美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

柳田国男『遠野物語』を読む (イザ!ブログ 2013・8・6 掲載)

2013年12月19日 07時36分57秒 | 文学
柳田国男『遠野物語』を読む



柳田国男の『遠野物語』を読んでみたい。今回取り上げるのは、第九話と第十話と第十一話である。なお、原文は文語文体であるが、読みやすさを優先して、私なりに口語訳にしてみよう。

第九話は次のような話である。

菊池弥之助という老人は若いころ駄賃をやっていた。(駄賃とは、馬の背中に物や人を乗せて輸送する職業のことをいう―引用者注)彼は笛の名人で、夜通し馬追いをするときなどには、よく笛を吹きながら歩いたものである。

ある薄月夜に、たくさんの仲間とともに浜のほうへ向かって越えていく境木(さかいぎ)峠を行くということで、例によって笛を取り出して吹きながら、大谷地(おおやち)という場所の上を過ぎようとしていた。大谷地は深い谷である。白樺の林でおおわれていて、その下は葦などが生えた湿地になっている。そこにさしかかったちょうどそのとき、谷の底から何者かが高い声で「面白いぞぉ」 と叫んだ。一同皆真っ青になってその場を走り逃げたという。


言うまでもなく、人里離れた真夜中の谷底の湿地に人がいるとはまず考えられない。ましてや、そんなところから上を通りかかる人を驚かせるような大声を張り上げる者がいることもちょっと想像しにくい。解釈はいろいろとできるだろうが、不思議な話であるとひとまず素直に受けとめておこう。

次に第十話。これはごく短い。

弥之助はある山奥に入り、茸(きのこ)を採ろうとして仮小屋を造って泊まっていたところ、深夜に遠いところから「きゃー」という女の悲鳴が聞こえてきたので胸がどきどきした。里へ帰ってきたところ、女の悲鳴が聞こえてきたのと同じ夜、同じ刻限に、自分の妹が息子に殺されたことがわかった。


では、弥之助の妹が息子に殺された顛末はいかなるものであったのか、という流れで、第十一話に続く。当話は、『遠野物語』のなかでは「やまはは」(山姥)が登場する第一一六話などとともに、最も長い話のひとつである。

弥之助の妹は、一人息子と二人だけで住んでいた。そこへとついできた嫁と、姑となった弥之助の妹との仲がうまくいかなくて、嫁は実家に戻って帰って来ないことがしばしばだった。

常日頃諍(いさか)いの絶えない嫁と姑との板ばさみにあって、おそらく気が弱いに違いない息子は、にっちもさっちもいかなくなったのだろう。そうして、とうとう我慢の限界を超えるときを迎えることになる。


その日、嫁は家にいて病気で寝込んでいたところ、昼ごろになって突然倅(せがれ)が「ガガ(母のこと―引用者注)はこれ以上生かしては置かれぬ。今日は必ず殺してやる」と言い、大きな草刈鎌を取り出してごしごしと刃を磨ぎ始めた。その有様は、とても冗談のようには見えなかったので、母はああでもないこうでもないと詫びたのだが、息子は耳を貸そうとしない。

不思議に思うのは、母の様子が息子の殺意の呪縛力の虜になってしまっているように感じられることである。「実の親に対してとんでもないことだ」と叱責するくらいのことをしてもよさそうなのに、母親は、まるでへびににらまれた蛙のようである。ここには、身近な者を巻き込むというコンプレクス(うらみ・つらみが集積したもので、いまわしい一人格を成す。ユング心理学の用語)の特徴がよくでている。また、普段はおとなしかったと思われる息子が凶暴な鉄面皮的殺人者に豹変しているところにもそれを感る。コンプレクスのせりあがりが人を二重人格者にすることはつとに指摘した。話を続けよう。

嫁も起き上がってきて泣きながら諌めたのだけれど、まったくそれに従う様子もなくしばらくたってから母が息子から逃れ出ようとする様子があったのを見て、家の前後の戸口をことごとく鎖した。母がお手洗いに行きたいと言うので、息子が自分で外から便器を持ってきて、「ここで用を足せ」と言う。夕方になると母はついにあきらめて、大きな囲炉裏のかたわらにうずくまってひたすら泣いている。

コンプレクスは、タチが悪いことに、親から子へと敷き写される。母親が息子を強く叱責できないのは、そのことへの直接的な感知があるからなのではないかと思われる。つまり、息子が自分に対して殺意を抱くのはいたしかたがないと思ってしまうだけの長年にわたる根深いものが母親の側にあって、それが図らずも息子に敷き写されたことを母親が理屈ぬきに察知したということである。それはなにも、自分が嫁をさんざんいじめてきたので、そのことを息子が恨むのはしかたがないと母親が思っているといいたいのではない。いよいよ息子が犯行におよぶ場面である。

倅は念入りに磨いだ大鎌を手にして母に近寄ってきて、ます左の肩口を目がけて勢いよく横に払って斬りかかると、鎌の刃先が囲炉裏の上に吊られた火棚に引っかかってよく斬れない。その時に、母は深山の奥で弥之助が聞きつけたような叫び声を上げたのだ。二度目には右の肩から切り下げたのだが、それでもなお死に絶えなかった。そこへ近所の人たちが驚いて駆けつけ、倅を取り押さえてすぐに警察官を呼んで引き渡した。警官がまだ棒を持っていた時代のことである。母親は息子が警官に捕らえられ引き立てられていくのを見て、滝のように血が流れているのにもかかわらず、「私は恨みを抱かずに死ぬのだから、孫四郎は許してやってくださいませ」と言う。これを聞いて心を動かさぬ者はいなかった。孫四郎は引き立てられていく途中にも例の鎌を振り上げて巡査を追い回したりしたので、狂人であると判断されて放免された。それから家に帰り、今でも生きていて里で暮らしている。

「警官が棒をまだ持っていた時代」とあるから、これは明治初年のころの出来事である。『遠野物語』が自費出版されたのは明治四三年だから、どんなに昔の出来事であったとしてもたかだか三十数年前のことなのである。柳田がはしがきで「此は是目前の出来事なり」「此書は現在の事実なり」と胸を張るのはもっともであると言えよう。本書に登場する人々は皆実名なのである。

孫四郎は狂人であると判断されて放免されたのだったが、柳田もそう判断したのかどうかは微妙なところだ。文学仲間の水野葉舟が柳田の家に連れてきた、遠野郷出身で小説家志望の佐々木鏡石(本名 喜善)の語る興味深い話の数々に関して「一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」と宣言した執筆態度からすれば、微妙であるほうがよいのは理解できる。私はもちろん彼を狂人とは思わない。孫四郎の凶行はコンプレクスの自律性に彼の人格が乗っ取られた結果であると考えるので、一時的錯乱状態に陥っていたと判断する。コンプレクスは、いわば一人格を形成するのである。凶行後の彼を周りの人々はとんでもないことをしでかした狂人と見ただろうが、孫四郎は自分の犯した凶事に関してどこかで腑の落ちなさを感じてその後の人生を送ったように感じる。もちろん、そのことはだれにも打ち分けていないだろう。柳田の簡潔な筆致は、孫四郎の、心のひだにはさがったそういう思いにさえそこはかとなく触れえている。

最後に、コンプレクスとル・サンチマンとの違いにふれておこう。

ル・サンチマンをあえて日本語にすれば、コンプレクスと同様に「うらみ・つらみ」となるだろう。そういう意味では、コンプレクスとル・サンチマンとは一見類義語のようである。だが、両者には大きな違いがある。コンプレクスが無意識の領域における「うらみ・つらみ」であるのに対して、ル・サンチマンはたぶんに意識的自覚的なそれなのである。だから、コンプレクスが自我を乗っ取ろうとする(あるいは自我をおびやかすものとして存在する)のに対して、ル・サンチマンは自我を強化するように働く。あるいは、自我の核になることさえある。例えば、子どもによる親の仇討ちは、ル・サンチマンの典型例である。子どもは、自分が親の敵討ちをするために生きていることを十分に自覚しているのであるから。

それに対して、親殺しはコンプレクスのイメージに適っているように思われる。というのは、親を殺すために生きていることを十分に自覚している子どもというのはイメージとしても極めて想定しにくいであろうから。親は思わず知らず不覚にも殺してしまっているものなのではなかろうか。少なくとも、そういう側面をたぶんに有するのではないだろうか。親殺しとコンプレクスとがとりあえずつながったところで、論がようやく一巡したようである。

それにしても、孫四郎の妻は凶行に及んだ良人のもとを立ち去ったのだろうか。それとも、彼を哀れに思って踏みとどまったのだろうか。もはや杳として知れない。

*****

『遠野物語』のなかで、私がもっとも酷愛するのは、次にその冒頭を引用する九九話である。男女の、特に女性のエロスの奥ぶかさと哀切さとが、柳田国男の簡潔な筆致によって印象深く描かれているのである。なお今回は、原文があまりにも美しいので、口語訳にしないでそのまま掲げたい。できうることならば、読者よ、じっくりと味読していただくことを乞い願う。

土淵(つちぶち)村の助役北川清と云ふ人の家は字火石(あざひいし)に在り。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田ノ浜へ壻(むこ)に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

三陸沿岸は、リアス式海岸が続いている。海岸に山肌が迫り、鋭く入り込んだ湾の奥に村落が点在する。旅人にとっては風光明媚なその地形が、大津波来襲の原因ともなる。その沖合いは世界有数の海底地震多発地帯である。しかも深海であるため、地震によって発生したエネルギーは衰えることなくそのまま海水に伝わり、それがなめらかに広がる大陸棚を滑るようにして海岸線に向かう。三陸沿岸の鋸の歯状に入り込んだ湾はV字型をなしているので、その海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなる。それゆえ、巨大なエネルギーを孕んだ海水が湾口から奥に進むと急激に膨れ上がり、すさまじい大津波となる。地形上の特徴から避けようもなく、三陸沿岸は津波の来襲に見舞われ続けてきた土地柄なのである。

引用中にある「先年の大海嘯」とは、恐らく一八九六年(明治二十九年)六月十五日に三陸沿岸を襲った「明治三陸大津波」ではないかと思われる。

大津波に襲われることになっていた当日の夜、三陸沿岸の村々には日清戦争から凱旋した兵士の祝賀ムードが満ちていた。彼らを迎えた家々では宴たけなわだった。それに加えて、この日は旧暦の端午の節句でもあった。男の子がいる家では親族が集まって祝い膳を囲んでいた。

午後七時三二分、そんなお目出度い雰囲気のなかで人々は、小さなゆれを感じたのだった。その日は朝から弱い地震が何度もあり、その後にこの地震が発生し、ゆれは五分ほど続いた。その十分後にまたゆれた。しかし、人々はあまり気にしなかったらしい。春以来のたびたびの小さな地震に人々は馴れっこになっていたのである。

最初に異変に気づいたのは、魚を荷揚げしていた海産物問屋の若者たちであった。沖から遠雷のような不気味な音が聞こえてきて、船が大きく傾き、海底の岩がむき出しになったという。

その小さなゆれは、実は三陸沖約一五〇㎞を震源とするマグニチュード八.五の巨大地震であった。午後八時一五分、船越湾を北上した二回目の津波が田の浜を襲ったときは九.二mに達し、さらに船越(当話の次の引用に出てくる地名)では一〇.五mになり、その勢いで、船越半島の付け根の陸上部をも直進し、山田や大沢を襲った。岩手県南部の綾里村では、津波はなんと三八.二mという途方もない高さに達したという。その結果、死者二二、〇六六人、流失家屋八、八九一戸という甚大な被害がもたらされた。その時刻がちょうど満潮だったことも災いしたとのことである。

普通、津波の死者は溺死、というイメージである。ところが、綾里村の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には、「綾里村の如きは死者は頭脳を砕き、或いは、手を抜き、足を折り名状すべからず」とあり、その惨状はわれわれの常識的なイメージをはるかに超えている。

以上、縷々と述べてきたところを背景に『遠野物語』第九九話に目を通してみると、過酷な自然環境を胸の内に深く織り込みつつ日々の暮らしを営む人々の、宿命の色に染め上げられたいとおしさが浮かび上がってくるようである。ちなみに、引用の冒頭に土淵村とあるのは、内陸遠野郷の東部地域であり、田の浜とあるのは、遠野郷から東に三陸沿岸に出たところに位置する漁村である。遠野郷の域外といえよう。船越も田の浜とほぼ同じところにある。

引用を続けよう。ここからは、北川清の弟福二の行動がクローズアップされる。

夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思わず其跡をつけて、遥々(はるばる)と船越村の方へ行く崎の洞(ほら)のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が壻に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(をうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

当時は、今とは違って、恋仲の二人が結ばれないことの方がむしろ普通であったと思われる。というのは、当人たちの結婚の取り決めが、親と親との間でなされるのが通例であったからである。当話における福二と生前の女も、どうやらお互いの家の都合で結ばれたようである。福二はいわゆる入り婿として女の家に入っている。そういう世間の常識を振り切って、親たちから結婚を許されない恋仲の二人が結ばれようとするならば、駆け落ちをするか、あるいは心中をするよりほかはなかった。二人の恋愛の成就なるものが、当時においては共同体からの決定的な離反によってなされることが避けられない場合が多かった。その意味において、エロスの情念の完遂は、道徳的な悪の烙印を押されざるをえなかったのである。共同体に背を向けた恋仲の二人は、日陰者の汚名を甘受しながらひそやかに生きていくことを余儀なくされる(たとえば、夏目漱石の『門』にも、そういう事情が深く影を落としている)。あるいは、死してなお共同体のふところに受け入れてはもらえないのである。二人は、その運命を覚悟して性愛を貫かなければならなかった。これはまた、共同体の秩序なるものが、性愛のエロスが本質的にはらむ暴力を注意深く排除することによって保たれることを意味する。言い換えれば、その暴力の野放図な受け入れは、共同体の崩壊をもたらしかねないのである。つまり、それほどにエロスのエネルギーは莫大なものなのだろう。そのことは、例えば、われわれは「オレは国のために喜んで死ねる」という言葉にはどこかしら嘘の臭いを嗅ぎ当ててしまうのに対して、「オレは愛する者のために喜んで死ねる」という言葉はそれほどの違和感を抱くこともなくすんなりと受け入れることができる、という対照的な態度にも現れているような気がする。

「名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり」の描写から、生前の妻が美貌の持ち主であることがそれとなく分かる。女の容貌についての具体的な描写がない分だけ、かえってその妖艶さが浮かび上がってくる。そうして、美人の妻を持った男の、今も昔も変わらぬ宿痾は嫉妬である。福二は、生前の女にまつわって嫉妬の念に苛まれていたにちがいない。ましてや、結婚前、妻が深く心を通わせた男がいたことも知っていたし、その男の顔を結婚後に村で見かけることもあるのだから、二人がいまだに心を通わせているにちがいないと福二が疑っていたとしてもそれはやむをえないことである。嫉妬の念は福二の心にいつも潜在していたとみて間違いないだろう。その根深い思いが、意識の覚醒し切らない深い霧の真夜中に鮮やかな悩ましい幻覚として顕在化した、と見るのが心理主義的な解釈に慣れたわれわれ現代人にとってたぶん腑に落ちやすい構えであるのだろう。むろんそういう解釈で一向にかまわないのではあるけれど、私がいまここでこだわってみたいのはそういうことではなく、福二が本当はどういう場所に立っているのか、という一事である。

端的に言えば、彼は、強固な共同体的な秩序と、それをおびやかしてやまない性愛のエロスとの接触面に立っているのである。もちろん普段の彼は共同体の秩序の内側でなんの疑いもなく生きている。ところが、霧の濃い真夜中に我知らずそんな危険極まりない場所に迷いこんでしまった。もちろん、死んだ妻を恋う心がそこへの導きの糸である。その結果、夢にまで見た妻に会うことができたのではあったのだが、それは福二が心の内でもっとも恐れていた有様の彼女であった。彼は、共同体的な秩序の内側からやってきた者として精一杯の抵抗を試みる、「子供は可愛くは無いのか」と。妻は、その言葉に対して「少しく顔の色を変へて泣きたり」と動揺する心を垣間見せるのではあるが、それ以上の懺悔の言葉を吐露したりはしない。しようがないのである。というのは、彼女が立っている場所は、共同体的な秩序から解き放たれた性愛のエロスの深淵そのものであるからだ。排除された者は排除した者を沈黙で排除し返すのだ。福二が「悲しく情なくな」るのは、それを直観的に察するからであろう。

福二は、逃げ去ろうとする二人をなおも追いかけようとするが、ふと我にかえり、彼らが「死したる者」であることに気づく。彼らをそれ以上深追いするのを断念したのではあったのだが、そのまま家に引き返すのでもなく、「夜明まで道中(みちなか)に立ちて考え」た。彼はそのとき生きながらにほとんど死と直面していたのである。もう一歩踏み込めば、彼には死が待ち受けていたものと思われる。「 道中」とは、「あちら」の世界と現し世とをつなぐ通り路を象徴しているものと見てまちがいないだろう。

いったい、真夜中から明け方まで福二は何を考え続けたのだろう。それは、自分が見たものが本当のところなんだったのかについてであるにちがいない。では、それについて明解な答えにたどりつくことができたであろうか。むろん、できなかった。はじめからできるはずもなかった。なぜなら、彼は見てはならないものをみてしまったからである。見てはならないものの本質が何であるかを探り当てることは、自分を自分たらしめる自明のものの崩壊につながりかねない。太陽と死が直視できないのと同様に、人は、性愛のエロスに忠実な人間の有様を直視することができない。それは、「こちら」側でつつがなく生きて行くために、魔物の世界として封印するよりほかはないのである。それを直視しようとした福二が「其後久しく煩ひたり」という状態に陥ったのは、だから、当然のことと言えよう。福二の妻恋いは、手ひどい痛手を蒙ってしまった。それは、倫理的であろうとすることによる痛手であるとも言えよう。つまり、共同体の秩序と性愛のエロスの接触面こそが、倫理的なもののふるさとなのであるということになるだろう。柳田の筆は、読み手をそこにまで運んで行く誘引力がある。

思えば、女は恋い慕う男とともに「大海嘯」という自然の途方もない暴力からその命を強奪されることによって、はじめて性愛のエロスに忠実な自分をわがものにすることがかなった。共同体の秩序の世界に近づこうとしないかぎり、女には永久(とわ)の静かな幸せが約束された、といっていいだろう。女は、諦念の果てに浄福をわがものにしたのである。

「こちら」側から魔物の世界として封印されるよりほかのない領域の只中に、女の物静かに満ち足りたほほえみがあるにちがいないと信じることで、私たちは、百年あまりの時空を超えて女への鎮魂の念を誘発される。次元の異なるパラレル・ワールドで、私たちと女とは今もなお共に生きているのである。それを拒否することは、人間が人間であるゆえんから目をそらす振る舞いに等しい。それゆえ、性愛のエロスの領域は実のところ倫理に敵対するものではなく、その奥の院でさえあるのだ。そこに、私は人間の心の不可思議な機微を感じ取りたい。 作中の女に対する心の底からの共感と深い同情に導かれて、そこまでたどりついた次第である。  (終わり)

〔付記〕当論考の元に当たるものを書いたのは、2011年三月十一日の東日本大震災のほぼ直前のことだった。それゆえ、個人的に感慨深い論考となった。あらためて、今回の大津波によって亡くなられた方々に哀悼の意を表したい。

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