『池袋通信』
昨日は休暇が取りやすい職場環境が整っておりましたので、
遠慮無く休ませてもらいました。
そして池袋演芸場に昼夜通して潜入しておりました。
東上線の踏切事故で池袋までたどり着くにも、
ひとブログ書けそうなすったもんだがあったのですが、
話がピンボケになるので、それは書かないでおきましょう。
池袋の客は決して芸人に優しくはない客だ、
ということを差し引いても
昨日の池袋の客席は、いつまでたっても暖まりませんでしたな。
こんな寒々した客席を体験したのは初めてかもしれない。
客の質もあるだろうけど(二度も携帯を鳴らした爺さんがいた!)、
昨日のは半分以上芸人のせいだと思いましたよ。
なんか気の抜けた高座が続いたように感じましたよ。
座が盛り上がったのは扇遊師のときだけだったですよ。
師の明るさ、華、座の取り持ちの巧さ、力量を再確認いたしました。
『明烏』がよくできた噺だからだよ、なんて評は厳しすぎですよ。
近年、聴く側はおろか、噺家さんの方でも、『三遊』最大の遊びに関することの諸々が分からなくなってきており、また女性客が増えてきたことなどもあって、定席では廓噺が語られることが少なくなってきている。
なんて言われていますが、
なんか今年は廓噺にでっくわすことが多いなぁ、
と密かに思っていたのですが、
扇遊師にその謎解きをしていただきました。
今年は昭和に“換算”すると昭和83年なんだそうで……
そう、あの昭和33年から50周年。
小春日和だったのに冷え切った池袋だったわけなんですが、
池袋にはやはり池袋の良さがあります。
持ち時間が他より少しだけ長いというところに
たぶん秘密があると思うのですが、
「この噺を定席で聴くのは初めてだ」という体験をする確率がかなり高い。
私の寄席経験の浅さを暴露するようでお恥ずかしゅうございますが、
昨日も『法華の数珠』(金馬師)『大師の杵』(たけ平さん)を
初めて耳にしました。
初めて聴いた噺の演目の名を調べるのはひと苦労なんですよ。
『昨日出会った小三治師の言葉』
「演者の姿がいつの間にか消えて、登場人物が見えてくる人の芸を聞くと、……ついつい引き込まれて笑ってしまう。」
私、奥菜主義革命はこの1ヶ月くらい、
先代馬生師に無茶苦茶凝っているのです。
「この1ヶ月くらい?」
そう、それまでは聞かず嫌いをしておりました。
父と弟に挟まれた地味な人という偏見が邪魔して、
まったく文字通りの聴かず嫌い。
一度もまともに聴いたことがなかったんです。
ところが「ビクター落語」の『うどん屋』を聴いて以来ぞっこん。
この1ヶ月でCDを8枚も購入しました。
なんでこんなにも馬生師に惹きつけられるのか。
小三治師から解答をいただきました。
ついでに最近喬太郎師に抱いている不満(生意気なこと言ってます)の正体もはっきりしました。
特に女の人になっているときに感じる不満の。
権太楼師が語っているときには、いつまでも権太楼師が目の前に鎮座ましましていて何の不満もないのに。
難しいものですね。
「留守電にいきなり『居ないはずの本人』の声が出てくるのは、掛けてきた人の戸惑いに対する配慮が無く、失礼だ。フランク永井さんの留守電は寄席囃子から始まる」(抄)
大賛成!
幸いにも革命的奥菜主義者同盟中央執行委員会委員長室の電話には留守電機能がないのだが、もしあったら、15日午前零時を期して、♪鞍馬獅子 に変更していたことであろう。
『昨日出会った歌之介師の言葉』
「あいうえお」の順で母音をならべる「50音図」は実は国語学・音韻学的には価値が低いんです。本来であれば「あえいおう」とならべるべきなんです。
そこへいくと「いろは歌」には深い意味がある。
よ~く知られていることではありますが、
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
とならべて末尾を縦読みすると
「とかなくてしす」=「咎無くて死す」
なおかつ「いろは歌」は仮名書きのお習字のお手本だから
『仮名手本忠臣蔵』という芝居名になるわけです。
まあ、そんなわけで革奥同内では50音図の日和見性には
ことあるごとに自己批判が求められていたんですな。
(ここまでは私 奥菜主義革命の考え)
ところが、三遊亭歌之介師の次の言葉は目から鱗でした!
「『あいうえお かきくけこ……らりるれろ わを ん』
日本語は『愛』で始まり『恩』で終わるんです。
アルファベットで『愛』はどこに出てくるか!
ABCDEFG……なかなか出て来ん!
で、やっとHIですよ。
エッチの後に愛が来る!
感情より先に行動なんですよ、アングロサクソンは!」(抄)
テロ報復戦争勃発直後のご発言です。深い!
ますます落語にのめり込みそうな気がしてきた昨日
を語らせていただきました。
※今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現については、新作落語の息吹を伝える使命にかんがみ、そのままとしました。
昨日は休暇が取りやすい職場環境が整っておりましたので、
遠慮無く休ませてもらいました。
そして池袋演芸場に昼夜通して潜入しておりました。
東上線の踏切事故で池袋までたどり着くにも、
ひとブログ書けそうなすったもんだがあったのですが、
話がピンボケになるので、それは書かないでおきましょう。
池袋の客は決して芸人に優しくはない客だ、
ということを差し引いても
昨日の池袋の客席は、いつまでたっても暖まりませんでしたな。
こんな寒々した客席を体験したのは初めてかもしれない。
客の質もあるだろうけど(二度も携帯を鳴らした爺さんがいた!)、
昨日のは半分以上芸人のせいだと思いましたよ。
なんか気の抜けた高座が続いたように感じましたよ。
座が盛り上がったのは扇遊師のときだけだったですよ。
師の明るさ、華、座の取り持ちの巧さ、力量を再確認いたしました。
『明烏』がよくできた噺だからだよ、なんて評は厳しすぎですよ。
近年、聴く側はおろか、噺家さんの方でも、『三遊』最大の遊びに関することの諸々が分からなくなってきており、また女性客が増えてきたことなどもあって、定席では廓噺が語られることが少なくなってきている。
なんて言われていますが、
なんか今年は廓噺にでっくわすことが多いなぁ、
と密かに思っていたのですが、
扇遊師にその謎解きをしていただきました。
今年は昭和に“換算”すると昭和83年なんだそうで……
そう、あの昭和33年から50周年。
小春日和だったのに冷え切った池袋だったわけなんですが、
池袋にはやはり池袋の良さがあります。
持ち時間が他より少しだけ長いというところに
たぶん秘密があると思うのですが、
「この噺を定席で聴くのは初めてだ」という体験をする確率がかなり高い。
私の寄席経験の浅さを暴露するようでお恥ずかしゅうございますが、
昨日も『法華の数珠』(金馬師)『大師の杵』(たけ平さん)を
初めて耳にしました。
初めて聴いた噺の演目の名を調べるのはひと苦労なんですよ。
『昨日出会った小三治師の言葉』
「演者の姿がいつの間にか消えて、登場人物が見えてくる人の芸を聞くと、……ついつい引き込まれて笑ってしまう。」
私、奥菜主義革命はこの1ヶ月くらい、
先代馬生師に無茶苦茶凝っているのです。
「この1ヶ月くらい?」
そう、それまでは聞かず嫌いをしておりました。
父と弟に挟まれた地味な人という偏見が邪魔して、
まったく文字通りの聴かず嫌い。
一度もまともに聴いたことがなかったんです。
ところが「ビクター落語」の『うどん屋』を聴いて以来ぞっこん。
この1ヶ月でCDを8枚も購入しました。
なんでこんなにも馬生師に惹きつけられるのか。
小三治師から解答をいただきました。
ついでに最近喬太郎師に抱いている不満(生意気なこと言ってます)の正体もはっきりしました。
特に女の人になっているときに感じる不満の。
権太楼師が語っているときには、いつまでも権太楼師が目の前に鎮座ましましていて何の不満もないのに。
難しいものですね。
「留守電にいきなり『居ないはずの本人』の声が出てくるのは、掛けてきた人の戸惑いに対する配慮が無く、失礼だ。フランク永井さんの留守電は寄席囃子から始まる」(抄)
大賛成!
幸いにも革命的奥菜主義者同盟中央執行委員会委員長室の電話には留守電機能がないのだが、もしあったら、15日午前零時を期して、♪鞍馬獅子 に変更していたことであろう。
『昨日出会った歌之介師の言葉』
「あいうえお」の順で母音をならべる「50音図」は実は国語学・音韻学的には価値が低いんです。本来であれば「あえいおう」とならべるべきなんです。
そこへいくと「いろは歌」には深い意味がある。
よ~く知られていることではありますが、
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
とならべて末尾を縦読みすると
「とかなくてしす」=「咎無くて死す」
なおかつ「いろは歌」は仮名書きのお習字のお手本だから
『仮名手本忠臣蔵』という芝居名になるわけです。
まあ、そんなわけで革奥同内では50音図の日和見性には
ことあるごとに自己批判が求められていたんですな。
(ここまでは私 奥菜主義革命の考え)
ところが、三遊亭歌之介師の次の言葉は目から鱗でした!
「『あいうえお かきくけこ……らりるれろ わを ん』
日本語は『愛』で始まり『恩』で終わるんです。
アルファベットで『愛』はどこに出てくるか!
ABCDEFG……なかなか出て来ん!
で、やっとHIですよ。
エッチの後に愛が来る!
感情より先に行動なんですよ、アングロサクソンは!」(抄)
テロ報復戦争勃発直後のご発言です。深い!
ますます落語にのめり込みそうな気がしてきた昨日
を語らせていただきました。
※今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現については、新作落語の息吹を伝える使命にかんがみ、そのままとしました。