訪蜀記(その1)蜀の精華 (美津島明)
今回私は、二〇年ぶりに中国四川省を訪れました。妻がそこの出身で、そこに住んでいる両親が高齢なので不測の事態がいつ生じてもおかしくない。だから、ふたりが元気なうちに彼らに私の顔を見せてあげてほしい、という妻の願いを私が受け入れた、というのがその理由です。そういうふうに切々と訴えられて断るわけにいかなくなってしまったのです。
二〇年前に訪れたのは、妻の両親にふたりの結婚を報告するためでした。私にとっては初めての中国訪問の旅でした。帰路で、北京に立ち寄って、妻の父方の親戚に会ったのを覚えています。旅の途中で、全身に痒みを伴う発疹が生じたり、ホテルで使ったタオルのせいで目が充血し目やにが異常発生して面妖な風貌になったり、ホテルや空港での職員の劣悪なサーヴィスに堪忍袋の緒が切れて英語をしゃべりまくる変な日本人になってしまったり、と心身ともにボロボロになって帰国しました。それで、もともとは熱烈な中国ファンだった私(中国人と結婚するくらいですから)が、中国にすっかり懲りてしまったのです。ひるんでしまったのです。その後、妻は何度か帰国しましたが、私はそれに同伴しませんでした。
「実は両親だけではなくて、弟や妹もあなたに会いたがっている」。その言葉は、妻の幾度かの帰国をなかば見て見ぬふりをしてきた私のやましさを直撃しました。
そんなわけで、私は二月二三日(月)から二八日(土)までの六日間、四川省、すなわち、三国志の魏・呉・蜀のなかの蜀の国に行ってきたのであります。
成都空港に着いたのは夜中の12時前後でした。空港では、妻と彼女の弟の千と妹の群英の三人が待っていました。弟の千とは二〇年前に会ったことがありますが、妹の群英とは今回が初顔合わせです。ふたりについてはいずれ詳しく触れようと思っているので、ここでは略します。弟の車で、ホテルに直行しました。車窓から見える夜中の成都は、なんとなくですが、二〇年前と比べて巨大化しているような印象を抱きました。ビルが大きくなっているからです。ホテルのロビーでは、妻の親戚たちの予期せぬ大歓迎を受けました。弟の千の奥さんやその子どもたち、妹の群英の旦那さんやその子供たちもいました。真夜中であるにもかかわらず、みんなニコニコ顔で、目が野生動物のようにきらきらしています。というのは、ホテルのロビーの照明があまり明るくなかったのです。中国語をほとんどしゃべれない私は、謝謝(シェシェ)を繰り返すよりほかに術はありません。
翌日の昼、みんなで昼食をとった後、妹の群英の旦那さんの車で妻の両親が待っている資中県に向かいました。資中県は、高速道路を時速100kmで突っ走って三時間ほど成都を南下したところにあります。
その次の日、親類縁者が一同に会しての、近所の中華料理屋での昼食会がありました。総勢約三〇人で丸テーブル三卓の大規模な会食でした。妻の両親が住んでいるところを集合場所にしたのですが、そこでとてもなつかしい顔を見かけました。妻の父方の従兄です。
二〇年前に資中県に来たとき、真っ先に立ち寄ったのが、実はこの従兄の家だったのです。八月初旬のことだったので、とても暑かったのを覚えています。成都空港からバスで三時間ほど爆走して資中県に到着し、降り立ったところから徒歩で一〇分程度のところに従兄の家はありました。降り立ったところは、資中県の中心街なのでしょうが、鄙びた埃っぽい小さな田舎町という印象でした。居間に通されて、お湯が出されたのには、内心けっこう驚きました。
当時三三歳の従兄は、生活に疲れた様子ではありましたが、繊細な顔立ちをしたなかなかのイケメンでした。妻が子どものころの憧れの男性だったようです。彼に紹介された奥さんも、所帯やつれをしてはいるもののなかなかの美人です。妻によれば、当時のふたりは近所でも評判の美男美女カップルでした。
しかし、それ以上に驚いたのは、当時八歳の、従兄夫婦の長女の美少女ぶりでした。次の写真の右側が彼女です(ちなみに左側は、当時の妻です)。
当時の写真を被写体としてあらためて撮り直したため、やや不鮮明ではありますが、その愛くるしさはそれなりにうかがわれるのではないでしょうか。見た目だけではなくて、仕草や妻とのやり取りから、性格の素直さや真面目さや優しさもうかがわれて、私はすっかり長女のファンになってしまいました。半ば本気で、養女として日本に連れ帰ることができないものかと妻と話し合ったほどです。まあ、こんな宝物を、従兄夫婦が手放すはずがないので、そのことを彼らに対して口に出すことはなかったのですが。いつまで続くか分からない貧しさに押しつぶされてしまうには、彼女の心身の美質があまりにも勿体ないように思われて、気が気でない気分に襲われた、というのもあったのです。子どもに心を奪われると、私の場合、その子と血のつながりがなくても、過剰なほどの庇護欲求が湧いてくるようなのです。それはそんなにめずらしいことではないだろうとは思いますが、いかがでしょうか。
話を戻します。妻の両親の家の庭先で二〇年ぶりに再会した従兄は、ニコニコしながら奥さんを紹介してくれました。従兄も奥さんもそれなりに年齢を重ねてはいましたが、幸せな暮らしぶりをうかがわせるようなふっくらとした風貌をしています。そうして、奥さんの隣に落ち着いた佇(たたず)まいで椅子に座っている若奥さんが自ずと目に入りました。というのは、その女性が目を射抜くような色白の美形であったからです。結婚しているのがすぐに分かったのは、赤ん坊を抱いていたからです。ほどなく従兄が、「長女です」と紹介してくれて、やっと、その若奥さんと二〇年前の美少女とが頭のなかで結びつきました。私の目の前には、二〇年前の美少女がゆっくりと時間をかけて大輪の花に成長した姿が、そんなことなどごく当たり前で、あらためて感動するほどのことでもないと言っているかのようなおっとりとした風情でたたずんでいるのです。
宴席は、従兄の隣でした。そこで私はあらためて従兄と旧交を温めました。むろん通訳は妻よりほかにいません。ほかには、妻の父親や弟の千や妻の旦那さんのお父さんやらが一〇名ほど丸テーブルを囲んで、ご当地のアルコール45%の焼酎を飲んでいます。酒宴の詳細については「その2」でお伝えしようと思っていますが、私は、中国式の「乾杯」で焼酎の一気呑みをやらかして、結局前後不覚状態になってしまいました。
気がついたのは、翌日の午前中でした。ほぼ、まる一日寝ていたことになります。意識を取り戻した私に、妻が「従兄が自分の家にみんなを招待したいと言っている。昨日のお返しをしたいということだ。起きれるか」と声をかけてきました。私は、こっくりとうなずいて、おもむろにベッドから起き上がりました。私たちの資中県での滞在先は、妻の妹・群英のマンションです。リビングは20畳以上あったでしょうか。
従兄の家は、群英のマンションから、とぼとぼと歩いて三〇分弱ほどのところにありました。従兄の家に向かう道路は一応舗装されてはいるのですが、雨が降ると泥でぐちぐちゃになってしまうという代物です。四川省は一年中、巨大な盆地が巨大な雲で蓋をされているような土地柄なので、夜は毎日のように小雨がぱらつきます。だから、そこいらの道路はいつもぐちゃぐちゃなのです。でも、商店が途切れることはありません。資中県の中心地は、二〇年の間に、都市として信じられないほどに巨大化したのです。だから、道路・ゴミ処理・下水道などのインフラ整備がどうにも追いつかない状態なのでしょう。それで、泥を避けるようにして細い歩道をとぼとぼと歩くよりほかにないわけです。
従兄の家は、マンションの二階にありました。総勢10数名の親戚たちと中に入ってリビングのソファに座ると、小奇麗な暮らしぶりをしていることがすぐに分かりました。おもてなしとしてまず出されたのは、お湯ではなくて、ワンタッチで出るお湯を注がれたお茶でした。トイレも日本人に馴染みのある水洗式で戸惑うことはありません。中国で一般に普及しているのは、用を足した後、柄杓で汲んだ水を排水口に流し込む方式のトイレです。両親の家も群英のマンションもそうです。だから、従兄の暮らしぶりは、中国ではなかなか都会的なもの、例えば、上海あたりの中流家庭のそれに近いものであると言えるのではないかと思われます。
私は従兄に対して、その住居がたいへん素晴らしいものであり、この二〇年間従兄は実によく頑張ったにちがいないと思っていることなどを率直に伝えた。すると従兄は、大きくうなずいて、「全ては妻のおかげだ。この女性を娶った私は、果報者だ」と言います。その率直な物言いに、私はなにやら胸中がスカッとしました。妻によれば、従兄は、親戚が地元の工場を退職したのを引き継いで機械の修理工としてその工場でずっと働いてきました。だから、儲け話に手を出すとかなんとかいった、バブルに踊るようなマネをして豊かになったのではどうやらなくて、地道に真面目に働いて今日の経済的基盤を手に入れたのです。これは、中国社会における豊かさの実現がバブルや汚職によるものだけなのではなくて、真面目に働くことによっても可能であることを雄弁に物語っている、と私は考えます。この視点は、中国経済の本当の姿を察するうえで極めて重要なものなのではないでしょうか。
お酒が進んできたところで、あんな綺麗な娘を持って、結婚するまで父として気が気ではなかっただろうと言ったところ、従兄は、本当にそうだったというふうに無言で深くうなずきました。綺麗で上品で素直な娘さんにちょっかいを出したがる身分不相応でタチの悪い馬鹿男はどの国にもいますからね。長女は君という名で、どうやら成都郊外のけっこう裕福な男のところに嫁いだようです。旧正月で実家に帰ってきた、ということでした。いま二八歳。これから女の盛りを謳歌することになるのでしょう。妹もいるのですが、こちらは、姉よりも早く嫁ぎ、いまは広東に住んでいるとの由。
食事の後に、従兄一家の写真を撮りました。次のがそれです。
向かって左手が従兄の長女、真ん中後ろが従兄、右手がその奥さん、そうして、三人に囲まれている赤ん坊が、まだ生後七ヶ月の、長女の娘です。実は、この赤ん坊、一座の大の人気者で、妻の親族の人々によって代わる代わる抱っこされていました。その気持ち、私はよく分かります。この写真からどの程度伝わるのか、よくは分かりませんが、抱いている人の真正面にその顔を持ってくると、つぶらな瞳で至近距離の相手の顔を正面からじっと不思議そうに見つめ、キャッキャと笑うので、いとおしい感情がおのずと湧いてくるのですから。
上の写真なら、その感じがわりと伝わりやすいかもしれません。お母さん、娘さん、お孫さんと、この一家は、すっきりとした素敵な雰囲気とつぶらな瞳がちゃんと遺伝しているようです。
私が今回の投稿につけたサブタイトルの「蜀の精華」とは、この三人の生命の美しき連続性を形容したものです。従兄の奥さんがお孫さんを抱いているのを私が嬉しそうに眺めていたところ、何をどう思ったのか、私にお孫さんを抱かせようとしました。むろん私がそれを拒むはずもないのですが、なんというか、赤ちゃんを抱くのに慣れていないので、突然壊れやすい宝物を授かったような気持ちになり、実に神妙な心持ちであやすような曖昧な動きをちょっとしただけで、奥さんにお返ししました。でもそれだけでも、ぼおっとのぼせてしまうほどに幸せな瞬間だったのです、私にとっては。
従兄の家での宴の昼の部に続いて夜の部も終わりに近づいたころ(中国四川省では、客人を招いての宴は、通常昼夜2回行われるそうです)、従兄が、私たち夫婦に昔の自分の家を見せたいと申し出ました。中庭からすぐに行けるのですが、いったん表通りに出てそこから路地に入る形で見せたいというのです。彼としては、二〇年前に私が訪問したルートをたどることで、そのときのことを私が思い出すのを期待したようです。彼のその目論見は的中しました。私は二〇年前に従兄の家を訪ねたときのことを細部に至るまではっきりと思い出したのです。妻を通じて、従兄にそのことを告げると、従兄は、何度もうんうんとうなずきました。いまは、ほかの人にそこを貸しているのですが、その人が旧正月で留守にしているから、従兄は家のなかまで私たちを案内してくれました。古びてはいましたが、従兄の家は私たちが訪問したときの原形をしっかりととどめていました。従兄も、奥さんも、長女も、貧しかった当時のことを隠そうとする素振りをまったく示そうとせず、実に自然に私たちが訪れた当時のことを懐かしそうに思い浮かべているようでした。そこに私は、中国人の強靭さの秘密があるように感じました。 (その2につづく)
今回私は、二〇年ぶりに中国四川省を訪れました。妻がそこの出身で、そこに住んでいる両親が高齢なので不測の事態がいつ生じてもおかしくない。だから、ふたりが元気なうちに彼らに私の顔を見せてあげてほしい、という妻の願いを私が受け入れた、というのがその理由です。そういうふうに切々と訴えられて断るわけにいかなくなってしまったのです。
二〇年前に訪れたのは、妻の両親にふたりの結婚を報告するためでした。私にとっては初めての中国訪問の旅でした。帰路で、北京に立ち寄って、妻の父方の親戚に会ったのを覚えています。旅の途中で、全身に痒みを伴う発疹が生じたり、ホテルで使ったタオルのせいで目が充血し目やにが異常発生して面妖な風貌になったり、ホテルや空港での職員の劣悪なサーヴィスに堪忍袋の緒が切れて英語をしゃべりまくる変な日本人になってしまったり、と心身ともにボロボロになって帰国しました。それで、もともとは熱烈な中国ファンだった私(中国人と結婚するくらいですから)が、中国にすっかり懲りてしまったのです。ひるんでしまったのです。その後、妻は何度か帰国しましたが、私はそれに同伴しませんでした。
「実は両親だけではなくて、弟や妹もあなたに会いたがっている」。その言葉は、妻の幾度かの帰国をなかば見て見ぬふりをしてきた私のやましさを直撃しました。
そんなわけで、私は二月二三日(月)から二八日(土)までの六日間、四川省、すなわち、三国志の魏・呉・蜀のなかの蜀の国に行ってきたのであります。
成都空港に着いたのは夜中の12時前後でした。空港では、妻と彼女の弟の千と妹の群英の三人が待っていました。弟の千とは二〇年前に会ったことがありますが、妹の群英とは今回が初顔合わせです。ふたりについてはいずれ詳しく触れようと思っているので、ここでは略します。弟の車で、ホテルに直行しました。車窓から見える夜中の成都は、なんとなくですが、二〇年前と比べて巨大化しているような印象を抱きました。ビルが大きくなっているからです。ホテルのロビーでは、妻の親戚たちの予期せぬ大歓迎を受けました。弟の千の奥さんやその子どもたち、妹の群英の旦那さんやその子供たちもいました。真夜中であるにもかかわらず、みんなニコニコ顔で、目が野生動物のようにきらきらしています。というのは、ホテルのロビーの照明があまり明るくなかったのです。中国語をほとんどしゃべれない私は、謝謝(シェシェ)を繰り返すよりほかに術はありません。
翌日の昼、みんなで昼食をとった後、妹の群英の旦那さんの車で妻の両親が待っている資中県に向かいました。資中県は、高速道路を時速100kmで突っ走って三時間ほど成都を南下したところにあります。
その次の日、親類縁者が一同に会しての、近所の中華料理屋での昼食会がありました。総勢約三〇人で丸テーブル三卓の大規模な会食でした。妻の両親が住んでいるところを集合場所にしたのですが、そこでとてもなつかしい顔を見かけました。妻の父方の従兄です。
二〇年前に資中県に来たとき、真っ先に立ち寄ったのが、実はこの従兄の家だったのです。八月初旬のことだったので、とても暑かったのを覚えています。成都空港からバスで三時間ほど爆走して資中県に到着し、降り立ったところから徒歩で一〇分程度のところに従兄の家はありました。降り立ったところは、資中県の中心街なのでしょうが、鄙びた埃っぽい小さな田舎町という印象でした。居間に通されて、お湯が出されたのには、内心けっこう驚きました。
当時三三歳の従兄は、生活に疲れた様子ではありましたが、繊細な顔立ちをしたなかなかのイケメンでした。妻が子どものころの憧れの男性だったようです。彼に紹介された奥さんも、所帯やつれをしてはいるもののなかなかの美人です。妻によれば、当時のふたりは近所でも評判の美男美女カップルでした。
しかし、それ以上に驚いたのは、当時八歳の、従兄夫婦の長女の美少女ぶりでした。次の写真の右側が彼女です(ちなみに左側は、当時の妻です)。
当時の写真を被写体としてあらためて撮り直したため、やや不鮮明ではありますが、その愛くるしさはそれなりにうかがわれるのではないでしょうか。見た目だけではなくて、仕草や妻とのやり取りから、性格の素直さや真面目さや優しさもうかがわれて、私はすっかり長女のファンになってしまいました。半ば本気で、養女として日本に連れ帰ることができないものかと妻と話し合ったほどです。まあ、こんな宝物を、従兄夫婦が手放すはずがないので、そのことを彼らに対して口に出すことはなかったのですが。いつまで続くか分からない貧しさに押しつぶされてしまうには、彼女の心身の美質があまりにも勿体ないように思われて、気が気でない気分に襲われた、というのもあったのです。子どもに心を奪われると、私の場合、その子と血のつながりがなくても、過剰なほどの庇護欲求が湧いてくるようなのです。それはそんなにめずらしいことではないだろうとは思いますが、いかがでしょうか。
話を戻します。妻の両親の家の庭先で二〇年ぶりに再会した従兄は、ニコニコしながら奥さんを紹介してくれました。従兄も奥さんもそれなりに年齢を重ねてはいましたが、幸せな暮らしぶりをうかがわせるようなふっくらとした風貌をしています。そうして、奥さんの隣に落ち着いた佇(たたず)まいで椅子に座っている若奥さんが自ずと目に入りました。というのは、その女性が目を射抜くような色白の美形であったからです。結婚しているのがすぐに分かったのは、赤ん坊を抱いていたからです。ほどなく従兄が、「長女です」と紹介してくれて、やっと、その若奥さんと二〇年前の美少女とが頭のなかで結びつきました。私の目の前には、二〇年前の美少女がゆっくりと時間をかけて大輪の花に成長した姿が、そんなことなどごく当たり前で、あらためて感動するほどのことでもないと言っているかのようなおっとりとした風情でたたずんでいるのです。
宴席は、従兄の隣でした。そこで私はあらためて従兄と旧交を温めました。むろん通訳は妻よりほかにいません。ほかには、妻の父親や弟の千や妻の旦那さんのお父さんやらが一〇名ほど丸テーブルを囲んで、ご当地のアルコール45%の焼酎を飲んでいます。酒宴の詳細については「その2」でお伝えしようと思っていますが、私は、中国式の「乾杯」で焼酎の一気呑みをやらかして、結局前後不覚状態になってしまいました。
気がついたのは、翌日の午前中でした。ほぼ、まる一日寝ていたことになります。意識を取り戻した私に、妻が「従兄が自分の家にみんなを招待したいと言っている。昨日のお返しをしたいということだ。起きれるか」と声をかけてきました。私は、こっくりとうなずいて、おもむろにベッドから起き上がりました。私たちの資中県での滞在先は、妻の妹・群英のマンションです。リビングは20畳以上あったでしょうか。
従兄の家は、群英のマンションから、とぼとぼと歩いて三〇分弱ほどのところにありました。従兄の家に向かう道路は一応舗装されてはいるのですが、雨が降ると泥でぐちぐちゃになってしまうという代物です。四川省は一年中、巨大な盆地が巨大な雲で蓋をされているような土地柄なので、夜は毎日のように小雨がぱらつきます。だから、そこいらの道路はいつもぐちゃぐちゃなのです。でも、商店が途切れることはありません。資中県の中心地は、二〇年の間に、都市として信じられないほどに巨大化したのです。だから、道路・ゴミ処理・下水道などのインフラ整備がどうにも追いつかない状態なのでしょう。それで、泥を避けるようにして細い歩道をとぼとぼと歩くよりほかにないわけです。
従兄の家は、マンションの二階にありました。総勢10数名の親戚たちと中に入ってリビングのソファに座ると、小奇麗な暮らしぶりをしていることがすぐに分かりました。おもてなしとしてまず出されたのは、お湯ではなくて、ワンタッチで出るお湯を注がれたお茶でした。トイレも日本人に馴染みのある水洗式で戸惑うことはありません。中国で一般に普及しているのは、用を足した後、柄杓で汲んだ水を排水口に流し込む方式のトイレです。両親の家も群英のマンションもそうです。だから、従兄の暮らしぶりは、中国ではなかなか都会的なもの、例えば、上海あたりの中流家庭のそれに近いものであると言えるのではないかと思われます。
私は従兄に対して、その住居がたいへん素晴らしいものであり、この二〇年間従兄は実によく頑張ったにちがいないと思っていることなどを率直に伝えた。すると従兄は、大きくうなずいて、「全ては妻のおかげだ。この女性を娶った私は、果報者だ」と言います。その率直な物言いに、私はなにやら胸中がスカッとしました。妻によれば、従兄は、親戚が地元の工場を退職したのを引き継いで機械の修理工としてその工場でずっと働いてきました。だから、儲け話に手を出すとかなんとかいった、バブルに踊るようなマネをして豊かになったのではどうやらなくて、地道に真面目に働いて今日の経済的基盤を手に入れたのです。これは、中国社会における豊かさの実現がバブルや汚職によるものだけなのではなくて、真面目に働くことによっても可能であることを雄弁に物語っている、と私は考えます。この視点は、中国経済の本当の姿を察するうえで極めて重要なものなのではないでしょうか。
お酒が進んできたところで、あんな綺麗な娘を持って、結婚するまで父として気が気ではなかっただろうと言ったところ、従兄は、本当にそうだったというふうに無言で深くうなずきました。綺麗で上品で素直な娘さんにちょっかいを出したがる身分不相応でタチの悪い馬鹿男はどの国にもいますからね。長女は君という名で、どうやら成都郊外のけっこう裕福な男のところに嫁いだようです。旧正月で実家に帰ってきた、ということでした。いま二八歳。これから女の盛りを謳歌することになるのでしょう。妹もいるのですが、こちらは、姉よりも早く嫁ぎ、いまは広東に住んでいるとの由。
食事の後に、従兄一家の写真を撮りました。次のがそれです。
向かって左手が従兄の長女、真ん中後ろが従兄、右手がその奥さん、そうして、三人に囲まれている赤ん坊が、まだ生後七ヶ月の、長女の娘です。実は、この赤ん坊、一座の大の人気者で、妻の親族の人々によって代わる代わる抱っこされていました。その気持ち、私はよく分かります。この写真からどの程度伝わるのか、よくは分かりませんが、抱いている人の真正面にその顔を持ってくると、つぶらな瞳で至近距離の相手の顔を正面からじっと不思議そうに見つめ、キャッキャと笑うので、いとおしい感情がおのずと湧いてくるのですから。
上の写真なら、その感じがわりと伝わりやすいかもしれません。お母さん、娘さん、お孫さんと、この一家は、すっきりとした素敵な雰囲気とつぶらな瞳がちゃんと遺伝しているようです。
私が今回の投稿につけたサブタイトルの「蜀の精華」とは、この三人の生命の美しき連続性を形容したものです。従兄の奥さんがお孫さんを抱いているのを私が嬉しそうに眺めていたところ、何をどう思ったのか、私にお孫さんを抱かせようとしました。むろん私がそれを拒むはずもないのですが、なんというか、赤ちゃんを抱くのに慣れていないので、突然壊れやすい宝物を授かったような気持ちになり、実に神妙な心持ちであやすような曖昧な動きをちょっとしただけで、奥さんにお返ししました。でもそれだけでも、ぼおっとのぼせてしまうほどに幸せな瞬間だったのです、私にとっては。
従兄の家での宴の昼の部に続いて夜の部も終わりに近づいたころ(中国四川省では、客人を招いての宴は、通常昼夜2回行われるそうです)、従兄が、私たち夫婦に昔の自分の家を見せたいと申し出ました。中庭からすぐに行けるのですが、いったん表通りに出てそこから路地に入る形で見せたいというのです。彼としては、二〇年前に私が訪問したルートをたどることで、そのときのことを私が思い出すのを期待したようです。彼のその目論見は的中しました。私は二〇年前に従兄の家を訪ねたときのことを細部に至るまではっきりと思い出したのです。妻を通じて、従兄にそのことを告げると、従兄は、何度もうんうんとうなずきました。いまは、ほかの人にそこを貸しているのですが、その人が旧正月で留守にしているから、従兄は家のなかまで私たちを案内してくれました。古びてはいましたが、従兄の家は私たちが訪問したときの原形をしっかりととどめていました。従兄も、奥さんも、長女も、貧しかった当時のことを隠そうとする素振りをまったく示そうとせず、実に自然に私たちが訪れた当時のことを懐かしそうに思い浮かべているようでした。そこに私は、中国人の強靭さの秘密があるように感じました。 (その2につづく)
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