川瀬有希の時の旅


「今日は何の日」と題し、過去のその日に起こった出来事を、自由気ままに語るブログです。

6月25日/ 今日は何の日

2012-06-25 00:15:00 | 忌日

(2009年)マイケル・ジャクソン死去

日付は現地時間(日本時間だと6月26日)。

音楽的功績は言うまでもなく、世界中で多くの人に愛されてることは死後の報道を見ても分かるが、仮に今も存命なら、絶対にスキャンダル・タレント的な扱いを受け続けていた筈だ。
生きてる間にこそ、マスコミは真っ当な評価に力を注いで欲しい。
どんなに賛辞を重ねても、生前面白おかしく扱っていた己れの罪滅ぼしをしているようにしか見えない。


6月24日/ 今日は何の日

2012-06-24 00:15:00 | 忌日

(1989年)美空ひばり死去

戦後日本の芸能界を代表するスター・石原裕次郎と同じく52歳で亡くなったのは、偶然とは言え何かしら意味があるのでは、とつい考えてしてしまうのは自分だけか?
それはともかく、早過ぎる旅立ちではあった。

近年、テレビやラジオで彼女が紹介されたり特集が組まれる際、必ず『川の流れのように』がオンエアされるが、あれはどうなんだろう。
とりわけ昔からの熱烈なファン程、ある種の違和感を覚えるのでは、と勝手に推測する。
歌自体は悪くないし、実際ヒットもしたから、代表曲であることに違いないが、ひばりの魅力は決してあの曲では語れないと不満を抱えているファンは多いのではないか。
他にも沢山魅力的な歌はあるのに、何故『川の流れ…』ばかりなのか、と。
僕にはそう思えてならない。



(1999年)村下孝蔵死去

御多分に漏れず僕も『初恋』で彼のことを知ったが、より好きになったのは次のシングル『踊り子』だった。
今でもこちらの方を気に入っている。

朴訥とした喋り・穏和な性格は親しみやすさを感じさせ、何より、時代の流行に媚びることなく自らの音楽スタイルを貫く姿勢は非常に好感が持てた。
46歳という若さでこの世を去ったことを今でも残念に思う。


6月23日/ 今日は何の日

2012-06-23 00:15:00 | 誕生日

(1967年)永田ルリ子誕生日

80年代後期に一斉を風靡したアイドルグループ・おニャン子クラブ。
僕はおニャン子のファンにこそならなかったものの、彼女らが出演する夕方のテレビ番組『夕やけニャンニャン』は好きで、部活がない日や早目に切り上げられる時は欠かさずチェックしていた。
とりわけ、とんねるずがレギュラーを務めていた曜日がお気に入りだった関係で、そこで少しばかり目立っていた(石橋貴明に気に入られていたのか?)会員番号18番の永田ルリ子が、個人的に何となく気になる存在として映っていた。
実際、ソロデビューした他のメンバーに劣らぬ人気があったし、可愛さもさることながら、タレントらしからぬ擦れてないイメージが好感を持たれた理由ではないかと思われる。
が、結局彼女はソロにはならず、それどころか、夕ニャン終了&おニャン子解散の翌年(1988年)に結婚し、呆気なく芸能界を引退してしまった。
その後、おニャン子はいろんなかたちで企画復活?したが、彼女はそれらに一切参加せず、リリースされるDVDでも不自然にカットされている。
放送でも度々モザイクがかけられてるから、本人から使用許可が得られないものと想像されるが、どういう事情でそうなってるのか、真相は分からない。
おニャン子と聞くと「ルリルリ」「NO MORE 恋愛ごっこ」が真っ先に浮かぶ僕にはやや寂しい現実だ。


6月22日/ 今日は何の日

2012-06-22 00:15:00 | スポーツ

(1986年)マラドーナの「神の手」と「五人抜き」

サッカーW杯メキシコ大会準々決勝、アルゼンチン対イングランド戦。
この試合でマラドーナがハンドで決めたゴールを、自身の発言から一般に「神の手ゴール」と呼ぶようになった。
また、その得点の直後、イングランドの五人の選手をかわしゴールを決めたプレーは更に鮮烈で、「神の手」と共にその「五人抜き」は伝説として語られている。

今なら他の試合そっちのけで、連日こればかりテレビで特集されるだろう。
あの頃の日本では、(サッカーが好きな人は別として)それなりに注目されたニュースではあったが、それでも番組のスポーツコーナーで取り上げられた程度だったように記憶する。
W杯というと、普段サッカーに興味のない人まで熱狂する今日からすると隔世の感がある。


6月21日/ 今日は何の日

2012-06-21 00:15:00 | 誕生日

(1893年)村岡花子誕生日

1939(昭和14)年、35年間に渡り日本の女子教育の発展に献身してきたカナダ人宣教師ミス・ロレッタ・レナード・ショーは、時局の変化に伴い、已むを得ずカナダへと帰国する。
彼女は見送りに来た村岡花子に、友情の証しにと一冊の本を手渡す。
それは何度も読み返したらしく、かなり手ずれていた。
今、互いの祖国は敵対関係にあるが、やがて平和が訪れた時に、カナダ人の本当の心を、この本を通じて日本人に伝えて欲しいというミス・ショーの願いが込められた贈り物だった。
見つかれば罰せられる可能性のある敵国の書物を、村岡は必死で翻訳し推敲を重ね、空襲による戦火の中でも決してその本と原稿用紙を手放すことなく持って逃げた。

終戦後、紆余曲折を経て漸く日本語版は陽の目を見る。
ミス・ショーから贈られて13年、原書発行からは実に44年が経過していた。
その本はたちまち日本中の、とりわけ若い女性達の心を掴み、今なおセールスを重ね、読み継がれている。
それが『赤毛のアン』である。

村岡女史翻訳版のアンには崇高なる精神、そして魂が宿っていると確信する。


>参考資料
村岡恵理・著『アンのゆりかご~村岡花子の生涯』(マガジンハウス刊)