「短歌は告白である」
1999年刊行の本だが今も私の参考書である、栗木京子著『短歌を楽しむ』。その中から
「短歌は告白である」の一部を引用する。
「あるとき、歌会を取材するために新聞記者A氏が見学に来たことがありました。三時間近い歌会を黙って聴いていたA氏。~略~ 「自分が自分がという主張が多いんですね」~略~
「自我の詩」としての短歌は自己の心情や体験を忠実にうたうわけではなく、多少の誇張や婉曲表現や演出をまじえて表現するわけですが、読む側としては歌の中に「さびしい」とあれば作者の孤独に思いを重ね、「ひとり泣きたり」とあれば~作者を案じたりもします。
❤ なぜだろう光りそこねてしまうのは、わたしは陰に愛されている 松井多絵子
これは私の歌集『厚着の王さま』のなかの歌である。還暦の数年前から短歌に傾倒し新人賞に応募し新聞の投稿を繰り返した私は「またダメか」が多かった。しかしそれほど落ち込むこともなかった。「ダメでもともと、入選したら儲けもの」という気持ちだったのだ。しかし掲出の歌は「光の当たらない私の深刻さを読者に伝えている。意識的に伝えたようとしたのだ。
❤ 猫は耳をとがらせ我の嘘を聞き夫はタバコのけむりを放つ 松井多絵子
暴走老女A子はこの歌は「多絵子の不倫願望」などと面白がり、私はむくれた。「我の嘘」と言っても不倫とは限らない。しかし私は読者に不倫を想像して欲しかったのだ。年はとっても色気のある女に思われたかったのだ。短歌の楽しみのひとつは告白ではないか。自分を美化する楽しみ。おもわせぶりな言葉を入れるのに短歌はほどよい詩型のような気がする。
15年も前にすでに完熟の歌人であり、作歌の指導者の栗木京子の文をさらに引用する。
同じ短い詩型であっても、俳句の場合は17音しかなく、作者の告白まで盛り込むスペースがありません。短歌は俳句より14音が長い分だけ、微妙に作者に告白をうながす仕組みになっています。チラリとだけ本音を告白できるところが、うってつけなのでしょう。
女性の俳人の皆さま、告白できなくて欲求不満になりませんか。 松井多絵子 1月10日