BABYMETALが、今いる場所 (美津島明) (その1)
メタルダンスユニット・BABYMETALは、今月の一日にセカンド・アルバム『METAL RESISTANCE』を世界同時発売しました。それからの怒涛の活躍ぶりがどんなものなのかについての詳細は、以下のURLに紹介されていますので、多少なりとも興味のある方はごらんください。http://top.tsite.jp/entertainment/j-pop/i/28429061/index
同アルバム発売と前後して、youtubeに注目すべきMVがいくつか登場しているので、それらを紹介しながら、表現者としてのBABYMETAL(以下、ベミメタと略す)が今いる場所はいったいどこなのかを探ってみたいと思います。おそらく「表現者」という言い方に違和感を抱かれた方がいらっしゃると思うのですが、この場合の「表現者」とは、スー・ユイ・モア三姫という北極星とそれを取り巻くプロデューサー・振付師・演奏担当者、さらに熱狂的なファンたちによって形作られているべビメタ小宇宙の総体を指しています。いいかえれば、私は、ベビーメタルをひとつの巨大な文化的ダイナミズムとしてとらえたいと思っています。
まずはべビメタが、昨日アメリカ・CBSの人気深夜トーク番組「The Late Show with Stephen Colbert」に初の日本人女性アーティストとして出演し、「ギミチョコ!!」を生演奏で披露した動画をごらんください。
16.04.05 THE LATE SHOW - BABYMETAL - ギミチョコ!! - Gimme chocolate!!
いかがでしょうか。私はこれを観て、ポップス・ミュージシャンに払われる敬意の彼我の差、すなわち両国の文化の差、といって語弊があるのならば、両国におけるテレビ文化のレベルの差を感じました。日本のテレビ番組にべビメタが出演してスタジオで歌った場面を私はこれまで二度観たことがあります。いずれの場合においても、適当に端折ったようなぞんざいな扱いを受けていました。端的にいえば、「ちょっと変わったアイドル」という軽い扱いを受けていたのです。そこには、局の側のポップス音楽の現状に対する一定の見識もさらには(はっきりいいましょう)知性のかけらさえも感じられませんでした。さすがは、電波系お笑い芸人の可笑しくもない低レベルの笑い話を垂れ流し続け、電通の支配に屈するお金まみれの日本地上波テレビ界だけのことはあります。彼らの濁った目に、べビメタはちょっとかわいいジャリタレくらいのものにしか映らないのでしょう。
それに対して、上の動画におけるべビメタは、純然たるアーティストとして遇されています。局側は、べビメタの音楽がどういうものでありどれだけのレベルのものであるのかをちゃんと踏まえたうえで三姫と神バンドを映しているのです。この動画を観れば、ファンではなくても、べビメタがどういう音楽的指向性を有するユニットなのかよく分かるでしょう。私は、いわゆる欧米崇拝者ではまったくないのですが、日本地上波テレビ界の惨状は弁護しようのないものであると思っています。
べビメタは、五月の前半に、アメリカのニューヨークやボストンやシカゴなど六か所でコンサートをし、フェスに二回参加します。アメリカで自分たちが受け入れられるのかどうかの賭けに出たと言っていいでしょう。しかし冒頭で紹介した記事にもあるように、当番組中の「冒頭で名前を紹介された際にも歓声が上がったり、パフォーマンスを終えた後も歓声と拍手が沸き起こる」という状況から察するに、ツアーを控えたアメリカですでに注目される存在になっているようです。ライヴ経験を重ねるほどに進化し、また、アウェーの舞台でふてぶてしいほどに底力を発揮するべビメタは、アメリカツアーを成功させるものと思われます。テレビ番組出演は、その良いきっかけになるのではないでしょうか。
次に、今月の四日(月)に放送されたNHK特別番組『MJ presents BABYMETAL革命~少女たちは世界と戦う~』のなかの、マーティ・フリードマンと三姫との6分ほどの対談をごらんください。
<iframe frameborder="0" width="480" height="270" src="//www.dailymotion.com/embed/video/x43s07c" allowfullscreen></iframe>[SubEspañol] NHK Music Japan - Documental de... 投稿者 babymetal_fans_mexico
マーティ・フリードマンは、スマッシュメタルの雄・メガデスの黄金期を支えた著名なギタリストです。真のメタラーであり、またJポップをこよなく愛する良質なミーハーでもあるマーティの、べビメタとのやり取りはとても興味深いものがあります。とりわけ次の三点が記憶に残りました。
ひとつ目。マーティによれば、欧米のポップス・シーンでは、R&BはR&B、メタルはメタル、ダンスミュージックはダンスミュージック、とそれぞれのジャンルがきちっと分かれていて、それを混ぜるのはとんでもないという考え方が支配的である。で、メタルとダンスとは相いれないものとされてきた。それに対してベミメタの場合、ダンスとメタルの融合がごくすんなりとなされていて、欧米人の目にそれがとても新鮮に映る。「ああ、混ぜてもいいんだ」と気づかされる。それは、メタルの今後の可能性を示唆するものであって、そのことに対して、ひとりのメタラーとしての自分は、ベビメタにとても感謝している。マーティは、おおむねそういうことを語っています。
昔の歌謡曲、今のJポップは、もともとなんでもアリの音楽ジャンルです。それはおそらく、加藤周一氏のいわゆる雑種文化としての日本文化の伝統に根差した現象なのでしょう。それを私たち日本人は、欧米よりも劣った文化現象であるとどこかで思い続けてきたところがあったような気がするのですが、べビメタを通じて、感覚の鋭い欧米人たちが「雑種であること」「混じること」の魅力に目覚めた。言いかえれば、自分たちの文化のある種の限界を突破する起爆剤としてそのような日本文化の特色を受けとめている。そういうふうに見ることができるのではないでしょうか。マーティの「融合の魂」というメタラーらしい素敵な言葉が記憶に残りますね。
次にふたつ目。マーティは、たとえこれからべビメタが欧米社会からもっと広く受け入れられることになったとしても、あくまでも日本語で歌うべきである、と強く主張しています。その方が、べビメタの存在が神秘的なもの、カッコいいものとして輝き続けることができるから、と。
マーティのこの忠告は、私見によれば、文化の創造の本質を射抜くものです。べビメタが欧米世界で認められたら、英語の歌を増やすのは当然、とはならないのです。このことについて、ふたつの具体例を挙げたいと思います。
まず、べビメタの代表曲のひとつ「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が、ライヴで披露される場合の紙芝居のナレーションについて。海外でのライヴで、そのナレーションが英語なのは、ファン・サービスとして当然であるとは思います。しかし、二〇一五年一月一〇日に開催された埼玉・さいたまスーパーアリーナでのライヴ(新春キツネ祭り)においてもナレーションが英語だったのには正直なところ、少なからず違和感を抱きました。観客のほとんどは日本人なんだから日本語でやればいいじゃないかと思ったのです。
その点、二〇一五年五月二四日のメトロック・フェスで、字幕は英語だったものの(それは構わないと思います)ナレーションが日本語に戻っていたのには、ほっとするものがありました。私のそういう感じ方は、ひとりの日本人として、それほど奇異なものではないと思うのですが、いかがでしょうか。
次に、同じく一月のさいたまスーパーアリーナ・ライヴにまつわって。アンコールのとき、観客の一部が、前年十一月十日のロンドン公演の観客と同じ「We want more」のフレーズを繰り出そうとしたのです。私は、それまでべミメタ・ファンの振る舞いに対して共感を抱くことはあっても疑問を持つことは記憶の限りありませんでした。ところがその場面に対しては、とてもじゃないが共感できなかったのです。率直に言えば、「猿真似はよせよ」と思いました(会場全体がそのフレーズを唱和するという悪夢を見ずにすんだことに私は胸をなでおろしました)。彼らにすれば、「それはTHE ONE精神の表れだ」という言い分があるのかもしれません。しかし、「ああ、そうですか」とはならないのです。
実は、べビメタの使用言語の問題について、私は当動画のコメント欄で、数人の方とやり取りをしています。以下、それを引きます。「nemoto1958」というハンドルネームが、私です(自分の発言の言葉遣いでおかしなところは修正してあります)。
●nemoto1958 3日前
会話のなかで、マーティさんの「べビー・メタルは、日本語で歌い続けろ」というメッセージが、いちばん大事だったのかな、と思います。もしベビー・メタルが、さらなる外人受けをねらって英語で歌い出したら、彼女たちの表現の源が枯れるような気がします。母語は、創造の源だからです。ロシア語で書かれていないドストエフスキーなんて、想像できないでしょう?翻訳は、おのずと別の問題です。
●大吉車 2日前
THE ONEは日本語の方が良かったと思います、実際英語で歌ってガッカリしたって海外のレビューは少なくないんです。まぁ出しちゃったものはもう仕方ないんで今後は全部日本語で貫き通してほしいDEATH!
●nemoto1958 2日前
+大吉車さん 私は、プログレが大好きな人間なので、THE ONE を聴いて、YESやピンクフロイドに負けない演奏ぶりに驚き「日本の音楽のレベルもここまできたか」と感慨深いものがありました。あの壮大なプログレサウンドをバックに、Su-metalの透き通ったよく伸びる声を日本語で聴けたら、無上の幸せを感じることでしょう。国内向けに日本語ヴァージョンを作ってみてはどうか。
●youngnomad 1日前
仰っていることに基本的に同意で、日本語話者だから日本語で歌うのがよい、それがアイデンティティだし魅力、というのは同感なんですが、同時にその理由が強すぎて十代の彼女たちが幅を広げ成長するのを妨げるのは良くないとも思います。今たぶんすぅちゃんは英語で歌うのも勉強中で新しい挑戦として楽しんでいると思うのです。ビジネス的な観点を除けば、何人だから何語で歌うな、というようなことはそもそもおかしな話で。僕には2ndアルバムはちょうどいいバランスでした、まあ基本ほとんど日本語だし。
●nemoto1958 1日前
+youngnomadさん なるほどね。おっしゃること、納得です。すぅちゃんのことを、心から大事に思っていらっしゃるんですね。そう思うと、なんだかうるっときちゃいます。そうなるくらいには、私、べビメタ病患者なんですよ( ´艸`)
●syt41able 6 時間前
+nemoto1958さん なるほど、私も聴いてみたいです。
もう一名、やり取りに参加なさった方がいらっしゃったのですが、自分の意見があまり周りの賛同を得なかったのでつまらなくなったのか、削除してしまいました。もったいないですね。
日本のべビメタファンは、みなそれぞれにニュアンスは異なりますが、べビメタが日本語で歌っていることに対する肯定的な気持ちを含んだこだわりを持っているようです。サンプルは少ないのですが、おそらくそれが、日本のべビメタファンの多数派なのではないでしょうか。
コメント欄でのやり取りからお分かりになると思いますが、べビメタの使用言語の問題に関する私の立場ははっきりしています。べミメタには、文化的創造の源泉である母国語すなわち日本語を決して手放さず、これから世界におけるその知名度がもっと上がろうとも、これまでどおりおおらかに日本語で歌い、日本語でにぎやかに合いの手を入れ続けてほしい。そう考えています。
ついでながら、なにゆえ母国語が文化的創造の源泉なのかについてちょっと触れておきましょう。
あらゆる文化的創造は、どういう形を取ろうとも、結局は平凡な日々の暮らしのただ中から生まれてきます。なぜなら、平凡な日々の暮らしのなかにこそ、生の核になるものが、かけがえのないものとして素の形で織り込まれているからです。いいかえれば、日々の暮らしにおけるニュアンスに富んだ喜怒哀楽を掬いとることが、文化的創造の核心を成します。「ニュアンスに富んだ喜怒哀楽」を、人生の機微とも、あるいは日常感覚とも言いかえてかまわないのですが、そういうものを掬いとることができるのは、母国語を措いてほかにありません。そういうものに対して微細な触手を伸ばしうる母国語こそが文化的創造の源泉であると、私が強調してやまないゆえんです(これをあえて強調しなければならない文化の現状は、きわめて危機的なものといえましょう)。
マーティ氏の「日本語で歌い続けろ。べビメタはすでに言葉の壁を超えているのだから」というメッセージは、三姫の記憶に鮮明に刻み込まれたものと思われます。おそらく、ハッとするものがあったのではないでしょうか。また、当番組を観ていたにちがいないKoba-metalこと小林啓プロデューサーの耳にもしかと刻み込まれたにちがいありません。彼らは、マーティの言葉によって日本語で歌い続けることにあらためて自信を深めた、と私は信じたい。
私のそういう願望や祈念は、次のような危機意識に根差しています。
安易な英語化を受け入れてしまうと、べビメタはグローバリズムの波に呑みこまれることになる。そうなると、べビメタの基本姿勢である「resistance」が雲散霧消してしまいかねない。それは、巨大な文化的ダイナミズムとしてのべビメタの精神的核が台無しになってしまうことを意味する。そうなると、心震わせながら三姫を応援している熱狂的ファンも存在しえなくなる。そう考えるから、べビメタには踏みとどまってほしいと思うのです。
分かりにくい話をしていると思われるでしょうか。グローバリズムは、言語的側面に着目すると、英語こそは国際語・世界語・普遍言語であるという価値観を世界の諸国民に植え付ける言語帝国主としてとらえることができるのです。ますます分かりにくいと感じられた方は、施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化』(集英社新書)をごらんいただければ幸いです。
べビメタがグローバルな存在になればなるほど、べビメタはグローバリズムに抗しなければならない。そうしなければ、その「resistance」は終焉を迎えることになる。私は、そう考えています。グローバリズムに身も心も取り込まれてしまっても、べビメタは存在しうるのかもしれませんが、それは「resistance」を失ったべビメタの抜け殻にすぎません。どれほど有名になったとしても、です。
そう考えると、べビメタがいま歩んでいる道は、とても困難なものなのです。だからこそ、私は、心の底から応援したくなるのです。しているのです。
字数が膨大なものになりかけています。このあたりでとりあえず切り上げようと思います。「その2」もごらんいただければ幸いです。
メタルダンスユニット・BABYMETALは、今月の一日にセカンド・アルバム『METAL RESISTANCE』を世界同時発売しました。それからの怒涛の活躍ぶりがどんなものなのかについての詳細は、以下のURLに紹介されていますので、多少なりとも興味のある方はごらんください。http://top.tsite.jp/entertainment/j-pop/i/28429061/index
同アルバム発売と前後して、youtubeに注目すべきMVがいくつか登場しているので、それらを紹介しながら、表現者としてのBABYMETAL(以下、ベミメタと略す)が今いる場所はいったいどこなのかを探ってみたいと思います。おそらく「表現者」という言い方に違和感を抱かれた方がいらっしゃると思うのですが、この場合の「表現者」とは、スー・ユイ・モア三姫という北極星とそれを取り巻くプロデューサー・振付師・演奏担当者、さらに熱狂的なファンたちによって形作られているべビメタ小宇宙の総体を指しています。いいかえれば、私は、ベビーメタルをひとつの巨大な文化的ダイナミズムとしてとらえたいと思っています。
まずはべビメタが、昨日アメリカ・CBSの人気深夜トーク番組「The Late Show with Stephen Colbert」に初の日本人女性アーティストとして出演し、「ギミチョコ!!」を生演奏で披露した動画をごらんください。
16.04.05 THE LATE SHOW - BABYMETAL - ギミチョコ!! - Gimme chocolate!!
いかがでしょうか。私はこれを観て、ポップス・ミュージシャンに払われる敬意の彼我の差、すなわち両国の文化の差、といって語弊があるのならば、両国におけるテレビ文化のレベルの差を感じました。日本のテレビ番組にべビメタが出演してスタジオで歌った場面を私はこれまで二度観たことがあります。いずれの場合においても、適当に端折ったようなぞんざいな扱いを受けていました。端的にいえば、「ちょっと変わったアイドル」という軽い扱いを受けていたのです。そこには、局の側のポップス音楽の現状に対する一定の見識もさらには(はっきりいいましょう)知性のかけらさえも感じられませんでした。さすがは、電波系お笑い芸人の可笑しくもない低レベルの笑い話を垂れ流し続け、電通の支配に屈するお金まみれの日本地上波テレビ界だけのことはあります。彼らの濁った目に、べビメタはちょっとかわいいジャリタレくらいのものにしか映らないのでしょう。
それに対して、上の動画におけるべビメタは、純然たるアーティストとして遇されています。局側は、べビメタの音楽がどういうものでありどれだけのレベルのものであるのかをちゃんと踏まえたうえで三姫と神バンドを映しているのです。この動画を観れば、ファンではなくても、べビメタがどういう音楽的指向性を有するユニットなのかよく分かるでしょう。私は、いわゆる欧米崇拝者ではまったくないのですが、日本地上波テレビ界の惨状は弁護しようのないものであると思っています。
べビメタは、五月の前半に、アメリカのニューヨークやボストンやシカゴなど六か所でコンサートをし、フェスに二回参加します。アメリカで自分たちが受け入れられるのかどうかの賭けに出たと言っていいでしょう。しかし冒頭で紹介した記事にもあるように、当番組中の「冒頭で名前を紹介された際にも歓声が上がったり、パフォーマンスを終えた後も歓声と拍手が沸き起こる」という状況から察するに、ツアーを控えたアメリカですでに注目される存在になっているようです。ライヴ経験を重ねるほどに進化し、また、アウェーの舞台でふてぶてしいほどに底力を発揮するべビメタは、アメリカツアーを成功させるものと思われます。テレビ番組出演は、その良いきっかけになるのではないでしょうか。
次に、今月の四日(月)に放送されたNHK特別番組『MJ presents BABYMETAL革命~少女たちは世界と戦う~』のなかの、マーティ・フリードマンと三姫との6分ほどの対談をごらんください。
<iframe frameborder="0" width="480" height="270" src="//www.dailymotion.com/embed/video/x43s07c" allowfullscreen></iframe>[SubEspañol] NHK Music Japan - Documental de... 投稿者 babymetal_fans_mexico
マーティ・フリードマンは、スマッシュメタルの雄・メガデスの黄金期を支えた著名なギタリストです。真のメタラーであり、またJポップをこよなく愛する良質なミーハーでもあるマーティの、べビメタとのやり取りはとても興味深いものがあります。とりわけ次の三点が記憶に残りました。
ひとつ目。マーティによれば、欧米のポップス・シーンでは、R&BはR&B、メタルはメタル、ダンスミュージックはダンスミュージック、とそれぞれのジャンルがきちっと分かれていて、それを混ぜるのはとんでもないという考え方が支配的である。で、メタルとダンスとは相いれないものとされてきた。それに対してベミメタの場合、ダンスとメタルの融合がごくすんなりとなされていて、欧米人の目にそれがとても新鮮に映る。「ああ、混ぜてもいいんだ」と気づかされる。それは、メタルの今後の可能性を示唆するものであって、そのことに対して、ひとりのメタラーとしての自分は、ベビメタにとても感謝している。マーティは、おおむねそういうことを語っています。
昔の歌謡曲、今のJポップは、もともとなんでもアリの音楽ジャンルです。それはおそらく、加藤周一氏のいわゆる雑種文化としての日本文化の伝統に根差した現象なのでしょう。それを私たち日本人は、欧米よりも劣った文化現象であるとどこかで思い続けてきたところがあったような気がするのですが、べビメタを通じて、感覚の鋭い欧米人たちが「雑種であること」「混じること」の魅力に目覚めた。言いかえれば、自分たちの文化のある種の限界を突破する起爆剤としてそのような日本文化の特色を受けとめている。そういうふうに見ることができるのではないでしょうか。マーティの「融合の魂」というメタラーらしい素敵な言葉が記憶に残りますね。
次にふたつ目。マーティは、たとえこれからべビメタが欧米社会からもっと広く受け入れられることになったとしても、あくまでも日本語で歌うべきである、と強く主張しています。その方が、べビメタの存在が神秘的なもの、カッコいいものとして輝き続けることができるから、と。
マーティのこの忠告は、私見によれば、文化の創造の本質を射抜くものです。べビメタが欧米世界で認められたら、英語の歌を増やすのは当然、とはならないのです。このことについて、ふたつの具体例を挙げたいと思います。
まず、べビメタの代表曲のひとつ「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が、ライヴで披露される場合の紙芝居のナレーションについて。海外でのライヴで、そのナレーションが英語なのは、ファン・サービスとして当然であるとは思います。しかし、二〇一五年一月一〇日に開催された埼玉・さいたまスーパーアリーナでのライヴ(新春キツネ祭り)においてもナレーションが英語だったのには正直なところ、少なからず違和感を抱きました。観客のほとんどは日本人なんだから日本語でやればいいじゃないかと思ったのです。
その点、二〇一五年五月二四日のメトロック・フェスで、字幕は英語だったものの(それは構わないと思います)ナレーションが日本語に戻っていたのには、ほっとするものがありました。私のそういう感じ方は、ひとりの日本人として、それほど奇異なものではないと思うのですが、いかがでしょうか。
次に、同じく一月のさいたまスーパーアリーナ・ライヴにまつわって。アンコールのとき、観客の一部が、前年十一月十日のロンドン公演の観客と同じ「We want more」のフレーズを繰り出そうとしたのです。私は、それまでべミメタ・ファンの振る舞いに対して共感を抱くことはあっても疑問を持つことは記憶の限りありませんでした。ところがその場面に対しては、とてもじゃないが共感できなかったのです。率直に言えば、「猿真似はよせよ」と思いました(会場全体がそのフレーズを唱和するという悪夢を見ずにすんだことに私は胸をなでおろしました)。彼らにすれば、「それはTHE ONE精神の表れだ」という言い分があるのかもしれません。しかし、「ああ、そうですか」とはならないのです。
実は、べビメタの使用言語の問題について、私は当動画のコメント欄で、数人の方とやり取りをしています。以下、それを引きます。「nemoto1958」というハンドルネームが、私です(自分の発言の言葉遣いでおかしなところは修正してあります)。
●nemoto1958 3日前
会話のなかで、マーティさんの「べビー・メタルは、日本語で歌い続けろ」というメッセージが、いちばん大事だったのかな、と思います。もしベビー・メタルが、さらなる外人受けをねらって英語で歌い出したら、彼女たちの表現の源が枯れるような気がします。母語は、創造の源だからです。ロシア語で書かれていないドストエフスキーなんて、想像できないでしょう?翻訳は、おのずと別の問題です。
●大吉車 2日前
THE ONEは日本語の方が良かったと思います、実際英語で歌ってガッカリしたって海外のレビューは少なくないんです。まぁ出しちゃったものはもう仕方ないんで今後は全部日本語で貫き通してほしいDEATH!
●nemoto1958 2日前
+大吉車さん 私は、プログレが大好きな人間なので、THE ONE を聴いて、YESやピンクフロイドに負けない演奏ぶりに驚き「日本の音楽のレベルもここまできたか」と感慨深いものがありました。あの壮大なプログレサウンドをバックに、Su-metalの透き通ったよく伸びる声を日本語で聴けたら、無上の幸せを感じることでしょう。国内向けに日本語ヴァージョンを作ってみてはどうか。
●youngnomad 1日前
仰っていることに基本的に同意で、日本語話者だから日本語で歌うのがよい、それがアイデンティティだし魅力、というのは同感なんですが、同時にその理由が強すぎて十代の彼女たちが幅を広げ成長するのを妨げるのは良くないとも思います。今たぶんすぅちゃんは英語で歌うのも勉強中で新しい挑戦として楽しんでいると思うのです。ビジネス的な観点を除けば、何人だから何語で歌うな、というようなことはそもそもおかしな話で。僕には2ndアルバムはちょうどいいバランスでした、まあ基本ほとんど日本語だし。
●nemoto1958 1日前
+youngnomadさん なるほどね。おっしゃること、納得です。すぅちゃんのことを、心から大事に思っていらっしゃるんですね。そう思うと、なんだかうるっときちゃいます。そうなるくらいには、私、べビメタ病患者なんですよ( ´艸`)
●syt41able 6 時間前
+nemoto1958さん なるほど、私も聴いてみたいです。
もう一名、やり取りに参加なさった方がいらっしゃったのですが、自分の意見があまり周りの賛同を得なかったのでつまらなくなったのか、削除してしまいました。もったいないですね。
日本のべビメタファンは、みなそれぞれにニュアンスは異なりますが、べビメタが日本語で歌っていることに対する肯定的な気持ちを含んだこだわりを持っているようです。サンプルは少ないのですが、おそらくそれが、日本のべビメタファンの多数派なのではないでしょうか。
コメント欄でのやり取りからお分かりになると思いますが、べビメタの使用言語の問題に関する私の立場ははっきりしています。べミメタには、文化的創造の源泉である母国語すなわち日本語を決して手放さず、これから世界におけるその知名度がもっと上がろうとも、これまでどおりおおらかに日本語で歌い、日本語でにぎやかに合いの手を入れ続けてほしい。そう考えています。
ついでながら、なにゆえ母国語が文化的創造の源泉なのかについてちょっと触れておきましょう。
あらゆる文化的創造は、どういう形を取ろうとも、結局は平凡な日々の暮らしのただ中から生まれてきます。なぜなら、平凡な日々の暮らしのなかにこそ、生の核になるものが、かけがえのないものとして素の形で織り込まれているからです。いいかえれば、日々の暮らしにおけるニュアンスに富んだ喜怒哀楽を掬いとることが、文化的創造の核心を成します。「ニュアンスに富んだ喜怒哀楽」を、人生の機微とも、あるいは日常感覚とも言いかえてかまわないのですが、そういうものを掬いとることができるのは、母国語を措いてほかにありません。そういうものに対して微細な触手を伸ばしうる母国語こそが文化的創造の源泉であると、私が強調してやまないゆえんです(これをあえて強調しなければならない文化の現状は、きわめて危機的なものといえましょう)。
マーティ氏の「日本語で歌い続けろ。べビメタはすでに言葉の壁を超えているのだから」というメッセージは、三姫の記憶に鮮明に刻み込まれたものと思われます。おそらく、ハッとするものがあったのではないでしょうか。また、当番組を観ていたにちがいないKoba-metalこと小林啓プロデューサーの耳にもしかと刻み込まれたにちがいありません。彼らは、マーティの言葉によって日本語で歌い続けることにあらためて自信を深めた、と私は信じたい。
私のそういう願望や祈念は、次のような危機意識に根差しています。
安易な英語化を受け入れてしまうと、べビメタはグローバリズムの波に呑みこまれることになる。そうなると、べビメタの基本姿勢である「resistance」が雲散霧消してしまいかねない。それは、巨大な文化的ダイナミズムとしてのべビメタの精神的核が台無しになってしまうことを意味する。そうなると、心震わせながら三姫を応援している熱狂的ファンも存在しえなくなる。そう考えるから、べビメタには踏みとどまってほしいと思うのです。
分かりにくい話をしていると思われるでしょうか。グローバリズムは、言語的側面に着目すると、英語こそは国際語・世界語・普遍言語であるという価値観を世界の諸国民に植え付ける言語帝国主としてとらえることができるのです。ますます分かりにくいと感じられた方は、施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化』(集英社新書)をごらんいただければ幸いです。
べビメタがグローバルな存在になればなるほど、べビメタはグローバリズムに抗しなければならない。そうしなければ、その「resistance」は終焉を迎えることになる。私は、そう考えています。グローバリズムに身も心も取り込まれてしまっても、べビメタは存在しうるのかもしれませんが、それは「resistance」を失ったべビメタの抜け殻にすぎません。どれほど有名になったとしても、です。
そう考えると、べビメタがいま歩んでいる道は、とても困難なものなのです。だからこそ、私は、心の底から応援したくなるのです。しているのです。
字数が膨大なものになりかけています。このあたりでとりあえず切り上げようと思います。「その2」もごらんいただければ幸いです。
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