美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「欺瞞の時代」と奪われた天皇 (岡部凜太郎)

2016年02月07日 11時06分07秒 | 岡部凜太郎
〔編集者より〕新しい執筆者の登場です。岡部凜太郎さんは、現役の高校生です。まだ一年生のようです。その若さで、言論ポータルサイト・ASREADにおいて健筆を奮っていらっしゃるとは驚きです。(http://asread.info/archives/author/rintaro_okabe)。 拙ブログでのデビューを心から祝福します。個人的には、本文中で引用された、福田恆存『象徴天皇の宿命』の文言にぐっとくるものがありました。



「欺瞞の時代」と奪われた天皇 (岡部凛太郎)

戦後日本という「欺瞞の時代」
平成二十三年(2011年)に発生した東日本大震災は文字通り国難と呼ぶに値する大災害であった。一万を超える人々が震災の犠牲となり、未だに二千あまりの人々が行方不明となっている。多くの人々が家族や最愛の人を亡くし、その傷は今なお深いものである。

日本人にとってこの大震災は今までの平和で豊かな時代と言われていたそれが大きな転換点に立っているということを否応無く意識させた。政府の無為無策ぶりは強く批判され、今まで安全安心とされていた制度や技術に欠陥が見つかり、日本人が漠然と有していた技術や政府への奇妙な信頼というものは一気に失われてしまった。

そんな今回の大震災の発生五日目の三月十六日に今上陛下はテレビ放送を用い全日本国民へお言葉が述べられた。このテレビ放送を用いたお言葉は大東亜戦争敗戦時の玉音放送以来のものであったため、一部で平成の玉音放送と呼ばれ、また、今上陛下そして皇后陛下におかれては震災発生の翌月より千葉、埼玉、茨城、宮城と行啓され、被災者を励まされた。陛下の行啓によって治し難い心の傷が少しだけでも癒された被災者は少なくない。

そもそも今上陛下におかれては御即位以来、雲仙普賢岳の噴火災害や阪神淡路大震災などの大規模災害に際しては積極的に未だ危険の残る被災地を行啓されてきた。こちらにおかれても今上陛下は東日本大震災と同じく被災者へ励ましのお言葉を述べられ、被災者の精神的な拠り所となった。このような今上陛下の我々国民への献身的な御姿は被災者のみならず、多くの日本人が好意的に反応し、感謝している。かくいう私もその一人である。実際、平成二十一年(2009年)に今上陛下御即位二十周年を記念してNHK放送文化研究所が行った世論調査によると「今の天皇が憲法で定められた象徴としての役割を果たしていると思うか」という問いに対してアンケート回答者の85%が「十分果たしている」あるいは「ある程度果たしている」と回答したと言う。この世論調査は大震災発生前に行われおり、仮に大震災発生後の現在に行えば上記の問いに対して、今上陛下に対して好意的な回答は平成二十一年(2010年)の調査を上回るであると推測出来よう。

現在、このような天皇と国民の関係性に一日本人として私は一定の安堵の念を覚える。この安堵の念は今後も皇室の未来が安泰である可能性が高いからだが、それと同時に私を含めた一定数の人々は現在の今上陛下の御姿に疑問とも言える奇妙な違和感を感じざるを得ないのではないだろうか。それはこの今上陛下の御姿が果たして本来の天皇の御姿なのかという疑問である。

古来より歴代の天皇は国の混乱期にその混乱を鎮めようとされ、国民の精神的拠り所となってきた。奈良時代の天平期におきた度重なる疫病の流行や政変に際し、聖武天皇が全国に国分寺を建立され、さらに東大寺盧遮那仏像を建立されることでその混乱を鎮め、国家に平穏をもたらそうとされたことは有名である。又、室町末期の戦乱期に後奈良天皇が国内の戦乱と民の窮状を憂いになられ、「般若心経」を書写されたものは現在、「後奈良天皇宸翰般若心経」(ごならてんのうしんぴつはんにゃしんぎょう)として伝わっている。このように国の混乱に際して、これを鎮めようと尽力されることは天皇の御務めの重大な要素の一つとなっていると言える。そして今上陛下も古来の伝統と同じく災害が発生した際は国の混乱を鎮めようとなされてきた。

しかし、今上陛下と歴代天皇におかれてはその方法において大きな差異が存在する。
歴代天皇は国の混乱期に際してはあくまで祭司者として御祈願されてきた。しかし、今上陛下におかれては国の混乱期には自ら被災地に行啓され、被災者を御見舞いされている。歴代天皇が祭司という「祈り」で国の混乱を鎮めようとされていたのに対して、今上陛下は被災地を行啓されるという「行動」で国の混乱を鎮めようとなされていると言えるだろう。勿論、今上陛下の被災地への行啓は私自身、一国民として心から感謝しているし、それを非難しようとする意図は毛頭ない。しかし、今上陛下のこの行啓という「行動」が歴代天皇の方法と異質だということは否定し難い事実と言えるだろう。

この事実を前に石原慎太郎氏は自身のコラムの中で下記のような疑問を呈している。

日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。
戦後からこのかた皇室の存在感の在り方は、宮内庁の意向か何かは知らぬが、私にはいささかその本質からずれているような気がしてならない。たとえば何か災害が発生したような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか。
   (平成十九年(2006年)二月六日 産経新聞朝刊より)

天皇はただの個人ではない。天皇は日本の歴史の中に存在する。そして、その歴史とは祭司としての歴史である。しかし、その祭司としての天皇、即ち天皇の伝統に鑑みた場合、本当に現在の天皇の在り方で良いのか。上記の石原氏の違和感とは日本の文化伝統である天皇が現在の天皇のあり方と一致しているのかという違和感でありそれを問題としない現代の日本への危機感を祭司という文言を使い投げかけたものと言えるだろう。

とはいえ、天皇という存在は説明するまでもなく日本の伝統そのものである。そういった天皇という伝統が従来の伝統から離れつつあるというこの事態はいささか奇妙である。それは天皇が歴史であり、なおかつ個人を指す、多義的言葉であることに直接の原因をみいだせるし、単に今上陛下が従来の伝統とは異質な御仁であられると言うこともできるだろう。しかし、この奇妙な事態の原因を深く探っていけば、最終的に現在の天皇像、すなわち戦後における天皇という問題に突き当たってしまうだろう。

 戦後天皇の欺瞞
戦後日本において天皇のその神格性は積極的に肯定されていない。天皇と言えどもその地位はあくまで国民の意思の下にあり、その改廃の可否は国民自ら決める権利を有する。こういった意識は天皇を否定的、肯定的に見る立場に関係なく、戦後日本人が有している共通の認識と言えるだろう。また敗戦直後の昭和二十一年(1946年)に昭和天皇御自身より天皇は現人神ではないと解釈できる詔書が発布され、天皇は神ではなく、あくまで我々と同じ人間であり象徴なのだ、との考え方が天皇の意思、言うなれば陛下の御心とされ、戦後の日本はそうした天皇の人間性すなわち人間天皇を国家の大前提、「象徴」としていただきながら歩んできた。いわゆる「象徴天皇制」と呼ばれるものは、そういった個々の天皇の人間性を強調し、政治性を排除する「制度」とそしてそれを覆うように存在する天皇もただの人だとするヒューマニズムと表現できる人間礼賛主義的な思潮の総称と定義することができるだろう。

今上陛下が、「日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い」というお言葉を皇統の歴史と伝統を我々日本人に最も意識させる即位の礼に際して述べられたことで、戦後に始まった「象徴天皇制」は完成を迎えたと言って良い。勿論、宮中においては現在も祭祀は行われており、神道と天皇の関係性は切っても切れないものである。が、そういった宮中の祭祀や神道との関係性があくまで皇室の「私的」行事とされているということ自体、天皇の神格性を否定しようとする「象徴天皇制」の試みそのものと言えるだろう。

天皇と言えどもあくまで国民の意思決定の下にあるとする考えが日本人の共通認識である。そして、この共通認識は勿論、現行憲法第1条における「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という条文に起因する。

しかし、我々日本人はこの条文の意味を深く理解しているのだろうか。例えば、条文における象徴という語の意味を一体何人の日本人が説明できるのだろうか。そもそも、条文の国民統合の象徴という語の意味自体、明確ではない。ここにおける国民とは単に現在生きている日本人のみに限定しているのか、それともすでに死者となったものあるいは今後生まれてくる日本人も含むであろうか。それ自体もこの条文からは読み取ることは出来ない。

我が国の現行の憲法は国家の最高の成文法であるにも関わらず極めて不明瞭かつ不可解なものである。

なぜ現行の憲法がこれ程不明瞭かつ不可解であるかと言えばそれは現行の憲法が日本に対して無知で無理解な極少数のアメリカ人によって起草され、銃剣を前に日本政府に押し付けられた欠陥憲法だということに当然、起因する。この連合国軍による憲法の押し付けは占領軍の被占領地での遵法義務を明記したハーグ陸戦条規第43条に明らかに反し、国際法違反である。このことは十分に批判されなければならない。しかし、真に問題なのはこの国際法違反の欠陥憲法を一度も微修正すらせず、天皇という我々のアイデンティティー、自己同一性に深く関わる存在を「国民統合の象徴」という条文に追いやった事である。

福田恆存は昭和天皇崩御ののちの平成元年(1989年)に「象徴天皇の宿命」という評論を発表した。ここにおいて福田は自身と昭和天皇との想い出を回想したのちにこの「戦後の天皇」という存在の辛さについて述べた。

 『象徴』とは何を意味するのか。不敏にして生者が『象徴』に使はれた例を知らない (中略) この世の一体何人が同胞感などといふ抽象的属性の『象徴』たる事が出来ようか (中略) 全生活をあげてさういふ『象徴』にならうとすれば、身動きの出来ぬ非人間的な存在にならざるを得ないであらう。天皇はさういふ苛酷な宿命を身に背負ひながら、しかしなほ周囲のあらゆる紐帯を断ち切られてゐるのだ。政治から断ち切られ、軍事とは訣別し、藩屏たるべき華族は消滅した。そしてひたすら署名をし、人に会ふことのみを責務として求められてゐる‥‥‥。これを四十年間繰返してゐれば、天皇の面上に孤独、苦渋の色が現れて来るのも至極当然といへよう。  (『象徴天皇の宿命』)

我々日本人は戦後、天皇を非人間的な「象徴」に追い込み、福田の言う「さういふ苛酷な宿命」を追わせたと言えるのではないだろうか。敗戦前に天皇が有していた軍人としての雄々しさや凛々しさは排除され、天皇はただ国民に笑顔を見せ、人々に会うというある種のロボットに戦後、仕立て上げられてしまった。更には天皇が執り行われる祭祀は現在、あくまで天皇の個人的な儀式とされ、天皇が有してきた国家の祭司という側面すらも発端は連合国軍とは言え戦後日本人は否定してしまった。

天皇が有してきた様々な属性と呼べる天皇像を奪い、国民統合の象徴という急拵えの存在に統合する、これが我々日本人の真の戦後の歩みの姿だったのだ。

先程の引用で福田が述べたように昭和天皇は孤独であられた。大東亜戦争敗戦とその結果としての国民の犠牲の責任を深く痛感されながらも、戦後、その苦しい重圧を吐露する重臣や元老らはすでにおらず、外野の批判に耐えることしか出来なくなってしまった。

宮中の外には昭和天皇を侵略戦争を指揮した悪魔のごとく宣伝する輩が溢れ、天皇打倒を謳う知識人らが時代の寵児として持て囃された時流すらあった。それと同時に皇室は悪しきジャーナリズムの餌食となり、下品で興味本位な皇室に関する記事が盛んに掲載されるようになった。「週刊誌的天皇制」などという言葉が生まれたのは丁度、そういった悪しきジャーナリズムが跳梁跋扈していた昭和三十年代である。

我々日本人の戦後の天皇に対する関係性を見ていけば、それは天皇を「国民統合の象徴」という檻に追い込むことで、それ以前に存在していた様々な天皇像を否定し、下品なジャーナリズムや知識人達を用いて、皇室ひいては天皇を好奇の対象として見物し、あるいは与太話の種として消費し、天皇の人格性を徹底して蝕んでいくものであった。そういった現状を前にすれば現行の「象徴天皇制」が全く戦後、信奉されてきたヒューマニズムとは程遠い非人間的かつ多様な天皇のあり方を否定する偏狭なものであると言え、そして、そのような非人間的で偏狭な「制度」を国家の前提としてきた戦後という時代はヒューマニズム、自由から最も遠い時代であると言わざるを得ないだろう。

江藤淳は戦後という時代をアメリカの力に依存し、自己同一性を回復できず、真の経験を得ることができない「『ごっこ』の世界」であると批判した。が、天皇を一つの存在に押し込むという行為を主権回復後、自ら進んで積極的に行ってきた戦後日本は天皇という問題に関しては「ごっこ」よりも酷い「欺瞞の時代」だと言えるだろう。

 三島由紀夫の行動と挫折
三島由紀夫は昭和45年(1970年)に森田必勝と共に自衛隊庁舎において自決を遂げた。この三島由紀夫事件の背景に三島達の戦後時代の欺瞞への絶望があるということは言うまでもない。

 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。  (『檄』)

三島が自衛隊庁舎でばら撒いた「檄」は三島の最後の文学であり叫びであると言える。この有名な三島の叫びの奥には三島の複雑なものがある。それは、天皇への崇敬とそれ故の激しい呪詛である。

三島の盟友的存在である林房雄との対談において、三島は天皇は神と人間の境界に位置するとする林の天皇観に対して天皇は絶対的に無謬な神であると述べている。

 僕は天皇無謬説なんです。僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ (中略) つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。   (『対話・日本人論』)

三島にとって天皇とは人格性を有しつつもそれは無謬の存在つまり神であった。それは幼少の頃より祖母の影響で古典に親しみ、蓮田善明や伊東静雄から強い精神的な影響を受けていた三島にとっては当然のことであった。

そして文の後半で三島が述べているように戦後の「人間天皇」は三島にとって我慢ならない存在であった。
自決の三年前の昭和四十二年(1967年)に発表された「英霊の聲」には三島の天皇への崇敬故の戦後の天皇への呪詛が死した英霊の叫びとして明瞭に書かれている。

「陛下がただ人間と仰せ出されしとき神のために死したる霊は名を剥脱せられ祭られるべき社もなく今もなほうつろなる胸より血潮を流し神界にありながら安らひはあらず」

「日本の敗れたるはよし農地の改革せられたるはよし社会主義的改革も行はるるがよしわが祖国は敗れたれば敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよしわが国民はよく負荷に耐へ試煉をくぐりてなほ力あり。屈辱を嘗めしはよし、抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、されど、ただ一つ、ただ一つ、いかなる強制、いかなる弾圧、いかなる死の脅迫ありとても、陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。世のそしり、人の侮りを受けつつ、ただ陛下御一人、神として御身を保たせ玉ひ、そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに宮中賢所のなほ奥深く、皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、神のおんために死したる者らの霊を祭りてただ斎き、ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん。などてすめろぎは人間となりたまひし。などてすめろぎは人間となりたまひし。などてすめろぎは人間となりたまひし」

  (『英霊の聲』)
 
三島にとって天皇は無謬の存在であり続けなければならなかったのであり、神であったからこそ、二二六事件の蹶起者達、そして特攻隊員達は救われるのである。この「などてすめろぎはひととなりたまひし」という一文に代表されるように、天皇に神としての無謬性が存在すると考える三島にとって天皇が人間であるということは正に「裏切り」であり、戦後日本の「象徴天皇」は英霊への冒涜以外の何物でもなかったのだ。

三島はそういった戦後の「象徴天皇」という冒涜の現状を変革するために「文化防衛論」を発表し、「政治概念」とは分離された「文化概念としての天皇」を提唱した。

「みやびの源流が天皇であるということは、美的価値の最高度を『みやび』に求める伝統を物語り、左翼の民衆文化論の示唆するところとなって、日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発している。そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高貴で月並みなみやびの文化であり、文化の反独創性の極、古典主義の極致の秘庫が天皇なのであった (中略) 文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに『みやび』の中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、というのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも抱含しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並みの故郷であった」(『文化防衛論』)

「全体性」「再帰性」「主体性」に要約される「行動様式」としての日本文化を防衛するためにその文化の母胎である天皇を防衛する必要があるとする三島の論には、浅薄な文化主義が跋扈する戦後への嫌気と天皇、つまり国体を形式的に或いは内実的に破壊しようとする試みが目前にあったことへの危機感があることは明白である。特に後者への危機感は天皇がいくら国民から支持されようともそれが単なる天皇への「好意」である以上、いつその「好意」が無関心になるかはわからない。だから単純に天皇を擁護するのではなく文化も含んだ国体を保護する必要があるという三島の複雑な天皇への想いを見ることが出来る。

 文化の全体性を代表するこのような天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、あるいは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。 (『文化防衛論』)

しかし、その試みは失敗し、先程述べたように三島はあの劇的な死を迎える。
幼少より崇敬していた天皇に人間の「象徴天皇」というかたちで裏切られ、更に戦後、浅薄な昭和元禄を終焉せしめる役割として希望を見出していた自衛隊からも最後、自衛隊庁舎で自衛隊員から罵声を浴びせられることで裏切りられてしまった三島は切腹という「行動」で自身の文化、天皇への思いを叫ぶことなる。

 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
 (『果たし得ていない約束』)

三島が没して四十五年が経とうする現在も三島が唾棄した戦後の天皇は国民からの崇敬ではなく興味というかたちで存在している。そして、元号こそ変わっても浅薄な文化主義による昭和元禄は続いている。三島の論はある種の過激さが常に存在しており、三島の天皇への想いを政策論として俎上にあげることは危険かも知れない、戦後という時代における我々日本人の努力を否定することも決して行うべきではない。しかし、仮にそうであったとしても我々日本人はこの「欺瞞の時代」とどう向き合い、対処すべきか、我々はその行動の真価が問われているのではないか、そのように私は考える。

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17 コメント

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そんなことあまり問題ではない (kk)
2016-02-08 22:11:50
 小市民として、思う事。天皇が神であろうがなかろうが、まったく気になりません。はっきり言って、どうでもよい。特攻隊員が天皇万歳お叫んで死んだとしても、だからといって天皇が神である必要など、現代では全く必要ないことであろうと思う。日本国憲法は改正されなければならないと思うが唯一認めるのは天皇が国民の統合の象徴であると規定されているところ。天皇を尊敬し、たたえる権利があるのが日本国民である。それでよいではないですか。世界に誇れる皇室を持つ日本国民としての幸せに思いをはせればよいのです。

「三島が没して四十五年が経とうする現在も三島が唾棄した戦後の天皇は国民からの崇敬ではなく興味というかたちで存在している」

 国民はそんなふうに思ってないとおもいますよ。
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昔を思い出して (kk)
2016-02-10 06:10:06
先日のコメントは岡部さんの記述を読んで、素直に思うままの心情を素人なりに述べたものでしたが、大変気になる内容でしたので、昔読んだ本を思い出して確認してみました。
 私の感覚も、そうずれたものでもなかったようで、ある著名な学者さんの記述を確認することができました。以下のこのコメントはほとんどその著書からの引用になります。
できるだけ簡潔にしたいので、ここでは、テーマを三島の「英霊の声」(正しい漢字は面倒なのでご容赦。漢字も知らない無教養ですので)にターゲットをしぼります。
 三島にしても、石原にしても、「人間宣言」に縛られすぎ、「決死」の毒にそまってまったんだろうと思います。しかし、まず「現御神」についての定義を見ておきます。
 美津島さんが「虐殺」の定義を明らかにしなければならないと思っているのと同じです。
 以下引用
「現御神」とは、天皇は現身の存在でありながら、それと同時に、神々の遠い子孫としての神格を備えている、というわが国古来の天皇観を現した言葉である。これは、ただ単に古事記や日本書紀にそう書かれているというだけの話ではない。万葉集をはじめとするさまざまの文学作品のうちには、これが人々にとっていかにリアルな観念であったが活き活きとうつしだされているのである。 さらに重要なことは、まさにこのような観念によって、我が国の政治道徳の柱が支えられてきたということである。さきほど見た通り、我が国の国体は、天皇が民を「おおみたから」として尊び、慈しむというところにある。この「おおみたから」という言葉は天皇が民を遠い祖先である神々から、大切な宝としてお預かりしている、というところに発している。単なる慈悲深い君主の行う「愛民」なのではない。神の子孫に負わされた逃れようのない大切な義務としての「愛民」なのである。
引用終了
 これを納得すれば、ほとんどの疑問に答えがでてきそうなのですがもう少しつづけます。
「現御神」は架空なる観念ではないのですね。そうすると、あの「人間宣言」のなかの記述の誤りが明瞭になります。三島も石原も「人間宣言」を字面しか読んでいないのでしょう。いや、「ほとんどの国民」が「人間宣言」をそのように誤読したのです。私もそのようなベースで教育されてきましたが、なぜあの文章がそれほどじじい、ばばあに衝撃を与えたのか理解できませんでした。しかし先の引用文献をよんで、得心したのであります。みんな、天皇はあの「人間宣言」で国民を裏切ったの、
だと、そう理解したのです。でも違うでしょう。
 本日はここまでにします。
返信する
人間宣言の起草の過程につい (kk)
2016-02-10 23:26:27
 先の引用文献では、さらに「人間宣言」の起草過程について重要な情報が示されている。これをお知らせしないのはアンフェアであろうと思われるので紹介します。
 「人間宣言」は幣原によって英文で起草され、問題の箇所はについて以下のような説明がなされている。
以下引用
幣原の英文草案では、
”the false conception that the Emperor is divine"となっていた。divineとは、大原(大原康男)氏の指摘によれば、人間とは隔絶した存在としての神概念を表す言葉であり、キリスト教的絶対神を前提として使われる言葉だという。ところがそれを秘書官福島が「現御神」と訳してしまった。まさに「神をゴッドと誤訳」するという誤りを裏返した形で繰り返してしまったわけであり、この「誤訳」によって、この詔書草案は、占領者の誤解を解くどころか、ただ端的に日本本来の天皇のあり方を否定したものとなってしまったである。
引用終了
 著者は、この草案をご覧になった陛下はこの重大な誤りに気が付いていたと考えており、陛下が五カ条のご誓文の追加記載を指示されたことがそのことを端的にしめしていると言う。
 通常陛下が起草案に注文を付けることは無かったので、異例の対応をされたのがそのあらわれであると述べている。
以下引用
 従って、「五カ条のご誓文」を詔書の冒頭にかかげ、自らもこの明治大帝のご趣旨に則って新日本の建設につとめたい、と宣言することはどういう意味をもつのかと言えば、(遠く神々を祖先としていただき、その遺訓を柱として政を行う)「現御神」というあり方は、明治大帝の
あり方でもあり、また自らのあり方でもあると宣言しているのに等しい。
 これは、「人間宣言」ではない、「現御神宣言」なのである。
引用終了
 ここまでくれば、何が言いたいのか、おわかりいただけますでしょうか。多くの日本人が誤読した「人間宣言」にあまりこだわるのは、生産的でないということです。
 私の感覚では、「現御神」としての天皇は自らを否定することもできないし、国民が否定するjこともできないということです。極端な言い方をすれば、国民が天皇のあり方を規定することはできないのです。どんな法律を作ったところで、歴史は変えられないのですから。
以上本日はここまでにします。少しは、話が通じましたでしょうか。
返信する
コメントありがとうございます。 (岡部凜太郎)
2016-02-12 00:54:15
とても丁寧なコメントありがとうございます。小論をこれだけ精読される読者がいるということは筆者としてこれほど名誉なことはありません。
KKさんは天皇の人間宣言は本来的に天皇が人間であるという宣言ではなく天皇と国民との紐帯を示すものであり、その宣言自体に固執することは余り意味を持たないと仰りたいのだと私は理解しましたが、私も同意見です。
また現御神という存在についてもそれがキリスト教的なgodとは異にするということも全く私の考えと同じです。
林房雄と三島由紀夫の対談の中で林は三島に対して我々の天皇への思いは「永遠の片恋」だと述べたのに対して三島は天皇は無謬ではないといけないと言っています。だからこそ、天皇誤りを侵したとして三島は昭和天皇批判を繰り返したと言えますが、私としてはこの三島の言動には賛同しかねます。天皇に対してどれほど強い忠誠心を持ったとしても、それに天皇が応えない(あるいは自分たちの考える応え方とは違う)から天皇に絶望するというのは余りに傲慢と言えるでしょう。
我々がいくら天皇を批判したり、忠誠を誓おうともその観念や精神は絶対的に天皇に対しては一方通行の関係でしかありません。
ですが、私としては天皇へのある種傲慢な観念を持ちつつ、自己の内部で肥大化した意識が自死という行動を持ってして終結した三島の生き方に批判や賛同を超えた何とも言い難い共感を覚えていまいます。その部分はKKさんとは大きく異なるところかもしれませんが、ご理解いただければなと思います。

それとKKさんは天皇という存在は規定できないと仰られています。
天皇について規定することなど政府や国民の世論はもちろん、天皇御自身ですらも天皇を規定することは不可能であると私も考えています。
ですが、私としてこの小論で述べたかったことは天皇について神であるか人間であるかということではなく、国民が天皇という存在をこうも無下にして良いかということです。
戦後の「開かれた皇室」や「象徴天皇」などは国民が天皇、そして皇室を改造しようとする傲慢に他ならないと思います。天皇から雄々しさを意図的に奪い、天皇という存在を規定しようとする試みが天皇を戴く国家の一員の「作法」として余りに下劣ではないかそのように考えています。
長々とコメントしてしまいましたが、ご理解いただければ幸いです。
返信する
安心しました (kk)
2016-02-12 05:28:58
まことに、まっとうな感性をお持ちのようで本当に安心しました。今、最も大事なことは、自分の論理でものを考え、矛盾を見出し、論理を磨いていくという事かと思います。他人のデータ、論理ではなく自ら手に入れたデータ、推論手法を用いて科学的に推論していくことがこの情報過多の社会の中で求めらていると思います。マスコミの提供するデータがいかにいいかげんであるか、一面的なものであるか、自分の都合のよいデータであるか、ほとほと身に染みてしまう今日この頃です。
 論点が明確になってきましたので、本日はさらに一つ情報を追加しておきます。
 先に紹介した著作は長谷川三千子先生の「神やぶれたまわず」です。雑誌に発表されたものをまとめた本ですので内容はすでにご存じかもしれませんが、私はこの本のおかげで子どものころからのトラウマが晴らされたような気になっておりました。もし未読ならばご一読を。それで、「三島への共感」を持つ人は、多いのですね。それは、2.26事件の時もそうだったのですが、昭和天皇は即座に「反乱」と規定されて討伐を命じられた。当時の重鎮たちがあなたと同じような感情を「反乱将兵」に対して持ったからです。昭和天皇のこの判断が実に正しく、理にかなったものであるか、今思えばあたりまえのことですが、ほんとうに感動を覚えます。三島が反乱、暴動としかなりえない「愚かな」蹶起を行ったことに私は「敬意」を払いますが、自分が愚かであることを三島は意識していたと長谷川先生はおっしゃる。そうなんだろうと思います。やむにやまれぬというやつですな。でも、私の立場はもっと冷徹になってこの複雑怪奇な情報化社会、国際社会と戦い、孫、子を守らねばならないという一点です。
 世論操作も、仮面の皇室も、作ることは可能なのです。

本日の最後に、問題提起です。

「国民が天皇、そして皇室を改造しようとする傲慢に他ならないと」

これって、三島がやろうとした事そのもじゃないですか? 
返信する
平成天皇について (天道公平)
2016-02-13 15:14:42
岡部さんの真摯な論考に大変感心しました。
 私も、考えたことを述べたくなりました。
 明らかに論理的でなく、冗漫な文章で大変恐縮ですが、世代を(?) 超えた考えを申し述べるのも必要かなとも思います。
 以上のような経緯で、拙ブログ「天道公平の「社会的」参加にアップすることにしました。興味があれば、お読みください。
  「こういう考察も私は読みたい」(太宰治のもじり)
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象徴天皇 (kk)
2016-02-14 05:17:00
 本日は、象徴天皇についてどうしても語っておかねばならないと思います。私、「象徴天皇」って結構気に入ってるのです。美津島さんが、気に入られたという福田さんの論考にもいささか反論しなければならないのですが、多大なる忍耐をもってお聞きいただきたくお願いいたします。
 まず、「象徴天皇」ですが、過去の歴史上、天皇は「執政家に擁立される象徴的王者」として続いた、と今谷さんは分析されています。実際、天皇に関する歴史書を読めば、ひどい扱いをしたものだと言わざるを得ません。ひどいものです。日本国民はさんざん天皇をもてあそんだのがその歴史ではないかと思ってしまうほどです。皆さん勘違いしておられるのは、日本国憲法の規定が、マスコミの天皇報道が、過去の歴史から見て特段突出して無礼だという事ではないのです。ちょっとその辺の歴史書を眺めてみてください。日本人は、天皇をなんとひどい扱いをしてきたことかあきれるぐらいです。島流しにしたり、暗殺したり、戦争しかけたり、地位を簒奪したり、それはひどいものです。福田さんの論考も、
ひょっとすると、まとはずれであるかもしれないのです。
 こんな扱いをしておいて、今更何が「無礼だ」、どの口が言うか、というところです。もちろん現代の天皇がどういうものであってほしいか、人それぞれ理想をお持ちなのでしょう。しかし何回も言いますが、それは国民には「規定」できないものだという事です。そこで、「国民統合の象徴」は無難な言い回しであり、歴史上の天皇のあり方からもそれほど乖離していないので、良いのではないかと思うわけです。日本国憲法で唯一"good idea"と私が思っているのが「象徴」であるというのがなぜなのか、少しは察していただけると嬉しいです。
 天皇機関説というのがありましたが、昭和天皇は、自分はこの考え方が気に入っていると述べられた記録があります。確かな引用ができないですが、ご容赦。システムとしての天皇を考えるって、大変面白いではありませんか、「無礼」だと言われるかもしれませんが。同様に「天皇制」という言葉もろくなもんじゃないと言われますが、私は案外気にいっているのです。そこで、システムとしての天皇という考え方を紹介します。ここでマックスウェーバーを持ち出せば、多くの方は何が言いたいか,わかってしまって、またかと思われてしまうのでしょうが、敢えて自分の言葉で語ってみようと思います。
 資本主義は予定説をベースとするカルビニズムの禁欲から発生し、起動されたとウェーバーはいうわけです。この「予定説」が天皇をめぐる議論には不可欠なんんです。ググっていただければ一発で予定説の内容はわかります。その程度の理解しか私もありませんので、その程度の理解度でものを言っておりますが、これが三島の議論の矛盾を明瞭にあぶりだしてくれます。「片思い」っておっしゃるが、それはあたりまえなのだと納得されることでしょう。「予定説」は現代のキリスト教では主流ではないという事ですが、資本主義というシステムを生み出した駆動力になっていたとウエーバーは考察しました。同様に天皇に関する予定説によって日本の資本主義は駆動されたということです。予定説が、「絶対者」をめぐる諸矛盾の解決のために不可欠だったように「天皇をめぐる予定説」が近代日本の成立に不可欠
であったといえましょう。三島はこの「天皇をめぐる予定説」にふりまわされていたとみるべきでしょう。
 そのような天皇というシステムを末永くお守りするにはどうしたらよいのかというのがみなさんの苦労のしどころなのでしょう。これって、昔は「国体護持」とか言ってたやつですかね。
以上本日はここまでにします。

 なお、余計なことですけど、「平成天皇」ではなく「今上天皇」と記述することをおすすめします。
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コメントありがとうございます。 (岡部凜太郎)
2016-02-14 10:52:16
再び丁寧なコメントありがとうございます。
まず、天皇、国家の問題についてこれほど建設的な議論が行えるというこの状況に知的興奮を覚えてなりません。これからも小論を書いていきたいと考えていますので、コメントいただければ幸いです。(その時は是非、御手柔らかにお願いします笑)
そして今回、KKさんが最後に提示された論点について考えていけば、そこには天皇の問題に関する重要なジレンマを示唆されているように思います。
私は前回のコメントで戦後の皇室、天皇を規定しようする試みを下劣だと断じましたが、KKさんが仰る通り、それを否定しようとする試みもまた、天皇の規定化を否定しようとする試みであり、天皇の改造と言えます。
ですから、三島の試みもまた、下劣となってしまいます。KKさんの問題提示はそういうことを仰りたいのだと私は理解しましたが、私としては重要なのは下劣の質ではないかと考えています。
確かに三島は戦後の天皇のあり方を改造しようとしました。それは一見すれば戦後の「開かれた皇室」や「象徴天皇」などの行いと同じと言えます。
ですが、三島には狂気とも言える迫真さがあったように感じます。
三島の天皇への観念についてみていけばそれは自身の人生の来歴やこれまで得てきた社会的地位への深い葛藤と不可分の関係にあったと言えるでしょう。
「金閣寺」の発表で時代の寵児となり、その後、とんとん拍子で世界的文学者の一人として駆け上がっていく三島はある意味、戦後の申し子でしたが、当の本人は戦後という時代に極めて強い生きづらさを感じていたことは有名です。
だからこそ、その葛藤の末に壮絶な最期を遂げたのでしょうが、三島の天皇への思い、情念は下劣ですが、そこに真実性が宿っているように思えます。
それは戦後的「開かれた皇室」論や偽善的でもあるデモクラシー至上主義から感じる下劣とは明確に違うように思えます。
もちろん、何に真実性が宿っているかということはほとんど個人の観念の問題に行き着くので、政治的な問題として扱うということは危険ですが、思想的な問題としては一つの結論ではないかと思います。
ですが、政治的な天皇の問題について考えればKKさんの仰る通り、子や子孫の未来のため、国家の繁栄にために冷徹なリアリズムが必要とされます。三島は戦後の偽善的な天皇に対する思潮を作ったとして小泉信三を強く批判していますが、小泉は仮に偽善でも未来の天皇のため、国家国民のため、全力を尽くしたのではないかと思います。
政治と思想という問題は常に対立関係にあるわけではないですが、時として矛盾することがあるので、それをどう折り合いをつけるか、この折り合いのつけ方が国家国民の広い意味での繁栄をもたらすのではないかそのように考えてしまいます。
*それと長谷川先生のご本ですが、実は私も三年ほど前に図書館で借りて、そのまま放置して返却してという恥ずかしい過去があります。
今度はちゃんと長谷川先生の思索の行く末を探ろうと思うので、買ってみたいと思います。
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Unknown (岡部凜太郎)
2016-02-14 11:20:11
先ほど、コメントを投稿しましたが、KKさんの今日の書き込みに対してコメントできていなかったので、再びコメントします。
天皇の歴史というものを振り返れば、有名な安徳天皇をはじめ、臣民よりかなり酷いことをされていますね。確かにそう言えば天皇と国民の関係性はかなり不安定だと言えます。
ですが、戦後の時代を除いて天皇は常に神格性を有する祭祀者だったと思います。ヤマト王権成立の要因の一つにも天皇の祭祀者としての地位が関係していたと言われていますし、仮に天皇が政治の舞台から徹底して排除されようとした時代でも天皇が祭祀者という地位は揺るがなかったように思います。
なぜ揺るがなかったかと考えれば祭祀者という位置ずけがイコールで天皇を意味していた考えられますが、その祭祀者という位置ずけを否定したことに戦後の偽善があると思います。
また、天皇は現行憲法制定前より象徴だったという意見はその通りだと私も思います。現行憲法公布後に佐々木惣一と和辻哲郎が国体は変更したのかというテーマで論争をしましたが、そこでも天皇の象徴性は極めて重要な論点となっていますよね。
ですが、戦後の現行憲法における「国民統合の象徴」という言葉から生み出される政治的意味合いと天皇の歴史的象徴性は別個と考えるのが適当ではないかと思います。
戦後の「国民統合の象徴」という憲法の条文はそういった日本の歴史を全く回顧されず、制定されています。そして戦後の政治もそういった歴史を顧みられずに行われていたように感じます。
和辻哲郎や津田左右吉らの戦後の国体変更を否定する論説は戦後、急速に力を得た八月革命説を否定しようとする試みで、当時の状況でそれを堂々と述べた勇気は敬意を持ちますが、後付けであるということは否定しがたいように感じます。
まとまりの無い文章となりましたが、ご理解頂ければ幸いです。
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Unknown (岡部凜太郎)
2016-02-14 11:42:09
それと日本の近代とマックスウェーバーが述べた予定説との関係ですが、これは深い関係があると私も思います。
近代資本主義と近代啓蒙主義に一神教的神が不可欠であったことはよく言われていますが、多神教的世界観に基づく日本ではそれを持ち合わせておらず、それが日本の近代における悲劇ではないかと思います。そうした中で近代日本は西洋化のために天皇をある種の絶対者にしたようにも思ってしまいます。
戦前における蓑田胸喜や平泉澄などのいわゆる「軍国知識人」や「国体の本義」「臣民の道」などの文書は現在では悪の権化のようにされていますがそういったい一連の人々の思索はそういった絶対者なき、日本の近代の中でいかにして絶対者をつくるかという日本人の何重にも屈折した観念の表れだと思います。また二二六事件などもそういった近代日本をめぐるあり方の一つの噴出ではないかと思います。
私としてはこの日本の近代の歴史に深い情念を持って仕方ありません。戦後はそういった苦闘の歴史をある種なきものにしてしまいした。我々の祖先の苦闘に我々はもっと思いを馳せて良いのではないかそのように考えています。
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