だった私の兄は小鳥たちに赦しを乞うたものだ。これは無意味なようでありながら、実は正しい。
イワンは両親の愛を知らないネグレクトされて育った青年であり、そのために愛をしらない。イワンは愛を知らないゆえに無神論に陥っている。両親の愛、他人の愛は神仏の愛のメタファーだからだ。
なぜなら、すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一個所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである。小鳥に赦しを乞うのが無意味であるにせよ、もし人がたとえほんのわずかでも現在の自分より美しくなれば、小鳥たちも、子供も、周囲のあらゆる生き物も、心が軽やかになるにちがいない。もう一度言っておくが、すべては大洋にひとしい。それを知ってこそ、小鳥たちに祈るようになるだろうし、歓喜に包まれたかのごとく、完璧な愛に苦悩しながら、小鳥たちが罪を赦してくれるよう、祈ることができるだろう。たとえ世間の人にはどんなに無意味に見えようと、この歓喜を大切にするがよい。
愛は縁起となって自分に還ってくることを説く。
人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。一見いかに不条理であろうと、これは真実である。なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。目の前に立って、お前の心証で裁かれる者の罪をわが身に引き受けることができるなら、ただちにそれを引き受け、彼の代りに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるがよい。たとえ法がお前を審判者に定めたとしても、自分にできるかぎり、この精神で行うことだ。なぜなら、罪人は立ち去ったのち、みずからお前の裁きよりもずっときびしく自分を裁くにちがいないからである。
イワンが非難する人々つまり幼児虐待者にたいしてさえも審判者にもなりえぬという。作者はここまでの想像もつかない境地に達しえているのだろうか。読者もこの作品中で唯一、困惑を覚えるところだろう。ゾシマはこの一点だけでイワンを説得できない。ゾシマの愛のほうがイワンの子供に対する同情よりも軽いのだ。作者ドストエフスキーは安易な解釈を拒否する。巨大な未解決が読者に残される。
かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れていないからであり、やがていずれ訪れるだろう。たとえ訪れなくても、しょせん同じことだ。彼でなければ、他の者が彼の代りにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、真理は充たされるだろう。このことを信ずるがよい。疑いなく信ずることだ。なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。
大審問官に対する接吻の意味を作者が解説している。罪人をその場で救うことのできないキリストの徹底した無力を強調する。
「不死がなければ善なんて無いんです。」とのイワンに対して「絶望で気晴らしをされている。もし肯定的な方向で解決できないなら、否定的な方向でも決して解決されないでしょう。」とゾシマ長老は説教する。
「自分ではその論法を信じないで、胸の痛みを感じながら、心のなかではその論法を冷笑しておられる」「もし肯定のほうへ解決できなければ、否定のほうへも決して解決できない」
「ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明白に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う。生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。しかし、死は得られないだろう。」原訳
イワンの性急さを責めるくだりだ。確かに目の前のものを今すぐには救うことができないが、最後の審判の時には救うとゾシマ長老は述べているように感じる。イワンとゾシマの対決に決着をつけないまま物語は終わる。これはドストエフスキーがキリスト教に対して不信の塊の中で一生を終えるがそれでもキリストを好きだということと通じている。
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