東電の株主代表訴訟が、地裁では原告側の全面勝訴となりました。
あの東日本大震災で、日本と東北の復興を遅らせ、世界からは食品が危険と烙印を捺され、巨額な原発処分費用と復興費ををすべて電気料値上げと特別増税の形で国民に背負わせた、あの福島原発の危機管理の不備を問われた裁判でありました。
これまで、刑事裁判では、「想定外・予見不可能」であったとか、原子力規制委員会の「長期評価」 は不正確だったとか、の理由で逃げ回り、検察が不起訴処分を繰り返した 不可解な経過をたどりました。これは政府の原発推進・安全神話に間違いがあったと断じられてとばっちりが来るのを恐れたのでしょう。その後の原発再開の動きを見るまでもなく、半官半民の電力業界とのずぶずぶな関係を物語るものでもあります。あの地域にかつて巨大地震が起きたことがある、10m以上の津波が来る可能性を指摘されながら、予備電源や発電装置などを津波の及ばぬ高さの場所に置き換えるだけ、のことをけちった結果でありました。
それを想定外と言うのは、評価を軽視し、自分たちがまともな危機管理判断が出来なかったか、知っていて自分たちの任期中には起きるわけがないと、備えを怠ったかのいずれかであります。そこは明白な落ち度で、安全確保義務を怠った責任を問われるのは当たり前と言えましたが、刑事事件としてはなかなか結審までたどり着きません。
そこで民事事件で地裁が、はっきりと「経営陣の責任を認め賠償を命じる」判決を下しました。13兆円を会社(東電)に支払え、という判決で、これをみた法律の専門家は、支払えるわけもないので意味がないという意見もあるようです。こんな判決が出ると、公共的事業者の経営陣に大きな萎縮効果を生む などと馬鹿な事を言うのです。いざというときには責任を取らねばならないという緊張感があってこそ、経営者の職責が果たせるのです。アメリカの「懲罰的な賠償額・罰金」とは意味が違います。
本来、賠償額は、原告側(被害者)の損害額をもって賠償させるので、被告の支払い能力を斟酌する必要はありません。この人たちは、もうとっくに資産は、金融資産などは隠しているでしょうし、本人以外の名義などにするなどして、処分しているでしょうから、自己破産してお終いとするかもしれません。すると、会社が支払っていた「役員賠償責任保険 」から、上限9億円ほど下りて来るのでそちらからは支払いを受けることが出来ます。
焼け石に水、と言えばその通り。しかしながら、東京電力の旧経営陣が安心の老後を送っている一方、被災して失意のうちに亡くなった方が大勢います。当時の原発の収拾にあたった関係者の被爆などで多くの方が、がんを発症し、今も苦しんでいます。
大企業の元経営陣が、様々な庇護のもとに、のうのうと余生を送るというのはどう考えても間尺に合わないのです。彼らは、現役時代強大な権力・権限を有し、社会的な名声を得て莫大な報酬を受け取っていたはずです。大きな権益は、それに見合った功績と責任があってこそであります。100万円の給料の人は、それくらいしか仕事の価値が無く、期待もされていないという意味です。1億円を貰う人間は、一億円に見合う働きをし、卓越した危機管理や先見性を求められるのです。
福島原発の「電源喪失→炉心メルトダウン→爆発と放射能の大規模拡散」は避けられた、というのは専門家の一致した見解であります。それを怠って未曽有の大災害を引き起こした責任は重く、死ぬまでたとえ千円でも一万円でもその補償を支払い続けるのがせめてもの償いではなかろうか。原発を安全だと推進した議員たち、政府関係者、旧原子力安全・保安院も同罪であろうと思います