日本人の社会生活において「論争してはいけない」という考えが刷り込まれている。
ただ相手の人格を無視した時(相手が大きな失敗を犯したときなど)のみやっていいようだ。
これは言葉とそれを言った人の人格が分離していないから、こうなる。
アングロサクソンなんかでは、相手の人格に対する言葉と単なる情報に関する言葉と厳格に区別する。
「お前は嘘つきだ」といえば、決闘になる。
「お前の言ったことは事実と違う」と言えば議論が進む。
しかし日本もぼちぼち世界標準に合わせて行くべきだろう。
いつまでも「あいまいな表現」や「なし崩しに対応する」やり方から脱皮すべきだ。
すでに日本には300万人以上の在留外国人が存在する。これからも増えて行くだろう。
彼らの考え方や生き方を特別視するのではなく、共に生きる感覚を養うことが大事だ。
それこそが「多様性の社会を生きる」、ことだ。
宴会で踊ってもらうことではない。
ドイツの政治家は国民に呼びかける場合、「国に共に暮らす人々」というらしい。
残念ながら日本ではこのような言葉の使い方や概念が育っていない。
若い人たちからこのような動きが出てくることを期待したい。