最近、しきりに騒がれているイジメと体罰の問題は、学校を脱けだし、いまや柔道の世界にまでおよんでしまった。
だからここで少し立ち止まり、数回にわたってこの問題を論じてみたい。学校に勤務するものとして、長年若者とかかわってきた市井のひとりとして、この問題への「違和感」を語ってみたいと思うのです。
※
二〇一三年の年明け早々、またいやなニュースが紙面を賑わせました。
大阪市の高校二年生が、所属するバスケットボール部の顧問から事実上の体罰をうけ、翌日に自殺しました。おなじ高校の、他の部活担当の教員も、やはり暴力を行っていたようです。
教育委員会の隠蔽体質、顧問教員への批判と攻撃、そして体罰批判などが連日、マスコミを賑わせました。したり顔に、教育評論家が、テレビで私たちに耳触りのいい正論を垂れ流しました。
たしかに連日、報道はされていたのです。しかし私には、何か決定的なことが抜け落ちているとしか思えませんでした。とても大事なことが書かれず、話されないままに、若者の死がふたたび「いつもの事件」とおなじことばで描かれているとしか思えませんでした。
では、いったい何が違和感をかきたてたのか。何が抜け落ちていると感じたのか。
この事件に先立つ二〇一二年一〇月、隣県滋賀県大津市で、中学二年生がイジメのはてに自殺したことを思い出してください。二つの事件の加害者には、大人と子供という違いがあります。部活の顧問と、生徒がそれぞれの事件の首謀者です。
しかし私たち一般の人間からすれば、二つの事件はともに、教育現場の問題、とりわけ先生の問題にみえます。体罰をあたえた教師と、イジメにたいして有効な手段を打てなかった教員、つまり「学校の先生は何をしていたんだ!」という問題になると思うのです。言うまでもないことですが、教育問題は非常におおくの課題を抱えていますから、ここでは「権威」を考える際に重要な「先生」に問題を限定しておきたいと思います。
そのうえで、生徒の死をめぐる事件は毎回、必ずといっていい程、次のような軌道を描いて論じられ忘れられてゆくと思うです。
対立する意見
たとえば、イジメがはびこるのは、先生が教育を怠っているからであって、体罰を含めた厳正な教育がおこなわねばならない。時に暴力的であろうとも、イジメはしてはならないと、先生は徹底的に「教え込む」べきである――こういった意見が、まずは登場します。
しかしほぼ同時反射的に、今回の部活担当教員の体罰が頭をよぎるのもたしかです。そこから、いかなる暴力も許されない、教師は生徒の自由を尊重するべきであって、どのような威圧的行為も許されないという意見がでてくるのです。
だとすれば、ここには教育のあり方をめぐって、二つの意見の対立が現れています。それこそ毎回くり返される、古くからのお馴染みの対立が現れていると思うのです。
それを簡単にまとめると、「子供に対して、きびしく規律を課すべきか、それとも子供には自由を与えるべきか」という対立になります。子供中心主義を重視し、なんでも自由を認めるか、それとも管理教育にすべきか、という対立図式、これが私のいう「お馴染みの対立」なのです。
テレビなどのマスコミに登場する意見はさまざまありますが、結局はこの対立に落ちつくことが非常におおい。
もちろん私の違和感は、この対立への違和感に由来します。なぜなら、一見して対立する二つの意見は、実はおなじ穴のムジナのように思えてならないからです。
三つの違和感
私たちはいったん、マスコミの刺激的な「ことば」から眼をはなし、冷静さをとり戻さねばなりません。実際の教育現場の感覚をできるだけ意識しながら、それを冷静に理論化する必要があると思います。
たとえば、社会学者の菅野仁氏は、教育の世界における極端な意見の対立はあぶないと指摘しています。菅野氏によれば、戦後日本の自由主義教育は、かんぜんに行き詰っています。氏の言う「戦後日本の自由主義教育」とは、子どもの欲望や思いを、自主性あるいは意見だとして尊重し、全面的に肯定し、開放と自由を重んじる教育という意味です。
一方で、その反動として徹底的な管理教育をすべし!という意見がかならず出てきます。子どもは、大人になる前の成長段階にある。その子どもの欲望を意見と考えるのは間違いだ。まずは先生が徹底的な管理教育をし、子どもに躾けをおこなうことが大事なのだ――こういう反対意見が登場すると菅野氏は言うのです。
菅野氏の指摘は、私が先にまとめた「二つの意見の対立」のことを言っています。ではこの意見の対立が、なぜに違和を感じさせるのか?
それは次の三つの理由からです。
第一に、教育現場が置き去りにされるからです。
第二に、学校という場を重視しすぎていることが問題です。
第三に、この対立からは現代社会全体の問題と、先生の状況がふかい結びつきをもっていることが見えないということです。
それでは、第一の問題から見てみましょう。
教育現場と政治
いま見てきた「二つの意見の対立」は、かならず敵対する側をするどく批判し、自分の意見の正統性を示そうとする傾向があります。自分なりの「像」を創りあげ、それを否定・批判することで自分側の意見を鮮明なものにしようとします。
あまりにエスカレートすると、「管理教育は戦前の体制の復活だ!」といった議論になり、はては「民主主義教育にたいする挑戦だ」とか、「危険思想だ!」などという意見にまで凝り固まっていきます。
しかし少なくとも、私には「管理」「戦前」「民主主義」そして「危険思想」などという概念は、まったく意味がわかりません。「管理」とは何なのか、「戦前」とはどんな時代だったか、「民主主義」をなぜ無条件に正しいと思えるのか、さらにはあなたのいう「危険」とはいったい何をイメージしているのか……。
ほとんど私には理解できないのです。
私がこういった「ことば」の氾濫に、身震いするほどの嫌悪感を禁じられないのは、彼らが自分自身をすこしも疑っていないことです。彼らの眼はキラキラとかがやき、自分の「ことば」=正義をにぎりしめ、他者を批判する。自分の頭のなかでできあがった正義=民主主義と、管理・戦前=悪などの図式を少しも疑っていないのです。
これは本当に、恐ろしいことです。
自分の考えを絶対の正義だとし、それに反する意見には悪のレッテルを張る。そして危険だとか、反動だとか、はては保守的だという意味不明な罵倒のことばで否定する。
これこそ、実はもっとも危険で反動的な行為ではないでしょうか。
もっとも、批判される側の管理教育肯定論者にも、この傾向は少なからずあります。しかし彼らの自由主義教育への批判が、戦後の教育業界を支配してきた過度の自由礼賛にたいする違和感からでてきた以上、彼らには同情の余地があるというのが私の立場です。それについては、追々あきらかにします。
戦後教育のいう自由な教育は、実際には、あまりにも政治的なイデオロギーに満ち溢れた自由であり、生徒の意見の尊重などとはかけ離れていたのです。なんのことはない、自由の押しつけ、自由こそ絶対というイデオロギー教育だったのです。
第一の結論を言います。自由と規律いずれの立場にたつとしても、無意識のうちに政治的になること、これが最も危険なのです。教育改革という国家と政治がかかわる部分と、教師の活動や教育のあり方=日々の行為は別のモノです。当たり前のことですが、政治は大きな制度改革をおこなうことが仕事であり、実際のこまかい教育内容までは目が届かないし、届くべきでもないです。
この制度と日常、この区別をきちんとしなくてはいけない。それがいい加減だと、教育問題はすぐに政治好きの連中が飛びつき現場を忘れることになるか、あるいは「現場がわかっていない」などの政治批判になるかどちらかなのです。
政治が現場をわからないのは当たり前のこと。政治は、10年先20年先の日本の教育をみすえ、大ナタを振るだけでいいのです。
*****
前回、私が言いたかったのは、自由と規律の「二つの意見の対立」が、相手への批判に終始してしまうと、かならず問題が政治的になるということです。いつの間にやら、相手への攻撃が目的になってしまい、最重要問題「イジメを防げず、体罰を行ってしまう先生をどうすればいいか」という教育現場の問題が、消えてしまうということです。
だからくりかえしておきますが、私たちにとって問題なのは、先生をめぐる学校教育が問題なのであって、その問題へのあくまでも「手段」として、管理教育や自由主義教育の是非があることを忘れてはいけません。教育現場と政治は、わけなくてはいけないのです。
学校への過剰な期待は禁物
第二の、学校という場を重視しすぎているという問題に入りましょう。
学校の先生は、あまりにも多くのことを期待されています。「教育」という神聖な行為をおこなっている場所というイメージから、そこに君臨する先生は、子供たちに人間としての生き方を教える必要があると期待されます。
たとえば、自由主義教育を重んじる人であれば、子どもたちに自由の重要性、自主的に意見を発表することの重要性を一生懸命、教えなくてはいけません。
一方で、規律重視型の教育を主張する人からすれば、学校教育こそ人間としての生き方を教える道徳教育の場ということになります。つまり、いずれにせよ、彼らの期待どおりに先生がふるまうとすれば、彼らはかなりの時間を、教育につかう必要がでてくるのです。
イジメを事前に見抜けなかった、生徒の苦しみを放置したといった批判が、学校にはげしくぶつけられるのも、先生たちには、子どもの苦しみをわかっているべき存在、つまりは道徳的な存在であることが強く求められているのです。
ところが、先生の仕事はそれだけに限るわけではありません。
本来であれば、家庭や近隣の人によって担われてきた眼に見えない、膨大な量の業務を、現在の先生たちは引きうけている。自由であれ、規律であれ、こういった人間力の育成の問題は、家庭環境や地域のサポートを抜きしては考えられません。
もっとも簡単な例を挙げれば、仕事をかかえ共働きで都会生活をしている両親には、子どもをおおく生み、育てるだけの余裕がありませんが、田舎で祖父母がいれば、子どもの保護を複数の大人たちが担当できます。その結果、おおくの子どもを育てられるし、教育を複数の大人たちが担当することになるのです。
しかし実際には、都会では家庭や地域のサポートがきわめて限定的です。カネという資本主義の論理がはいりこんで、はじめて子どもへのサービスが提供されるような社会構造である都会では、祖父母や地域といった無償の支えが期待できません。
だからこそ、かえって、子どもの教育をおこなうことをめぐって、学校という場所は、過剰なまでにサービスを期待されるのです。両親だけでなく、マスコミすらもが無意識のうちに学校の先生に、無償の支えを期待している。これを私は「過剰」だと言っているのです。
小学校の先生であれば、算数・国語・社会を教え、休み時間に理科の実験の用意をし、授業が終われば事務仕事があり、また家庭科などの「家庭」や「保健」教育まで担当する……。ほんとうであれば、おおくの大人が支えるはずの教育が、「意識的」に学校の先生が担うことが期待される。本来、引きうける以上の役割を、都会の先生はとくに求められているのではないでしょうか。
こんな状態が、先生を取巻いていると思うのです。
要するに、現在の学校の先生は、きわめて矛盾した期待を背負わされているのです。
まずは神聖な教育をおこなう存在として、尊敬をうけ道徳的に優れた人間であることを期待される。子どもを教導する役割です。
しかし一方では、教育者という立場からは考えられないような、雑務を引きうけ、過剰なサービスを要求され、子どもの世話係を押しつけられているのです。
先生は、尊敬される存在なのでしょうか。あるいはベビーシッターと同じなのか。
自由を教えるのであれ、規律を教え込むのであれ「二つの意見の対立」からは先生たちのおかれている現状が見えてこないのです。学校教育へのいささか過大な期待の反面で、このような現状を見落としている可能性があります。何を教えるかという内容以前の問題として、まずは先生たちが矛盾のあいだに挟まれている、このことが見過ごされがちなのです。
福澤諭吉の教育論
ここで学校の役割について、きわめて興味深い指摘をした人物を見てみましょう。福澤諭吉です。一万円札でおなじみの福澤は、非常に多面的な人で、国家・経済・政治などあらゆる分野で啓蒙的な発言をした人物ですが、その彼が教育について興味深い発言をしているのです。
福澤が明治一五年に書いた著作に『徳育如何』というものがあります。今風に訳せば「道徳とは何か」というタイトルになるでしょう。そこで福澤は次のように言っています。
教育は人間力を育成するために重要な要素であるが、あくまでも発達を助ける二次的な働きをするにすぎない。根本をつかさどっているのは、先祖伝来の能力と、家風と、そして社会全体の輿論によってである。だから昨今の人があまりにも学校教育に期待して、学校にさえ入れれば自由自在に望んだような人間ができあがると思うのは間違いである。
ここでとくに福澤は、「社会はあたかも智徳の大教場と云ふも可なり」と言って、時代の雰囲気こそ最大の影響力を人間育成にもたらすと主張します。
ところが当時、若者たちが政治ばかりを論じ、社会を乱しかねないと警戒する人たちが、教育が不完全だ、道徳教育を奨励しないからこうした困った若者が増えるのだと主張しました。それにたいし、福澤は、自分自身もおなじ危機を感じているが、解決方法が違うのだと主張するのです。
このような福澤の時代評価は、たいへん面白い問題をふくんでいます。
つまり福澤諭吉は、明治一五年当時、社会全体の風俗が乱れていることを認めたうえで、しかしこの乱れを学校教育だけで治そうとするのは不可能だと見ていました。学校教育の現場で生じている事態は、社会全体を分析しないことには解決策が見いだせない、と言っているのです。
これを現代に当てはめれば、当然、先の「二つの意見の対立」の問題にたどり着くはずです。
自由主義教育の行き過ぎを批判する側が、イジメの問題すべてを学校での規律の不在だと考えるのは、福澤からすれば大袈裟だということになるでしょう。
また一方で、自由主義教育を主張する人びとが、往々にして子どもの自由を尊重するというよりも、実際には「自由であるべきだ」式のイデオロギー教育をしている場合も、おなじようにナンセンスということになります。
教室で勝手気まますれすれの行動を許すのが、人間の自由につながっていると考えるのは、どう見ても大袈裟です。そんなことが社会では通用しないことは誰でもしっています。それをしらずに卒業していった子供たちが、後々苦労することを考えれば、彼らほど無責任な教育はないのです。
どちらも共に、学校教育をあまりにも過大に評価していると思うのです。
福澤が主張したかったのは、学校という場で浮上した問題が、実は学校現場を一旦離れて、当時の社会全体の問題としてみる必要があるということでした。積み上げられてきた先祖伝来の習慣、家庭の雰囲気そして時代の気分すべてが、ひとりの人間を育て上げてゆく、だから学校で問題視されていることは、時代状況を考慮に入れないとわからない――これが福澤の論旨だったのです。
*****
前回の福澤の指摘は、第三の問題に直結します。ここで自由主義教育論と規制重視論の対立を見つめてみると、次のように結論できるでしょう。
①私たちは現在、体罰をしてみたり、イジメすら防げない先生をどうするか、というリアルな問題を抱えている。この問題に少しでも解決を与えられるとすれば、極端な自由/規制の二元論に立っていてはダメである。現場の先生の引き裂かれた状態、矛盾した状況にもっと敏感であるべきだ。
②また、いくら現場重視だからと言って、事件事故の症例をいくら集めても、これまたダメである。事例は無限にあって、「解決策」などという一般的なものは、何もでてこないことになる。こうなると、教育問題は先生や生徒の個人的な性格や力量の問題になってしまい、一般を論じることじたいに意味を見いだせなくなる。
③よって大事なのは、いったん事件事故から離れて、時代状況がどうなっているのかを知った上で、もう一度、実際の学校現場に降りてゆく、こういう態度である 。福澤は、道徳教育を主張する人を批判しているわけではなかった。彼らの憂慮する問題=子どもの軽薄化を本気で防ぐとしたら、近視眼では駄目なのだ、こう言っていたことを参考にしよう。
ざっとこんな感じになるでしょう。教育にまつわる入手しやすい新書などの多くが教育制度論か、あるいは身近な事例の追求に終始しがちなのは問題です。国家がつくりあげた制度を論じ他国のそれと比較するだけでも、その反動で一つひとつの事例に密着した現場重視主義でも問題は解決できないのです。
「平等化」の行き着く先は…
では、福澤にならって現代社会をどう見るか。
私は、現代社会の根本問題のひとつに「権威」の喪失があると思います。「権威」が喪失した状態が、学校に入り込むとどうなるか。
まずは先生から、急速に「権威」が失われていきます。先生が生徒と御友だち、あるいは兄弟のようになっているのはそのためです。結果はすでに述べたとおりで、実際の現場では、保護者からもベビーシッター並みのお願いをされることもしばしばとなります。「うちの子どもは虚弱だから、別室で特別に私見を受けさせてほしい。なのになぜ、そうしなかったのだ!」といきなり怒鳴りつけてくる母親は、この手の人だと言っていいよいでしょう。
ある程度、先生に「権威」を感じていれば、自分の子どもの特別な資質をまえもって相談し、そのうえでどう学校という公の場に位置づけていくのか、話しあう時間をつくってもらいたいとお願いするはずです。
しかし問題はこれに尽きません。問題の反面だけしか言っていないのです。
先に「学校への過剰な期待は禁物」の部分で、私は学校の先生がはげしい矛盾に苦しんでいると書きました。先生は、ベビーシッターのように扱われる一方で、道徳あるいは自由を教える神聖な存在であることも求められている、と。
こんにち、先生の「権威」が完全に失われたわけではない、これが問題なのです。
先生という立場がもつ「権威」の残り香、ほのかに漂ってくる聖職のイメージが、今度は容易にマスコミなどの餌食になっているのです。先生がイジメを見過ごすとはなにごとだ!とか、先生の性犯罪がことさらにマスコミで取り上げられるのも、先生という仕事にはとくべつなオーラがあるからこそです(おなじことが警察にも言えます)。先生には特別な倫理観がもとめられるという考えが前提にあるのです。
また、先生がルールを強制するとは何ごとだ!とか、生徒は自由であるべきで、強制はすべきでない!という自由主義教育論の立場も、この「権威」否定のきぶんを持っています。彼らは自身が先生であるにもかかわらず、ある種の善良なきもちから、いっそう自分じしんの「権威」否定を加速させていくのです。
以上のような、すべての「先生はなにをしているんだ!」式の議論は、先生への聖職イメージを前提にしている発言なのです。
ですから先生は、こんにち実際の「権威」をうしなってきているのに、「権威」の残り香を執拗に責めたてるマスコミや世間によって、「御上たたき」の材料にされているのです。
こうして信じられないような膨大な「雑務」に追われながら、一方でイジメ問題など先生が取り組むべき核心的問題で失敗をすると、今度は「聖職」者として対応を迫られ批判される。
膨大な仕事のうえに、さらに対応のための会議が行われる……そんな事態におちいっているのです。今日も仕事をしようと思っていたのに、生徒が盗みをはたらいたから生徒指導で一日つぶれてしまった…こんな声がいまにも聞こえてきそうです。
*****
子どもたちから見た先生
では生徒のがわは、時代状況からどのような影響をうけているのでしょうか。どんな子どもになっているのか。
先にも言いましたように、先生という立場には「権威」の残り香があります。
この既成の「権威」への抵抗や糾弾、これが子どもの側からみた先生イメージをまずは作るでしょう。「先生なんて、見かけだけ偉そうにしているけど、実際はどうしようもない人間のくせに」こんな感情をもつ子どもも少なくないでしょう。さらにエスカレートすれば、「大人なんてみんな嘘つきだ」という大きなショックを受けることになります。
これまで社会全体でエライとされていたこと、スゴイと思っていたことが実は大したことではないと気がついてしまう……こういった体験は、人間にとって非常に大きな意味をもちます。とくに感受性のつよい思春期の子どもが敏感に感じとることですから、ちょうど学生時代に目につく「権威」=先生がターゲットにされるわけです。
ちょうどマスコミがそうであるように、「権威」=御上たたきの格好の材料に先生は見えるわけです。そこに自由主義教育論者が、自由を吹きこめばさらにいっそう、事態が悪い方向へいくことは一目瞭然ではないでしょうか。
さらに大事なことは、「権威」否定がもっている破壊と暴露の感情です。「平等化」の最終的な帰結が、嫉妬と羨望そして不公平感にあることはすでに見ましたが、結局、学生たちが先生という「権威」をひきずり降ろそうとする感情にも、この嫉妬と羨望、そして過剰な不公平感がでてきてしまうのです。
暴力教師の心のなか
さて、こうして現代社会全体を見わたしたうえで、学校現場にまでもう一度降りて来てみると、先生の「権威」喪失が今回の事件とどう関連するかが見えてくると思います。
もちろん、一つひとつの事件にはその事件特有の事情があり、条件がありますから一般化をおこなうことは慎重であるべきです。しかも、教育問題自体が、おおくの観点から分析可能なものなので、どの観点から光を当てるのかで解決方法の処方箋も、人それぞれに違うこともわかっています。
そうしたことを前提にしたうえで、以下では私なりの「先生」がかかえる問題と、それへの処方箋をしめしたいと思います。
問題をもう一度整理すると、今回、生徒を自殺にまで追いこんだ過激な暴力教師と、イジメを解決できずに放置してしまう先生、この「先生とはなんなのか」ということが関心の中心にあります。では、彼らについてどのようなことが言えるか。
第一に、社会全体が「権威」を否定する風潮のなかで、私たちの心には「ニヒリズム」が蔓延しています。そのニヒリズムの影響を、まともに先生たちも受けている。
京大の先生である佐伯啓思氏は、ニヒリズムの要点を鋭くまとめてくれていますが、そのまとめによれば、ニヒリズムとは単なる虚無主義・頽廃的な気分をさすのではありません。そうではなく、ニヒリズムとはある価値観が否定され、その虚偽を暴くことで、手段が目的になってしまうことを指します。
たとえば、利益を追求していくなかで、はじめは豊かな生活のための手段であった金儲けが、いつもまにか金儲け自体が目的になっている。また権力は、よい政治をおこなうために必要なものであるのに、権力を広げる事自体が目標になってしまう。しゃべって何かを伝えるはずの行為が、しゃべること自体が目的と化し、おしゃべりが止められないなどなど…
このように終わりなき拡張の論理こそ、ニヒリズムなのです。
そしてまさしく暴力をふるう先生も、イジメをおこなう生徒も、このニヒリズムの時代を体現しているのです。
暴力をすると否定の心理、生徒の悪いところがどんどん見えてきてしまう。それを正そうとさらに否定する。否定が否定を生みだし、本来は生徒の技術を向上させるための暴力が、その手段であることを忘れ、暴力それ自体が目的と化してしまう。終わりなき暴力の連鎖になってしまうのです。
「権威」否定の時代風潮は、実はこのように一人の人間の性格にまで食指を伸ばし、具体例として現在の私たちのもとにやってきているのです。いつ終わるともしれない暴力の連鎖の背景には、この荒んだ心、否定の虜になってしまう状態があると思うのです。
このような困難な時代に、私たちは直面しています。「戦後」という言葉を私たちはしばしば使いますが、今こそ、ほんとうに「戦後」的な価値の総決算の時期にきていることが、学校という一例から垣間見えてくると思うのです(了)。
※以上は個人的な見解であり、所属する団体等とは一切関係ありません。
だからここで少し立ち止まり、数回にわたってこの問題を論じてみたい。学校に勤務するものとして、長年若者とかかわってきた市井のひとりとして、この問題への「違和感」を語ってみたいと思うのです。
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二〇一三年の年明け早々、またいやなニュースが紙面を賑わせました。
大阪市の高校二年生が、所属するバスケットボール部の顧問から事実上の体罰をうけ、翌日に自殺しました。おなじ高校の、他の部活担当の教員も、やはり暴力を行っていたようです。
教育委員会の隠蔽体質、顧問教員への批判と攻撃、そして体罰批判などが連日、マスコミを賑わせました。したり顔に、教育評論家が、テレビで私たちに耳触りのいい正論を垂れ流しました。
たしかに連日、報道はされていたのです。しかし私には、何か決定的なことが抜け落ちているとしか思えませんでした。とても大事なことが書かれず、話されないままに、若者の死がふたたび「いつもの事件」とおなじことばで描かれているとしか思えませんでした。
では、いったい何が違和感をかきたてたのか。何が抜け落ちていると感じたのか。
この事件に先立つ二〇一二年一〇月、隣県滋賀県大津市で、中学二年生がイジメのはてに自殺したことを思い出してください。二つの事件の加害者には、大人と子供という違いがあります。部活の顧問と、生徒がそれぞれの事件の首謀者です。
しかし私たち一般の人間からすれば、二つの事件はともに、教育現場の問題、とりわけ先生の問題にみえます。体罰をあたえた教師と、イジメにたいして有効な手段を打てなかった教員、つまり「学校の先生は何をしていたんだ!」という問題になると思うのです。言うまでもないことですが、教育問題は非常におおくの課題を抱えていますから、ここでは「権威」を考える際に重要な「先生」に問題を限定しておきたいと思います。
そのうえで、生徒の死をめぐる事件は毎回、必ずといっていい程、次のような軌道を描いて論じられ忘れられてゆくと思うです。
対立する意見
たとえば、イジメがはびこるのは、先生が教育を怠っているからであって、体罰を含めた厳正な教育がおこなわねばならない。時に暴力的であろうとも、イジメはしてはならないと、先生は徹底的に「教え込む」べきである――こういった意見が、まずは登場します。
しかしほぼ同時反射的に、今回の部活担当教員の体罰が頭をよぎるのもたしかです。そこから、いかなる暴力も許されない、教師は生徒の自由を尊重するべきであって、どのような威圧的行為も許されないという意見がでてくるのです。
だとすれば、ここには教育のあり方をめぐって、二つの意見の対立が現れています。それこそ毎回くり返される、古くからのお馴染みの対立が現れていると思うのです。
それを簡単にまとめると、「子供に対して、きびしく規律を課すべきか、それとも子供には自由を与えるべきか」という対立になります。子供中心主義を重視し、なんでも自由を認めるか、それとも管理教育にすべきか、という対立図式、これが私のいう「お馴染みの対立」なのです。
テレビなどのマスコミに登場する意見はさまざまありますが、結局はこの対立に落ちつくことが非常におおい。
もちろん私の違和感は、この対立への違和感に由来します。なぜなら、一見して対立する二つの意見は、実はおなじ穴のムジナのように思えてならないからです。
三つの違和感
私たちはいったん、マスコミの刺激的な「ことば」から眼をはなし、冷静さをとり戻さねばなりません。実際の教育現場の感覚をできるだけ意識しながら、それを冷静に理論化する必要があると思います。
たとえば、社会学者の菅野仁氏は、教育の世界における極端な意見の対立はあぶないと指摘しています。菅野氏によれば、戦後日本の自由主義教育は、かんぜんに行き詰っています。氏の言う「戦後日本の自由主義教育」とは、子どもの欲望や思いを、自主性あるいは意見だとして尊重し、全面的に肯定し、開放と自由を重んじる教育という意味です。
一方で、その反動として徹底的な管理教育をすべし!という意見がかならず出てきます。子どもは、大人になる前の成長段階にある。その子どもの欲望を意見と考えるのは間違いだ。まずは先生が徹底的な管理教育をし、子どもに躾けをおこなうことが大事なのだ――こういう反対意見が登場すると菅野氏は言うのです。
菅野氏の指摘は、私が先にまとめた「二つの意見の対立」のことを言っています。ではこの意見の対立が、なぜに違和を感じさせるのか?
それは次の三つの理由からです。
第一に、教育現場が置き去りにされるからです。
第二に、学校という場を重視しすぎていることが問題です。
第三に、この対立からは現代社会全体の問題と、先生の状況がふかい結びつきをもっていることが見えないということです。
それでは、第一の問題から見てみましょう。
教育現場と政治
いま見てきた「二つの意見の対立」は、かならず敵対する側をするどく批判し、自分の意見の正統性を示そうとする傾向があります。自分なりの「像」を創りあげ、それを否定・批判することで自分側の意見を鮮明なものにしようとします。
あまりにエスカレートすると、「管理教育は戦前の体制の復活だ!」といった議論になり、はては「民主主義教育にたいする挑戦だ」とか、「危険思想だ!」などという意見にまで凝り固まっていきます。
しかし少なくとも、私には「管理」「戦前」「民主主義」そして「危険思想」などという概念は、まったく意味がわかりません。「管理」とは何なのか、「戦前」とはどんな時代だったか、「民主主義」をなぜ無条件に正しいと思えるのか、さらにはあなたのいう「危険」とはいったい何をイメージしているのか……。
ほとんど私には理解できないのです。
私がこういった「ことば」の氾濫に、身震いするほどの嫌悪感を禁じられないのは、彼らが自分自身をすこしも疑っていないことです。彼らの眼はキラキラとかがやき、自分の「ことば」=正義をにぎりしめ、他者を批判する。自分の頭のなかでできあがった正義=民主主義と、管理・戦前=悪などの図式を少しも疑っていないのです。
これは本当に、恐ろしいことです。
自分の考えを絶対の正義だとし、それに反する意見には悪のレッテルを張る。そして危険だとか、反動だとか、はては保守的だという意味不明な罵倒のことばで否定する。
これこそ、実はもっとも危険で反動的な行為ではないでしょうか。
もっとも、批判される側の管理教育肯定論者にも、この傾向は少なからずあります。しかし彼らの自由主義教育への批判が、戦後の教育業界を支配してきた過度の自由礼賛にたいする違和感からでてきた以上、彼らには同情の余地があるというのが私の立場です。それについては、追々あきらかにします。
戦後教育のいう自由な教育は、実際には、あまりにも政治的なイデオロギーに満ち溢れた自由であり、生徒の意見の尊重などとはかけ離れていたのです。なんのことはない、自由の押しつけ、自由こそ絶対というイデオロギー教育だったのです。
第一の結論を言います。自由と規律いずれの立場にたつとしても、無意識のうちに政治的になること、これが最も危険なのです。教育改革という国家と政治がかかわる部分と、教師の活動や教育のあり方=日々の行為は別のモノです。当たり前のことですが、政治は大きな制度改革をおこなうことが仕事であり、実際のこまかい教育内容までは目が届かないし、届くべきでもないです。
この制度と日常、この区別をきちんとしなくてはいけない。それがいい加減だと、教育問題はすぐに政治好きの連中が飛びつき現場を忘れることになるか、あるいは「現場がわかっていない」などの政治批判になるかどちらかなのです。
政治が現場をわからないのは当たり前のこと。政治は、10年先20年先の日本の教育をみすえ、大ナタを振るだけでいいのです。
*****
前回、私が言いたかったのは、自由と規律の「二つの意見の対立」が、相手への批判に終始してしまうと、かならず問題が政治的になるということです。いつの間にやら、相手への攻撃が目的になってしまい、最重要問題「イジメを防げず、体罰を行ってしまう先生をどうすればいいか」という教育現場の問題が、消えてしまうということです。
だからくりかえしておきますが、私たちにとって問題なのは、先生をめぐる学校教育が問題なのであって、その問題へのあくまでも「手段」として、管理教育や自由主義教育の是非があることを忘れてはいけません。教育現場と政治は、わけなくてはいけないのです。
学校への過剰な期待は禁物
第二の、学校という場を重視しすぎているという問題に入りましょう。
学校の先生は、あまりにも多くのことを期待されています。「教育」という神聖な行為をおこなっている場所というイメージから、そこに君臨する先生は、子供たちに人間としての生き方を教える必要があると期待されます。
たとえば、自由主義教育を重んじる人であれば、子どもたちに自由の重要性、自主的に意見を発表することの重要性を一生懸命、教えなくてはいけません。
一方で、規律重視型の教育を主張する人からすれば、学校教育こそ人間としての生き方を教える道徳教育の場ということになります。つまり、いずれにせよ、彼らの期待どおりに先生がふるまうとすれば、彼らはかなりの時間を、教育につかう必要がでてくるのです。
イジメを事前に見抜けなかった、生徒の苦しみを放置したといった批判が、学校にはげしくぶつけられるのも、先生たちには、子どもの苦しみをわかっているべき存在、つまりは道徳的な存在であることが強く求められているのです。
ところが、先生の仕事はそれだけに限るわけではありません。
本来であれば、家庭や近隣の人によって担われてきた眼に見えない、膨大な量の業務を、現在の先生たちは引きうけている。自由であれ、規律であれ、こういった人間力の育成の問題は、家庭環境や地域のサポートを抜きしては考えられません。
もっとも簡単な例を挙げれば、仕事をかかえ共働きで都会生活をしている両親には、子どもをおおく生み、育てるだけの余裕がありませんが、田舎で祖父母がいれば、子どもの保護を複数の大人たちが担当できます。その結果、おおくの子どもを育てられるし、教育を複数の大人たちが担当することになるのです。
しかし実際には、都会では家庭や地域のサポートがきわめて限定的です。カネという資本主義の論理がはいりこんで、はじめて子どもへのサービスが提供されるような社会構造である都会では、祖父母や地域といった無償の支えが期待できません。
だからこそ、かえって、子どもの教育をおこなうことをめぐって、学校という場所は、過剰なまでにサービスを期待されるのです。両親だけでなく、マスコミすらもが無意識のうちに学校の先生に、無償の支えを期待している。これを私は「過剰」だと言っているのです。
小学校の先生であれば、算数・国語・社会を教え、休み時間に理科の実験の用意をし、授業が終われば事務仕事があり、また家庭科などの「家庭」や「保健」教育まで担当する……。ほんとうであれば、おおくの大人が支えるはずの教育が、「意識的」に学校の先生が担うことが期待される。本来、引きうける以上の役割を、都会の先生はとくに求められているのではないでしょうか。
こんな状態が、先生を取巻いていると思うのです。
要するに、現在の学校の先生は、きわめて矛盾した期待を背負わされているのです。
まずは神聖な教育をおこなう存在として、尊敬をうけ道徳的に優れた人間であることを期待される。子どもを教導する役割です。
しかし一方では、教育者という立場からは考えられないような、雑務を引きうけ、過剰なサービスを要求され、子どもの世話係を押しつけられているのです。
先生は、尊敬される存在なのでしょうか。あるいはベビーシッターと同じなのか。
自由を教えるのであれ、規律を教え込むのであれ「二つの意見の対立」からは先生たちのおかれている現状が見えてこないのです。学校教育へのいささか過大な期待の反面で、このような現状を見落としている可能性があります。何を教えるかという内容以前の問題として、まずは先生たちが矛盾のあいだに挟まれている、このことが見過ごされがちなのです。
福澤諭吉の教育論
ここで学校の役割について、きわめて興味深い指摘をした人物を見てみましょう。福澤諭吉です。一万円札でおなじみの福澤は、非常に多面的な人で、国家・経済・政治などあらゆる分野で啓蒙的な発言をした人物ですが、その彼が教育について興味深い発言をしているのです。
福澤が明治一五年に書いた著作に『徳育如何』というものがあります。今風に訳せば「道徳とは何か」というタイトルになるでしょう。そこで福澤は次のように言っています。
教育は人間力を育成するために重要な要素であるが、あくまでも発達を助ける二次的な働きをするにすぎない。根本をつかさどっているのは、先祖伝来の能力と、家風と、そして社会全体の輿論によってである。だから昨今の人があまりにも学校教育に期待して、学校にさえ入れれば自由自在に望んだような人間ができあがると思うのは間違いである。
ここでとくに福澤は、「社会はあたかも智徳の大教場と云ふも可なり」と言って、時代の雰囲気こそ最大の影響力を人間育成にもたらすと主張します。
ところが当時、若者たちが政治ばかりを論じ、社会を乱しかねないと警戒する人たちが、教育が不完全だ、道徳教育を奨励しないからこうした困った若者が増えるのだと主張しました。それにたいし、福澤は、自分自身もおなじ危機を感じているが、解決方法が違うのだと主張するのです。
このような福澤の時代評価は、たいへん面白い問題をふくんでいます。
つまり福澤諭吉は、明治一五年当時、社会全体の風俗が乱れていることを認めたうえで、しかしこの乱れを学校教育だけで治そうとするのは不可能だと見ていました。学校教育の現場で生じている事態は、社会全体を分析しないことには解決策が見いだせない、と言っているのです。
これを現代に当てはめれば、当然、先の「二つの意見の対立」の問題にたどり着くはずです。
自由主義教育の行き過ぎを批判する側が、イジメの問題すべてを学校での規律の不在だと考えるのは、福澤からすれば大袈裟だということになるでしょう。
また一方で、自由主義教育を主張する人びとが、往々にして子どもの自由を尊重するというよりも、実際には「自由であるべきだ」式のイデオロギー教育をしている場合も、おなじようにナンセンスということになります。
教室で勝手気まますれすれの行動を許すのが、人間の自由につながっていると考えるのは、どう見ても大袈裟です。そんなことが社会では通用しないことは誰でもしっています。それをしらずに卒業していった子供たちが、後々苦労することを考えれば、彼らほど無責任な教育はないのです。
どちらも共に、学校教育をあまりにも過大に評価していると思うのです。
福澤が主張したかったのは、学校という場で浮上した問題が、実は学校現場を一旦離れて、当時の社会全体の問題としてみる必要があるということでした。積み上げられてきた先祖伝来の習慣、家庭の雰囲気そして時代の気分すべてが、ひとりの人間を育て上げてゆく、だから学校で問題視されていることは、時代状況を考慮に入れないとわからない――これが福澤の論旨だったのです。
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前回の福澤の指摘は、第三の問題に直結します。ここで自由主義教育論と規制重視論の対立を見つめてみると、次のように結論できるでしょう。
①私たちは現在、体罰をしてみたり、イジメすら防げない先生をどうするか、というリアルな問題を抱えている。この問題に少しでも解決を与えられるとすれば、極端な自由/規制の二元論に立っていてはダメである。現場の先生の引き裂かれた状態、矛盾した状況にもっと敏感であるべきだ。
②また、いくら現場重視だからと言って、事件事故の症例をいくら集めても、これまたダメである。事例は無限にあって、「解決策」などという一般的なものは、何もでてこないことになる。こうなると、教育問題は先生や生徒の個人的な性格や力量の問題になってしまい、一般を論じることじたいに意味を見いだせなくなる。
③よって大事なのは、いったん事件事故から離れて、時代状況がどうなっているのかを知った上で、もう一度、実際の学校現場に降りてゆく、こういう態度である 。福澤は、道徳教育を主張する人を批判しているわけではなかった。彼らの憂慮する問題=子どもの軽薄化を本気で防ぐとしたら、近視眼では駄目なのだ、こう言っていたことを参考にしよう。
ざっとこんな感じになるでしょう。教育にまつわる入手しやすい新書などの多くが教育制度論か、あるいは身近な事例の追求に終始しがちなのは問題です。国家がつくりあげた制度を論じ他国のそれと比較するだけでも、その反動で一つひとつの事例に密着した現場重視主義でも問題は解決できないのです。
「平等化」の行き着く先は…
では、福澤にならって現代社会をどう見るか。
私は、現代社会の根本問題のひとつに「権威」の喪失があると思います。「権威」が喪失した状態が、学校に入り込むとどうなるか。
まずは先生から、急速に「権威」が失われていきます。先生が生徒と御友だち、あるいは兄弟のようになっているのはそのためです。結果はすでに述べたとおりで、実際の現場では、保護者からもベビーシッター並みのお願いをされることもしばしばとなります。「うちの子どもは虚弱だから、別室で特別に私見を受けさせてほしい。なのになぜ、そうしなかったのだ!」といきなり怒鳴りつけてくる母親は、この手の人だと言っていいよいでしょう。
ある程度、先生に「権威」を感じていれば、自分の子どもの特別な資質をまえもって相談し、そのうえでどう学校という公の場に位置づけていくのか、話しあう時間をつくってもらいたいとお願いするはずです。
しかし問題はこれに尽きません。問題の反面だけしか言っていないのです。
先に「学校への過剰な期待は禁物」の部分で、私は学校の先生がはげしい矛盾に苦しんでいると書きました。先生は、ベビーシッターのように扱われる一方で、道徳あるいは自由を教える神聖な存在であることも求められている、と。
こんにち、先生の「権威」が完全に失われたわけではない、これが問題なのです。
先生という立場がもつ「権威」の残り香、ほのかに漂ってくる聖職のイメージが、今度は容易にマスコミなどの餌食になっているのです。先生がイジメを見過ごすとはなにごとだ!とか、先生の性犯罪がことさらにマスコミで取り上げられるのも、先生という仕事にはとくべつなオーラがあるからこそです(おなじことが警察にも言えます)。先生には特別な倫理観がもとめられるという考えが前提にあるのです。
また、先生がルールを強制するとは何ごとだ!とか、生徒は自由であるべきで、強制はすべきでない!という自由主義教育論の立場も、この「権威」否定のきぶんを持っています。彼らは自身が先生であるにもかかわらず、ある種の善良なきもちから、いっそう自分じしんの「権威」否定を加速させていくのです。
以上のような、すべての「先生はなにをしているんだ!」式の議論は、先生への聖職イメージを前提にしている発言なのです。
ですから先生は、こんにち実際の「権威」をうしなってきているのに、「権威」の残り香を執拗に責めたてるマスコミや世間によって、「御上たたき」の材料にされているのです。
こうして信じられないような膨大な「雑務」に追われながら、一方でイジメ問題など先生が取り組むべき核心的問題で失敗をすると、今度は「聖職」者として対応を迫られ批判される。
膨大な仕事のうえに、さらに対応のための会議が行われる……そんな事態におちいっているのです。今日も仕事をしようと思っていたのに、生徒が盗みをはたらいたから生徒指導で一日つぶれてしまった…こんな声がいまにも聞こえてきそうです。
*****
子どもたちから見た先生
では生徒のがわは、時代状況からどのような影響をうけているのでしょうか。どんな子どもになっているのか。
先にも言いましたように、先生という立場には「権威」の残り香があります。
この既成の「権威」への抵抗や糾弾、これが子どもの側からみた先生イメージをまずは作るでしょう。「先生なんて、見かけだけ偉そうにしているけど、実際はどうしようもない人間のくせに」こんな感情をもつ子どもも少なくないでしょう。さらにエスカレートすれば、「大人なんてみんな嘘つきだ」という大きなショックを受けることになります。
これまで社会全体でエライとされていたこと、スゴイと思っていたことが実は大したことではないと気がついてしまう……こういった体験は、人間にとって非常に大きな意味をもちます。とくに感受性のつよい思春期の子どもが敏感に感じとることですから、ちょうど学生時代に目につく「権威」=先生がターゲットにされるわけです。
ちょうどマスコミがそうであるように、「権威」=御上たたきの格好の材料に先生は見えるわけです。そこに自由主義教育論者が、自由を吹きこめばさらにいっそう、事態が悪い方向へいくことは一目瞭然ではないでしょうか。
さらに大事なことは、「権威」否定がもっている破壊と暴露の感情です。「平等化」の最終的な帰結が、嫉妬と羨望そして不公平感にあることはすでに見ましたが、結局、学生たちが先生という「権威」をひきずり降ろそうとする感情にも、この嫉妬と羨望、そして過剰な不公平感がでてきてしまうのです。
暴力教師の心のなか
さて、こうして現代社会全体を見わたしたうえで、学校現場にまでもう一度降りて来てみると、先生の「権威」喪失が今回の事件とどう関連するかが見えてくると思います。
もちろん、一つひとつの事件にはその事件特有の事情があり、条件がありますから一般化をおこなうことは慎重であるべきです。しかも、教育問題自体が、おおくの観点から分析可能なものなので、どの観点から光を当てるのかで解決方法の処方箋も、人それぞれに違うこともわかっています。
そうしたことを前提にしたうえで、以下では私なりの「先生」がかかえる問題と、それへの処方箋をしめしたいと思います。
問題をもう一度整理すると、今回、生徒を自殺にまで追いこんだ過激な暴力教師と、イジメを解決できずに放置してしまう先生、この「先生とはなんなのか」ということが関心の中心にあります。では、彼らについてどのようなことが言えるか。
第一に、社会全体が「権威」を否定する風潮のなかで、私たちの心には「ニヒリズム」が蔓延しています。そのニヒリズムの影響を、まともに先生たちも受けている。
京大の先生である佐伯啓思氏は、ニヒリズムの要点を鋭くまとめてくれていますが、そのまとめによれば、ニヒリズムとは単なる虚無主義・頽廃的な気分をさすのではありません。そうではなく、ニヒリズムとはある価値観が否定され、その虚偽を暴くことで、手段が目的になってしまうことを指します。
たとえば、利益を追求していくなかで、はじめは豊かな生活のための手段であった金儲けが、いつもまにか金儲け自体が目的になっている。また権力は、よい政治をおこなうために必要なものであるのに、権力を広げる事自体が目標になってしまう。しゃべって何かを伝えるはずの行為が、しゃべること自体が目的と化し、おしゃべりが止められないなどなど…
このように終わりなき拡張の論理こそ、ニヒリズムなのです。
そしてまさしく暴力をふるう先生も、イジメをおこなう生徒も、このニヒリズムの時代を体現しているのです。
暴力をすると否定の心理、生徒の悪いところがどんどん見えてきてしまう。それを正そうとさらに否定する。否定が否定を生みだし、本来は生徒の技術を向上させるための暴力が、その手段であることを忘れ、暴力それ自体が目的と化してしまう。終わりなき暴力の連鎖になってしまうのです。
「権威」否定の時代風潮は、実はこのように一人の人間の性格にまで食指を伸ばし、具体例として現在の私たちのもとにやってきているのです。いつ終わるともしれない暴力の連鎖の背景には、この荒んだ心、否定の虜になってしまう状態があると思うのです。
このような困難な時代に、私たちは直面しています。「戦後」という言葉を私たちはしばしば使いますが、今こそ、ほんとうに「戦後」的な価値の総決算の時期にきていることが、学校という一例から垣間見えてくると思うのです(了)。
※以上は個人的な見解であり、所属する団体等とは一切関係ありません。
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