山本太郎の何が本当は問題なのか
――山本太郎・手紙騒動再論――
以下は、11月3日、当ブログに投稿した拙文「山本太郎の手紙騒動は低レベルの深刻な問題である」に対する宮崎二健さんのFBコメントへの自分の返事を加筆・訂正したものです。
*****
コメント、ありがとうございます。この問題の根は深いと思います。
一般国民が、山本太郎に不快感を募らせているのは、実に素朴で、彼の振る舞いが、鎮魂を司る祭祀王としての天皇に「ケガレ」をもたらしたからです。国民は、そのことに素直に反応しているだけなのですが、それが、おバカで鈍感な山本太郎にはどうやら通じないらしい。彼としては、首をひねるばかりです。そんな奴だから、今回のような騒ぎを起こした、とも言えるのです。また、同じことは、彼に投票した六十万人にも言えます。同じような鈍感さを共有しているからこそ彼に投票したのでしょう。「別に構わないじゃん。いいじゃん、いいじゃん」という例の殺伐としたノリですね。彼らも、一般国民がどうして不快感を示すのかさっぱりわからないのでしょうね。山本太郎とその支持者とは、そういう悪質な感性を共有しているのです。困ったことです。
「鎮魂を司る祭祀王としての天皇」について、いささか確認をしておきましょう。それが顔をのぞかせたのは、最近では、東日本大震災のときでした。当時の総理大臣だった菅直人が被災地に顔を出しても、「もう帰るのか。それで済むと思っているのか」と非難・罵倒されるのがオチだったのにひきかえ、天皇皇后両陛下が被災地を訪れ被災者にお声をかけられると、被災民たちは素直に両手を合わせて涙を流さんばかりでした。その光景をテレビで観て、私は素直に感動しました。「やはり、天皇でなければどうにもならない局面があるのだな」と思いました。同じ感想を持たれた方が、けっこういらっしゃるのではないかと思われます。それは理屈ではありませんね。
「天皇でなければどうにもならない局面」の最たるものが、一九四五年八月十五日だったのではないでしょうか。当時の日本国民のひとりひとりの思いはそれこそ十人十色だったのでしょうが、彼らが筆舌に尽くしがたいほどの多大の犠牲を払って、それぞれのポジションで大東亜戦争を戦い抜いてきたことは確かなことだったでしょう。すでに死者が膨大な数にのぼっていることも周知されていました。そのことを踏まえながら、敗戦の事実を国民に対して厳粛な空気のなかで告知し、その受け入れがたい事実を国民に受け入れさせることのできる存在は、天皇よりほかにはいなかった。そのことの深い意味を、『神やぶれたまはず』の長谷川三千子氏は、佐藤卓巳氏の『八月十五日の神話』を援用しながら、次にように述べています。
佐藤氏は、竹山昭子氏の『玉音放送』を引用して、「この放送の祭儀的性格」を指摘する。すなわち、それは単なる「降伏の告知」ではなく、「各家庭、各職場に儀式空間をもたらした」出来事であり、この放送を通じて国民全体が「儀式への参加」をした。だからこそそれが「忘れられない集合的記憶の核として残った」のだ、と佐藤氏は述べるのである。さらに氏は「この場合、昭和天皇が行使したのは、国家元首としての統治権でも大元帥の統帥権でもなく、古来から続いた祭司王としての祭祀大権であった」と述べて、この八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつたことを指摘してゐるのである。
八月十五日の天皇が、祭祀王として国民の前に登場したのは、たまたまそうだということではもちろんありません。そのことは、天皇という存在の根幹に関わることなのです。
和辻哲郎は、『日本倫理思想史』(一九五二年)において『古事記』を精密に分析して、次のようなことを言っています。すなわち、天皇は西欧における神のように一方的に祀られるものではなく、どこまでも「祀られる神」であると同時に神を祀る祭祀者であるという無限連鎖が存する。その帰結をどこまでもたどろうとすると、ついには虚空に消えてしまう。そこに、天皇存在の世界史的な意味での特異性がある、と。
いろいろと申し上げましたが、要するに、一般国民が山本太郎に対する振る舞いに対して示している不快感は、素朴なものであると同時に、天皇の歴史性に深く根ざしている、ということが言いたいのです。
ところが、日本が豊かな社会を実現し、大衆個人主義が浸透する過程で、そういう歴史的なコモンセンスを共有できない人びとが無視し得ない率で増えつつある。今回の騒動は、そういう危機的な事態を露呈した。そう考えるべきではないでしょうか。
そうであるからといって、そういう事態を野放しにすることに、私は与しえません。なぜなら、マルクスがいうごとく「無知が栄えたためしはない」からです。
鈍感で無知な彼らには、越えてはならない一線を越えるとどうなるのか、社会的にちゃんと分からせる必要があります。その姿勢を緩めれば、これまで国の秩序を根のところで支えてきたものに、確実に罅(ひび)が入ることになります。蟻の一穴ということです。山本太郎はバカで無能ですが、彼が国会議員というエリートの地位にあることは事実です。その地位を担うには、国民として踏まえるべきコモンセンスはちゃんと踏まえるという当然の義務が含まれます。彼には、その自然感覚の義務意識が欠如していることが今回の件ではっきりしたのですから、議員を辞するよりほかに道はないのです。そうしなければ、山本太郎と悪しき感性を共有する者たちに、間違ったメッセージを送ることになります。それは、お国柄の崩壊という致命的な事態に道を開く、終わりの始まりになる危険があるのです。
国を支えるものは、自然環境と同じで、壊すのはとても簡単ですが、一度壊すと修復するのはとても大変なのです。お国柄は、里山のようなものなのです。それをぶち壊すに任せれば、後には、殺伐とした住みにくい場所が残されるだけなのです。これは、憲法に国民主権が規定されていようとどうだろうと、そのこととはほとんど関わりのないことです。お国柄は、憲法によって規定される側面があると同時に、それを越える側面も確実にあります。私たちは、目に見えない伝統や慣習の網の目に支えられて生きているのです。そのことに対して、私たちは、あくまでも謙虚であらねばならないと、私は考えます。二健さんも、おそらくそうなのではないかと拝察いたします。
二健さんに対してではないのですが、念のために今一度言っておきたいことがあります。私が今回申し上げたことに、反原発議論の代理戦争の意図を深読みするのは、やめていただきたいということです。そんな不純な(?)動機は、これっぽっちもございません。むしろ、真面目に反原発運動を展開している人の立場を想像して、山本太郎とどう距離をとるのか苦慮していることだろうな、としなくてもいい心配をしてくるくらいなのです。政治的な立場にかかわらず、今回の件のひどさ、愚かしさは限度を超えていると、普通の人なら思うのではないでしょうか。
〔付記〕(2013・12・26 記す)
後日、当問題が思わぬ波及をして、脱原発・市民団体を解散させるに至った、ということを知りました。具体的には、静岡県焼津市の市民グループ「くろしおネットはまおか」が11月8日、同市の静岡福祉大で10日に予定していた山本太郎参院議員の講演会を中止することを決め、さらに多くの人に迷惑をかけたことの責任を取るために、担当者が、同グループを解散させる意思決定をしたというのです。
山本太郎は、自分の無思慮な振る舞いのせいで、自分と信条を共有しているはずの市民団体を解散に追い込んだのです。彼は、少なくとも、脱原発の仲間に対して土下座をして謝るべきでしょう。彼は、そうしたのでしょう。してないでしょう?やはり、この問題に関わっていると、不快感がせり上がってくるのを如何ともしがたい思いに襲われます。救いがたいバカが、国家の手厚い保護のもとに、国民のリーダーを気取って高給を貪るのを座視するほかないのは、片腹痛いこと限りなし、というよりほかはありません。http://www.hoshusokuhou.com/archives/33912840.html
――山本太郎・手紙騒動再論――
以下は、11月3日、当ブログに投稿した拙文「山本太郎の手紙騒動は低レベルの深刻な問題である」に対する宮崎二健さんのFBコメントへの自分の返事を加筆・訂正したものです。
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コメント、ありがとうございます。この問題の根は深いと思います。
一般国民が、山本太郎に不快感を募らせているのは、実に素朴で、彼の振る舞いが、鎮魂を司る祭祀王としての天皇に「ケガレ」をもたらしたからです。国民は、そのことに素直に反応しているだけなのですが、それが、おバカで鈍感な山本太郎にはどうやら通じないらしい。彼としては、首をひねるばかりです。そんな奴だから、今回のような騒ぎを起こした、とも言えるのです。また、同じことは、彼に投票した六十万人にも言えます。同じような鈍感さを共有しているからこそ彼に投票したのでしょう。「別に構わないじゃん。いいじゃん、いいじゃん」という例の殺伐としたノリですね。彼らも、一般国民がどうして不快感を示すのかさっぱりわからないのでしょうね。山本太郎とその支持者とは、そういう悪質な感性を共有しているのです。困ったことです。
「鎮魂を司る祭祀王としての天皇」について、いささか確認をしておきましょう。それが顔をのぞかせたのは、最近では、東日本大震災のときでした。当時の総理大臣だった菅直人が被災地に顔を出しても、「もう帰るのか。それで済むと思っているのか」と非難・罵倒されるのがオチだったのにひきかえ、天皇皇后両陛下が被災地を訪れ被災者にお声をかけられると、被災民たちは素直に両手を合わせて涙を流さんばかりでした。その光景をテレビで観て、私は素直に感動しました。「やはり、天皇でなければどうにもならない局面があるのだな」と思いました。同じ感想を持たれた方が、けっこういらっしゃるのではないかと思われます。それは理屈ではありませんね。
「天皇でなければどうにもならない局面」の最たるものが、一九四五年八月十五日だったのではないでしょうか。当時の日本国民のひとりひとりの思いはそれこそ十人十色だったのでしょうが、彼らが筆舌に尽くしがたいほどの多大の犠牲を払って、それぞれのポジションで大東亜戦争を戦い抜いてきたことは確かなことだったでしょう。すでに死者が膨大な数にのぼっていることも周知されていました。そのことを踏まえながら、敗戦の事実を国民に対して厳粛な空気のなかで告知し、その受け入れがたい事実を国民に受け入れさせることのできる存在は、天皇よりほかにはいなかった。そのことの深い意味を、『神やぶれたまはず』の長谷川三千子氏は、佐藤卓巳氏の『八月十五日の神話』を援用しながら、次にように述べています。
佐藤氏は、竹山昭子氏の『玉音放送』を引用して、「この放送の祭儀的性格」を指摘する。すなわち、それは単なる「降伏の告知」ではなく、「各家庭、各職場に儀式空間をもたらした」出来事であり、この放送を通じて国民全体が「儀式への参加」をした。だからこそそれが「忘れられない集合的記憶の核として残った」のだ、と佐藤氏は述べるのである。さらに氏は「この場合、昭和天皇が行使したのは、国家元首としての統治権でも大元帥の統帥権でもなく、古来から続いた祭司王としての祭祀大権であった」と述べて、この八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつたことを指摘してゐるのである。
八月十五日の天皇が、祭祀王として国民の前に登場したのは、たまたまそうだということではもちろんありません。そのことは、天皇という存在の根幹に関わることなのです。
和辻哲郎は、『日本倫理思想史』(一九五二年)において『古事記』を精密に分析して、次のようなことを言っています。すなわち、天皇は西欧における神のように一方的に祀られるものではなく、どこまでも「祀られる神」であると同時に神を祀る祭祀者であるという無限連鎖が存する。その帰結をどこまでもたどろうとすると、ついには虚空に消えてしまう。そこに、天皇存在の世界史的な意味での特異性がある、と。
いろいろと申し上げましたが、要するに、一般国民が山本太郎に対する振る舞いに対して示している不快感は、素朴なものであると同時に、天皇の歴史性に深く根ざしている、ということが言いたいのです。
ところが、日本が豊かな社会を実現し、大衆個人主義が浸透する過程で、そういう歴史的なコモンセンスを共有できない人びとが無視し得ない率で増えつつある。今回の騒動は、そういう危機的な事態を露呈した。そう考えるべきではないでしょうか。
そうであるからといって、そういう事態を野放しにすることに、私は与しえません。なぜなら、マルクスがいうごとく「無知が栄えたためしはない」からです。
鈍感で無知な彼らには、越えてはならない一線を越えるとどうなるのか、社会的にちゃんと分からせる必要があります。その姿勢を緩めれば、これまで国の秩序を根のところで支えてきたものに、確実に罅(ひび)が入ることになります。蟻の一穴ということです。山本太郎はバカで無能ですが、彼が国会議員というエリートの地位にあることは事実です。その地位を担うには、国民として踏まえるべきコモンセンスはちゃんと踏まえるという当然の義務が含まれます。彼には、その自然感覚の義務意識が欠如していることが今回の件ではっきりしたのですから、議員を辞するよりほかに道はないのです。そうしなければ、山本太郎と悪しき感性を共有する者たちに、間違ったメッセージを送ることになります。それは、お国柄の崩壊という致命的な事態に道を開く、終わりの始まりになる危険があるのです。
国を支えるものは、自然環境と同じで、壊すのはとても簡単ですが、一度壊すと修復するのはとても大変なのです。お国柄は、里山のようなものなのです。それをぶち壊すに任せれば、後には、殺伐とした住みにくい場所が残されるだけなのです。これは、憲法に国民主権が規定されていようとどうだろうと、そのこととはほとんど関わりのないことです。お国柄は、憲法によって規定される側面があると同時に、それを越える側面も確実にあります。私たちは、目に見えない伝統や慣習の網の目に支えられて生きているのです。そのことに対して、私たちは、あくまでも謙虚であらねばならないと、私は考えます。二健さんも、おそらくそうなのではないかと拝察いたします。
二健さんに対してではないのですが、念のために今一度言っておきたいことがあります。私が今回申し上げたことに、反原発議論の代理戦争の意図を深読みするのは、やめていただきたいということです。そんな不純な(?)動機は、これっぽっちもございません。むしろ、真面目に反原発運動を展開している人の立場を想像して、山本太郎とどう距離をとるのか苦慮していることだろうな、としなくてもいい心配をしてくるくらいなのです。政治的な立場にかかわらず、今回の件のひどさ、愚かしさは限度を超えていると、普通の人なら思うのではないでしょうか。
〔付記〕(2013・12・26 記す)
後日、当問題が思わぬ波及をして、脱原発・市民団体を解散させるに至った、ということを知りました。具体的には、静岡県焼津市の市民グループ「くろしおネットはまおか」が11月8日、同市の静岡福祉大で10日に予定していた山本太郎参院議員の講演会を中止することを決め、さらに多くの人に迷惑をかけたことの責任を取るために、担当者が、同グループを解散させる意思決定をしたというのです。
山本太郎は、自分の無思慮な振る舞いのせいで、自分と信条を共有しているはずの市民団体を解散に追い込んだのです。彼は、少なくとも、脱原発の仲間に対して土下座をして謝るべきでしょう。彼は、そうしたのでしょう。してないでしょう?やはり、この問題に関わっていると、不快感がせり上がってくるのを如何ともしがたい思いに襲われます。救いがたいバカが、国家の手厚い保護のもとに、国民のリーダーを気取って高給を貪るのを座視するほかないのは、片腹痛いこと限りなし、というよりほかはありません。http://www.hoshusokuhou.com/archives/33912840.html
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