美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

見田宗介氏のひどい文章を見つけました (美津島明)

2015年10月06日 23時18分40秒 | 教育
見田宗介氏のひどい文章を見つけました (美津島明)



今日は、中三生に国語を教えました。生徒二人を相手に、長文問題と取り組みました。長文問題の題材は、見田宗介氏の文章でした。で、これがひどい文章だったのですね。

ひどいというのは、その内容を指しているのではありません(ちなみに内容は、リベラルを称する戦後知識人の定番である、経済成長否定論です。そういう論調に対して、私はかなり厳しい見方をしていますけれど、いまはその当否を問わないでおきます)。

私が「ひどい」と思うのは、氏が、論理的に筋の通らぬ文章を書いている点です。次にその文章を引きます。そのほぼ冒頭に「このこと」とあるのは、前段落の「貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、『所得』が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる」事態を指しています。言いかえれば、貨幣経済が、自然と豊かな交流をしていた伝統的共同体を取り込んでそれらを解体してしまい、貨幣が唯一の価値の尺度になってしまうことを指しています。

人はこのことを一般論としてはただちに認めるだけでなく、「あたりまえ」のことだとさえいうかもしれない。けれども、「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、この「あたりまえのこと」を理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。(「現代社会の理論――情報化・消費文化社会の現在と未来――」より)

上の赤色が、論理的に筋みちが通っていないうえに、「てにおは」の使い方が間違っているし、言いたいことを性急に詰め込もうとするがゆえに意味が通らなくなるという、目の当てられないことになっている箇所です。

ここは、

「に立脚し、それを理論の基礎としているので」

と記されるのが正しいのです。当論考を読む限り、氏は、お金がたくさんあること=豊かさとするのが「あたりまえのこと」であるという考え方に異を唱えたがっているわけですから、もしも、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」が「あたりまえのこと」に立脚していないのならば、それは、氏にとって、とても喜ばしいことであるはずですね。でも氏は、どうやら、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」に文句をつけたがっているようですから、そんなことは考えにくい。

私は、氏の揚げ足をとって、喜んでいるわけではありません。

生徒の能力を育成するうえで、国語という教科に課せられていることの核心は、「論理的思考力を育むこと」である、と私は考えています。国語教師のなかには、「いや、それは数学が受け持つべきことであって、豊かな情操を育むことのほうが国語の場合重要である」という意見があることでしょう。

私は「豊かな情操を育む」ことの重要性を軽視するわけではありませんが、それを妙に重視することは、ややもすると、教師が独りよがりや自己満足に陥りがちになることにつながりやすいと思っています。「論理的思考力と豊かな情操とは、相補的・相乗的な関係にあるものであって、敵対的な関係にあるものでは決してない」という確固とした学力観に立脚するならば、「豊かな情操は、論理的思考力という太い幹から枝分かれし開花した鮮やかな花々である」という見解に落ち着くのではないかと思われます。

まあ、込み入った話はそれくらいにします。論説文は、話の筋みちをきちんとたどれば、筆者の言いたいことにちゃんと到達できるものでなければならない、という点には、ご賛同いただけるのではないでしょうか。また、そういう良質の文章を丁寧に読ませることの効用が決して小さくないことにも、ご賛同いただけるのではないでしょうか。

逆に、そうではない文章で、生徒の頭を悩ませることが、おそらくマイナスの効用をもたらすことも論を俟たないでしょう。そういう文章ばかり読ませていたら、頭の悪い生徒に仕上がっちゃうかもしれませんね。

だから、見田氏の当論考をテキストに載せるのは、極めて不適切なことであった。そう言いたいわけです。むろん、私は授業のなかで、以上の話を生徒たちに噛みくだいて言ってきかせました。

ここで、小中学校の国語の批判をしたくなってきましたが、それはまたの機会に、ということで、とりあえず筆を置きます。
コメント (11)
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