《 空想から科学へ 》 奧菜主義革命~ 革命的奥菜主義者同盟非公然ブログ

奥菜恵さんは、精神と肉体の両方から無駄なものをすべて削ぎ落とし、必死に舞台に立っていた

立ち上がって「かんかんのう」踊ったって酒は無ぇぞ!

2008年12月29日 06時52分00秒 | Weblog
昨夜は“すったもんだ”のあった「鈴々舎馬桜独演会」当日。
すったもんだはありましたが、とっても楽しい会でした。
そして深く勉強することができた会でした。
一年の落語鑑賞を、華々しく三本締めでお開きで飾るというのは
こたえられない快感でした。
行ってよかったですよ、本当に。

『らくだ』というお噺には、
これまで何度となくいろいろな師匠の口演で触れてきましたが、
それでもあんなにも笑わせていただき、
いくつもの新たな発見があったのですから、
落語の持つ懐の深さというものを改めて感じさせられました。

①圓生師が
「演者によって……片っぽ(丁目の半次)は、まるで酔っていないのは変です」
という批評をしたことがあるのを知っていました。
それに対して、矢野誠一さんが
「(酒乱の本領発揮を)きき手にわかりやすくしめすために、屑屋のほうだけを酔わせる」のは、けっして間違った演出ではない、と反論していることも知っていました。
『落語とはなにか』(河出文庫)

②この日の馬桜師の演出では、
酒乱と化して行く屑屋に負けまいと自分を鼓舞するために
半次も「よし!」と居合いを入れつつ、ずいぶん杯を重ねていました。

③焼き場に行く途中で質屋の子供&小僧に汚い弔い、かなんか言われたことに因縁をつけ、その店からなにがしかの金を強請り取る、
という話が入ることがあるのを知識としては知っていましたが、
実際に聴いたのは初めてのことでした。
借りてきた猫のようになっていた半次がこのプランを持ちかけ実行するという演出に
違和感に近い意外感を持ちました。

④途中でらくだを落っこどしたことに気づかない、
人違いの願人坊主を詰め込んだことに気づかない、
棺桶の中の死人がいろいろ声を上げ、それに受け答えしつつも、平然と棺桶を火の中へ放り込む、
これらをあまりにも不合理とする批評があるのは事実です。

昨夜の馬桜師の『らくだ』にはこれらを一本につなげる演出意図があったように思え、
そう思えた瞬間、身震いがするほど「これは儲けた!」と感じました。

①については②を以てして圓生師の側に立つことを明らかにし、
④を不自然に感じさせないために、②で半次が酔うことには必然性があり、
だから③の場面は無駄な脱線ではなく、意外感で客に②を思い出させておく。
つながった!お見事!

そして「火屋」でサゲない、あの落ちでしょ。
この演じ方を2500円(前売りで購入したので)で聴けたんですもの、
大儲け!

実は大変失礼ながら
「理論に走りがちな」馬桜師が
荒唐無稽に近い『らくだ』の持ち味を殺さず料理できるのかしら?
という興味があったものですから。
夏の独演会『たがや』では、
ひと勝負毎に「なぜ箍屋が侍に勝ってしまうのか」
その理論的裏付けに「馬桜師の持ち味」が存分に生かされていて、
う~~むとうならされたので、今回はいかに、と思っていました。
ほんと失礼ですよね。
いや~、プロはすごい、すごい。参りました。
馬桜師匠!素晴らしいお歳暮プレゼントをどうもありがとうございました。



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