美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

人民元の国際通貨化、決定される (美津島明)

2015年11月15日 04時44分08秒 | 経済
人民元の国際通貨化、決定される (美津島明)



当ブログでは、人民元のSDR化がいかに危険な措置であるのかを、おりにふれ詳細に論じてきました。
(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/85404a132fc62e4cc2584d5f0bcd377a 「混迷の中国経済の核心をつかまえるために」など)

ところがついにその日がやってきたのです。

<IMF>人民元、SDRの構成通貨に (毎日新聞)
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/business/mainichi-20151114k0000e020186000c.html 

人民元は、ドルや円やポンドやユーロのような変動相場制に組み込まれた国際通貨ではありません。また大陸中国は、外資が株式市場に自由に参入できる資本の自由を実現しているわけでもありません。人民元も資本市場も、依然として中共のコントロール下にあります。

なのに、なんと「人民元をもっと自由化しますよ」という中共の口約束だけで、IMF(国際通貨基金)は、人民元の国際通貨への昇格を認めたのです。つまりこの措置によって、世界の覇権を狙う中共は、口先で自由化を唱えるだけで、IMFから、途方もないマネーの力を付与されたことになるのです。むろんここには、ウォール街とロンドン・シティと独仏金融資本の強い意志が働いていると見るべきでしょう。世界金融資本(すなわち、世界の最高権力)にしてみれば、〈世界がどうなろうとかまったことではない。中共を踊らせることで得られるビジネス・チャンスを逃す手はない〉ということになるのでしょう。

悲観的なことを言ってしまいましょう。将来の人類は、2015年11月15日を、世界経済がカタストロフを迎える始まりの日として振り返ることになる。そんな予感がします。

また、極東に位置する日本の安全保障は、人民元の国際通貨化によって、その根底から揺さぶられることになるものと思われます。なぜなら、国際通貨と化した人民元を使って、中共は、これまでのようにドルの裏付けという面倒な手続きを経なくても、それこそ「自由に」、欧米の最先端の武器を好きなだけ調達することができるようになったからです。フランスなどは、中共の軍事特需で驚喜するに違いありませんね。

今回の件で、日本にとってアメリカは、信頼するに値する軍事同盟のパートナーではないことが明らかになったのではないでしょうか。軍事同盟のパートナーを安全保障面で窮地に追い込むような決定をする国家をどうやって信頼すればよいのでしょうか(今回の措置の最終的な決定者はむろんアメリカです)。

私がうんぬんするまでもなく、日本の安全保障を真摯に憂慮する人々の間から、 ほどなく日本の核武装議論が現実味を帯びて惹起するものと思われます。日本政府は日本政府で、暗黙の裡に、核再武装の検討段階に入るほかないでしょう。念のために申し上げれば、TPPによる中共の包囲、などというあまっちょろい議論は、今回の決定で吹っ飛んでしまったのです。

ついでながら、農協改革とともに日本の食料安全保障を崩壊させ、国家主権を脅かすだけのTPPなんてのは、この際辞めてしまってはどうでしょうか。TPP大筋合意の全訳が政府から出てこないのは、どうみてもおかしいでしょう?

さらに、これまでは張り子のトラとしか称しようのなかったAIIB(アジア・インフラ投資銀行)が人民元の国際通貨化によって資金の裏付けを得ることになり、今後、国境を超えた中共版グローバリズムである一帯一路構想が現実味を帯びてくることになります。当構想の本質は、人民元帝国の確立であり、人民元のSDR化を絶対条件としていたのです。

もはや中共は、アメリカFRBの利上げに戦々恐々とする必要はなくなりました。おそらく「勝手にせい」という構えでしょう。というのは、今回の決定によって、人民元のドル本位体制からの脱却という1949年以来の念願が晴れて成就することになるからです。

これからおそらく国際金融市場において、人民元の大盤振る舞いによる、人民元バブルの空騒ぎが巻き起こるはずです。日経新聞あたりは、きゃあきゃあと嬌声をあげて、その旗振りをするのでしょう。どうしようもない新聞社です。問題は、その祭りの後です。

付記:「まだ100%絶望するには当たらない」という趣旨の、渡邉 哲也氏のツイッターを掲げておきましょう。

4時間前  中国SDR改革 11月4日に発表されるはずだったものが昨日まで伸びた。月末の理事会で決定するが、70%の賛同が必要であり、米国が反対するかどうかということになる。また、米国はSDR改革を含むIMF改革そのものを議会で承認しておらず、IMF改革に拒否権を発動する可能性も残っている

オバマは、IMFに対して内諾の旨を伝えたはずですから、要するに、アメリカ議会頼み、ということになりそうです。この国家の一大事を前にして、マスコミ、政治家の無風状態は、何なのでしょうか。同じことは、フランスのテロの惨状をきちんと伝えようとしない日本のマスコミにも感じます。日本の地上波放送を観ていると、まるで永遠の春が続いているかのようです。CNNやBBCは、ほぼ一日中、同事件の報道にかかりっきりだというのに。
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大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)(再アップ・美津島明)

2015年11月05日 02時05分54秒 | 戦後思想
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)
ノアの方舟大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その2)フェイスブックで、当論考の「その1」アップの告知をしたところ、ある方からとても興味深いコメントをいただきました...



棺桶に片足を突っ込んだような年配の連中が、大江・戦後自虐カルト思想の犠牲者であり続けたり、そのことで晩節を汚したりすることは、一向に構いません。勝手にどうぞと言うよりほかはありません。

しかしこれから先長い人生を歩んでいく若い人たちが、大江的なものに影響されることで、持ってはならない妙なやましさに災いされ、豊かさの享受を後ろめたく感じたり、中共や韓国の粗暴な言動に対して何も言えなかったり、ゆがんだ安全保障思想を抱いたりすることには、我慢がなりません。そういう精神的構えを抱くことが良心的であり知的であると勘違いするならば、目も当てられないことになってしまいます。人生が台無しになってしまうのですから。

そういう若人をひとりでもいいからなくしたい、という思いで、当論考を書きました。
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渡せなかった、綿矢りささんへのラヴ・レター (美津島明)

2015年11月04日 14時08分34秒 | 文学
渡せなかった、綿矢りささんへのラヴ・レター (美津島明)



六年ほど前のことである。私は、作家の綿矢りささんに、ラヴ・レターを送ろうとしたことがある。熱狂的な変質者としてのそれではない。一緒にお仕事をしたい、という内容のラヴ・レターである。

ひとこと断っておくと、それらの一連の行動は、私の病的な妄想の産物ではない。ある大手出版社の編集者H氏とひとつひとつ手続きを踏んで具体化していったものである。結論として、無名の物書きである私が、当時の超有名人の綿矢さんを動かすには、その仕事――インタヴュアとして、綿矢さんの太宰治観に光を当て、意外性のある鮮烈な太宰像を世に出すという仕事――に賭ける自分の熱意をお伝えするしかない、ということになった。

で、書いたのが、次に掲げる文章である。

残念なことに、H氏に送ったその文章は、彼の手元から綿矢氏ご本人に渡ることはついになかった。おそらく、彼のプロとしての勘が、綿矢氏にその手紙を送るという行動を踏み切らせなかったのではないかと思う。「この企画は、どうもダメである」と。

その仕事への未練はもはやない。編集者へのうらみ・つらみもない。しかし、まがりなりにも心を込めて書いたラヴ・レターが、惚れた相手に届かなかった、といういささかの無念さのようなものは残っている。こうして世間の目に触れるようにすることで、もしかしたら、ご本人の目に触れることもあろうかと淡い期待を抱く次第である。


***

はじめて、おたよりを差し上げます。
 
私は、美津島明と申します。今年の二月に『にゃおんのきょうふ』という評論集を純響社から上梓した者です。それが私のはじめての著作です。今年で五十歳になります。

おたよりを差し上げた経緯と趣旨についてなるべく簡潔に申し上げます。

ことしの六月に、〇×新書出版部の編集者H氏との間で、女流の作家か評論家に太宰治を語ってもらう、という企画が持ち上がりました。私には、インタビゥアの役が割り振られました。彼とは、数年来の知人ではあったのですが、具体的な仕事で交流するのは今回がはじめてです。

インタヴュイーの候補者として、『絶対音感』の最相葉月さん、斉藤美奈子さん、川上弘美さん、そして綿矢りささんの四人の名が挙がりました。ほかにも何人か名前が挙がった方もあったのですが、話し合いの結果そこまで絞りました。

では、とりあえず四人の主著を読んでみようということになりました。

正直に申しあげるならば、そのときまでに私が読んでいたのは川上弘美さんの『センセイの鞄』くらいのものでしたので、四人の表現者のイメージが確かな手触りを伴ったものとして浮かび上がってくるまでにはけっこう多くの時間を費やしました。

その結果、太宰を語らせて最も魅力があるのは、綿矢りささんではないかと私は思うに至りました。

綿谷さんの『インストール』『蹴りたい背中』『夢を与える』の三冊を上梓された年代順に読んでみて、太宰治的なものとの内的な対話の度合いということで言えば、四人の著作のなかで綿矢さんのものが、断トツに高いことにまずは着目しました。

また、綿谷さんが、自分の精神における太宰治の影響の自覚を、作品を上梓されるたびに深めていらっしゃることにも着目しました。

これは、綿谷さんが折に触れて太宰治に思いをめぐらせていることを物語っているものと思われます。

ここで、綿谷さんの内なる太宰の核心とは、作品でいえばおそらく『人間失格』の太宰ではないでしょうか。太宰が最晩年に到達した人間観の影響をおそらくは全身に浴びることで、早熟な作家として出発した綿矢さんにとても興味があります。作家太宰治が終わった地点が、綿矢さんの作家としての出発点であることに、です。それは、精神的には決して楽なことではありません。綿矢さんは、そのことをいま心底感じ始めているような気がするのですが、いかがでしょうか。

そういったことを一月ほど前にHさんにお伝えしたところ、では、今回の企画、綿矢さんにしぼりこんで話を進めましょう、ということになりました。とするならば、私としては、もう一度綿矢さんの全作品を新たな目できっちりと読み返し、合わせて、太宰治の主な作品を読み返したうえで、綿矢さんに仕事の依頼のお手紙を書きたいとHさんに申し出ました。それから約一ヶ月が経ち、いま綿矢さんにこうしてお便りをしたためている次第です。

いまあらためて感じているのは、ご自身のはじめての三人称小説の『夢を与える』で、綿矢さんが相当大胆に作家としての告白をなさっているな、ということです。高度なフィクションにおいてこそ作家の内的なリアリティが際立つというのは、良い小説の法則のようなものです。その力学を綿矢さんは本作でよく活用なさっていると思います。

いささか長くなりますが、そのことを、順を追って申し上げるのをお許しください。

綿矢さんは、高度情報化社会の暴力を肌で感じていらっしゃるのではないかと推察いたします。

ざっくりと言ってしまえば、それは、「夢を与える」存在の、マスにとっての都合の良いイメージを骨までしゃぶりつくすことによって、高度情報化社会の共同幻想が自己保持、自己更新されるオートマティックなシステムのことです。

このシステムは、「夢を与える」存在が、共同幻想の求めるものを拒否して素の個人であろうとする場合、その存在に悲劇的な末路をもたらします。その鮮烈な例として、私の脳裏にはマイケル・ジャクソンが思い浮かびます。

綿矢さんは、ご自身がそういう「夢を与える」存在です。感性の鋭いあなたが、自分を取り巻く、そういう意味での暴力に対して鈍感であるはずがありません。

ところが、やっかいなことに、素の個人であることは、芸術的な創造の欠かせぬ源泉なのです。

その難しい方程式を、綿矢さんは、次のように解こうとなさったのではないでしょうか。

作中の「夕子」というイノセントな存在は、綿矢さんのいわばフィクティシャスな分身でしょう。綿矢さんは、その彼女を芸能界という名の高度情報化社会の暴力にさらし、素の個人であろうとすることの末路をきっちりと見届けるという、小説上の思考実験をなさったのではないかと推察いたします。
それを敢行し切った綿矢さんを私は小説家として見事であると思っています。

そして、「夕子」が作中においてたどり着いた場所から、「無垢の信頼心は罪なりや。神に問う。無抵抗は罪なりや?」という『人間失格 』における葉蔵の悲痛なうめき声が聴こえてくるように感じるのは、はたして私だけでしょうか。

それは、太宰が最期にたどり着いた人間観を綿矢さんが現在の状況のとても深いところで受けとめなおしていることを意味するでしょう。

綿矢さんが、ご自身の創造の源泉をいわば捨て身で守りきることによって、そういう深い受けとめをなさったことに敬意を表します。それは、綿矢さんが、世間の強要する「綿矢幻想」と訣別なさったことをも意味するでしょう。それはとても勇気の要ることです。

近代文学は終わった、などとポストモダン系のバカ評論家たちが軽薄に口走っているようですが、彼らの近視眼には、綿矢さんの、近代文学の継承者としての深い場所など目に入るはずがありません。片腹痛いかぎりです。

いま綿矢さんは、次の作品の創作のまっただなかにいらっしゃるのでしょうか。そのなかで、太宰との意識無意識織り交ぜた対話をさらに深められていらっしゃるのではないかと推察いたします。

その部分に鮮烈な光を当てて、近代日本文芸の最良の部分をいま引き継ぐとはほんとうはどういうことなのかを心ある人々に知らしめる橋渡し役を私どもに務めさせていただければ幸いに存知ます。

よろしくご検討くださいませ。

失礼いたします。

平成二十一年八月十五日  美津島明 拝
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いまの日本に、財政問題なんてものはない (美津島明)

2015年11月03日 11時59分07秒 | 経済
いまの日本に、財政問題なんてものはない (美津島明)


「吾妻土産名所図画」(明治29年・1896)より。大蔵省(中央)と貴族院(右上)

私は、経済問題研究会という少人数の集まりで、専任講師を務めています。事前にテキストを一冊決め、参加者にそれを読んできてもらったうえで、私がその要点を解説し、時事問題との関連などに触れ、質問に答え、折に触れ自由討論をする。そんなやり方で四時間を過ごします。四時間といえばずいぶん長いように思われるかもしれませんが、それに参加してみればあっという間に時間が過ぎます。それが終われば、自由参加の二次会です。活発に発言する参加者がほとんどですから、アルコールが入ればおのずと談論風発の様相を呈します。

三年間弱の同会での活動を通じて、ひとつ痛感していることがあります。それは、私たちがマスコミを通じて耳にし目にする経済言説のほとんどが、財務省が発信した情報の垂れ流しであることです。マスコミは、財務省(と日銀)には、イデオロギーの左右を問わず、決して逆らわないのです。財務省が正しいことを言っていれば、それでもまあ問題はない、と言えるでしょう。ところが、財務省の言っていることが、根本的に誤ったものであるとすれば、話は違ってきます。

私見によれば、財務省は根本的に間違った情報を発信しています。その最たるものは、「国の借金はいまや1000兆円を超えた。このまま増え続ければ、いつか財政は破綻する」という言説です。このウソには、「だから、消費増税はやむをえない」とか「だから、公共事業はさらに減らすほかはない」とか「だから、震災地の復旧・復興のためには、まず財源を探すことが必要だ」とか「だから、社会保障費は削減するほかはない」などといった、デフレを促進し、国民が享受できる行政サービスを削減し、国民の社会権を脅かすようなろくでもない結論が待ち構えています。

みなさまがご存じのとおり、1997年の消費増税5%の断行からの二十年間、日本国民は、そのような険しい道を歩み続けてきました。デフレ脱却の途上で消費増税8%が断行され、実質賃金は減り続け、公共事業がどんどん削減されて日本は災害に対して脆弱な国土と化し、年金や失業保険や生活保護などの社会保障は手薄くなり、被災地はほったらかしにされたままです。その余波で縮小気味になった内需はもはや当てにならないというので、やれ海外に打って出よ、やれアジアの成長の取り込みだ、やれグローバルだ、やれTPPだ、やれ英語の重視だ、と国柄を変えるような所業を平気でするようにもなりました。わたしたち国民は、心の中で「かんべんしてくれよな」と思いつつも、「国の財政が大変らしいからしょうがないか」と思い直して、政府の無慈悲な政策の数々を甘受し続けてきたのではないでしょうか。

ところが、そういう無慈悲な政策を余儀なくさせてきた「財政破綻の危機」なるものが実はフィクションに過ぎない、というのですから、はた迷惑にもほどがあります。

では、なぜ財政破綻がフィクションにすぎないと断言できるのでしょうか。まずは、財政破綻の定義をしましょう。それは、〈国債の金利が上がりすぎて、国債の利払いや償還(返済)に充てる経費、すなわち国債費の支払いがままならなくなること〉です。なぜ国債の金利が上がるのかといえば、財政破綻論者によれば、国の借金=国債の金額がふくらみすぎたら、国債に対する信用がいちじるしく低下するので、よほど高い金利をつけなければ、だれも国債を引き受けなくなるからです。また、投資家による国債の売り浴びせによっても、国債の相場価格は低下しその金利(利回り)は上がる、と財政破綻論者は主張します。

こまかい議論はそれくらいにして、いま、財政破綻が起こったとしましょう。そうして、国の借金1000兆円の全額が国債であるとしましょう。ここでピンと来ない方は、もしかしたら「国の借金」という言葉を真に受けていらっしゃるのではないでしょうか。「国の借金」というのは、実は財務省のトリックにほかならず、正確には、「政府の借金」です。で、「国の借金」など、日本には純額としては、ないのです。というのは、日本国の対外純資産は360兆円あまりにものぼるのですから。つまり、国全体として、日本は世界一の金持ちなのです。これはまぎれもない事実です。

話をもどしましょう。「政府の借金」1000兆円=国債1000兆円とします。ここで最悪の財政破綻が起こったとしましょう。この国債1000兆円分の全額が支払い不能になってしまった、という想定です。

ここで、私たちは次の事実を想起する必要があります。日本の国債は、その100パーセントが自国通貨円建てなのです。また日本政府は、いざというとき、日銀を通じて必要なだけの円をいくらでも発行できるのです。いいかえれば、日本政府は、通貨発行権を有しているのです。だから、国債費がいくら膨大になろうとも、日本の国債に財政破綻が起こることは原理的にありえません。ユーロ建ての国債の支払いができなくなってドイツにすがるギリシャとはわけがちがうのです。ギリシャには通貨発行権がなくて、日本には通貨発行権がある。だから、ギリシャには財政破綻が起こりうるが、日本には起こりえない。このことは、「平行線は交わらない」というユーグリッド幾何学の公理と同じくらいに自明です。

これで終わりといいたいところですが、「財政破綻」はマスコミを通じて長い間耳にタコができるくらいに言い続けられてきたので、国民の間で、もはやまっとうな論理を受けつけない「迷信」のようなものになってしまっていることを考えると、もうすこし言葉をつむぐことにしようと思います。

政府の借金は、日銀の国債買い取りによって減らすことができます。日銀は日本政府の子会社です。だから、子会社の日銀が買い取った国債、すなわち日銀の政府に対する債権は、親会社である政府の日銀に対する債務と相殺されます。これ、連結会計のイロハですね。だから、日銀が買い取った国債の総額分だけ、政府の借金は実質的に減ることになるのです。これまた、会計理論上のごく自然な結論です。実務上、日銀は、国債の満期日から10年経過して請求権が消滅するまでだまって国債を持ち続けるのでしょうね。

みなさまご存じのとおり、いまの日銀は、いわゆる「黒田バズーカ」によって、年80兆円の規模で国債を大胆に買い取りつづけています。異次元緩和、というやつですね。日銀が現在保有する日本国債は300兆円を余裕で超えているものと思われます。その分だけ、政府の借金はチャラになるのです。ということで、日銀は、目下年80兆円のペースで政府の借金をどんどん減らしているのです。インフレ目標2%は当分達成できそうにありませんから、この先数年間はこの調子で推移するのでしょう。

「1000兆円-300兆円=700兆円でも、借金の額としては巨額ではないか。600兆円、500兆円になっても巨額であることには変わりない。財政破綻があるかどうかは別として、巨額の借金は良くないだろう」という反論がありえるでしょう。が、実は「1000兆円」という金額そのものがフィクションなのである、といえば驚かれるでしょうか。

まずは、財投と建設国債410兆円を「政府の借金」に含めるのは理に適っていません。財投(約160兆円)とは、ようするに、特殊法人が使ったカネです。特殊法人が使ったカネを「政府の借金」にするのはおかしいですね。特殊法人が使ったカネは特殊法人が返すのがスジでしょう。また、建設国債(約250兆円)を「政府の借金」に含めるのもおかしい。なぜなら、建設国債とは、インフラの建設に使われるものであって、高速道路・新幹線・リニアモーターカー・橋・ダム・港湾などのインフラを建設すると必ず経済効果があり税収が増えます。つまり、建設国債はペイするのです。

とすると、1000兆円-国債買い取り300兆円-財投・建設国債410兆円=290兆円と借金は大幅に減ります

さらに、借金には総額と純額の二つの考え方がありますね。総額では290兆円ですが、純額となると、政府の資産合計は約650兆円なので、資産650兆円-負債(借金)290兆円=純資産360兆円となり、なんと借金が消滅してしまうのです。

私は、ふざけた議論をしているわけではありません。ごく常識的なお話しをしているだけです。もしも私の話しがふざけているように感じられるとすれば、それは、財務省がたわけた議論を展開しているからにほかなりません。

これで、「いまの日本に、財政問題なんてない」という、私の主張の趣旨をご理解いただけましたでしょうか。

冒頭で述べた勉強会で、参加者のなかに「財務省が間違っているというが、お前は社会的地位の高い人間ではない。しかるに、財務官僚は頭が良くて社会的地位の高い人たちだ。そんなお前の財務省批判が正しいはずがない。財務官僚には、お前などのようなボンクラ頭が考え及ばないような深い思慮があって、そういうことを言っているにちがいない」という本音が透けて見えるような発言をなさった方がちらほらいらっしゃいました。そういう権威主義的な批判に対しては、私は言うべき言葉を持ち合わせておりません。

いずれにしても、この「迷信」は、日本に数々の不幸をもたらし続けてきた諸悪の根源です。この「迷信」の呪縛から自由になれたならば、私たち日本国民は、全体としてもっとまともで豊かな暮らしができる端緒をつかんだことになるのは間違いない。私は、そう考えています。この「迷信」の垂れ流しをし続けているマスコミは、万死に値するのではありませんか。その点、日経新聞はありがたくもなんともありません。


(SSK・REPORT 2015年秋号 掲載)
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大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(再アップ・美津島明)

2015年11月02日 11時27分04秒 | 戦後思想
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』を埋葬する(その1)当ブログで、ちょっと前に大江健三郎氏の『沖縄ノート』を取り上げ批判しました。今回は、『ヒロシマ・ノート』を取り上げようと思いま...



大江流の戦後自虐思想は、私の目が黒いうちに、叩き潰しておきたい最大のものです。むろん、次世代の子どもたちのために、です。『ヒロシマ・ノート』を中高生向けの推薦図書にするなんて、狂気の沙汰だと思います。
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