明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その4)
宮里立士
目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(その2)
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成(その3)
第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動(今回)
・・・門閥制度は親の敵・・・
若き日の福沢諭吉
「増田宋太郎は、史上に知られた人物ではない」とは、かれの伝記の著者松下竜一の言である。確かに著名な歴史辞典を繙いても増田の名前は見いだせない。そこでまず、本論は西南戦争に至るまでの増田の足跡を追うことによって、かれの人間像を描くことから始めたい。(注1)
*
増田栄太郎は、嘉永二年(一八四八)二月二三日(注2)、豊前国中津、今の大分県中津市、城下弓町に父久行、母刀自子の長男として生まれた。幼名は久米丸。姉は五人いたが、ふたりが早く亡くなり、カジ、サエ、イシの三人が長じ、弟に半助ひとりがいた。弟は後に名を真坂と改め、岡本姓を冒し、同志として最後まで兄と行を共にしている。
かれの生まれた場所には、現在「増田栄太郎先生誕生之碑」が建っている。そして、増田が暗殺しようとした福沢諭吉の旧居とは隣合わせとなっている。そこを訪れてみると、福沢は郷里が生んだ最大の偉人として、その旧居も立派に整備され、屋敷内に記念館まで備えられている。それに比べ、増田の旧居は石塀で囲われた空き地に碑のみ建つ、見るからに侘しいたたずまいである。ふたりの郷里で占める大きさの違いが如実である。(注3)
十五石二人扶持。これが増田家の家格であった。身分は御供小姓。下士である。中津藩に限らないことではあるが、徳川幕藩体制のもと身分差別は厳密に行われ、上級武士と下級武士とでは、同じ武士でも非常な隔たりがあった。中津藩は特に上級武士(上士)と下級武士(下士)の区別が厳格な藩であり、下士出身の福沢に「門閥制度は親の敵」(注4)と、痛憤させたほどであった。
福沢に『旧藩情』という、郷里中津のひとびとに対して新時代に臨む心構えを示した文章がある。そのなかで福沢は中津藩における上級武士の下級武士に対する差別と、そのことから因って来たる両者の反目とを事細かく論じている。上士と下士の「分割統治」は、封建時代、一藩安定の秘訣とも成り得たものであった。しかしながら、それは同時に個人の伸長を抑制するものであり、且つ、中津藩発展を阻害する要因でもあった。福沢はその弊害を指摘してこれからの時代、上士と下士とはお互い協力して中津のみならず日本の発展に尽くさねばならないと主張する。「数百年の間、上士は圧制を行ひ、下士は圧制を受け、今日に至り之を見れば、甲は借主の如く乙は貸主の如くにして、未だ明々白々の差引を為さず」、「双方共にさらりと前世界の古証文に墨を引き、今後期する所は、士族に固有する品行の美なるものを存して益これを養ひ、物を費やすの古吾を変じて物を造るの今吾と為し、恰も商工の働きを取て士族の精神に配合し、心身共に独立して、日本国中文明の魁たらんことを期望するなり」(注8)。
明治になって、士族とひと括りにされた武士身分も、江戸時代においては、実に複雑な身分差別を蔵していたのである。いずれの藩においても、上級武士・下級武士の断絶とその断絶からくる上級武士の勢威・下級武士の冷遇とが顕著であった。徳川幕府は、人間を細かい身分の網の目で身動きできないようにすることによって、社会の変動を防ぎ、延いては封建体制の維持を計った。下級武士の出である福沢にとって、しかしそれは理不尽な社会体制であり、とうてい容認できないものであった。(注6)
福沢のみに限らない。才質に恵まれながらも下級武士に生まれたが故に、為す所なく屏息させられていた者は多かった。徳川時代、かれらは農工商の身分に対し為政者として臨まねばならないとされていた。しかしかれらは現実には、それにふさわしくない境遇に押込められていたのである。幕末から明治前半期、社会秩序が混乱し、実力で以って働かねばならなくなった時期、最も活動的であったのが下級武士出身であった理由は、徳川時代におけるかれらの社会的位置づけと関連して考えねばならない。(注7)
増田の言動からは身分差別に対する憤りといったものは特に見いだせない。が、その経歴からはかれも下級武士の家にうまれたがゆえに、藩内で冷遇されていたことがみてとれる。かれは中津藩校の進修館ではなく、私塾道生館に学んでいるのである。藩校進修館は上士下士関係なく入学することができたというが、それでも上士と下士との間にある差別は歴然としており、これを嫌って下級武士の子弟の多くが藩校ではなく、私塾に通った。『大分県教育百年史』第三巻資料編(1)に幕末から明治年間まで中津にあった私塾の一覧が掲げられている。十八の私塾、私立学校が挙げられ、増田が学んだ道生館もそのなかに掲げられている。(注8)
道生館は渡辺重石丸(いかりまろ)の開く塾だった。渡辺重石丸は中津の神職家にうまれたひとで、その家は重石丸の祖父重名以来、国学を以て知られた家系であった。重名は宣長の門人であり、寛政三奇人のひとりである尊王家高山彦九郎とも交流があった。かれは二豊(豊前、豊後)国学の開祖とも称せられている。そして重石丸の兄重春も国学者として著名な人物だった。重石丸のひととなりは、狷介不羈。幼少のころの逸話として、いったん怒りを発すると狂った如くとなり、刀を以て柱に切りつけたといい、長じて大事を起こさないかと母親を心配させたほどであったという。(注9)増田の母は重名の娘であった。故に増田にとって、重石丸は従兄にあたる。この熱烈な尊王家の指導のもと増田も尊王攘夷家となった。
尊王攘夷は幕末の時代精神であった。この精神を奉ずる者に下級武士出身者が多かった。それは、封建体制のもと逼塞させられていた下級武士が、この精神の中に己が活路を見いだしていたことを示している。中津藩における尊攘派は道生館一党のみであった。これは、徳川体制に従順な守旧的な藩において、尊王攘夷がどういう位置を占めていたかを暗示している。
増田の幼少期について伝わるはなしはあまりない。九歳のとき最初の門人として道生館に入門したことが知れるだけである。「門下ノ士百ヲ以テ数フ和魂漢才宋太郎之レガ冠タリ」と、増田に関する最も早い著作である『増田宋太郎遺稿』(注10)中の略伝は伝えている(略伝の著者は同書の編者でもある、増田の従弟大橋奇男(くすお)。以後、同書を『遺稿』とよび、同書中の略伝は「略伝」として引用する)。豊前中津は幕末九州にあっても、動乱から遠い地域であり、勤王佐幕の問題で深刻な争いは、ここでは起こっていない。これは近在の地域では考えられないほどのどかなはなしである。
変転する時勢を横目に、それと縁遠い中津で、増田は道生館の仲間たちと浩然の気を養いながら、奔走の機会を伺っていた。慶応二年(一八六六)四月十四日、第二次長州征討の出兵督促のため中津を訪れた幕吏森川主税を、増田は道生館の仲間十数人と語らって斬ろうとしたことがある。増田の志士としての活動の第一歩であった。これはしかし師である渡辺重石丸の反対によって実行にまでは至らなかった。中津は海を隔てて長州と近く、尊王攘夷の意気に燃える増田は自然、この幕末随一の尊攘藩に親しい気持ちを抱いていた。にもかかわらず、中津藩全体から見ると、増田の親長州的態度は少数派のものであり、わずかに道生館に依るひとびとに共有された態度であった。中津は周辺の慌ただしさから離れ、太平の眠りのなか、未だ目覚めていない。
もうひとつ前年の末、目立った活動がある。木子岳騒動と称せられる、隣接する天領日田郡代襲撃未遂事件である。活発な尊攘運動のなかった豊前豊後にあっても、尊攘運動の奔走家が出なかったわけではない。ただかれらは生地を飛び出して京都など外で奔走していたのである。そのような奔走家たちと尊王攘夷の志を抱く在地の有志が連携して、幕府代官所日田郡代を襲撃しようとの計画が持ち上がった。しかし計画は事前に漏れ、実行前に郡代の摘発を受けた。この計画には、道生館と繋がりが深く、かつ増田の盟友である宇佐在の盲目の志士柳田清雄(すがお)も加わっていた。しかし捕らえられ獄に下った。日田、宇佐一帯の尊攘家が中心となった企てであったため、増田は計画の中枢には与ってはいない。しかし増田は、摘発を受け中津渡辺重石丸のもとへ避難してきた志士の身柄を、重石丸の命により、当時往来を禁じられていた対岸の長州まで送り届けている。(注11)
慶応四年(一八六八)一月、郡代襲撃未遂事件のあとを受けておこなわれた郡代襲撃未遂事件のあとを受けておこなわれた郡代襲撃事件が(この事件は御許山騒動と呼ばれている)起きた後、既に出獄していた柳田清雄に宛てた増田の手紙がある。ちなみに、この襲撃は成功し郡代は一時占拠された。が、長州藩の介入によって、決起者たちは結局、悲劇的末路をたどることになる。この御許山騒動は赤報隊事件など、明治初年、処々で続発した、官軍に呼応して決起した草莽の志士たちに対する弾圧の嚆矢となった事件であった。(注12)増田、柳田とも重石丸の忠告によって参加を見合わせているが、増田の維新後の歩みを考えるとき、維新の年、増田近辺でこのような事件があったことは予兆めいたものを思わせる。手紙のなかで漢詩が賦されている。「病中感憤之余、得一詩」(病中感憤のあまり、一詩を得る:書記者、読み下し)
戊辰正月花山院挙義旗于馬城峯、時余偶臥病憤激不能
自己賦此似諸友
憤世憂身涙如雨 尊王討幕義分明
憤然張目奮双腕枕上長刀鳴有声
(戊辰(ぼしん)正月花山院、于馬城峯(うばじょうほう)、義旗を挙ぐ。時に余たまたま病に臥し、憤激能わず
自己の賦、此れ諸友に似たり
憤世憂身、涙、雨のごとし 尊王討幕の義、分明す
憤然、目を張り、双腕を奮い、枕上長刀、声を有し鳴る:書記者読み下し)
増田は常に行動への激情に駆られながらも、慨嘆のみして過ごしていた。ときあって駆け出そうとしても、師の重石丸に押し留められていた。手紙にも「尚々一藩中可共語大義者一人も無之残念之至也」(尚々一藩中共に大義を語る者一人も之れ無きは残念の至りなり:書記者、読み下し)とあるように、これは中津という因循な譜代藩にあっては致し方ないはなしであったかもしれない。
増田が維新を迎えるまでにおこなった尊攘活動とは、つまりこの程度のものであった。したがって増田は幕末の、それこそ過酷な、権力闘争を垣間見ることなく、維新を迎えたわけである。
明治維新は多くの志士の殉難と冷徹な権謀術数の上に成り立った。そこには本音と建前の乖離と使い分け、そして使い分けを駆使することによっての目的達成とがあった。維新とは国体の発露であると信じていた増田にとって、維新のそのような側面はおよそ理解のできない面であったろう。明治になって始まるかれの、いささか滑稽な奔走活動を考えるとき、増田が維新の権力政治的側面を知らなかったということは、見落とすことができない点といえそうである。
***
原注(1)松下竜一『疾風のひと――ある草莽伝』(朝日新聞社 昭和五四年)11ページ。かぎかっこ内も同ページからの引用。なお増田宋太郎の伝記的事実は、同書に拠るところが大きいことをあらかじめ記しておく。他に熊谷克己『増田宋太郎伝』(大正二年)にも負うところが大きいのだが、これは松下も指摘する通り、粗放の感を免れない。増田の伝記としては、松下が著したものがもっとも完備している。以後、同著のことを松下著書として引用する。
ところで本文冒頭における松下の指摘であるが、確かに現代もっとも代表的な日本史辞典である吉川弘文館『国史大辞典』の人名項目には増田の名は見いだせない。その他、河出書房刊『日本歴史辞典』、吉川弘文館『幕末維新人名辞典』などに当ってみてもかれの名前は見いだせない。しかしながら、『国学者伝記集成』第二巻(昭和九年)にはかれの人名項目がある。また大分郷里の歴史辞典、たとえば『大分歴史大辞典』などには、増田は明治初年活躍した人物として比較的大きく取り上げられている。増田については、かつての同志岡部伊三郎が明治四〇年(一九〇七)、史談会において「中津人増田宋太郎国事奔走等之件」として語っている(『史談会速記録 第弐百参拾八輯(しゅう)復刻版 昭和四九年)。他に増田を太平洋戦争中、「国士」として復権的に顕彰した香原健一『西南戦役中津隊、先陣ほぎ奮戦史』(昭和十七年)、影山正治『明治の尊攘派』(大東出版部 昭和四二年[『公論』 昭和十八年正月号初出])がある。また市井三郎が増田を論じた「反体制へかけた情念――増田宋太郎」(谷川健一編『明治の群像』三所収 三一書房 一九六八年)と『明治維新の哲学』(講談社新書 昭和四二年)がある。その他、石田圭介「増田宋太郎と自由民権」(「新勢力」一〇三号)。近年には、黒木健五『増田宋太郎と中津隊の記』(松永印刷 平成二年)がある。
(2)増田の生年については、諸家に異同はないが、誕生月日については三月二十三日とするもの、六月とするものと分かれていたという。しかし松下の調べたところによるとこれらは誤りであったと本文記述の月日に訂正している。「増田宋太郎歯ぎしりの生」(西日本新聞連載第二回 昭和五二年二月一一日)。以後、同連載を松下新聞連載と呼んで引用する。
(3)一九九五年八月、筆者の実見による。
(4)「福翁自伝」(前掲選集第一〇巻所収) 一三ページ
(5)かぎかっこ内ふたつとも、前掲選集第一二巻所収 五六ページ。
(6)『旧藩情』から引用してみよう。前注書四二~三ページ。旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。其身分、役名を、精細に分てば百余級の多きに至れども、之を大別して二等に分つ可し。即ち上等は、儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は、祐筆、中小姓厠格、供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、其数の割合、上等は凡そ下等の三分の一なり(中略)第一、下等士族は、何等の功績あるも、何等の才力を抱くも、決して上等の席に昇進するを許さず。稀に祐筆などより立身して小姓組に入りたる例もなきに非ざれども、治政二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、其下等中の黜陟(ちゅっちょく)に心を関して昇進を求れども、上等に入るの念は、固より之を断絶して、其趣は、走獣敢て飛鳥の便利を企望せざる者の如し(中略)足軽は一般に上等士族に対して、下座とて、雨中、往来に行き逢ふとき、下駄を脱いで路傍に平伏するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢へば下座平伏を法とす。啻(ただ)に大臣のみならず、上士の用人格たる者に対しても、同様の礼を為さざるを得ず。(中略)独り上等と下等との大分界に至ては、殆ど人為のものとは思はれず、天然の定則の如くにして、之を怪しむ者あることなし(権利を異にす)中津藩における上級武士、下級武士については、広池千九郎『中津歴史』(明治二四年)一七三~八二ページも参照した。
(7)鈴木正幸「主権国家・国民国家・日本近代国家」(同編『比較国制史研究序説』所収 柏書房 一九九二年)及び園田碑英弘「郡県の武士」(同著
『西洋化の構造』所収 思文閣一九九三年[平成五年])参照。
(8)三五~七ページ 大分県教育庁大分県教育百年史編集事務局編 昭和五一年。なお中津藩における教育については、同一巻通史編(1)一一五~九、一六二~四、二五三~七ページ及び大分県社会教育資料第一二輯『藩政時代の教育』(大分県社会課 大正十四年)二〇九~二一五ページも参照。
(9)重名については、前掲『国学者伝記集成』参照。重石丸については、松下著書十六~八ページ、及び上田賢治「渡辺重石丸考」(国学院大学日本文化研究所編『維新前後に於ける国学の諸問題』所収 昭和五八年)参照。重石丸には自叙伝的草稿として『鴬栖園遺稿』があるというが、筆者は未見。
(10)大分県立図書館郷土資料室蔵(整理番号k288sh31 複953)。
(11)以上、主として松下著書四七~六二ページ及び『増田宋太郎伝』三~九ページに拠る記述。
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その4)
宮里立士
目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(その2)
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成(その3)
第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動(今回)
・・・門閥制度は親の敵・・・
若き日の福沢諭吉
「増田宋太郎は、史上に知られた人物ではない」とは、かれの伝記の著者松下竜一の言である。確かに著名な歴史辞典を繙いても増田の名前は見いだせない。そこでまず、本論は西南戦争に至るまでの増田の足跡を追うことによって、かれの人間像を描くことから始めたい。(注1)
*
増田栄太郎は、嘉永二年(一八四八)二月二三日(注2)、豊前国中津、今の大分県中津市、城下弓町に父久行、母刀自子の長男として生まれた。幼名は久米丸。姉は五人いたが、ふたりが早く亡くなり、カジ、サエ、イシの三人が長じ、弟に半助ひとりがいた。弟は後に名を真坂と改め、岡本姓を冒し、同志として最後まで兄と行を共にしている。
かれの生まれた場所には、現在「増田栄太郎先生誕生之碑」が建っている。そして、増田が暗殺しようとした福沢諭吉の旧居とは隣合わせとなっている。そこを訪れてみると、福沢は郷里が生んだ最大の偉人として、その旧居も立派に整備され、屋敷内に記念館まで備えられている。それに比べ、増田の旧居は石塀で囲われた空き地に碑のみ建つ、見るからに侘しいたたずまいである。ふたりの郷里で占める大きさの違いが如実である。(注3)
十五石二人扶持。これが増田家の家格であった。身分は御供小姓。下士である。中津藩に限らないことではあるが、徳川幕藩体制のもと身分差別は厳密に行われ、上級武士と下級武士とでは、同じ武士でも非常な隔たりがあった。中津藩は特に上級武士(上士)と下級武士(下士)の区別が厳格な藩であり、下士出身の福沢に「門閥制度は親の敵」(注4)と、痛憤させたほどであった。
福沢に『旧藩情』という、郷里中津のひとびとに対して新時代に臨む心構えを示した文章がある。そのなかで福沢は中津藩における上級武士の下級武士に対する差別と、そのことから因って来たる両者の反目とを事細かく論じている。上士と下士の「分割統治」は、封建時代、一藩安定の秘訣とも成り得たものであった。しかしながら、それは同時に個人の伸長を抑制するものであり、且つ、中津藩発展を阻害する要因でもあった。福沢はその弊害を指摘してこれからの時代、上士と下士とはお互い協力して中津のみならず日本の発展に尽くさねばならないと主張する。「数百年の間、上士は圧制を行ひ、下士は圧制を受け、今日に至り之を見れば、甲は借主の如く乙は貸主の如くにして、未だ明々白々の差引を為さず」、「双方共にさらりと前世界の古証文に墨を引き、今後期する所は、士族に固有する品行の美なるものを存して益これを養ひ、物を費やすの古吾を変じて物を造るの今吾と為し、恰も商工の働きを取て士族の精神に配合し、心身共に独立して、日本国中文明の魁たらんことを期望するなり」(注8)。
明治になって、士族とひと括りにされた武士身分も、江戸時代においては、実に複雑な身分差別を蔵していたのである。いずれの藩においても、上級武士・下級武士の断絶とその断絶からくる上級武士の勢威・下級武士の冷遇とが顕著であった。徳川幕府は、人間を細かい身分の網の目で身動きできないようにすることによって、社会の変動を防ぎ、延いては封建体制の維持を計った。下級武士の出である福沢にとって、しかしそれは理不尽な社会体制であり、とうてい容認できないものであった。(注6)
福沢のみに限らない。才質に恵まれながらも下級武士に生まれたが故に、為す所なく屏息させられていた者は多かった。徳川時代、かれらは農工商の身分に対し為政者として臨まねばならないとされていた。しかしかれらは現実には、それにふさわしくない境遇に押込められていたのである。幕末から明治前半期、社会秩序が混乱し、実力で以って働かねばならなくなった時期、最も活動的であったのが下級武士出身であった理由は、徳川時代におけるかれらの社会的位置づけと関連して考えねばならない。(注7)
増田の言動からは身分差別に対する憤りといったものは特に見いだせない。が、その経歴からはかれも下級武士の家にうまれたがゆえに、藩内で冷遇されていたことがみてとれる。かれは中津藩校の進修館ではなく、私塾道生館に学んでいるのである。藩校進修館は上士下士関係なく入学することができたというが、それでも上士と下士との間にある差別は歴然としており、これを嫌って下級武士の子弟の多くが藩校ではなく、私塾に通った。『大分県教育百年史』第三巻資料編(1)に幕末から明治年間まで中津にあった私塾の一覧が掲げられている。十八の私塾、私立学校が挙げられ、増田が学んだ道生館もそのなかに掲げられている。(注8)
道生館は渡辺重石丸(いかりまろ)の開く塾だった。渡辺重石丸は中津の神職家にうまれたひとで、その家は重石丸の祖父重名以来、国学を以て知られた家系であった。重名は宣長の門人であり、寛政三奇人のひとりである尊王家高山彦九郎とも交流があった。かれは二豊(豊前、豊後)国学の開祖とも称せられている。そして重石丸の兄重春も国学者として著名な人物だった。重石丸のひととなりは、狷介不羈。幼少のころの逸話として、いったん怒りを発すると狂った如くとなり、刀を以て柱に切りつけたといい、長じて大事を起こさないかと母親を心配させたほどであったという。(注9)増田の母は重名の娘であった。故に増田にとって、重石丸は従兄にあたる。この熱烈な尊王家の指導のもと増田も尊王攘夷家となった。
尊王攘夷は幕末の時代精神であった。この精神を奉ずる者に下級武士出身者が多かった。それは、封建体制のもと逼塞させられていた下級武士が、この精神の中に己が活路を見いだしていたことを示している。中津藩における尊攘派は道生館一党のみであった。これは、徳川体制に従順な守旧的な藩において、尊王攘夷がどういう位置を占めていたかを暗示している。
増田の幼少期について伝わるはなしはあまりない。九歳のとき最初の門人として道生館に入門したことが知れるだけである。「門下ノ士百ヲ以テ数フ和魂漢才宋太郎之レガ冠タリ」と、増田に関する最も早い著作である『増田宋太郎遺稿』(注10)中の略伝は伝えている(略伝の著者は同書の編者でもある、増田の従弟大橋奇男(くすお)。以後、同書を『遺稿』とよび、同書中の略伝は「略伝」として引用する)。豊前中津は幕末九州にあっても、動乱から遠い地域であり、勤王佐幕の問題で深刻な争いは、ここでは起こっていない。これは近在の地域では考えられないほどのどかなはなしである。
変転する時勢を横目に、それと縁遠い中津で、増田は道生館の仲間たちと浩然の気を養いながら、奔走の機会を伺っていた。慶応二年(一八六六)四月十四日、第二次長州征討の出兵督促のため中津を訪れた幕吏森川主税を、増田は道生館の仲間十数人と語らって斬ろうとしたことがある。増田の志士としての活動の第一歩であった。これはしかし師である渡辺重石丸の反対によって実行にまでは至らなかった。中津は海を隔てて長州と近く、尊王攘夷の意気に燃える増田は自然、この幕末随一の尊攘藩に親しい気持ちを抱いていた。にもかかわらず、中津藩全体から見ると、増田の親長州的態度は少数派のものであり、わずかに道生館に依るひとびとに共有された態度であった。中津は周辺の慌ただしさから離れ、太平の眠りのなか、未だ目覚めていない。
もうひとつ前年の末、目立った活動がある。木子岳騒動と称せられる、隣接する天領日田郡代襲撃未遂事件である。活発な尊攘運動のなかった豊前豊後にあっても、尊攘運動の奔走家が出なかったわけではない。ただかれらは生地を飛び出して京都など外で奔走していたのである。そのような奔走家たちと尊王攘夷の志を抱く在地の有志が連携して、幕府代官所日田郡代を襲撃しようとの計画が持ち上がった。しかし計画は事前に漏れ、実行前に郡代の摘発を受けた。この計画には、道生館と繋がりが深く、かつ増田の盟友である宇佐在の盲目の志士柳田清雄(すがお)も加わっていた。しかし捕らえられ獄に下った。日田、宇佐一帯の尊攘家が中心となった企てであったため、増田は計画の中枢には与ってはいない。しかし増田は、摘発を受け中津渡辺重石丸のもとへ避難してきた志士の身柄を、重石丸の命により、当時往来を禁じられていた対岸の長州まで送り届けている。(注11)
慶応四年(一八六八)一月、郡代襲撃未遂事件のあとを受けておこなわれた郡代襲撃未遂事件のあとを受けておこなわれた郡代襲撃事件が(この事件は御許山騒動と呼ばれている)起きた後、既に出獄していた柳田清雄に宛てた増田の手紙がある。ちなみに、この襲撃は成功し郡代は一時占拠された。が、長州藩の介入によって、決起者たちは結局、悲劇的末路をたどることになる。この御許山騒動は赤報隊事件など、明治初年、処々で続発した、官軍に呼応して決起した草莽の志士たちに対する弾圧の嚆矢となった事件であった。(注12)増田、柳田とも重石丸の忠告によって参加を見合わせているが、増田の維新後の歩みを考えるとき、維新の年、増田近辺でこのような事件があったことは予兆めいたものを思わせる。手紙のなかで漢詩が賦されている。「病中感憤之余、得一詩」(病中感憤のあまり、一詩を得る:書記者、読み下し)
戊辰正月花山院挙義旗于馬城峯、時余偶臥病憤激不能
自己賦此似諸友
憤世憂身涙如雨 尊王討幕義分明
憤然張目奮双腕枕上長刀鳴有声
(戊辰(ぼしん)正月花山院、于馬城峯(うばじょうほう)、義旗を挙ぐ。時に余たまたま病に臥し、憤激能わず
自己の賦、此れ諸友に似たり
憤世憂身、涙、雨のごとし 尊王討幕の義、分明す
憤然、目を張り、双腕を奮い、枕上長刀、声を有し鳴る:書記者読み下し)
増田は常に行動への激情に駆られながらも、慨嘆のみして過ごしていた。ときあって駆け出そうとしても、師の重石丸に押し留められていた。手紙にも「尚々一藩中可共語大義者一人も無之残念之至也」(尚々一藩中共に大義を語る者一人も之れ無きは残念の至りなり:書記者、読み下し)とあるように、これは中津という因循な譜代藩にあっては致し方ないはなしであったかもしれない。
増田が維新を迎えるまでにおこなった尊攘活動とは、つまりこの程度のものであった。したがって増田は幕末の、それこそ過酷な、権力闘争を垣間見ることなく、維新を迎えたわけである。
明治維新は多くの志士の殉難と冷徹な権謀術数の上に成り立った。そこには本音と建前の乖離と使い分け、そして使い分けを駆使することによっての目的達成とがあった。維新とは国体の発露であると信じていた増田にとって、維新のそのような側面はおよそ理解のできない面であったろう。明治になって始まるかれの、いささか滑稽な奔走活動を考えるとき、増田が維新の権力政治的側面を知らなかったということは、見落とすことができない点といえそうである。
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原注(1)松下竜一『疾風のひと――ある草莽伝』(朝日新聞社 昭和五四年)11ページ。かぎかっこ内も同ページからの引用。なお増田宋太郎の伝記的事実は、同書に拠るところが大きいことをあらかじめ記しておく。他に熊谷克己『増田宋太郎伝』(大正二年)にも負うところが大きいのだが、これは松下も指摘する通り、粗放の感を免れない。増田の伝記としては、松下が著したものがもっとも完備している。以後、同著のことを松下著書として引用する。
ところで本文冒頭における松下の指摘であるが、確かに現代もっとも代表的な日本史辞典である吉川弘文館『国史大辞典』の人名項目には増田の名は見いだせない。その他、河出書房刊『日本歴史辞典』、吉川弘文館『幕末維新人名辞典』などに当ってみてもかれの名前は見いだせない。しかしながら、『国学者伝記集成』第二巻(昭和九年)にはかれの人名項目がある。また大分郷里の歴史辞典、たとえば『大分歴史大辞典』などには、増田は明治初年活躍した人物として比較的大きく取り上げられている。増田については、かつての同志岡部伊三郎が明治四〇年(一九〇七)、史談会において「中津人増田宋太郎国事奔走等之件」として語っている(『史談会速記録 第弐百参拾八輯(しゅう)復刻版 昭和四九年)。他に増田を太平洋戦争中、「国士」として復権的に顕彰した香原健一『西南戦役中津隊、先陣ほぎ奮戦史』(昭和十七年)、影山正治『明治の尊攘派』(大東出版部 昭和四二年[『公論』 昭和十八年正月号初出])がある。また市井三郎が増田を論じた「反体制へかけた情念――増田宋太郎」(谷川健一編『明治の群像』三所収 三一書房 一九六八年)と『明治維新の哲学』(講談社新書 昭和四二年)がある。その他、石田圭介「増田宋太郎と自由民権」(「新勢力」一〇三号)。近年には、黒木健五『増田宋太郎と中津隊の記』(松永印刷 平成二年)がある。
(2)増田の生年については、諸家に異同はないが、誕生月日については三月二十三日とするもの、六月とするものと分かれていたという。しかし松下の調べたところによるとこれらは誤りであったと本文記述の月日に訂正している。「増田宋太郎歯ぎしりの生」(西日本新聞連載第二回 昭和五二年二月一一日)。以後、同連載を松下新聞連載と呼んで引用する。
(3)一九九五年八月、筆者の実見による。
(4)「福翁自伝」(前掲選集第一〇巻所収) 一三ページ
(5)かぎかっこ内ふたつとも、前掲選集第一二巻所収 五六ページ。
(6)『旧藩情』から引用してみよう。前注書四二~三ページ。旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。其身分、役名を、精細に分てば百余級の多きに至れども、之を大別して二等に分つ可し。即ち上等は、儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は、祐筆、中小姓厠格、供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、其数の割合、上等は凡そ下等の三分の一なり(中略)第一、下等士族は、何等の功績あるも、何等の才力を抱くも、決して上等の席に昇進するを許さず。稀に祐筆などより立身して小姓組に入りたる例もなきに非ざれども、治政二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、其下等中の黜陟(ちゅっちょく)に心を関して昇進を求れども、上等に入るの念は、固より之を断絶して、其趣は、走獣敢て飛鳥の便利を企望せざる者の如し(中略)足軽は一般に上等士族に対して、下座とて、雨中、往来に行き逢ふとき、下駄を脱いで路傍に平伏するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢へば下座平伏を法とす。啻(ただ)に大臣のみならず、上士の用人格たる者に対しても、同様の礼を為さざるを得ず。(中略)独り上等と下等との大分界に至ては、殆ど人為のものとは思はれず、天然の定則の如くにして、之を怪しむ者あることなし(権利を異にす)中津藩における上級武士、下級武士については、広池千九郎『中津歴史』(明治二四年)一七三~八二ページも参照した。
(7)鈴木正幸「主権国家・国民国家・日本近代国家」(同編『比較国制史研究序説』所収 柏書房 一九九二年)及び園田碑英弘「郡県の武士」(同著
『西洋化の構造』所収 思文閣一九九三年[平成五年])参照。
(8)三五~七ページ 大分県教育庁大分県教育百年史編集事務局編 昭和五一年。なお中津藩における教育については、同一巻通史編(1)一一五~九、一六二~四、二五三~七ページ及び大分県社会教育資料第一二輯『藩政時代の教育』(大分県社会課 大正十四年)二〇九~二一五ページも参照。
(9)重名については、前掲『国学者伝記集成』参照。重石丸については、松下著書十六~八ページ、及び上田賢治「渡辺重石丸考」(国学院大学日本文化研究所編『維新前後に於ける国学の諸問題』所収 昭和五八年)参照。重石丸には自叙伝的草稿として『鴬栖園遺稿』があるというが、筆者は未見。
(10)大分県立図書館郷土資料室蔵(整理番号k288sh31 複953)。
(11)以上、主として松下著書四七~六二ページ及び『増田宋太郎伝』三~九ページに拠る記述。
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