美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

毎朝新聞若手記者の会話(小浜逸郎)

2014年05月18日 02時09分24秒 | 小浜逸郎
以下は、小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」から転載した文章です。

毎朝新聞若手記者の会話



ところは東京築地、お昼時のとある喫茶店。五月の爽やかな光がドア越しに差し込んでいます。私はアメリカン・コーヒーを味わいながら、西郷信綱の『古事記の世界』を読んでおりました。

すると二人の若い男が入ってきて、私の隣のテーブルに腰を下ろし、何やら困惑したような表情で、新聞を見合いながら話し出しました。どうやら二人とも、すぐ近くにある毎朝新聞に同期で入社した記者らしい。キャリア6、7年ほど、というところか。興味を引き付けられたので、彼らの会話の一部始終を聴いてしまいました。

以下はその忠実な再現です。

A記者:ウチの社説、読んだ?

B記者:いや、今日の午前中まで『美味しんぼ』の追っかけやんなきゃならなくてそれどころじゃなかった。俺はだいたい自社の社説なんてめったに読まないよ。文化部さんは読むのかい。
A:必要がなきゃ読まないけどさ。たまたま読んだら、これはいくらなんでもちょっとひどいんじゃないかと思って持ってきたんだ。

B:昨日の集団的自衛権のやつ?

A:あれはまあ、改憲反対、安倍政権反対、平和主義がウチの社是だから、型通りの一本調子で仕方がないよ。特定秘密保護法の時も、文化人、芸能人を駆り出す役目振られて苦労したよ。マンネリもいいかげんにしてくれと正直思ったけどな。

B:で、その持ってるのは?

A:15日の「路上の民主主義 自ら考え動き出す人たち」。ちょっと読んでみてくれ。

(B、読み始める)

 私はこれを聴いて、帰宅してからその記事を探し出しました。ここに全文転載します。

 変わらなければ。
 変えなければ。
 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を経験した2011年。「第二の敗戦」といった言葉も飛び交うなか、日本社会は深い自省と、根源的な変革を求める空気に満ちていた。
 それを目に見える形で示したのが、震災から約半年後に東京で開かれた「さようなら原発」集会だ。主催者発表で6万人が参加。ノーベル賞作家・大江健三郎さんは訴えた。「何ができるか。私らにはこの民主主義の集会、市民のデモしかない」
 あれから3年近くが経った。

 ■首相がまく種
 自民党が政権に戻り、原発再稼働が推進され、大型公共事業が復活する。
 何も変えられなかった。
 冷めた人。折れた人。疲れた人。民主党政権への深い失望と相まって膨らんだ諦念(ていねん)が、安倍政権の政治的原資となってきたことは否めない。
 反対意見に向き合い、議論を深める。民主制の根幹だ。しかし首相はどうやら、選挙で選ばれた、最高責任者の自分がやりたいようにやるのが政治で、反対意見なんか聞くだけ無駄だと考えているようだ。
 憲法の縛りさえ、閣議決定で「ない」ことにしてしまおうという粗雑さ。これに対し、与党が圧倒的議席をもつ国会は、単なる追認機関と化しつつある。
 気づいているだろうか。
 首相の強権的な政治手法とふがいない国会のありようが、自ら思考し、行動する政治的な主体を新たに生み、育てていることに。怠慢なこの国の政治家にとっては、幸か、不幸か。

 ■声を響かせる
 「『Fight the power』、これは権力と闘えって意味で、ちょっと過激なんすけど、まあ英語だから大丈夫かなと」
 憲法記念日に東京・新宿で行われた「特定秘密保護法に反対する学生デモ」。集合場所の公園で約400人が声を合わせ、コールの練習を始めた。都内の大学生らが主催した、党派によらない個人参加のデモ。ネットや友人関係を通じて集まった。
 出発。重低音のリズムを刻むサウンドカーを先頭に、繰り返される「特定秘密保護法反対」「憲法守れ」。堅苦しい言葉がうまくリズムに乗っかって、新宿の街にあふれ出していく。
 大学生たちがマイクを握る。
 「自分らしく、自由に生きられる日本に生まれたことを幸せに思っています。でも、特定秘密保護法が反対を押し切って成立した。このままじゃ大好きな日本が壊れちゃうかもしれないって思ったら、動かずにはいられませんでした」
 「私は、私の自由と権利を守るために意思表示することを恥じません。そしてそのことこそが、私の『不断の努力』であることを信じます」
 私。僕。俺。借り物でない、主語が明確な言葉がつながる。
 社会を変えたい?
 いや、伝わってくるのはむしろ、「守りたい」だ。
 強引な秘密法の採決に際し、胸の内に膨らんだ疑問。
 民主主義ってなんだ?
 手繰り寄せた、当座の答え。
 間違ってもいいから、自分の頭で考え続けること。おかしいと思ったら、声をあげること。
 だから路上に繰り出し、響かせる。自分たちの声を。
 「Tell me what democracy looks like?(民主主義ってどんなの?)」のコール。
 「This is what democracy looks like!(これが民主主義だ!)」のレスポンス。
 ある学者は言う。頭で考えても見通しをもてない動乱期には、人は身体を動かして何かをつかもうとするんです――。
 彼らは極めて自覚的だ。社会はそう簡単には変わらない。でも諦める必要はない。志向するのは「闘い」に「勝つ」ことよりも、闘い「続ける」ことだ。

 ■深く、緩やかに
 5月最初の金曜日に100回目を迎えた、首相官邸前デモ。
 数は減り、熱気は失せ、そのぶんすっかり日常化している。植え込みに座って、おにぎりを食べるカップル。歌をうたうグループ。「開放」された官邸周辺を思い思いに楽しんでいる。
 非暴力。訴えを絞る。個人参加。官邸前で積み上げられた日常と、新しいデモの「知恵」がなければ、昨年12月に秘密法に反対する人々が国会前に押し寄せることも、学生たちのデモも、なかったかもしれない。
 つよいその根は眼にみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、
 見えぬものでもあるんだよ。
 (金子みすゞ「星とたんぽぽ」)
 たんぽぽのように、日常に深く根を張り、種をつけた綿毛が風に乗って飛んでいく。それがどこかで、新たに根を張る。
 きょう、集団的自衛権の行使容認に向け、安倍政権が一歩を踏み出す。また多くの綿毛が、空に舞いゆくことだろう。
 社会は変わっている。
 深く、静かに、緩やかに。


(B、読み終わる。しばらく無言)

A:どうだい。

B:これだれが書いたのかな。

A:そりゃ、PさんかQさんか、どっちかだろう。他にいるわけない。

B:あの二人、たしか団塊だったよな。

A:そう、全共闘世代。

B:あの世代の感覚って、こんなもんじゃないの。

A:お前、そんな他人事みたいな言い方で済ませられる問題か。

B:だけど社会部にも、こんなのたくさんいるぞ。

A:でもこれってさ、社会部や生活部発信の記事ならまだわかるよ。社説は社の顔だぜ。社説だよ、社説。これ、全然論説にも何にもなってないじゃん。俺、これ読んだとき同じ社の社員として恥ずかしくて思わず顔が赤くなったよ。

B:まあ、お堅い政治論説ばかり書いてる彼らも時々は情緒に浸りたくなるんじゃないか。それにしても、お前にしては珍しくいきり立つな。失恋でもしたか。

A:冗談はよせ。はばかりながら、これでも文化部記者のはしくれだからな。言語表現にはちょっとばかりうるさいんだ。社説には社説のモードってものがあるだろう。へたくそな詩みたいな文章がこういう場所に許されるのか。

B:でもさ、PさんもQさんもたしか文化部上がりじゃなかったか。それで、論説委員会でたまには「文化の香り」がする文章をって考えたんじゃないの。集団的自衛権の行使容認を前にして、その方が一般読者向けにアピールするんじゃないかって。

A:「文化の香り」が聞いてあきれるぜ。安っぽい文句のオンパレードだ。文化表現が政治言説に利用されてはならないというのは、俺たち表現で飯食ってる者が守るべき鉄則じゃないのか。
 そもそもなんでたかだか400人の学生集会やデモのことを社説に麗々しく載せるんだ。それって、きちんと論理で安倍政権の政策を批判できない無力と敗北を自分から露呈しているようなもんじゃないか。

B:そうかもな。だから初めの部分で「何も変えられなかった」と書いてて、悲壮感さえ漂っているじゃないか。結局、こういう方が効果があるって見方も成り立つ。

A:効果なんてないよ。いや、なまじあるからまずいのかな。
 ともかくこの文章、常識的に見てめちゃくちゃだぜ。たとえば、特定秘密保護法のどこがまずいのか、集団的自衛権容認の何がいけないのか、こういう政策が出てくる背景には、どういう国際環境の変化があるのか、一切書いてない。ただ権力がやることだから全部反対と騒いでいるだけだ。
「首相はどうやら、選挙で選ばれた、最高責任者の自分がやりたいようにやるのが政治で、反対意見なんか聞くだけ無駄だと考えているようだ」と書いてるけど、これも客観的に見て事実に反する。安倍首相は、与党内野党の公明党の了解を何とか取り付けようと石橋を叩いて渡るくらいの時間とエネルギーを注いでいる。
「憲法の縛りさえ、閣議決定で『ない』ことにしてしまおうという粗雑さ」という表現こそ粗雑だ。国会議決が不可欠のプロセスであることは自明で、たとえ形式的とはいえ、自民党はそういう民主主義的な手続きをきちんと踏もうとしている。
「自ら思考し、行動する政治的な主体を新たに生み」なんて書いてるけど、6万人が400人に減っちゃったんだろ。何にも新たに生んでなんかいないじゃないか。「コールの練習」だってさ。練習しなきゃ動き出せない集団がなんで「自ら思考する政治的な主体」なのかね。
 400人で、なんで「新宿の街にあふれ出す」ことができるんだよ。毎日数十万人の人々であふれかえっているのが新宿の街なんだ。
「何も変えられなかった」とか「守りたい」とか言ってながら、「社会は変わっている」だってさ。
「私。僕。俺。借り物でない、主語が明確な言葉がつながる」なんてのも、政治がそんな簡単なものじゃないってことを知らない中学生みたいな幼稚な調子だ。
 一番おかしいのは、「自ら思考し」と書いてながら、「ある学者」を引っ張ってきて「頭で考えても見通しをもてない動乱期には、人は身体を動かして何かをつかもうとするんです――。」などと言わせていることだ。これは語るに落ちていて、集会やデモ参加者が何も「自ら思考し」てなんかいないことを自己暴露しているじゃないか。

B:まあ、言葉尻をとらえれば、たしかにボロはたくさんあるな。でも、これはわが社の社是に矛盾しているわけじゃない。お前がなんでそんなに熱くなるのか、俺にはそっちのほうが興味があるな。

A:いや、要するに、ただの反権力気分に便乗するんじゃなくて、いまの政治の何がどうおかしいのかをきちんと論理的な言葉で説得するのが論説の使命だろうということだよ。論説はアジテーションじゃないんだから、ちゃんと現実を総合的かつ公正に見るべきだろう。いやしくもわが社は「一流新聞」の看板を掲げているんだぜ。でも俺には最近のわが社の政治記事は三流紙にしか見えない。文化欄だって、社の政治方針に思うざま利用されているんだ。

B:あんまりそんなことを本気になって考えていると、周囲に敵を作るぞ。「自由な」文化部さんといえども、風向き次第でガシャンと封殺されることなんかいくらでもある。

A:そういう処世術はありがたく承っておくよ。でも俺はわが社のために言っているんだ。こういう水準の低い文章を「社説」などと称してのっけていると、そのうち必ずしっぺ返しを食らうよ。「公正な報道を旨とする一流紙」という看板に胡坐をかいている傲慢な社風から一刻も早く抜け出さなくちゃいけない。

B:うーん、正論だ。少し説得された。
 ああ、そうそう。それで思い出したけど、今年の入社試験には、東大生が一人も受けなかったんだってな。他紙で初めて知ったよ。ウチのデスクが嘆いてたっけ。

A:残念ながら、さもありなむと思うよ。こんなことを続けていたら、優秀な若い奴にどんどん見放されるぞ。
まあ、お互い、部局は違うけど、できることをやっていこうぜ。

B:わかったわかった。俺だって金のためだけじゃなくて毎朝に希望を抱いて入ったんだからな。「自ら考え動き出す人たち」にならなくちゃな。

二人とも、快活なような、沈鬱なような、何とも複雑な表情を浮かべながら、席を立って店を出ていきました。あの毎朝新聞にもこういう若い人がちらほら出てきたのでしょうか。大新聞の下っ端記者も、あれでなかなか大変なんだな、という感想を抱きつつ、私は、再び『古事記の世界』に没頭したのでした。午後の日差しはまだ衰えを見せないようです。

*この文章を書くにあたり、朝日新聞5月15日付の社説をそのまま拝借いたしました。
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