美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件 (兵頭新児)

2016年06月22日 14時52分19秒 | 兵頭新児


http://www.nicovideo.jp/watch/sm1680289

 まずは、上の動画を見ていただけるでしょうか。
 十五分ほどのモノですので、お忙しいようでしたら本稿を読みながらでもご覧いただけると幸いです。
 ――と言いつつも、この動画についてはさておき……。

 目下、「サブカルvsオタクの争い」というものがあったか否かに関して、ツイッター界隈で話題になっております。

町山智浩・告知用?@TomoMachi
オタク対サブカルという本来はなかった対立項を無理やりデッチ上げたのはまったくロック的感性のないオタクアミーゴスの連中ですよ


竹熊健太郎《一直線》?@kentaro666
@makotoaida サブカルの短縮語を流行らせた中森明夫氏はアイドルオタクで、『漫画ブリッコ』と言うロリコン漫画誌で「おたく」の差別用語を提唱し、オタク読者の総スカンを食らって連載を辞めた後、朝日ジャーナルの「新人類の旗手たち」に登場して「新人類」として文化人になりました。


「新人類」はアイドルや漫画・アニメ・特撮と言ったサブカルを現代思想用語でインテリ的かつオシャレに語るというスタンスでブームを起こし、実際にオタク活動を行っていた岡田斗司夫氏らはブームに乗れなかったのでひがんでいたのです。

しかし90年代になって新人類の退潮とともに岡田氏らがマスコミに躍り出た途端、中森氏らサブカルを攻撃し始めたのです。私は両方と面識がありましたから様子を間近に見ています。サブカルとオタクは同根で、全共闘の内ゲバ同様、サブカルオタク世代の内ゲバに過ぎません。


 以上のように、この話題は町山智浩さんと竹熊健太郎さんが「本来、そうした争いがなかったにも関わらず、岡田斗司夫が私怨でそうした対立構造を捏造したのだ」といった主張をしたことがきっかけだったようです(町山さんの発言にある「オタクアミーゴス」というのは95年に結成された岡田さん、唐沢俊一さん、眠田直さんの三人によるオタク芸人ユニットです)。
 しかし……一読して竹熊さんの発言ってわけがわかりませんよね。
 呆れたように、以下のような突っ込みをする人も見られました。

つまり中森明夫がオタク差別を作り出して自分らだけオシャレサブカルやろうとしてたのを岡田斗司夫がキレて攻撃して対立が深まったと。いやまあそれはそうなるわな……。

 ぼく自身、竹熊さんのファンであり、町山さんにも必ずしも悪い感情を持ってはいないのですが、それにしても本件については非道いとしか言いようがない。「サブカル」陣営の発言がそのまま、彼らの誤りの実証になっているという「自爆芸」の様相すら呈しています。
 この、「サブカル」陣営の「オタク」陣営に対するナチュラルで頑迷な「ウエメセ(上から目線)」は一体、何に端を発するものなのでしょう?

 ――いえ、しかしその前に、こうした界隈に疎い方にしてみれば、「そもそもオタクとサブカルってどう違うんだ?」といった感想を抱かれるかも知れません。まずはそれについて、簡単にお答えしてみましょう。
 いささか乱暴ですが、以下のようなカテゴライズが、一つには可能であるかと思います。

 オタク:ノンポリ
 サブカル:左派


 即ち、「サブカルvsオタクの争い」というものは、「左派vsノンポリの争い」であると換言できるのではないか……ということです。
 ――いえ、関心を持っていただきたくていささか乱暴な結論を、先に書いてしまいました。もちろんこれは極論です。以下、多少詳しくご説明して参りましょう。
 そもそもこの「サブカル」という言葉ですが、もしこれを「サブカルチャー」と呼ぶとするならば、そこには「下位文化」といった意味しかありません。しかし「サブカル」と略された言葉を使う時、そこには何とはなしに独特のニュアンスが生じます。具体的にはロック文化であったりドラッグ文化であったり、ニューエイジ、ヒッピー文化であったり。まとめてしまえば、左派的と言っていい、70年代的なカウンターカルチャーをベースにした文化が「サブカル」であると、まず考えて間違いがいないように思います。
 翻って「オタク」となるとアニメ、漫画などの「児童文化」の中から突然変異的に生まれ、近年の新しい文化であるところのゲームやネットコンテンツなどを産み出し、「萌え」に代表されるような独自の進化を遂げた文化の一群、とでもいうことになりそうです。
 つまり、「サブカル」も「オタク」も「(価値中立的な言葉としての)サブカルチャー」の一カテゴリーであり、だから竹熊さんの「内ゲバ」という表現も一面の真理ではある。しかし、それぞれが独特のニュアンスを持ち、それぞれの独自性を持っているのもまた事実である、というわけですね。
 その意味でオタクの王、「オタキング」である岡田さんを、映画評論家である町山さん、漫画編集者である竹熊さんが批判しているのは象徴的です。町山さんは明らかにサブカル陣営、竹熊さんはサブカルとオタクのボーダー上に位置している人であると言っていいように思えますから。
 とはいえ、もう一つ基準を提示するならば、サブカルは70年代的感性、オタクは80年代以降の感性をベースにした文化である、と言ってもいいかも知れません。
 町山さん、竹熊さん、岡田さんはそれぞれ62年、60年、58年と近い生まれであり、彼らの青年期である80年代に「オタク文化」が生まれ、「サブカル」との世代交代があったのだと言えます。
 さて、それにしても、先に「サブカルはウエメセだ」と書きましたが、町山さんの「岡田にはロックの素養がない」発言しかり、彼らはどうにも、自分たちこそが正しい位置にいるのだ、と揺らぎない確信を抱いているように思われます。ツイッター界隈でも「マスに流されやすい」「大衆消費型のオタク」に対し、「サブカル=『兄貴世代への憧れ』。良識的大人に反抗するアウトサイダーへの賛美。」である、「その境界に、思春期の割礼があったかどうかという、モラトリアムの問題がある」といった主張をなさっていた方がいました。この方は「まんがのレコードを捨てたエピソード」を「割礼」に喩えていて、オタクは児童文化を愛する、子供のままのヤツらだ、とおっしゃりたいようです(いえ、それはその通りなのですが)。
 一方的に自分たちの方が優れているのだと放言を続け、「しかし争いはなかった」とぬけぬけ言う傲慢さと鈍感さには、苦笑を禁じ得ません。
 彼らの姿は、ぼくには「元・いじめられっ子が都会でそれなりに成功した折にふと現れた、高校時代のいじめっ子」に見えてしまいます。彼らはぼくたちの肩をバンバン叩いて「懐かしいなあ、昔よく遊んだよなあ、ところで羽振りよさそうだな」とこちらの身なりをじろじろと値踏みします。どうもぼくたちオタクが都会で商業的成功を得たことを、噂で聞き出したご様子です。
「サブカルvsオタクの争いはなかった」論はそんな彼らの「あれは可愛がりであり指導であり、いじめの事実はなかった」発言であると言えそうです。

 さて、ここで先にご覧いただいた『愛國戰隊大日本』が意味を持ってきます。
 北の大地から攻めてきた「レッドベアー団」が洗脳五ヶ年計画で日本侵略を企むのに対し、敢然と立ち向かう五人の若者、「愛國戰隊大日本」。レッドベアーが送り出してくる「ミンスク仮面」という怪人に、大日本は変身して、或いは巨大ロボ「大日本ロボ」を繰り出して対抗します。
 要するに『ゴレンジャー』などの戦隊物のパロディーであり、そもそも本作の着想が「もし、右翼が戦隊作品を作ったらどうなるか」というところに端を発しています。
 画質の悪い映像から想像がつくかと思いますが、本作は1982年に制作されたもの。脚本は岡田さん、また特撮、デザインを担当したのは庵野秀明さん(ナレーターを務めたのも庵野さんで、実は『風立ちぬ』に先駆けての声の出演をしているのです)。制作はダイコンフィルムですが、これは『エヴァンゲリオン』を作ったGAINAXのアマチュア時代の姿なのです。
 つまり本作は、オタク界の第一人者の、若かりし頃の習作と言えるものだったわけです。いささかおふざけの過ぎるもので、あまり表には出てこない作品ですが、いずれにせよ右も左も笑い飛ばした快作には違いがありません。
 当時、このようなものが出て来た背景にはやはり、学生運動後の政治に対するニヒリズムがあったことでしょう。ですが、やはり彼らの上の世代の人物たちはこうした作品を好ましく思わないらしく、当時、ソ連SFを好む当時のロートルSFクラブ・イスカーチェリから激しく論難されたと言います*1。
 そう、当時のオタクには上の世代の生硬さに対する嫌悪感が、少なからずあったわけです。そうしたニヒリズムは、手放しで全面的に素晴らしいと言えるものではないかも知れませんが、それなりに時代の必然ではありました*2。当時のオタクたちは特撮ヒーロー作品を熱心に視聴しつつ、同時にヒーローたちの「正義」の空虚さをさかんにからかうポーズを取っていました。『大日本』は、まさにそうした当時のオタクたちのメンタリティを体現したものだったと言えます。本作と同時に制作、上映された『快傑のーてんき』が、『快傑ズバット』*3というキザでスタイリッシュなヒーロー作品のパロディをデブ男が演じたものであったこともまた、同じ文脈から解読が可能です。
 岡田さんは以前、何かの番組で以下のようなことを言っていました。

「自分にしてみれば、上の世代が体制へのカウンターとして不良物のドラマなど(これは想像するに、アメリカン・ニューシネマなどをも指しているのしょう)を好んでいた様(さま)が、どうにもウザかった。そこでそれへの更なるカウンターとして、敢えて(高校生などいい年齢になってまで)子供番組を見ていたのだ。」

 記憶に依る要約で、正確さには欠けるかも知れませんが、これはオタク文化の特徴を的確に捉えた表現のように思います。
 この意見が、「サブカル」陣営の傲慢な自意識と対になっていることは、もう言うまでもないでしょう。
 そしてまた、体制へのカウンターとして始まったはずが、極めて抑圧的高圧的な性格を持つに至った現代の反ヘイトや反原発に対するぼくたちの違和感をも、岡田さんの視点は上手く説明しているように思います。

*1 これについては今世紀に入ってまだなお、『網状言論F改』の中で、岡田さん側を批判するネタとして蒸し返している人がいました。同書を編んだのが東浩紀さんであることが象徴するように、目下「オタクのスポークスマン」をもって任ずる人々はサブカル陣営か、オタクであってもそちらのスタンスに親和的な人たちばかりです。
*2 非常にマニアックな余談ですが、この図式は当時に描かれた漫画作品、『風の戦士ダン』と近しいものを感じます。これは『美味しんぼ』で有名な漫画原作者、雁屋哲さんの書いた「日本政府が世界征服を企み、政府直属の忍者集団がそれに反旗を翻す」という作品だったのですが、作画を担当したのが当時新人であったオタク世代の漫画家、島本和彦さんだったため、随所にギャグの入った快作として仕上がってしまいました。
*3『快傑ズバット』は「日本一のヒーロー役者」の誉れも高い宮内洋さん主演の、「渡り鳥シリーズ」を材に取った変身ヒーロー作品です。『快傑のーてんき』はそのイケメン主人公を世にも格好の悪いデブが演じて見せたところに面白さがあるわけです。


 ――さて、ちょっとここで町山さん、竹熊さんの物言いに立ち返ってみたいと思います。
「岡田が私怨でそうした対立構造を捏造したのだ」といった言い分は、しかし、「サブカル」側の主観に立てば、実に率直な実感なのだと思います。
 上に述べた「世代交代論」をここに導入してみると、彼らの言い分はサブカル世代のオタク世代に対する、「よくも俺たちの事務所から独立しやがったな」とでもいったぼやきとして解釈することが可能になります。
 そう考えてみれば、オタクにとってのバイブルとも言える『機動戦士ガンダム』は「地球連邦政府」の圧政に耐え兼ねた宇宙基地(スペースコロニーと呼ばれる、宇宙の植民地)が「ジオン公国」として独立戦争を仕掛ける物語でした。それと同様、或いはイギリスとアメリカの関係同様、オタクは独立戦争を起こしただけだったのではないか。
 いえ、むろん、逆に例えばですが、実は「地球の圧政」などなかったのに「ジオン公国」のトップが「独立」の口実としてそれを捏造したのだ――といったシナリオもあり得ます*4。そうなるとサブカル陣営の主張も正当性を帯びてきますし、恐らく町山さんや竹熊さんの言い分はそういったものなのではと思いますが、しかし、上の竹熊さんの発言自体が「連邦政府の圧政はあったよなあ……」という印象を、まずいことに裏づけてしまっています。竹熊さんが言及している中森さんは、「コミケに集う気持ちの悪い若者」を見下し、蔑んで「オタク」との呼称を提唱していたのです。ここ二十年、商業性と文化的な独立性を持つことで「しょうことなしに」世間に受け容れてもらえるようになっただけで、オタクは本来、「棄民」だったのです。
 それが、『エヴァ』の文化的商業的成功を見るや、今までオタクをバカにしていたサブカルが、どやどやと入ってきて弁当を広げ出した……それを今回の彼ら自身の発言こそが、裏づけてしまっています。
 2006年にはサブカル陣営による『嫌オタク流』という本が出されました。タイトルからもわかるようにこれは『嫌韓流』に影響を受けた本で、著者たちが何の根拠もなくオタクを韓国人差別者であり、女性差別者であり、黒人差別者であり、障害者差別者であるとただひたすら罵詈雑言を並べ立てる、まさにウルトラ級のトンデモ本。同書の帯には

本書を、
「オタクこそが優生種族である」
「市場原理によってオタクはオタク以外のものを淘汰した、我々の勝利だ!」と無邪気に信じている人々へ捧げる―――。


 などと書かれているのですが、そうした主張をしているオタクなど少数派でしょうし、言っているとしてもそれはむしろ、自らの地位が低いがために一種の逆説としての主張であることが大前提でしょう。もっとも、オタク文化に完全な敗北を喫しているサブカル側の主観では、世界がこのように見えてしまうというのは、わからない話ではないのですが。
 ここには、「反ヘイト」と自称している人々こそが非常に往々にして「ヘイト」的な振る舞いに出る現象と、全く構造が立ち現れています。
 もちろん、本書についてはさすがにあまりにも病的で、サブカル陣営の代表とすることは憚られるかも知れません。しかし、本書の著者たちの名前――中原昌也、高橋ヨシキ、海猫沢めろん、更科修一郎――を並べてみるとどうでしょう。前者二名は町山さんが創刊した『映画秘宝』に非常に縁深い人々です(翻って海猫沢さんはオタク側にも親和的で、本書の中でも一応、オタクの味方というスタンスです)。町山さんが彼らのこうした言動を知らないとは、考えにくい。にもかかわらず、まるでオタク側が一方的にサブカルにケンカを売っているかのように語るのは、アンフェア極まりありません。

*4 考えると『機動戦士クロスボーン・ガンダム』はそういう図式でした。革命家側に共感的な『ガンダム』ですが、若い世代によって作られたその派生作品がオリジナルとは異なり、「被害者を称する側の被害妄想」という「自己責任史観」を取っているのは示唆的です。

 もう一つ、彼らの発言を見ていて気づくのは、彼らが異常なまでに岡田さんを過大評価している点です。この傾向は町山さん、竹熊さん*5のみならず、往々にして見られるものです。これは、安倍さんさえやっつければ外交問題もエネルギー政策も全てが驚くほど簡単にクリアできるのだと考える人々のメンタリティに、何だか近い感じがします。
 しかし……ここまで見てくると、サブカルが若者たちの支持を失った原因は、別に岡田さんのせいではなく彼らの中にこそあるのでは、ということもわかってきたのではないでしょうか。
 上に、オタクとサブカルの違いを「思春期の割礼」に求めた意見を引用しました。
 それからちょっと、連想したことがあります。
『オバケのQ太郎』の正ちゃんには、伸ちゃんという中学生のお兄さんがいます。
『ドラえもん』ののび太は一人っ子です。
 何故でしょう。
『オバQ』は60年代から70年代にかけて描かれ、『ドラえもん』は70年代に始まり80年代にブレイクした作品。現実の世界でも一人っ子が増えて行ったという状況もあったでしょうが、『オバQ』の頃には青年文化に勢いがあったからということも、理由の一つでしょう。伸ちゃんはステレオでビートルズを聴いていたのです。
 80年代には青年文化に翳りが見られ、代わって子供文化が大人を巻き込むまでの勢いを持つに至りました。
 サブカルとは、そうした流れを理解することができず、オタクを弟分だと信じ続け、SEALDsのメンバーに加えようとし続ける、し続けつつ、それが叶わない人たちであったのです。

*5 ただし、竹熊さんは個人的に岡田さんとの確執があり、彼の立場はまた、独自のものかも知れません。両者のファンであるぼくとしては、見ていて心が痛むのですが。

■付記■
 もう十年前にも『ユリイカ』で「オタクvsサブカル』特集号が編まれたそうですが、さすがに入手して読むだけの余裕がありませんでした。
 同書も「オタクvsサブカルはなかった」的な論調になっていたようですが、これの責任編集は加野瀬未友。そう、以前にも「「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち」という記事で書かせていただきましたが、以前、デマを流してぼくを攻撃してきた御仁です。「オタク史はオタク修正主義の歴史そのもの」であることがわかりますね。
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