*新しい執筆者の登場です。オタクの切り口から斬新なフェミニズム批判を展開なさっています。
フェミニズムの同性愛聖化は、虚偽と虚妄に満ちている
「話は聞かせてもらった……人類は滅亡する!」
「な……なんだってーーー!?」
「間もなく地球の地軸が傾き、それに伴う大洪水のため、世界は壊滅状態に陥る! だが清い心を持った者だけは善なる宇宙人のUFOによって救われ、高次元の世界で第二の人生を送ることが許されるのだ!!」
――すみません、根っからオタクなものでついつい『MMR』ネタから始めてみましたが、ご機嫌いかがでしょうか、皆様。
初めまして、兵頭新児と申します。
今月の2日に行われましたトーク・イベント「あらためて、フェミニズムを斬る!」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/cf3e8ab2631348075fc606b85133f3ffに参加しまして、それをきっかけに美津島様とお話しさせていただき、今回こうしてブログにお邪魔させていただくことになりました。
さて、上のネタについてですが、『MMR』というのは90年代、『週刊少年マガジン』で連載されていたオカルト漫画です。何かと言えば『ノストラダムスの大予言』を持ち出しては「人類は滅亡する!」と危機を煽って、読者の少年たちを怯えさせるという内容でした。が、実際に上のような教義を説き、混乱を巻き起こしたCBA(宇宙友好協会)と呼ばれるUFOカルトが、かつての日本にも存在したのです。
いわゆるUFOカルトの人たちは宇宙人を「神様のように我々を導く善導者」と捕らえる傾向にあるようです(逆に、矢追さんのようにワルモノと考える人たちもいますが)。カルトのリーダーは自分がそうした正義の宇宙人とコンタクトし、宇宙人の覚えめでたい存在であることを根拠にカリスマとして振る舞います。そう考えるとオウムなどは「UFO」を「超能力」に置き換えただけのパクリだ、という感じもしないではありません。
単純なヤツらだ、これだからカルトはダメだと言いたいところですが、よく考えてみれば思想界隈の人たちも、似たようなものではないでしょうか(事実、この種のUFO信者には共産主義者崩れが多かったそうです)。
ぼくがちょっと思うのは、同性愛者という存在もまた、そうした「正義の宇宙人」と変わらない受け取り方をされているのではないか……ということです。
実は美津島様の著書で知ったのですが、浅田彰氏は『逃走論』において「ゲイは素晴らしい、そしてまたヘテロセクシャル男性でも男性の性役割から逃れようとする者はゲイの一種だ(大意)」といったどうにも脳天気なことを書いていたそうです。
そもそも「男性の性役割から逃げる」行為をそこまで無批判に正義だと考えること自体が理解しにくい上に、「ヘテロセクシャル男性でもそうした者はゲイだ」では実際の同性愛者の立場がなくなるような気がします。
ここには「理念」としての「同性愛者」像が「宇宙人」と同じような薄っぺらな「正義の味方」役として捏造されている様子が見て取れます。ただ、その意味で本物の「同性愛者」は被害者とも言えますが、同時にその「理念上の同性愛者」像に乗っかった同性愛者たちも少なくないだろうことは、留意する必要があるでしょう。
とにもかくにもここ二十年間ほど、同性愛者やセクシャルマイノリティたちは左派インテリたちの間で「無辜でキヨラカでその理解者足ることが絶対的価値を持つ究極の弱者」としての地位を誇ってきました。しかし、近年ではネットなどで彼ら自身の生の声が聞かれ、その「聖性」にクエスチョンマークがつけられる事態も多くなっている気がします(ツイッターなどで同性愛者やその共感者は「虹アイコン」をつけていることが多いのですが、弱者という立場に居直った聞くに堪えない罵詈雑言を並べ立てる方も少なくなく、自分たちの首を絞めているように思います)。
さて、今回は浅田氏と同じような「同性愛者=宇宙人説」を唱える御仁たちについて、ご紹介したいと思います。
J氏、N氏、そしてI氏の三人です(さんざん引っ張っておいて何ですが、少々事情があり、名前はイニシャル表記に留めます)。
お三方ともフェミニストであり、腐女子(ボーイズラブを好むオタク女子)であり、J氏が社会学者、N氏、I氏のお二人が小説家と、それなりに知名度を持った方々です。フェミニズムが同性愛者の運動と深く関わってきたこと、フェミニストが同性愛者を持ち上げる傾向があることは周知の通りですが、このお三方はあろうことか、同性愛者の子供への性的虐待を称揚する人物の振る舞いを頑迷に否定して、その人物を擁護し続けたのです。
順を追って説明しましょう。
お三方が擁護したのは、伊藤文学という人物です。
伊藤はホモ雑誌『薔薇族』を、四十年間もの長きに渡って刊行し続けた編集長です。「ゲイの解放に尽力した偉人」というのが一般的な評価でしょうし、それはそれで間違いではありません。
しかし伊藤の著書を見ていくと、彼が小児愛者に異常な肩入れをしている人物でもあることがわかるのです(ちなみに伊藤は子供を好む同性愛者を「少年愛者」と呼称していますが、本項では「小児愛者」で統一したいと思います)。
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』(九天社、2006)では親公認で小学生の少年と性交渉を持つ小児愛者のエピソードを紹介し、
その子は小学校の高学年になってくると、ひとりで彼の住む部屋にも訪ねてくるようになる。そうなれば当然のこと、子供と性交渉を持つようになっていくのは、自然のなりゆきだった。/十歳年上の男(註・この少年の伯父)もゲイだから、二人の関係についてはとやかくは言わない。お母さんも理解してくれている。(p117)
とまで言い、また『薔薇族』読者からの「少年愛者の心得」を説く投書、子供と性交渉を持つことを前提としたノウハウ集を
少年愛の人にとって、バイブルといっていい文章だ。(p256)
と絶賛する始末です。『『薔薇族』の人びと その素顔と舞台裏』(河出書房新社、2006)も見てみましょう。
その中でもうすぐ七〇歳に手が届くという人の話は感動的だった。なんと現在、小学六年生の男の子と付き合っていて、この子とは五年生のときにゲームセンターで知りあった。(P243)
ずばり少年とのセックスのことを聞いてみたが、最初はあったそうだが、今では精神的なもので、本当の息子のようにかわいがっている。(p244)
いかがでしょうか。伊藤の著作を見ていくと、以上のように小学生の子供を手懐け、セックスに誘導する行動を肯定する文章に、度々出くわすのです。
しかし、彼への批判は、どこからも聞こえてはきません。左派寄りのインテリたちが同性愛者に極度の信仰心を抱き、その言動には盲目的に賛同するのは先に書いた通りです。
ぼくは去年の秋、ツイッター上でフェミニストたちがあまりにも邪気なく伊藤を賞賛することに切れ、上の事実を指摘しました。問題のある記述を書名、ページと共に提示し、またその画像をネットにアップして「読んで欲しい」とお願いもしたのですが、彼女らはそれを最後まで認めようとはしませんでした。
J氏は比較的誠実に対話を持ってくださり、またぼくがしつこく食い下がることでとうとう、
伊藤文学さんの児童虐待に甘い側面を知らなかったことは認めますし今後気をつけます。
とおっしゃってくださり、ほっと胸を撫で下ろした――のですが……後ほど、態度をひるがえしてしまいました。
勘繰ることを許されるならば、後に述べるようにN氏がぼくを攻撃し出したのを見て、「戦況有利」と判断して対応を変えたように、ぼくには見えました。
このJ氏の後に話したのがN氏です。N氏は「十数年前から、子供の身を守る運動を展開している団体に所属している」と自称しておいででした。彼女が男児への性的虐待に憤り、「フェミニズムはそうした男性たちにこそ救いになる思想なのではないか」とツイートしているのを拝見して声をかけたところ、「実際にチェックしてみます。」とおっしゃってくださったのですが……一時間後には、J氏たちに対するぼくの態度を「フェアではない」などと難詰して、遁走してしまいました(どこがフェアでないのかはさっぱりわかりませんでしたが……)。
とは言え、J氏、N氏も全く反論をなさらなかったわけではありません。お二人とも伊藤の著作の中に、「少年への性行為、児童ポルノを否定的に書いている箇所がある、伊藤は子供との性行為など正当化してはいない」と反論してきたのです。
実のところ、この主張は間違いではありません。伊藤の著作を見ていくと、確かに小児愛者に「子供とセックスしてはいけない」と自制を呼びかける箇所に、何度も行き当たるのです。しかし子供との性行為を正当化する記述もまた、不思議なことに同じ本に同居しているのです。むろん、彼女らが挙げた著作の中にもそうした記述はありましたし、ぼくもそのことは指摘したのですが、やはり聞く耳は持っていただけませんでした。
伊藤は少年に対する性犯罪が起こるなど、風当たりが悪くなると場当たり的に子供との性行為を否定して見せ、ほとぼりが冷めるとまた肯定する。そして著作をまとめる時には考えなしにその時々に書いたエッセイを一冊に混載し、結果、主張に一貫性がなくなっている――といったところが実情なのです。
もうおわかりでしょう。J氏N氏のお二人は伊藤の著作をそれなりに読み込んでいます。しかしそれにも関わらず、問題発言については丁寧に丁寧にスルーしている。伊藤をカリスマ視するあまり、著作の中の快い部分だけしか目に入らなくなってしまっているのです。
J氏とN氏のぼくに対する反応が似通っているのは、上の点だけではありません。お二人とも、「兵頭は実際に児童や男性の性暴力被害者を救うために動いてる様子はない、伊藤と話をしようとしない(大意)」と、ぼくを腐しました。
しかし(一番悪いのは伊藤とはいえ)問題のある発言をスルーし続けている彼女らが批判されるのは当たり前のことだし、ましてや「実際に児童を性暴力から守る活動」をしていない者は相手を批判する資格がない、というのは全く不可解です。いえ、そもそも彼女らが「兵頭はそのような活動をしていない」「伊藤と話していない」とするのには何ら根拠はなく、単に彼女らが「きっと兵頭はそんなことをしていないに違いない」と思い込んでいるだけ、なのです。
またこちらの批判を曲解し、「漫画表現への攻撃」であると言い募ることも、お二人共通の反応でした。ぼくはあくまで実際の子供への性的虐待について指摘しているのですが、お二人の目には一体全体どうしたことか、「性的な漫画表現を規制しようとするワルモノ」に見えているようなのです。そもそもぼくはオタク向けのアダルト物のゲームシナリオや小説を書くことが本業であり、それらが規制されれば真っ先に首をくくらなければならない立場にあるのですが。
お二人の言は残念ながら、頭のてっぺんから足の爪先に至るまで、全て思い込みに支配されたものだったのです。
フェミニストにはこうした、「客観的な事実を認めようとはしない」「裏腹に論敵の主張は恣意的にねじ曲げてそれを吹聴するといった方が大変に多いように思います。
さて、上に「N氏がぼくを攻撃し出した」と書きましたが、それについても少し書かせていただきましょう。
私事で恐縮ですが、実はぼくはかつて、知らない間に彼女にお世話になっていたことがあったのです。諸事情で宙に浮いてしまった原稿を、知人の編集者さんに他の出版社へとご紹介いただいた折、N氏が仲介してくださっていたらしいのです。議論を続ける内、N氏はそのことをぼくに告げ、「その時の個人情報を知っているぞ」「編集者からあなたのことをいろいろ聞いているぞ」と言い立ててきました。同時に彼女のファン(N氏は有名な作家さんですから、ファンも多いのです)も彼女の言動に、一斉に唱和しました。その中にはI氏など、著名な作家さんもいました。どうやら彼女らの目には、事態が「大作家に粘着しているストーカーが、返り討ちにあった」というストーリーに見えていたようです。
さて、そのI氏もまたマニア間で人気のある小説家であり、「実在児童の人権擁護基金」の理事を務めていらっしゃいます。彼女はぼくの言動に対し、
まず最初に『伊藤文学さんの全著作、全発言を資料として用意して』『それを共有できる場をセッティングして』その上で特定の誰かに『この発言についての意見を聞きたい』という段取りなら『あり』だと思う。
(中略)
それが最低限度の礼儀。
と、おおせになりました。これが非現実的な空論であることは言うまでもありませんが、そもそも彼女自身が伊藤の著作に対して調べた様子がないのにぼくの指摘を否定しているのだから、全くもって奇妙な話です。
しかも上のつぶやきの直後に、彼女はぼくの著作に対して「読む気がしない」とした上で全否定なさったのです。彼女の辞書に「矛盾」の文字はないのでしょうか。むろんないのでしょう。
最後にC氏についても少し触れておきましょう。彼は(恐らく)男性で、左派寄りではあるものの、フェミニストというわけではなさそうです。また、上の方たちとは直接の関係はないようでした。この問題でもめている時に、たまたまC氏が著作で石原慎太郎氏と伊藤を比較し、後者を称揚していたのを見て、ツイッター上でこちらから声をかけてみたのです。
彼はぼくの伊藤文学に関する指摘を、当初はやはり認めようとはしませんでしたが、話す内に「『薔薇族』の編集者と知りあいなので問い質してみる」とおっしゃり、しばらくそのままになっておりました。先日そのことをふと思い出し、DMを送ろうとしたのですが、いつの間にやらブロックされていたのです。そもそも彼とは二、三言交わしただけで、言い争いなどにはならなかったと記憶しているのですが。ちなみに余談ですが、彼は「と学会」のメンバーであったりします。
これまでのぼくのお話しにおつきあいいただいた皆様は、どのようにお感じになったでしょうか。お疑いの向きはどうか調べてみていただきたいのですが、伊藤が子供への性的虐待を称揚してきたことは紛れもない、誰がどう見ても解釈の幅などない明白な事実です。しかしそれを目の前に突きつけられ、少なからぬフェミニストたちが事実を頑迷に否認し続けたのです。
男性の女性に対する振る舞いであれば、いかなる些細な言動もセクハラあるいは性的虐待に結びつけ、大騒ぎするフェミニストが、しかも性暴力から子供を守る運動をしてきたと自称している方が、何故このような態度を取り続けたのでしょうか。
J氏やN氏たちに対し、「児童虐待を擁護する人間の屑ども」と激しく憤る方もいました。N氏のぼくに対する言動についても「相手に知らさずに行ったことを後から恩に着せるのはどうなんだ」「恩を傘に批判を封じている」「まるで漫画に出て来る悪役そのままだ」、また「伊藤の醜聞を握りつぶしたくて、兵頭を黙らせたのだ」と指摘する方もいらっしゃいました。
が、少なくとも彼女らの意識の上では、それは違うのだろうと思います。彼女らにとっては本当に本件が「小児愛者という無辜なマイノリティへの心ない攻撃」、「自分が世話をした人間が恩を仇で返して絡んできた図」に見えてしまっているのだと思います。同様に、恐らくN氏が長年子供を守る運動を真摯になさってきたことにも嘘はないでしょう。
彼女らに悪意は、恐らく一切ありません。彼女らはただ、専ら善意で「同性愛者=無辜の弱者」との図式を鵜呑みにし、「伊藤=同性愛者の味方=正義」と短絡的に考え、そこから一歩も動けなくなっているだけなのです。
こうした彼女らの「徹底した思考の停止ぶり」は、先の浅田氏の発言と被っては見えないでしょうか。そこにあるのは「男性同性愛者=善/男性異性愛者=悪」という幼稚な二元論、一度描き上げられた「弱者地図」のアップデートができない動脈硬化ぶり、仲間内の批判が全く不可能な自浄能力のなさです。
ぼくは、左派が「弱者、マイノリティの味方」であろうとすることそれ自体は、大いに意義のあることだと思います。しかし彼ら彼女らは非常にしばしば単調で非現実的な「強者/弱者」「マジョリティ/マイノリティ」といった二元論に陥り、その弱者やマイノリティ側につくことで自らを正義であると規定してしまう傾向にあります。まるで、「宇宙人に認められた我々は選ばれし人間なのだ」との選民意識に陥ってしまった、UFOカルトの人々のように。
さて、冒頭で例に挙げたUFOカルトは、「悔い改めればノアの箱船に乗れる、我々だけは助かるのだ」といった信仰でした。
フェミニズムに理解のある素振りを見せる男性たちを見ていると、こうした「助かりたいがために必死で教祖様にお布施をする」「側近を目指して覚えめでたくなろうとする」的な嫌らしさが感じられます。
が……ここまでお読みになった皆様は、本件のフェミニストたちの伊藤に対する感情にも、ちょっとそうした匂いが感じられるとはお思いにならないでしょうか? 彼女らの振る舞いは、「伊藤という、同性愛者(=宇宙人)の覚えめでたい教祖」を崇拝する、一種のUFOカルトのように見えます。
そもそも今回の伊藤の問題発言は同性愛者ではなく小児愛者についてのものであり、また伊藤自身は同性愛者ですらありません。また、欧米ではNAMBLAなどといった少年を好む小児愛者の組織が「子供とのセックスを合法化せよ」などと運動し、ゲイの団体がそれに嫌悪を表明しているという事実もあります。
彼女らがそれを顧みず、非現実的な対応を繰り返したのは、彼女らにとって同性愛者とは、宇宙人同様の空疎なご神体だったからでした(*)。
また一方、彼女らはぼくが「漫画などの性表現を圧殺している」のだと、あり得ない曲解をした上で難詰してきました。
彼女らは腐女子であり、オタク女子です。先に申し上げた通り、ぼく自身オタクであり、オタクの悪口を書くことはしたくありません。また、ここまでお読みいただいた方は、さすがに彼女らは例外であり、いかにフェミニストも左派もその大多数はそこまで病的ではないだろう、とお思いかも知れません。が、オタク文化というものが漫画などのサブカルチャーに源流を持つことは厳然たる事実であり、その有力者はほとんどが左派寄りの人たちです。正直、この業界の上層部においては彼女らが少数派だというのは楽観的な見方ではないか……と思われるのです。
――いや、それはおかしい。ネット上では「オタクはネトウヨだ」といった言説がしょっちゅう聞かれるではないか。
そんな反論が聞こえてきそうです。しかしそうした声こそ、むしろオタク界の上層部の人たちが、(近年、ことに急速に増えた)オタク界のマジョリティたちを自分たちの意のままにできないことに焦れ、逆切れ気味に言い出したことのように思えます(これはまた、オタク界の上層部に君臨する人たちが必ずしも「オタク」のマジョリティと性質を同じくしない、言い換えればオタクの上層部に位置している人たちはオタクではなく、その先代に当たるサブカルチャーの愛好者たちである、ということでもあります)。
上に挙げた腐女子フェミニストたちも、オタク界で一定の地位を持った、言わば上層部のメンバーであると言えます(余談ですが、今のフェミニストたちのなかで腐女子の姿が大いに目立ちます。が、上と同様な理由で、若い腐女子たちの中のフェミニスト率がそれほど高いかは、大いに疑問です)。
そうした図式を念頭に置いた上で、近年のオタク界で妙に小児愛者を擁護する声が大きくなっている点を、ぼくは指摘したく思います。
つまり、彼女らの中には小児愛者の地位の地盤固めをするために、同性愛者を「政治利用」しようという意図があったのではないか。いえ仮にその意図はなくとも、結果的に「同性愛者という名の宇宙人にお布施を捧げることで、小児愛者も箱船に乗れるのだ」との教えを「布教」するような振る舞いをしてしまっているのではないか――との想像です。
一例を挙げると、「ペドフォビア」という言葉。ウィキペディアで「ペドフォビア」の項を見ると、
「小児性愛者嫌悪」。 社会的に使用される概念で、小児性愛者(ペドフィリア)を『過度に』嫌悪する心理。および、これを犯罪的人格とみなして攻撃・差別する事とされる。[要出典]
小児性愛者が、被害者意識や自己の性的嗜好の擁護から、『一般的な』小児性愛に対する反応までもペドフォビアとして主張することもあり、『過度な』嫌悪との線引きは難しい。[要出典]
とあり、[要出典]と繰り返されているように、どうも正当な学術用語ではないようです(「ホモフォビア」も学術的な用語なのかどうか、ぼくにはわかりませんが……)。
想像するに「ホモフォビア」の二番煎じを狙って、小児愛者の「ケンリ」を守るために作られたワードなのでしょう。
しかし「小児愛者は例え子供に手を出していなくても発見され次第、逮捕」といった法律でもあるならともかく、一般的な小児愛者への嫌悪感までをもこの言葉で断罪しようというのはいかにも乱暴であること、上にも指摘されている通りです。事実、ぼくはネット上で成人と子供の性行為を否定するだけで「ペドフォビア」呼ばわりをされるといった類の経験を、幾度かしてきました。
ここで少し補足させていただくと、いわゆる「オタク」に「ロリコン」が多いのは事実です。が、オタクが好むのは「萌えキャラ」に象徴されるように、あくまで架空のキャラクターです。またオタク向けのアダルトゲームや漫画などに小学生めいたキャラが多数登場することは事実であるものの、一般的には高校生クラスのキャラが人気であると言えます(作中では小学生、高校生と明言はされませんが……)。
近年、オタク人口が急増してからはいよいよ、オタクと真性の小児愛者の関係性は薄くなったというのが実情なのですが、オタク界の上層部には小児愛者が、或いは小児愛者を政治利用しようという意図を持った者がおり、敢えてオタクと小児愛者を混同することで後者を肯定するような危険な思想をばらまこうとしているのではないか……あくまで想像ですが、ぼくはそのような疑念を抱かずにはおれないのです。
本件はつまり、「同性愛者」という「宇宙人」を味方に引き入れることで正義を得たフェミニストや左派という「UFOカルト」が、「小児愛者」或いは「オタク」をも信徒にしようと奔走している、それに乗っかってしまうオタクも少なからずいる、そんな状況の一端を垣間見たものであると、そんなふうにまとめてしまえるように思うのです。
――最後に今回、ツイッター上でぼくともめたフェミニストの皆さんへ一言。万一、これをご覧になっていたとしたらお怒りのことでしょうが、どうかもう一度、冷静に伊藤の著作を調べてみてはいただけないでしょうか。ことにNさん、非礼は承知しておりますが、ぼくはこれでもかなりセーブして書いたつもりです。またJさん、ぼくがあなたにしつこく話したのは、こと本件については「フェミニストはこんな反社会的なことを言っているぜ、バーカ」で済ませるのではなく、「フェミニストにもわかっていただきたかった」からです。
それは、NさんやIさんが児童を虐待から守る活動をしていることが象徴するように、そうした分野にはフェミニズムの影響が、極めて大だからです。ことこれに限ってはフェミニストと敵対するより、そうした活動に一日の長のある人々に事実を理解してもらい、本当の意味で子供を守るための運動を展開して欲しい、と考えたからです。その意味で、Jさんが理解をひるがえしたのはいかにも残念でした。
同様に読者の方も、ぼくの主張にご納得いただけない向きは是非、伊藤の著作をチェックしてみてはいただけないでしょうか。
また上のフェミニストたちとのやり取りはtogetter、
伊藤文学の「子供とのセックス肯定」について(改訂版)(http://togetter.com/li/550318)
伊藤文学の「子供とのセックス肯定」についてⅡ(http://togetter.com/li/564318)
にまとめられています。伊藤の問題発言についてはぼくのブログの
伊藤文学の問題発言について(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar341241)
に引用しています。
(*)いえ、彼女らに聞けば、「私には大勢同性愛者の友人がいるぞ」とおっしゃるかも知れませんし、それは事実かも知れません。でも、伊藤文学って同性愛者には非常に嫌われている人物であり、仮に同性愛者の友人が多いなら、そういう風評も耳に入ってくるはずなんですけどね。
フェミニズムの同性愛聖化は、虚偽と虚妄に満ちている
「話は聞かせてもらった……人類は滅亡する!」
「な……なんだってーーー!?」
「間もなく地球の地軸が傾き、それに伴う大洪水のため、世界は壊滅状態に陥る! だが清い心を持った者だけは善なる宇宙人のUFOによって救われ、高次元の世界で第二の人生を送ることが許されるのだ!!」
――すみません、根っからオタクなものでついつい『MMR』ネタから始めてみましたが、ご機嫌いかがでしょうか、皆様。
初めまして、兵頭新児と申します。
今月の2日に行われましたトーク・イベント「あらためて、フェミニズムを斬る!」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/cf3e8ab2631348075fc606b85133f3ffに参加しまして、それをきっかけに美津島様とお話しさせていただき、今回こうしてブログにお邪魔させていただくことになりました。
さて、上のネタについてですが、『MMR』というのは90年代、『週刊少年マガジン』で連載されていたオカルト漫画です。何かと言えば『ノストラダムスの大予言』を持ち出しては「人類は滅亡する!」と危機を煽って、読者の少年たちを怯えさせるという内容でした。が、実際に上のような教義を説き、混乱を巻き起こしたCBA(宇宙友好協会)と呼ばれるUFOカルトが、かつての日本にも存在したのです。
いわゆるUFOカルトの人たちは宇宙人を「神様のように我々を導く善導者」と捕らえる傾向にあるようです(逆に、矢追さんのようにワルモノと考える人たちもいますが)。カルトのリーダーは自分がそうした正義の宇宙人とコンタクトし、宇宙人の覚えめでたい存在であることを根拠にカリスマとして振る舞います。そう考えるとオウムなどは「UFO」を「超能力」に置き換えただけのパクリだ、という感じもしないではありません。
単純なヤツらだ、これだからカルトはダメだと言いたいところですが、よく考えてみれば思想界隈の人たちも、似たようなものではないでしょうか(事実、この種のUFO信者には共産主義者崩れが多かったそうです)。
ぼくがちょっと思うのは、同性愛者という存在もまた、そうした「正義の宇宙人」と変わらない受け取り方をされているのではないか……ということです。
実は美津島様の著書で知ったのですが、浅田彰氏は『逃走論』において「ゲイは素晴らしい、そしてまたヘテロセクシャル男性でも男性の性役割から逃れようとする者はゲイの一種だ(大意)」といったどうにも脳天気なことを書いていたそうです。
そもそも「男性の性役割から逃げる」行為をそこまで無批判に正義だと考えること自体が理解しにくい上に、「ヘテロセクシャル男性でもそうした者はゲイだ」では実際の同性愛者の立場がなくなるような気がします。
ここには「理念」としての「同性愛者」像が「宇宙人」と同じような薄っぺらな「正義の味方」役として捏造されている様子が見て取れます。ただ、その意味で本物の「同性愛者」は被害者とも言えますが、同時にその「理念上の同性愛者」像に乗っかった同性愛者たちも少なくないだろうことは、留意する必要があるでしょう。
とにもかくにもここ二十年間ほど、同性愛者やセクシャルマイノリティたちは左派インテリたちの間で「無辜でキヨラカでその理解者足ることが絶対的価値を持つ究極の弱者」としての地位を誇ってきました。しかし、近年ではネットなどで彼ら自身の生の声が聞かれ、その「聖性」にクエスチョンマークがつけられる事態も多くなっている気がします(ツイッターなどで同性愛者やその共感者は「虹アイコン」をつけていることが多いのですが、弱者という立場に居直った聞くに堪えない罵詈雑言を並べ立てる方も少なくなく、自分たちの首を絞めているように思います)。
さて、今回は浅田氏と同じような「同性愛者=宇宙人説」を唱える御仁たちについて、ご紹介したいと思います。
J氏、N氏、そしてI氏の三人です(さんざん引っ張っておいて何ですが、少々事情があり、名前はイニシャル表記に留めます)。
お三方ともフェミニストであり、腐女子(ボーイズラブを好むオタク女子)であり、J氏が社会学者、N氏、I氏のお二人が小説家と、それなりに知名度を持った方々です。フェミニズムが同性愛者の運動と深く関わってきたこと、フェミニストが同性愛者を持ち上げる傾向があることは周知の通りですが、このお三方はあろうことか、同性愛者の子供への性的虐待を称揚する人物の振る舞いを頑迷に否定して、その人物を擁護し続けたのです。
順を追って説明しましょう。
お三方が擁護したのは、伊藤文学という人物です。
伊藤はホモ雑誌『薔薇族』を、四十年間もの長きに渡って刊行し続けた編集長です。「ゲイの解放に尽力した偉人」というのが一般的な評価でしょうし、それはそれで間違いではありません。
しかし伊藤の著書を見ていくと、彼が小児愛者に異常な肩入れをしている人物でもあることがわかるのです(ちなみに伊藤は子供を好む同性愛者を「少年愛者」と呼称していますが、本項では「小児愛者」で統一したいと思います)。
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』(九天社、2006)では親公認で小学生の少年と性交渉を持つ小児愛者のエピソードを紹介し、
その子は小学校の高学年になってくると、ひとりで彼の住む部屋にも訪ねてくるようになる。そうなれば当然のこと、子供と性交渉を持つようになっていくのは、自然のなりゆきだった。/十歳年上の男(註・この少年の伯父)もゲイだから、二人の関係についてはとやかくは言わない。お母さんも理解してくれている。(p117)
とまで言い、また『薔薇族』読者からの「少年愛者の心得」を説く投書、子供と性交渉を持つことを前提としたノウハウ集を
少年愛の人にとって、バイブルといっていい文章だ。(p256)
と絶賛する始末です。『『薔薇族』の人びと その素顔と舞台裏』(河出書房新社、2006)も見てみましょう。
その中でもうすぐ七〇歳に手が届くという人の話は感動的だった。なんと現在、小学六年生の男の子と付き合っていて、この子とは五年生のときにゲームセンターで知りあった。(P243)
ずばり少年とのセックスのことを聞いてみたが、最初はあったそうだが、今では精神的なもので、本当の息子のようにかわいがっている。(p244)
いかがでしょうか。伊藤の著作を見ていくと、以上のように小学生の子供を手懐け、セックスに誘導する行動を肯定する文章に、度々出くわすのです。
しかし、彼への批判は、どこからも聞こえてはきません。左派寄りのインテリたちが同性愛者に極度の信仰心を抱き、その言動には盲目的に賛同するのは先に書いた通りです。
ぼくは去年の秋、ツイッター上でフェミニストたちがあまりにも邪気なく伊藤を賞賛することに切れ、上の事実を指摘しました。問題のある記述を書名、ページと共に提示し、またその画像をネットにアップして「読んで欲しい」とお願いもしたのですが、彼女らはそれを最後まで認めようとはしませんでした。
J氏は比較的誠実に対話を持ってくださり、またぼくがしつこく食い下がることでとうとう、
伊藤文学さんの児童虐待に甘い側面を知らなかったことは認めますし今後気をつけます。
とおっしゃってくださり、ほっと胸を撫で下ろした――のですが……後ほど、態度をひるがえしてしまいました。
勘繰ることを許されるならば、後に述べるようにN氏がぼくを攻撃し出したのを見て、「戦況有利」と判断して対応を変えたように、ぼくには見えました。
このJ氏の後に話したのがN氏です。N氏は「十数年前から、子供の身を守る運動を展開している団体に所属している」と自称しておいででした。彼女が男児への性的虐待に憤り、「フェミニズムはそうした男性たちにこそ救いになる思想なのではないか」とツイートしているのを拝見して声をかけたところ、「実際にチェックしてみます。」とおっしゃってくださったのですが……一時間後には、J氏たちに対するぼくの態度を「フェアではない」などと難詰して、遁走してしまいました(どこがフェアでないのかはさっぱりわかりませんでしたが……)。
とは言え、J氏、N氏も全く反論をなさらなかったわけではありません。お二人とも伊藤の著作の中に、「少年への性行為、児童ポルノを否定的に書いている箇所がある、伊藤は子供との性行為など正当化してはいない」と反論してきたのです。
実のところ、この主張は間違いではありません。伊藤の著作を見ていくと、確かに小児愛者に「子供とセックスしてはいけない」と自制を呼びかける箇所に、何度も行き当たるのです。しかし子供との性行為を正当化する記述もまた、不思議なことに同じ本に同居しているのです。むろん、彼女らが挙げた著作の中にもそうした記述はありましたし、ぼくもそのことは指摘したのですが、やはり聞く耳は持っていただけませんでした。
伊藤は少年に対する性犯罪が起こるなど、風当たりが悪くなると場当たり的に子供との性行為を否定して見せ、ほとぼりが冷めるとまた肯定する。そして著作をまとめる時には考えなしにその時々に書いたエッセイを一冊に混載し、結果、主張に一貫性がなくなっている――といったところが実情なのです。
もうおわかりでしょう。J氏N氏のお二人は伊藤の著作をそれなりに読み込んでいます。しかしそれにも関わらず、問題発言については丁寧に丁寧にスルーしている。伊藤をカリスマ視するあまり、著作の中の快い部分だけしか目に入らなくなってしまっているのです。
J氏とN氏のぼくに対する反応が似通っているのは、上の点だけではありません。お二人とも、「兵頭は実際に児童や男性の性暴力被害者を救うために動いてる様子はない、伊藤と話をしようとしない(大意)」と、ぼくを腐しました。
しかし(一番悪いのは伊藤とはいえ)問題のある発言をスルーし続けている彼女らが批判されるのは当たり前のことだし、ましてや「実際に児童を性暴力から守る活動」をしていない者は相手を批判する資格がない、というのは全く不可解です。いえ、そもそも彼女らが「兵頭はそのような活動をしていない」「伊藤と話していない」とするのには何ら根拠はなく、単に彼女らが「きっと兵頭はそんなことをしていないに違いない」と思い込んでいるだけ、なのです。
またこちらの批判を曲解し、「漫画表現への攻撃」であると言い募ることも、お二人共通の反応でした。ぼくはあくまで実際の子供への性的虐待について指摘しているのですが、お二人の目には一体全体どうしたことか、「性的な漫画表現を規制しようとするワルモノ」に見えているようなのです。そもそもぼくはオタク向けのアダルト物のゲームシナリオや小説を書くことが本業であり、それらが規制されれば真っ先に首をくくらなければならない立場にあるのですが。
お二人の言は残念ながら、頭のてっぺんから足の爪先に至るまで、全て思い込みに支配されたものだったのです。
フェミニストにはこうした、「客観的な事実を認めようとはしない」「裏腹に論敵の主張は恣意的にねじ曲げてそれを吹聴するといった方が大変に多いように思います。
さて、上に「N氏がぼくを攻撃し出した」と書きましたが、それについても少し書かせていただきましょう。
私事で恐縮ですが、実はぼくはかつて、知らない間に彼女にお世話になっていたことがあったのです。諸事情で宙に浮いてしまった原稿を、知人の編集者さんに他の出版社へとご紹介いただいた折、N氏が仲介してくださっていたらしいのです。議論を続ける内、N氏はそのことをぼくに告げ、「その時の個人情報を知っているぞ」「編集者からあなたのことをいろいろ聞いているぞ」と言い立ててきました。同時に彼女のファン(N氏は有名な作家さんですから、ファンも多いのです)も彼女の言動に、一斉に唱和しました。その中にはI氏など、著名な作家さんもいました。どうやら彼女らの目には、事態が「大作家に粘着しているストーカーが、返り討ちにあった」というストーリーに見えていたようです。
さて、そのI氏もまたマニア間で人気のある小説家であり、「実在児童の人権擁護基金」の理事を務めていらっしゃいます。彼女はぼくの言動に対し、
まず最初に『伊藤文学さんの全著作、全発言を資料として用意して』『それを共有できる場をセッティングして』その上で特定の誰かに『この発言についての意見を聞きたい』という段取りなら『あり』だと思う。
(中略)
それが最低限度の礼儀。
と、おおせになりました。これが非現実的な空論であることは言うまでもありませんが、そもそも彼女自身が伊藤の著作に対して調べた様子がないのにぼくの指摘を否定しているのだから、全くもって奇妙な話です。
しかも上のつぶやきの直後に、彼女はぼくの著作に対して「読む気がしない」とした上で全否定なさったのです。彼女の辞書に「矛盾」の文字はないのでしょうか。むろんないのでしょう。
最後にC氏についても少し触れておきましょう。彼は(恐らく)男性で、左派寄りではあるものの、フェミニストというわけではなさそうです。また、上の方たちとは直接の関係はないようでした。この問題でもめている時に、たまたまC氏が著作で石原慎太郎氏と伊藤を比較し、後者を称揚していたのを見て、ツイッター上でこちらから声をかけてみたのです。
彼はぼくの伊藤文学に関する指摘を、当初はやはり認めようとはしませんでしたが、話す内に「『薔薇族』の編集者と知りあいなので問い質してみる」とおっしゃり、しばらくそのままになっておりました。先日そのことをふと思い出し、DMを送ろうとしたのですが、いつの間にやらブロックされていたのです。そもそも彼とは二、三言交わしただけで、言い争いなどにはならなかったと記憶しているのですが。ちなみに余談ですが、彼は「と学会」のメンバーであったりします。
これまでのぼくのお話しにおつきあいいただいた皆様は、どのようにお感じになったでしょうか。お疑いの向きはどうか調べてみていただきたいのですが、伊藤が子供への性的虐待を称揚してきたことは紛れもない、誰がどう見ても解釈の幅などない明白な事実です。しかしそれを目の前に突きつけられ、少なからぬフェミニストたちが事実を頑迷に否認し続けたのです。
男性の女性に対する振る舞いであれば、いかなる些細な言動もセクハラあるいは性的虐待に結びつけ、大騒ぎするフェミニストが、しかも性暴力から子供を守る運動をしてきたと自称している方が、何故このような態度を取り続けたのでしょうか。
J氏やN氏たちに対し、「児童虐待を擁護する人間の屑ども」と激しく憤る方もいました。N氏のぼくに対する言動についても「相手に知らさずに行ったことを後から恩に着せるのはどうなんだ」「恩を傘に批判を封じている」「まるで漫画に出て来る悪役そのままだ」、また「伊藤の醜聞を握りつぶしたくて、兵頭を黙らせたのだ」と指摘する方もいらっしゃいました。
が、少なくとも彼女らの意識の上では、それは違うのだろうと思います。彼女らにとっては本当に本件が「小児愛者という無辜なマイノリティへの心ない攻撃」、「自分が世話をした人間が恩を仇で返して絡んできた図」に見えてしまっているのだと思います。同様に、恐らくN氏が長年子供を守る運動を真摯になさってきたことにも嘘はないでしょう。
彼女らに悪意は、恐らく一切ありません。彼女らはただ、専ら善意で「同性愛者=無辜の弱者」との図式を鵜呑みにし、「伊藤=同性愛者の味方=正義」と短絡的に考え、そこから一歩も動けなくなっているだけなのです。
こうした彼女らの「徹底した思考の停止ぶり」は、先の浅田氏の発言と被っては見えないでしょうか。そこにあるのは「男性同性愛者=善/男性異性愛者=悪」という幼稚な二元論、一度描き上げられた「弱者地図」のアップデートができない動脈硬化ぶり、仲間内の批判が全く不可能な自浄能力のなさです。
ぼくは、左派が「弱者、マイノリティの味方」であろうとすることそれ自体は、大いに意義のあることだと思います。しかし彼ら彼女らは非常にしばしば単調で非現実的な「強者/弱者」「マジョリティ/マイノリティ」といった二元論に陥り、その弱者やマイノリティ側につくことで自らを正義であると規定してしまう傾向にあります。まるで、「宇宙人に認められた我々は選ばれし人間なのだ」との選民意識に陥ってしまった、UFOカルトの人々のように。
さて、冒頭で例に挙げたUFOカルトは、「悔い改めればノアの箱船に乗れる、我々だけは助かるのだ」といった信仰でした。
フェミニズムに理解のある素振りを見せる男性たちを見ていると、こうした「助かりたいがために必死で教祖様にお布施をする」「側近を目指して覚えめでたくなろうとする」的な嫌らしさが感じられます。
が……ここまでお読みになった皆様は、本件のフェミニストたちの伊藤に対する感情にも、ちょっとそうした匂いが感じられるとはお思いにならないでしょうか? 彼女らの振る舞いは、「伊藤という、同性愛者(=宇宙人)の覚えめでたい教祖」を崇拝する、一種のUFOカルトのように見えます。
そもそも今回の伊藤の問題発言は同性愛者ではなく小児愛者についてのものであり、また伊藤自身は同性愛者ですらありません。また、欧米ではNAMBLAなどといった少年を好む小児愛者の組織が「子供とのセックスを合法化せよ」などと運動し、ゲイの団体がそれに嫌悪を表明しているという事実もあります。
彼女らがそれを顧みず、非現実的な対応を繰り返したのは、彼女らにとって同性愛者とは、宇宙人同様の空疎なご神体だったからでした(*)。
また一方、彼女らはぼくが「漫画などの性表現を圧殺している」のだと、あり得ない曲解をした上で難詰してきました。
彼女らは腐女子であり、オタク女子です。先に申し上げた通り、ぼく自身オタクであり、オタクの悪口を書くことはしたくありません。また、ここまでお読みいただいた方は、さすがに彼女らは例外であり、いかにフェミニストも左派もその大多数はそこまで病的ではないだろう、とお思いかも知れません。が、オタク文化というものが漫画などのサブカルチャーに源流を持つことは厳然たる事実であり、その有力者はほとんどが左派寄りの人たちです。正直、この業界の上層部においては彼女らが少数派だというのは楽観的な見方ではないか……と思われるのです。
――いや、それはおかしい。ネット上では「オタクはネトウヨだ」といった言説がしょっちゅう聞かれるではないか。
そんな反論が聞こえてきそうです。しかしそうした声こそ、むしろオタク界の上層部の人たちが、(近年、ことに急速に増えた)オタク界のマジョリティたちを自分たちの意のままにできないことに焦れ、逆切れ気味に言い出したことのように思えます(これはまた、オタク界の上層部に君臨する人たちが必ずしも「オタク」のマジョリティと性質を同じくしない、言い換えればオタクの上層部に位置している人たちはオタクではなく、その先代に当たるサブカルチャーの愛好者たちである、ということでもあります)。
上に挙げた腐女子フェミニストたちも、オタク界で一定の地位を持った、言わば上層部のメンバーであると言えます(余談ですが、今のフェミニストたちのなかで腐女子の姿が大いに目立ちます。が、上と同様な理由で、若い腐女子たちの中のフェミニスト率がそれほど高いかは、大いに疑問です)。
そうした図式を念頭に置いた上で、近年のオタク界で妙に小児愛者を擁護する声が大きくなっている点を、ぼくは指摘したく思います。
つまり、彼女らの中には小児愛者の地位の地盤固めをするために、同性愛者を「政治利用」しようという意図があったのではないか。いえ仮にその意図はなくとも、結果的に「同性愛者という名の宇宙人にお布施を捧げることで、小児愛者も箱船に乗れるのだ」との教えを「布教」するような振る舞いをしてしまっているのではないか――との想像です。
一例を挙げると、「ペドフォビア」という言葉。ウィキペディアで「ペドフォビア」の項を見ると、
「小児性愛者嫌悪」。 社会的に使用される概念で、小児性愛者(ペドフィリア)を『過度に』嫌悪する心理。および、これを犯罪的人格とみなして攻撃・差別する事とされる。[要出典]
小児性愛者が、被害者意識や自己の性的嗜好の擁護から、『一般的な』小児性愛に対する反応までもペドフォビアとして主張することもあり、『過度な』嫌悪との線引きは難しい。[要出典]
とあり、[要出典]と繰り返されているように、どうも正当な学術用語ではないようです(「ホモフォビア」も学術的な用語なのかどうか、ぼくにはわかりませんが……)。
想像するに「ホモフォビア」の二番煎じを狙って、小児愛者の「ケンリ」を守るために作られたワードなのでしょう。
しかし「小児愛者は例え子供に手を出していなくても発見され次第、逮捕」といった法律でもあるならともかく、一般的な小児愛者への嫌悪感までをもこの言葉で断罪しようというのはいかにも乱暴であること、上にも指摘されている通りです。事実、ぼくはネット上で成人と子供の性行為を否定するだけで「ペドフォビア」呼ばわりをされるといった類の経験を、幾度かしてきました。
ここで少し補足させていただくと、いわゆる「オタク」に「ロリコン」が多いのは事実です。が、オタクが好むのは「萌えキャラ」に象徴されるように、あくまで架空のキャラクターです。またオタク向けのアダルトゲームや漫画などに小学生めいたキャラが多数登場することは事実であるものの、一般的には高校生クラスのキャラが人気であると言えます(作中では小学生、高校生と明言はされませんが……)。
近年、オタク人口が急増してからはいよいよ、オタクと真性の小児愛者の関係性は薄くなったというのが実情なのですが、オタク界の上層部には小児愛者が、或いは小児愛者を政治利用しようという意図を持った者がおり、敢えてオタクと小児愛者を混同することで後者を肯定するような危険な思想をばらまこうとしているのではないか……あくまで想像ですが、ぼくはそのような疑念を抱かずにはおれないのです。
本件はつまり、「同性愛者」という「宇宙人」を味方に引き入れることで正義を得たフェミニストや左派という「UFOカルト」が、「小児愛者」或いは「オタク」をも信徒にしようと奔走している、それに乗っかってしまうオタクも少なからずいる、そんな状況の一端を垣間見たものであると、そんなふうにまとめてしまえるように思うのです。
――最後に今回、ツイッター上でぼくともめたフェミニストの皆さんへ一言。万一、これをご覧になっていたとしたらお怒りのことでしょうが、どうかもう一度、冷静に伊藤の著作を調べてみてはいただけないでしょうか。ことにNさん、非礼は承知しておりますが、ぼくはこれでもかなりセーブして書いたつもりです。またJさん、ぼくがあなたにしつこく話したのは、こと本件については「フェミニストはこんな反社会的なことを言っているぜ、バーカ」で済ませるのではなく、「フェミニストにもわかっていただきたかった」からです。
それは、NさんやIさんが児童を虐待から守る活動をしていることが象徴するように、そうした分野にはフェミニズムの影響が、極めて大だからです。ことこれに限ってはフェミニストと敵対するより、そうした活動に一日の長のある人々に事実を理解してもらい、本当の意味で子供を守るための運動を展開して欲しい、と考えたからです。その意味で、Jさんが理解をひるがえしたのはいかにも残念でした。
同様に読者の方も、ぼくの主張にご納得いただけない向きは是非、伊藤の著作をチェックしてみてはいただけないでしょうか。
また上のフェミニストたちとのやり取りはtogetter、
伊藤文学の「子供とのセックス肯定」について(改訂版)(http://togetter.com/li/550318)
伊藤文学の「子供とのセックス肯定」についてⅡ(http://togetter.com/li/564318)
にまとめられています。伊藤の問題発言についてはぼくのブログの
伊藤文学の問題発言について(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar341241)
に引用しています。
(*)いえ、彼女らに聞けば、「私には大勢同性愛者の友人がいるぞ」とおっしゃるかも知れませんし、それは事実かも知れません。でも、伊藤文学って同性愛者には非常に嫌われている人物であり、仮に同性愛者の友人が多いなら、そういう風評も耳に入ってくるはずなんですけどね。
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