《 空想から科学へ 》 奧菜主義革命~ 革命的奥菜主義者同盟非公然ブログ

奥菜恵さんは、精神と肉体の両方から無駄なものをすべて削ぎ落とし、必死に舞台に立っていた

ガソリンでも燃えぬ夢の痕Ⅱ

2008年11月02日 22時59分25秒 | Weblog
ちょっと頼まれたことがあって、
こんな文章をものしました。それをここに写しやしょう。
物書きってーのは自己顕示欲が強くて、おしゃべりなもんでね。


《『山月記』の後日譚を想像してみる》

 先日読んだ『山月記』は「再びその姿を見なかった」
という表現で終わっていましたね。この続きをちょっと想像してみてください。


(意識的な空白)

 どんなストーリーが思い浮かびましたか。袁傪はやはり李徴の最後の願いを受け入れて李徴の妻子を飢凍の危機から救おうとするでしょうね。
 
 問題は妻子がその温情を素直に受けるかどうか、です。「夫(父)のかつての同僚」という理由だけで見ず知らずの士大夫が自分たちの生活を見てくれるとの申し出をしてくる、これは受け入れないんじゃないかな、と思うのです。 
 
 李徴の妻子はなぜ自分たちを救ってくれるのか、その理由を納得できるまで尋ねることでしょう。どうしても救いたいは袁傪はついに根負けして、いきさつの一切を語ってしまうのではないでしょうか。
 
 自分の夫(父)が虎に成り果てたとはいえ、生きていることを知った妻子は李徴に会いに行きます。問題はこの先にどんなストーリーを設けるかだと思うのです。
 
 李徴が酔っている(虎になっている)時に再会して妻子は元の夫(父)に喰われてしまう、というエンディングもあり得るでしょう。人間が虎になるという理不尽を最後まで貫くテーストは大変魅力的ですが、この話はいったい何だったの?というブチ壊し感の方が強く出過ぎてしまうような気がします。

 「あの日は残月であった。有明の月がかかる未明であれば人間の意識が戻っているかもしれない。」などというアドバイスを袁傪が与え、夫婦(父子)は無事再会する、というハッピーエンドはどうでしょう。心温まりますが、ありきたりですね。

 あそこで話を切った中島敦の才能というものはやはりすごいと思いました。作家なんて、本来、自己顕示欲が強くておしゃべりなのに、それを抑制してあそこで切った。すばらしい。

 そのことで「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という第二テーマがより鮮やかに浮かび上がりました。李徴は「道」をぎりぎりのところで悟り、その苦悩に満ちた人生は最低限報われたのだ、と。そして我々は「道」を悟れるまでは死ぬに死ねないぞ、と。



 
 「道」それはいつも遠い。プロレタリア独裁は宵越しの権力を持つべからず。されどこの「道」は革命的な表現者を志す奧菜恵さんの進む道に連なる。このブログが最近時たまにしか更新されないのは、偶像より奧菜恵さんを愛するが為に。

通りすがりさん、この文章に関しての批評は聴きたくありませんので。