美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

青木経済学の一側面 (美津島明)

2016年06月15日 15時57分07秒 | 経済


先月の29日(日)、小浜逸郎氏主宰の経済問題研究会に、経済学者・青木泰樹氏がいらっしゃいました。氏の主著『経済学とは何だろうか』(八千代出版)の後半部を講義していただくためです。前半部は、その2カ月ほど前に、いつものメンバーでひととおり学んでおきました。私が、レポーターとして内容をかいつまんで説明するという手筈だったのですが、その必要はありませんでした。4時間の講義の最初から最後まで、青木氏は、迫力のある熱弁ぶりで、自説の肝を分かりやすくきちんと説明してくれました。講義終了後、おのずと「闘う経済学者」という言葉が浮かんできました。氏は、日本の経済学における真のトップ・ランナーである、という印象を強く持ちました(経済学会という狭い「業界」ではいささか干され気味のようですが)。

青木氏の問題意識と学問的志向性は、おおむね次のようなものです。

《80年代のレーガノミクス・サッチャリズム以来、経済学の主流となったサプライサイドの経済学は、自然科学とくに物理学における「科学性」を追求するあまり、論理偏重・数学偏重の学問と化した。そのことによって、社会が経済学に対して求める現実説明力、現実問題解決のための処方箋の役割を放棄するに至った。にもかかわらず、サプライサイドの経済学者たちは、現実の経済政策に対して、事あるごとに容喙しようとする。それは、理論の乱用と称するよりほかはない。サプライサイドの経済学を含む、いわゆる主流派経済学が、このように現実分析に適さない以上、経済問題を解決するためには、それに替わる、その静態理論的な枠組みを超える学説なり経済思想なりが必要となる。それが、非経済的領域をも射程に入れる社会経済学である。》

このような強烈なメッセージをどうやってほかの人たちにお伝えしようかと苦慮していたところ、FB友達の渡辺純央氏の、率直でハイブローな問いかけをきっかけに、青木理論の一端を紹介することがかないました。ご紹介します(一部、加筆訂正してあります)。

***

渡辺:(前略)これは直接、と思っていたことを書きますと、私は剰余価値説を取りません。限界効用逓減説のほうが寄り、妥当だ、と考えるからですしこれでないとデフレ現象をうまく説明できない、と考えているからですね。なので、ケインズが剰余価値説を取りつつ、景気循環をどう解釈しているのかがどうも、納得がいかないでいるわけです。

美津島:どうもコメントをありがとうございます。ひとつひとつ、話を整理した方が良いような気がします。ちなみに、以下の私の議論は、『経済学とは何だろうか』の著者・青木泰樹教授から最近直接伺ったことです。10人程度の読書会で、青木先生をお招きして、当著の後半部分をレクチャーしていただいたのですね。

アダムスミスは、『国富論』で、財貨の価値について、労働価値説をとっています。つまり、財貨Aと財貨Bの等価交換はなにゆえ可能となるのかに関して、スミスは、それらを作るために投入した労働時間が等しいから可能となる、と考えたのです。つまりスミスは、客観的な価値説をとったのですね。しかしスミスは、主観的な価値論すなわち、後の効用論的な価値論も考えていました。でも、それではうまく説明できないところがあるので、労働価値説をとったそうです。それが、経済学における財貨の価値論の出発点です。

マルクスは、『資本論』において、アダムスミスの労働価値説を踏襲することによって、資本主義の自己増殖運動の核心としての剰余価値論を展開しました。つまりマルクスは、価値論の側面に即するならば、アダムスミスの直系の弟子ということになるでしょう。

一方、スミスの主観的価値論の側面を引き継いだのは、マルサス、リカード、ジョン・スチュアート・ミルなどの古典派経済学者たちでした。しかし彼らは、効用を総量で考えていたので、「主観的効用(満足度)という質的なものを量的に計測し加算することは不可能である」というベンサム的な限界に突き当たることになりました。

その限界を突破したのが、限界革命を主導したワルラス・メンガー・ジェボンズたちでした。彼らは、効用を総量ではなくて、最後の単位量(限界量)の与える効用に着目することで、ベンサム的な限界を超えたのです。彼らは、アダムスミスの「見えざる手」から市場メカニズムを抽出し、ワルラスの一般均衡論によって、個人の部分的均衡は市場全体の均衡と同時に実現されることを示し、ワルラスの弟子のパレートは、一般均衡の実現は、すなわち全体の効用が最大化された状態であることを厳密に論証してパレート最適を確立しました。

以上述べた、「市場メカニズム」と「一般均衡」と「パレート最適」が新古典派経済学の中核をなし、それが、今日にまでいたる主流派経済学に引き継がれている、というのが、経済学説史のあらましです。

ここで問題になるのは、主流派経済学の経済理論が、現実をまったく説明できない筋立てになっているということです。いいかえれば、現実を説明し、有効な経済政策を立案するうえで、主流派経済学の経済理論はまったく役に立たないし、あえてそれを利用しようとすれば「理論の乱用」に陥り、百害あって一利なしの結果を招くだけなのです。

なぜか。限界効用学派をふくむ主流派経済学の核心が「静態理論」だからです。すなわち、静態理論が想定する社会は、みながみな利己心に基づく物欲の充足のみを行動目標とする合理的同質的個人によって構成されています。そういう個人が、完全自由競争というフィールドにおけるプレイヤーとして活動している、とされるのですね。この想定は、経済理論の数学的厳密化を可能とはしますが、現実経済社会のダイナミズムを説明するには、あまりにも単純すぎる人間観に基づいている。この単純すぎる人間観がネックになって、主流派経済学の経済理論を現実説明不能なものにしている。青木先生は、そう主張なさっています(むろん、私もそれに同意します)。

主流派経済学の現実説明不能性・現実経済に対する無効性を白日のもとにさらしたのが、1930年代の世界恐慌だった、というのはあまりにも有名なお話しですね。

静態理論には、もうひとつ、致命的な弱点があります。それは、当該理論が、カール・ポパー的な科学哲学などにも災いされて、数学的厳密性を偏重するあまり、それを超えた共通概念によってのみ把握可能な分析対象(たとえば、格差の拡大とか)を事実上学問の対象として放棄してしまった結果、資本主義を全体としてつかまえようとする視点をなくしてしまったことです。

つまり静態理論には、動態理論的な視点が欠落しているのです。ここで動態理論とは、経済内部に経済を変動させる動因が存在することを認め、社会を構成する個人は、異質な存在であり、個人の行動の動機として利己心以外のものも認め、その行動目標として物欲以外のものも認め、非合理性をも認める、という現実妥当的な社会観に根差した経済理論のことです。それを経済理論として展開したのが、マルクスであり、ケインズであり、シュンペーターです。彼らが、それぞれ立場は異なりますが、いずれも、資本主義の全体を自分の経済理論の視野に入れて物を言っていることは、渡辺さんもお認めになるでしょう。

そこでケインズですが、彼が新古典派経済学に対する敬意を犠牲にし、その核心部分としての「セーの法則」と「完全雇用」の前提を否定し放棄したのは、目の前の経済問題、すなわち、高度資本主義を不可避的に襲う「豊かさの中の貧困」問題としてのデフレ大不況と取り組むためでした。いいかえれば、ケインズは、現実の経済問題を解決するために、自分の経済問題に「長期」の問題を繰り入れることを犠牲にしたのです。だから、景気循環という長期の問題が、彼の経済理論によって扱われることはなく、その課題は、後続に委ねられることになりました。また、彼は、いわゆるミクロ経済のなかに深く分け入って、限界効用論に対して自分の理論を展開することはありませんでした。むろん、剰余価値論の問題に言及することもありませんでした。

以上が、私なりの、青木先生に依拠しての交通整理です。いかがでしょうか。

渡辺: 大変立派な要約で、感服しました。

現代経済学に動学的裏付けが欠けている、という批判のあるのも事実ですし、ルーカス批判以後、数学的厳密さ…数学者や理論物理学者などから見ればチャンチャラおかしいでしょうが…を求めるあまり、机上の空論と化し、資本家や特権階級の欲望に免罪符を与えるためだけのものになってしまっている、というのも事実でしょう。
もちろん一方にはアマルティア・セン博士やスティグリッツ先生、クルーグマンのような人もいるわけですが。

それらを認めたうえで、私の問題意識はワルラス革命を受け入れたうえで、財市場と貨幣(金融)市場の間に「均衡(パレート最適)」はありえるのか?ということなんですね。
ワルラスをどう読んでも、そういうことは言ってないように思えてしかたがないし、市場均衡(パレート最適)は「あり得る」と証明したアローも、そういう理解はしていない、と、
財市場と貨幣はメタ関係で…これ、マルクスの指摘らしい…財の選好順序を決定することが、貨幣経済によって可能になった。

それを並列的に並べ、財市場を構成する無数の市場と同等に扱うことができるだろうか?それはおかしいのではないか?つまりマネタリズム(貨幣数量説)というのは奇妙だな、貨幣の本質を突き外しているのではないか?と思うわけです。だって循環しちゃうでしょう?これでは…つまりISLMがよくわからない、という話(^_^;)

青木先生がいらっしゃってたならその辺り、お訊ねしたかった、と思います。

美津島:渡辺さんが、青木先生とお会いするチャンスはめったにないことでしょうから、差し出がましいマネかもしれませんが、青木先生のお話のなかで、渡辺さんの問題意識にとって参考になりそうなところをかいつまんでご紹介します。

青木先生によれば、新古典派経済学の重鎮ワルラスの純粋経済学において、貨幣を導入する前に、一般均衡を実現する生産量や生産要素の量といった実物的要因はすでに決定されています。つまり、ワルラスの一般均衡は本質的に物々交換経済を前提としたものだというのです。だから貨幣の役割は、たかだか財貨の交換比率の貨幣的表現すなわち名目価格を決定するだけにすぎない。だから、静態理論の中心命題のひとつである「貨幣現象は実物的要因に影響しない」という「貨幣の中立性」は、ワルラスの一般均衡理論の構築方法に依存したものだというのです。

とするならば、渡辺さんの〈ワルラス革命を受け入れたうえで、財市場と貨幣(金融)市場の間に「均衡(パレート最適)」はありえるのか?〉という問題意識は、貨幣の中立性を信奉し、財市場と貨幣市場の矛盾・相克に無頓着な静態理論にとってみれば、あまりにも高級すぎるものである、ということになるのではないかと思われます。

次に貨幣数量説について。青木先生は、当学説が成り立つのは、完全雇用が実現し、「供給はそれみずからの需要を見出す」というセーの法則が当てはまる好景気のときだけであり、貨幣の一般理論とはなりえない、と言っています。だから、当学説の「貨幣量と物価水準との間に比例関係がある」とする俗耳に入りやすい理論が、完全雇用が実現していないごく普通の経済状態においても成り立つとするのは誤りである、となるでしょう。この場合、同理論を共有するケンブリッジ学派のマーシャルも、「新貨幣数量説」を提唱したフリードマンも、貨幣数量説グループに含まれます。

先生によれば、貨幣問題や国債問題をきちんと考えるうえでもっとも大切なのは、民間部門を、個人や一般企業から成る「民間非金融部門」(実体経済)と金融機関から成る「民間金融部門」(貨幣経済)とに分けることです。ちなみに、政府部門を先生は、「統合政府」部門とし、いわゆる政府と日銀とから成るとしています。

で、貨幣の分類になりますが、貨幣供給量(マネー・ストック)は、非金融部門(実体経済)が保有す現金(C1)と預金(D)の合計です。預金は、金融部門(貨幣経済)にとってはすべて負債になるので、金融部門の現金は、貨幣供給量としてカウントされません。また、ベースマネー(マネタリーベース、いわゆる真水)とは、非金融部門の保有する現金(C1)と金融部門が保有している現金(C2)の合計です。このC2は、日銀当座預金に超過準備として積まれています。

このC2の増加(いわゆる日銀の異次元緩和というやつですね)は、貨幣数量説(とリフレ派)に従うならば、物価の上昇を招くはずです。ところがそうはならない。それは実は当たり前のことです。なぜなら、C2の増加は、日銀と民間銀行とのお金と国債のやり取りにすぎないからです。言いかえれば、貨幣市場におけるお金の循環にほかならないからです。貨幣市場に新たに出回ったお金が、実体経済に流入し、名目GDPや物価に直接影響を与えるかどうかは、主に、実体経済サイドに資金需要があるかどうかにかかっている。青木先生は、そう主張しています。とても明晰なお話しなので、私は感服しました。

ちなみに、ヒックスが考案したIS-LM均衡モデルは、ケインズ経済学から、そのもっとも重要な要素である不確実性を削ぎ落としたもので、その流れを引き継ぐアメリカ・ケインジアンは、ケインズ経済学とは本質的に別物と考えたほうがよいそうです。ルーカス批判でルーカスが粉砕したのは、アメリカ・ケインジアンにほかならない、と。

なにか、ひとつでもお役に立てればと思います。
コメント (2)
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