黄色い涙*もどり雨<歌詞付き>
今日の昼にNHK BSプレミアムにて映画【異人たちとの夏】を観る。
お盆の時期に、この映画はピッタリおすすめの一本だ。(涙)
少年時代を浅草で過した主人公は、12歳の時に両親を亡くす。
40歳となり脚本家として活躍する主人公が、浅草で死んだ頃の姿のまま変わらずに暮らしている両親と再会し、異人たちとの夏を過ごすのだが・・・。(涙)
名脚本家として知られる山田太一さんが、山本周五郎賞を受賞した小説を、同じく名脚本家の市川森一さんが脚本を描いた名作。
市川森一さんと私とは、一度だけ御会いしたことがある。
故・永島慎二先生の名作漫画【黄色い涙】を、かつてNHKで連続テレビドラマとなった際に脚本を担当し、映画【黄色い涙】としてリメイクされた際の脚本も担当された市川森一さん。
メトロポリス漫画総合研究所・本間正幸として撮影協力をした私は、打ち上げ会場にて市川森一さんに会って直接話をし、名刺交換までさせていただいたのだが・・・。
今は市川森一さんも故人となってしまった。(涙)
私が、原作者である永島慎二先生と御会い出来たのも一度だけ。
人と人との縁、出会いとは一期一会が多いのかも知れない。
今日の画像は、茨城県鹿行地域にある母方の菩提寺の敷地内に建てられている戦没者慰霊碑です。
日清・日露戦争から、第二次世界大戦終了までに、母の故郷の小さな集落から、戦争に従軍して亡くなった日本軍兵士は25人。
その中の一人に、私の大叔父がいます。
叔父から聞いた話では、祖父の弟である大叔父は、大砲の砲撃手として陸軍に従軍していたとのこと。
昭和18年6月30日ニューギニアにて陸軍上等兵として戦死したことが碑に刻まれています。
母の故郷の菩提寺にある大きな碑の中に、私と縁のある人の名前が刻まれているという事実は、まだ幼かった私の少年時代、祖父母や両親、伯父や伯母、従兄弟達、皆と一緒に行った墓参りの際に、悲しみや驚きと共に私の心の奥深くの記憶に刻まれたようです。
今年は、母の実家の長男に嫁ぎ、子供の頃の私が、夏休みの日々を楽しく過ごせるようにいつも見守って世話をしてくれていた伯母の新盆がありました。
子供の頃、一緒に墓参りをしたお祖母ちゃん、お爺ちゃん、そして伯母ちゃんが静かに眠る墓。
年老いて、寝たきりに近くなってしまったため、一緒に墓参りが出来なくなってしまった伯父の変わり果てた姿。
そして・・・、まだ年若くして出征したため、自分の家族もなく出征した大叔父の短い生涯をあらわす生きていた証は、出征する際、祖父の家族つまり幼かった頃の私の伯母達に囲まれて写した古い写真だけが残されているのみ。
額に入ったその写真は、私の子供の頃から今も変わらずに母の実家に飾られています。
昨年秋の伯母の葬儀の際、随分久しぶりに訪れた母方の菩提寺で、私は、大叔父の名前と額に入れられ壁に飾られた写真を思い出しました。
第二次世界大戦、私の親族は、父方では一人、十代後半で山形県庄内地方から出征し、陸軍伍長として二十代前半の若さでシベリアに抑留され亡くなり、写真といくつもの勲章だけが遺されている伯父を含めて年長の伯父たち三人が出征。
母方の親族では、茨城県鹿行地域から大叔父がニューギニアに出征して戦死。
今も昔と変わらずに、母の実家の壁に飾られている写真と、故郷の菩提寺に造られた大きくてとても立派な戦没者慰霊碑の中の一人として名前を見つけることが出来るのです。
母の実家の家族構成は、かつては3男6女と長男の嫁、長女、息子二人からなる大家族が一緒に暮らしていた時期がありました。
母の兄弟姉妹は、今日までみんな健在だったのですが・・・。
祖母が亡くなったのは、私が中二の時。
祖父が亡くなったのは、その二年後、私が高一の時のこと。
母の実家に住む長男の嫁である伯母さんには、私が子供時代に遊びに行くと、大変可愛がられたものです(子供時代の私は、意外にもケンちゃんシリーズのケンちゃんのようにとても可愛らしい子供だったため、祖父母や伯父伯母だけでなく、年上の従姉妹達など、みんなにとても可愛いがられていたのです)。
今年の8月13日(月)の朝は、母を連れて二人で高速バスに乗り、鹿行地域へ行きました。
伯母の次男となる従兄弟の嫁さんに、バスの停留所まで迎えに来てもらい、母の実家へ。
その日は、伯父や伯母、従兄弟達など母方の大勢の親戚が集まり、大勢の来客も来て大変賑やかな日となりました。
私には、まだ良く判らない遠戚の人達もたくさんいるようです。
高速道路の発達により、横浜など、少し遠方から車で来た母方の親族達は、皆、日帰りをしましたが、私と母だけは、三男となる一番若い伯父の家に泊まります。
伯父は、大洗へ婿に行きましたが、昨年三月の東日本大震災で被災したため、水戸へ引越します。
8月14日(火)は、午前中雨も降ったためか来客も少ない寂しい日となります。
私と母は、伯母の二男となる従兄弟の家がある神栖へ泊まることになります。
8月15日(水)、当初は帰る予定で母の実家へ挨拶に行った所、農家をやっている伯母の一人娘・従姉妹の嫁ぎ先の家へ「今日は道路が混むからもう一日泊まってけ」と言われ、二十五年振りに従姉妹の家へ遊びに行くことになります。
かんぽの宿・潮来の近くにある従姉妹の家周辺は、北浦に近く、自然に囲まれた良い地域なのです。(笑)
私の祖父は、母の実家がある町の初代町長であり、その後も4期町会議員を務めていたとのこと。
親族親戚関係も多く、祖父の葬儀の際には、当時現職の自治大臣が秘書と共に黒塗りの車で弔問に訪れたほど盛大なものでした。
それから、30年近くの歳月が流れ・・・。
かつて、最大で15人の家族が一緒に暮らしたことがあり、とても幸せに満ち溢れて賑やかだった母の実家が、従兄弟の代となった現在、寝たきりに近くなってしまった伯父と、介護する長男の従兄弟の二人暮らしとなってしまったのです。
母の実家は、僅か三十年間の間に、その地域で一番凋落した家となり果ててしまい、かつての誰もが羨むような幸せがいっぱい溢れていた家だったという事実は、まるで嘘のように思えるのです。
その家に住む人達の境遇や取り巻く環境は大幅に変わってしまっても、私が住む横浜の街とは違い、茨城の自然の景色や風景が、所々昔の美しい雰囲気のままの風情をのこしていたため、時の流れの切なさが私の心に響いてきます。
金持ちではなくても、正直で働き者の父や母に囲まれて、ささやかな幸せに恵まれて暮らしていた、私の家族や善人のお祖父さん、お祖母さん、そして大勢の親戚たち。
母を連れて二人だけで高速バスの一番前の左の席で帰省する際、かつては父の運転する車の助手席にいつも私が座り、家族四人(父・母・姉・私)で渋滞する道路の中、車中楽しく過ごしていた昔の懐かしい思い出が、妙に悲しく思い出されてしまいました。
現在、私の母の具合も、あまり思わしい状態ではないので・・・。(涙)
私がまだ子供だった頃、父が話してくれたシベリアに抑留され亡くなった伯父に対して抱いていた思いと、私の母が話してくれた戦死した大叔父に対して抱いていた思い。
シベリアに抑留された伯父は、出征の日の明け方まだ暗いうちの四時か五時頃に、眠っていた一番年下の弟である父を起こして裏山に連れて行き、朝まで二人だけで遊んでくれたそうです。
出征前夜に自宅で盛大に行われた壮行会に際して、八人兄弟の末っ子で八男、昭和11年10月生まれのため、まだ幼かった父は、伯父と一言も話が出来ないうちに、我慢しきれずにいつの間にか眠ってしまいます。
そんな父に対して、出征前夜に寝つけなかったであろう十代後半と、まだ年若い伯父が、まだ幼かった父のために最期の楽しい思い出を作ってやろうとして費やしてくれた貴重な時間。
父は、そんな伯父の優しさを、数少ない伯父との楽しい思い出として、心に刻みつけて生きていたようです。
伯父は出征した日、駅前で見送る大勢の人達の前で、父に対して笑顔で微笑んで出征して行ったそうです。
父は、山形県庄内の故郷から、たくさんの出征兵士を見送った中で、気負って出征して行った兵士達や、泣き言混じりで出征して行った兵士達と違い、ただ一人、笑顔で出征して行った一番年若い兄の凛々しい軍服姿だけがいつまでも強く印象に残っていたようです。
そして、8月15日の終戦の日を迎えてからは、故郷庄内へ帰還兵を乗せた列車が到着する度に、駅へ出迎えて優しかった伯父の姿を探し、待ち続けた少年時代の父の思い。
私なら、出征前夜に残された貴重な時間を、弟のためだけに使ってしまうことが出来るだろうか?
そして・・・大叔父が、出征前、昭和16年5月生まれである母たち家族に対して抱いていた思いを考えると・・・。
私の8月15日は、まだ幼かった私の父や母の幸せな生活を守るため、そして祖国日本の防衛のために、身を艇して戦ってくれた親族の魂に、感謝の気持ちを抱き続ける日でもあるのです。
昭和の漫画史研究家、昭和のアニメーション史研究家、社会学士
本間正幸
お盆の時期に、この映画はピッタリおすすめの一本だ。(涙)
少年時代を浅草で過した主人公は、12歳の時に両親を亡くす。
40歳となり脚本家として活躍する主人公が、浅草で死んだ頃の姿のまま変わらずに暮らしている両親と再会し、異人たちとの夏を過ごすのだが・・・。(涙)
名脚本家として知られる山田太一さんが、山本周五郎賞を受賞した小説を、同じく名脚本家の市川森一さんが脚本を描いた名作。
市川森一さんと私とは、一度だけ御会いしたことがある。
故・永島慎二先生の名作漫画【黄色い涙】を、かつてNHKで連続テレビドラマとなった際に脚本を担当し、映画【黄色い涙】としてリメイクされた際の脚本も担当された市川森一さん。
メトロポリス漫画総合研究所・本間正幸として撮影協力をした私は、打ち上げ会場にて市川森一さんに会って直接話をし、名刺交換までさせていただいたのだが・・・。
今は市川森一さんも故人となってしまった。(涙)
私が、原作者である永島慎二先生と御会い出来たのも一度だけ。
人と人との縁、出会いとは一期一会が多いのかも知れない。
今日の画像は、茨城県鹿行地域にある母方の菩提寺の敷地内に建てられている戦没者慰霊碑です。
日清・日露戦争から、第二次世界大戦終了までに、母の故郷の小さな集落から、戦争に従軍して亡くなった日本軍兵士は25人。
その中の一人に、私の大叔父がいます。
叔父から聞いた話では、祖父の弟である大叔父は、大砲の砲撃手として陸軍に従軍していたとのこと。
昭和18年6月30日ニューギニアにて陸軍上等兵として戦死したことが碑に刻まれています。
母の故郷の菩提寺にある大きな碑の中に、私と縁のある人の名前が刻まれているという事実は、まだ幼かった私の少年時代、祖父母や両親、伯父や伯母、従兄弟達、皆と一緒に行った墓参りの際に、悲しみや驚きと共に私の心の奥深くの記憶に刻まれたようです。
今年は、母の実家の長男に嫁ぎ、子供の頃の私が、夏休みの日々を楽しく過ごせるようにいつも見守って世話をしてくれていた伯母の新盆がありました。
子供の頃、一緒に墓参りをしたお祖母ちゃん、お爺ちゃん、そして伯母ちゃんが静かに眠る墓。
年老いて、寝たきりに近くなってしまったため、一緒に墓参りが出来なくなってしまった伯父の変わり果てた姿。
そして・・・、まだ年若くして出征したため、自分の家族もなく出征した大叔父の短い生涯をあらわす生きていた証は、出征する際、祖父の家族つまり幼かった頃の私の伯母達に囲まれて写した古い写真だけが残されているのみ。
額に入ったその写真は、私の子供の頃から今も変わらずに母の実家に飾られています。
昨年秋の伯母の葬儀の際、随分久しぶりに訪れた母方の菩提寺で、私は、大叔父の名前と額に入れられ壁に飾られた写真を思い出しました。
第二次世界大戦、私の親族は、父方では一人、十代後半で山形県庄内地方から出征し、陸軍伍長として二十代前半の若さでシベリアに抑留され亡くなり、写真といくつもの勲章だけが遺されている伯父を含めて年長の伯父たち三人が出征。
母方の親族では、茨城県鹿行地域から大叔父がニューギニアに出征して戦死。
今も昔と変わらずに、母の実家の壁に飾られている写真と、故郷の菩提寺に造られた大きくてとても立派な戦没者慰霊碑の中の一人として名前を見つけることが出来るのです。
母の実家の家族構成は、かつては3男6女と長男の嫁、長女、息子二人からなる大家族が一緒に暮らしていた時期がありました。
母の兄弟姉妹は、今日までみんな健在だったのですが・・・。
祖母が亡くなったのは、私が中二の時。
祖父が亡くなったのは、その二年後、私が高一の時のこと。
母の実家に住む長男の嫁である伯母さんには、私が子供時代に遊びに行くと、大変可愛がられたものです(子供時代の私は、意外にもケンちゃんシリーズのケンちゃんのようにとても可愛らしい子供だったため、祖父母や伯父伯母だけでなく、年上の従姉妹達など、みんなにとても可愛いがられていたのです)。
今年の8月13日(月)の朝は、母を連れて二人で高速バスに乗り、鹿行地域へ行きました。
伯母の次男となる従兄弟の嫁さんに、バスの停留所まで迎えに来てもらい、母の実家へ。
その日は、伯父や伯母、従兄弟達など母方の大勢の親戚が集まり、大勢の来客も来て大変賑やかな日となりました。
私には、まだ良く判らない遠戚の人達もたくさんいるようです。
高速道路の発達により、横浜など、少し遠方から車で来た母方の親族達は、皆、日帰りをしましたが、私と母だけは、三男となる一番若い伯父の家に泊まります。
伯父は、大洗へ婿に行きましたが、昨年三月の東日本大震災で被災したため、水戸へ引越します。
8月14日(火)は、午前中雨も降ったためか来客も少ない寂しい日となります。
私と母は、伯母の二男となる従兄弟の家がある神栖へ泊まることになります。
8月15日(水)、当初は帰る予定で母の実家へ挨拶に行った所、農家をやっている伯母の一人娘・従姉妹の嫁ぎ先の家へ「今日は道路が混むからもう一日泊まってけ」と言われ、二十五年振りに従姉妹の家へ遊びに行くことになります。
かんぽの宿・潮来の近くにある従姉妹の家周辺は、北浦に近く、自然に囲まれた良い地域なのです。(笑)
私の祖父は、母の実家がある町の初代町長であり、その後も4期町会議員を務めていたとのこと。
親族親戚関係も多く、祖父の葬儀の際には、当時現職の自治大臣が秘書と共に黒塗りの車で弔問に訪れたほど盛大なものでした。
それから、30年近くの歳月が流れ・・・。
かつて、最大で15人の家族が一緒に暮らしたことがあり、とても幸せに満ち溢れて賑やかだった母の実家が、従兄弟の代となった現在、寝たきりに近くなってしまった伯父と、介護する長男の従兄弟の二人暮らしとなってしまったのです。
母の実家は、僅か三十年間の間に、その地域で一番凋落した家となり果ててしまい、かつての誰もが羨むような幸せがいっぱい溢れていた家だったという事実は、まるで嘘のように思えるのです。
その家に住む人達の境遇や取り巻く環境は大幅に変わってしまっても、私が住む横浜の街とは違い、茨城の自然の景色や風景が、所々昔の美しい雰囲気のままの風情をのこしていたため、時の流れの切なさが私の心に響いてきます。
金持ちではなくても、正直で働き者の父や母に囲まれて、ささやかな幸せに恵まれて暮らしていた、私の家族や善人のお祖父さん、お祖母さん、そして大勢の親戚たち。
母を連れて二人だけで高速バスの一番前の左の席で帰省する際、かつては父の運転する車の助手席にいつも私が座り、家族四人(父・母・姉・私)で渋滞する道路の中、車中楽しく過ごしていた昔の懐かしい思い出が、妙に悲しく思い出されてしまいました。
現在、私の母の具合も、あまり思わしい状態ではないので・・・。(涙)
私がまだ子供だった頃、父が話してくれたシベリアに抑留され亡くなった伯父に対して抱いていた思いと、私の母が話してくれた戦死した大叔父に対して抱いていた思い。
シベリアに抑留された伯父は、出征の日の明け方まだ暗いうちの四時か五時頃に、眠っていた一番年下の弟である父を起こして裏山に連れて行き、朝まで二人だけで遊んでくれたそうです。
出征前夜に自宅で盛大に行われた壮行会に際して、八人兄弟の末っ子で八男、昭和11年10月生まれのため、まだ幼かった父は、伯父と一言も話が出来ないうちに、我慢しきれずにいつの間にか眠ってしまいます。
そんな父に対して、出征前夜に寝つけなかったであろう十代後半と、まだ年若い伯父が、まだ幼かった父のために最期の楽しい思い出を作ってやろうとして費やしてくれた貴重な時間。
父は、そんな伯父の優しさを、数少ない伯父との楽しい思い出として、心に刻みつけて生きていたようです。
伯父は出征した日、駅前で見送る大勢の人達の前で、父に対して笑顔で微笑んで出征して行ったそうです。
父は、山形県庄内の故郷から、たくさんの出征兵士を見送った中で、気負って出征して行った兵士達や、泣き言混じりで出征して行った兵士達と違い、ただ一人、笑顔で出征して行った一番年若い兄の凛々しい軍服姿だけがいつまでも強く印象に残っていたようです。
そして、8月15日の終戦の日を迎えてからは、故郷庄内へ帰還兵を乗せた列車が到着する度に、駅へ出迎えて優しかった伯父の姿を探し、待ち続けた少年時代の父の思い。
私なら、出征前夜に残された貴重な時間を、弟のためだけに使ってしまうことが出来るだろうか?
そして・・・大叔父が、出征前、昭和16年5月生まれである母たち家族に対して抱いていた思いを考えると・・・。
私の8月15日は、まだ幼かった私の父や母の幸せな生活を守るため、そして祖国日本の防衛のために、身を艇して戦ってくれた親族の魂に、感謝の気持ちを抱き続ける日でもあるのです。
昭和の漫画史研究家、昭和のアニメーション史研究家、社会学士
本間正幸
2012年、昭和の少年少女漫画史研究家であり、アニメーション史研究家である社会学士・本間正幸がオススメする映画やマンガ、アニメなどのイベント情報、展示会の紹介をします!
今日の画像は、7月6日(金)から始まった弥生美術館企画展のチラシになります!
奇っ怪紳士!怪獣博士!【大伴昌司の大図解展】一枚の絵は一万字にまさる
2012年7月6日(金)~9月30日(日)
休館日◎月曜日〈ただし8/13(月)は臨時開館、7/16(月・海の日)開館、翌7/17(火)休館、9/17(月・敬老の日)開館、翌9/18(火)休館〉
時間◎午前10時~午後5時(入館は4時半まで)
料金◎一般900円 大高生800円 中小生400円
*竹久夢二美術館と二館併せてご覧いただけます。
*高畠華宵の常設ルームも併せてご覧いただけます。
弥生美術館
〒113-0032
東京都文京区弥生2-4-3
TEL.03-3812-0012
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp
●8月12日(日)15:00~学芸員によるギャラリートークを行います。
★映画監督・河崎 実によるトークショー★
9月8日(土)午後6時~(要予約 詳細は当館HPをご覧ください)
大伴昌司(1936~1973)は、1960年代後半から70年代前半にかけて、少年雑誌の巻頭グラビアや図解記事の企画・構成・レイアウトを手がけたほか、ミステリ雑誌・SF雑誌のライター、テレビ脚本、映画評論など、多彩なジャンルで才能を発揮した希代のプランナー、そしてジャーナリストです。
また大伴は、「ウルトラシリーズ」に登場する怪獣の性格や体内構造を詳細に設定し、少年雑誌で特集を組み、「怪獣大図解」「ウルトラ怪獣入門」等の書籍で紹介して怪獣ブームの火付け役となりました。
当時彼は、"怪獣博士"の異名で多くの子供達に親しまれ、様々なメディアで寵児となっています。
「一枚の絵は一万字にまさる」と、ビジュアルジャーナリズムの力を信じた大伴昌司。
本展覧会では、先駆的なビジュアル構成で多くの人に影響を与えた大伴流〈大図解〉の世界を、ラフスケッチや構想メモ、南村喬之や柳 二、石原豪人らの挿絵原画、当時の雑誌資料などからご紹介いたします。
また、若き日に寄稿したミステリ同人誌や自ら編集発行した恐怖文学同人誌、日本SF作家クラブ事務局長として国際SFシンポジウム開催に尽力した際の資料等もあわせて展示し、大伴のマルチな才能を浮き彫りにいたします。
協力:円谷プロダクション 秋田書店 朝日新聞社 講談社
★河出書房新社から展覧会にあわせて関連書籍出版予定
竹久夢二美術館では、
竹久夢二美術館
2012年企画展
2012年大正100年
夢二と大正時代Ⅲ
夢二の恋と関東大震災をめぐって
ー大正9~12年を中心にー
夢二と「大正時代」
竹久夢二と大正時代を再発見!
2012年は、大正元(1912)年から数えて、ちょうど100年を迎えます。
大正時代(1912~1926)は、明治と昭和に挟まれた、わずか15年という短い年月でしたが、西欧文化が流入し、近代化が進んで個性と自由が尊重された時期ということもあり、現在の暮らしの原型ともいえる要素が多く登場し、また短い期間ながら様々な出来事もありました。
大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(一八八四~一九三四)は、まさしく大正期を中心に活躍し、この時代の寵児となりました。
夢二の作品や足跡を辿ることによって、大正時代の出来事や風俗、また流行が鮮明に伝わってきます。
★★★
当館(弥生美術館)では一年を通じて、夢二と大正時代を再発見していきます。
2012年1月より、年4回開催する企画展で、大正を4つの時期に分けて、夢二の残した芸術また人生の歩みを、時代の出来事と併せて紹介していきます。
館所蔵の大正時代の夢二作品や資料の数々を、ぜひご覧下さい。
大正100年に当たる2012年の企画展〈夢二と大正時代〉の第三弾は、大正9~12年にスポットを当て、夢二の芸術と足跡を辿ります。
大正9年(1920)の年明け早々、夢二最愛の女性・笠井彦乃が23歳でこの世を去りました。
その前年、病身の彦乃とは面会出来ない日々が続く中、夢二は20年下のモデル・佐々木カ子ヨ(かねよ)に出会います。
夢二は彼女を"お葉"と名付け、自分好みの装いや仕草を教え込み、いつしか二人は同棲する関係となりました。
"夢二の絵から抜け出して来た"と言われたお葉は、夢二の創作意欲を掻き立て、多くの傑作が誕生しました。
大正12年(1923年)9月1日、甚大な被害をもたらした関東大震災が発生し、夢二は当時暮らしていた東京・渋谷で被災します。
震災の翌日から、変わり果てた東京の街を夢二は巡り、その様子を独自の視点でスケッチし、文章にも残しました。
本展では夢二がお葉をモデルにした作品と館所蔵のお葉の写真約130枚を一挙公開、加えて夢二による震災の記録を中心に、展示紹介を行います。
学芸員によるギャラリートーク
7/15(日)
8/12(日)
9/9(日)14時より
竹久夢二美術館
弥生2-4-2
Tel:03(5689)0462
今後の予定
10/4~12/25[夢二と大正Ⅳ モダンの幕開けと夢二、次代の抒情画家を追って ー大正13~15年を中心にー]
弥生美術館、竹久夢二美術館の企画展は、いつも私の知的好奇心を刺激します。
挿絵画家として戦前から活躍した伊藤彦造先生、山口将吉郎先生、樺島勝一先生。
戦後、絵物語作家として活躍した【黄金バット】の永松健夫先生、【地球SOS】【大平原児】の小松崎茂先生、【少年王者】【ノックアウトQ】【荒野の少年】【少年ケニヤ】の山川惣治先生、【砂漠の魔王】の福島鉄次先生、【白虎仮面】【大都会X】【痛快太郎】【飛竜夜叉】の岡友彦先生の作品群など、どこよりもいち早く展示紹介して来ました。
先日、秋田書店から発売される前から、ネットで話題となっていた福島鉄次先生の【沙漠の魔王】完全復刻版の件。
発売前は、皆、ネットで話題にしていたのに、実際に発売されてから、実物を紹介する研究者が少ないのはどうしたことか?
私には、とても不思議な現象に思えてなりません。(笑)
日本の漫画史研究の分野においては、第一人者の清水勲先生はじめ、同志社大学教授の竹内オサム先生、故・米澤嘉博さん、中野晴行さん達が漫画史研究家として、優れた業績を残しております。
本来、私が監修した【少年画報大全】は、米沢さんに依頼されていたもの。
米沢さんの代役として私、本間正幸が急遽大抜擢され幸運なデビューを飾り、今日があるのです。
現在の私の専門領域は、無声映画時代からの映画やアニメーション史研究と、大正・昭和の少年少女雑誌、少年少女小説、街頭紙芝居に絵物語、挿絵に音楽、ラジオ、テレビ、そして少年少女漫画史の研究になります。
永松健夫先生の絵物語【黄金バット】誕生の経緯やその時代背景、小松崎茂先生の【地球SOS】や【草原の覇者】【氷獣ドライス】の紹介と、小松崎茂先生生前の貴重なインタビュー、伊藤彦造の世界と題して特集した「阿修羅天狗と彦造傑作名画集」「変幻修羅八荒」西部活劇「荒野の決闘」など、幻の絵物語と言われ続けた【砂漠の魔王】を深く知る上で【少年画報大全】は、今でも第一級の資料として何ら色褪せることはないようですね!(笑)
《序章》
これから日本の戦後の漫画史、特に少年雑誌の歴史を知る上での必須アイテムになる一番有効な書籍は、私、本間正幸が監修し2001年に発売した
【少年画報大全】(少年画報社)定価2900円
である。
発売時に朝日新聞始め、毎日新聞、読売新聞夕刊、日本経済新聞や、雑誌の書評など当時の様々なメディアに大きく取り上げられた。
発売十年を過ぎてもロングランを続け、現在は三刷。
発行部数は軽く一万部を越えている。
大学教授の肩書きを持つ著者たちが、小さな出版社から発行部数三千部で増刷もなく、発売数年で自由価格本となり、絶版の道を辿っているのは何故か?
多くのマンガ評論家の研究本の類と【少年画報大全】とは、明らかに一線を画しているのである。
紹介した漫画家さんや作家さんの本など、毎年のように復刊され続け、美術館や博物館などの企画展も開催されている。
藤子不二雄A先生の【怪物くん】や望月三起也先生の【ワイルド7】の実写映画化など、私が特集を組み、インタービューした先生方は、今や再ブームが起きているのだ。
ここ十年来、今だ【少年画報大全】を越える実証的な少年雑誌の研究書は出てこない故、今も古さを感じさせないようだ。
別冊付録として付けた
【冒険活劇文庫】(昭和23年8月発行)創刊號のオリジナル本は、当時の市場価格が数十万した稀少本。
それまでの漫画研究本と、【少年画報大全】が一線を画した理由、それは実証的なデータと徹底した図版重視による初の漫画史研究本であるからだ。
戦後、日本の漫画が諸外国と比べ、独特な変化を遂げることが出来たのには、手塚治虫先生の登場だけでなく、戦前からの街頭紙芝居【黄金バット】や【ハカバキタロー】の影響があることをいち早く提唱した。
街頭紙芝居から、【黄金バット】や【少年王者】、絵物語オリジナルとなる【地球SOS】が誕生。
絵物語が昭和20年代の少年雑誌の世界を席巻し、昭和30年代前半に【赤胴鈴之助】の空前の大ヒットで漫画が一般の人達の間でも市民権を得る。
戦前からの流れを汲む大資本の出版社から出ていた少年雑誌『少年クラブ』や戦後生まれの『少年』などは、A5版で読み物や少年小説など活字が主体のままだった。
戦後、街頭紙芝居の大ヒット作【黄金バット】を看板に、絵物語中心、判型が一回り大きなB5判で新たに立ち上げられた革新的な少年雑誌が『冒険活劇文庫』である。
後に『少年画報』へと発展し、僅か十年足らずで日本一の少年雑誌へと急成長を遂げる。
けれども、世の中が落ち着きを取り戻し、人々の生活水準が向上すると、大資本系列の光文社発行の少年雑誌『少年』へとその王座を譲り渡さなければならなくなる。
戦後の少年雑誌の歴史は、とてもドラマチックであり、史料も煩雑となるため、正しい全貌を把握するには、ある程度の専門性と知識が必要とされる。
戦後の少年雑誌において、漫画史的に一番重要な雑誌は『冒険活劇文庫』と『少年画報』の歴史である。
『少年』は二番手となり、『漫画少年』が、その後に続く。
少年週刊誌誕生となれば、『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』『少年ジャンプ』『少年チャンピオン』の五大少年週刊誌の歴史を押さえればいい。
そして『ガロ』と『COM』『ヤングコミック』に『ビッグコミック』の青年誌の流れも押さえておけば、入門編(笑)はOKだろう。
昭和の少年少女漫画史研究家を看板に、最近は昭和のアニメーション史研究家としても売り出し中の社会学士
本間正幸
今日の画像は、7月6日(金)から始まった弥生美術館企画展のチラシになります!
奇っ怪紳士!怪獣博士!【大伴昌司の大図解展】一枚の絵は一万字にまさる
2012年7月6日(金)~9月30日(日)
休館日◎月曜日〈ただし8/13(月)は臨時開館、7/16(月・海の日)開館、翌7/17(火)休館、9/17(月・敬老の日)開館、翌9/18(火)休館〉
時間◎午前10時~午後5時(入館は4時半まで)
料金◎一般900円 大高生800円 中小生400円
*竹久夢二美術館と二館併せてご覧いただけます。
*高畠華宵の常設ルームも併せてご覧いただけます。
弥生美術館
〒113-0032
東京都文京区弥生2-4-3
TEL.03-3812-0012
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp
●8月12日(日)15:00~学芸員によるギャラリートークを行います。
★映画監督・河崎 実によるトークショー★
9月8日(土)午後6時~(要予約 詳細は当館HPをご覧ください)
大伴昌司(1936~1973)は、1960年代後半から70年代前半にかけて、少年雑誌の巻頭グラビアや図解記事の企画・構成・レイアウトを手がけたほか、ミステリ雑誌・SF雑誌のライター、テレビ脚本、映画評論など、多彩なジャンルで才能を発揮した希代のプランナー、そしてジャーナリストです。
また大伴は、「ウルトラシリーズ」に登場する怪獣の性格や体内構造を詳細に設定し、少年雑誌で特集を組み、「怪獣大図解」「ウルトラ怪獣入門」等の書籍で紹介して怪獣ブームの火付け役となりました。
当時彼は、"怪獣博士"の異名で多くの子供達に親しまれ、様々なメディアで寵児となっています。
「一枚の絵は一万字にまさる」と、ビジュアルジャーナリズムの力を信じた大伴昌司。
本展覧会では、先駆的なビジュアル構成で多くの人に影響を与えた大伴流〈大図解〉の世界を、ラフスケッチや構想メモ、南村喬之や柳 二、石原豪人らの挿絵原画、当時の雑誌資料などからご紹介いたします。
また、若き日に寄稿したミステリ同人誌や自ら編集発行した恐怖文学同人誌、日本SF作家クラブ事務局長として国際SFシンポジウム開催に尽力した際の資料等もあわせて展示し、大伴のマルチな才能を浮き彫りにいたします。
協力:円谷プロダクション 秋田書店 朝日新聞社 講談社
★河出書房新社から展覧会にあわせて関連書籍出版予定
竹久夢二美術館では、
竹久夢二美術館
2012年企画展
2012年大正100年
夢二と大正時代Ⅲ
夢二の恋と関東大震災をめぐって
ー大正9~12年を中心にー
夢二と「大正時代」
竹久夢二と大正時代を再発見!
2012年は、大正元(1912)年から数えて、ちょうど100年を迎えます。
大正時代(1912~1926)は、明治と昭和に挟まれた、わずか15年という短い年月でしたが、西欧文化が流入し、近代化が進んで個性と自由が尊重された時期ということもあり、現在の暮らしの原型ともいえる要素が多く登場し、また短い期間ながら様々な出来事もありました。
大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(一八八四~一九三四)は、まさしく大正期を中心に活躍し、この時代の寵児となりました。
夢二の作品や足跡を辿ることによって、大正時代の出来事や風俗、また流行が鮮明に伝わってきます。
★★★
当館(弥生美術館)では一年を通じて、夢二と大正時代を再発見していきます。
2012年1月より、年4回開催する企画展で、大正を4つの時期に分けて、夢二の残した芸術また人生の歩みを、時代の出来事と併せて紹介していきます。
館所蔵の大正時代の夢二作品や資料の数々を、ぜひご覧下さい。
大正100年に当たる2012年の企画展〈夢二と大正時代〉の第三弾は、大正9~12年にスポットを当て、夢二の芸術と足跡を辿ります。
大正9年(1920)の年明け早々、夢二最愛の女性・笠井彦乃が23歳でこの世を去りました。
その前年、病身の彦乃とは面会出来ない日々が続く中、夢二は20年下のモデル・佐々木カ子ヨ(かねよ)に出会います。
夢二は彼女を"お葉"と名付け、自分好みの装いや仕草を教え込み、いつしか二人は同棲する関係となりました。
"夢二の絵から抜け出して来た"と言われたお葉は、夢二の創作意欲を掻き立て、多くの傑作が誕生しました。
大正12年(1923年)9月1日、甚大な被害をもたらした関東大震災が発生し、夢二は当時暮らしていた東京・渋谷で被災します。
震災の翌日から、変わり果てた東京の街を夢二は巡り、その様子を独自の視点でスケッチし、文章にも残しました。
本展では夢二がお葉をモデルにした作品と館所蔵のお葉の写真約130枚を一挙公開、加えて夢二による震災の記録を中心に、展示紹介を行います。
学芸員によるギャラリートーク
7/15(日)
8/12(日)
9/9(日)14時より
竹久夢二美術館
弥生2-4-2
Tel:03(5689)0462
今後の予定
10/4~12/25[夢二と大正Ⅳ モダンの幕開けと夢二、次代の抒情画家を追って ー大正13~15年を中心にー]
弥生美術館、竹久夢二美術館の企画展は、いつも私の知的好奇心を刺激します。
挿絵画家として戦前から活躍した伊藤彦造先生、山口将吉郎先生、樺島勝一先生。
戦後、絵物語作家として活躍した【黄金バット】の永松健夫先生、【地球SOS】【大平原児】の小松崎茂先生、【少年王者】【ノックアウトQ】【荒野の少年】【少年ケニヤ】の山川惣治先生、【砂漠の魔王】の福島鉄次先生、【白虎仮面】【大都会X】【痛快太郎】【飛竜夜叉】の岡友彦先生の作品群など、どこよりもいち早く展示紹介して来ました。
先日、秋田書店から発売される前から、ネットで話題となっていた福島鉄次先生の【沙漠の魔王】完全復刻版の件。
発売前は、皆、ネットで話題にしていたのに、実際に発売されてから、実物を紹介する研究者が少ないのはどうしたことか?
私には、とても不思議な現象に思えてなりません。(笑)
日本の漫画史研究の分野においては、第一人者の清水勲先生はじめ、同志社大学教授の竹内オサム先生、故・米澤嘉博さん、中野晴行さん達が漫画史研究家として、優れた業績を残しております。
本来、私が監修した【少年画報大全】は、米沢さんに依頼されていたもの。
米沢さんの代役として私、本間正幸が急遽大抜擢され幸運なデビューを飾り、今日があるのです。
現在の私の専門領域は、無声映画時代からの映画やアニメーション史研究と、大正・昭和の少年少女雑誌、少年少女小説、街頭紙芝居に絵物語、挿絵に音楽、ラジオ、テレビ、そして少年少女漫画史の研究になります。
永松健夫先生の絵物語【黄金バット】誕生の経緯やその時代背景、小松崎茂先生の【地球SOS】や【草原の覇者】【氷獣ドライス】の紹介と、小松崎茂先生生前の貴重なインタビュー、伊藤彦造の世界と題して特集した「阿修羅天狗と彦造傑作名画集」「変幻修羅八荒」西部活劇「荒野の決闘」など、幻の絵物語と言われ続けた【砂漠の魔王】を深く知る上で【少年画報大全】は、今でも第一級の資料として何ら色褪せることはないようですね!(笑)
《序章》
これから日本の戦後の漫画史、特に少年雑誌の歴史を知る上での必須アイテムになる一番有効な書籍は、私、本間正幸が監修し2001年に発売した
【少年画報大全】(少年画報社)定価2900円
である。
発売時に朝日新聞始め、毎日新聞、読売新聞夕刊、日本経済新聞や、雑誌の書評など当時の様々なメディアに大きく取り上げられた。
発売十年を過ぎてもロングランを続け、現在は三刷。
発行部数は軽く一万部を越えている。
大学教授の肩書きを持つ著者たちが、小さな出版社から発行部数三千部で増刷もなく、発売数年で自由価格本となり、絶版の道を辿っているのは何故か?
多くのマンガ評論家の研究本の類と【少年画報大全】とは、明らかに一線を画しているのである。
紹介した漫画家さんや作家さんの本など、毎年のように復刊され続け、美術館や博物館などの企画展も開催されている。
藤子不二雄A先生の【怪物くん】や望月三起也先生の【ワイルド7】の実写映画化など、私が特集を組み、インタービューした先生方は、今や再ブームが起きているのだ。
ここ十年来、今だ【少年画報大全】を越える実証的な少年雑誌の研究書は出てこない故、今も古さを感じさせないようだ。
別冊付録として付けた
【冒険活劇文庫】(昭和23年8月発行)創刊號のオリジナル本は、当時の市場価格が数十万した稀少本。
それまでの漫画研究本と、【少年画報大全】が一線を画した理由、それは実証的なデータと徹底した図版重視による初の漫画史研究本であるからだ。
戦後、日本の漫画が諸外国と比べ、独特な変化を遂げることが出来たのには、手塚治虫先生の登場だけでなく、戦前からの街頭紙芝居【黄金バット】や【ハカバキタロー】の影響があることをいち早く提唱した。
街頭紙芝居から、【黄金バット】や【少年王者】、絵物語オリジナルとなる【地球SOS】が誕生。
絵物語が昭和20年代の少年雑誌の世界を席巻し、昭和30年代前半に【赤胴鈴之助】の空前の大ヒットで漫画が一般の人達の間でも市民権を得る。
戦前からの流れを汲む大資本の出版社から出ていた少年雑誌『少年クラブ』や戦後生まれの『少年』などは、A5版で読み物や少年小説など活字が主体のままだった。
戦後、街頭紙芝居の大ヒット作【黄金バット】を看板に、絵物語中心、判型が一回り大きなB5判で新たに立ち上げられた革新的な少年雑誌が『冒険活劇文庫』である。
後に『少年画報』へと発展し、僅か十年足らずで日本一の少年雑誌へと急成長を遂げる。
けれども、世の中が落ち着きを取り戻し、人々の生活水準が向上すると、大資本系列の光文社発行の少年雑誌『少年』へとその王座を譲り渡さなければならなくなる。
戦後の少年雑誌の歴史は、とてもドラマチックであり、史料も煩雑となるため、正しい全貌を把握するには、ある程度の専門性と知識が必要とされる。
戦後の少年雑誌において、漫画史的に一番重要な雑誌は『冒険活劇文庫』と『少年画報』の歴史である。
『少年』は二番手となり、『漫画少年』が、その後に続く。
少年週刊誌誕生となれば、『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』『少年ジャンプ』『少年チャンピオン』の五大少年週刊誌の歴史を押さえればいい。
そして『ガロ』と『COM』『ヤングコミック』に『ビッグコミック』の青年誌の流れも押さえておけば、入門編(笑)はOKだろう。
昭和の少年少女漫画史研究家を看板に、最近は昭和のアニメーション史研究家としても売り出し中の社会学士
本間正幸
【沙漠の魔王】と、私の最初の出会い。
それは、早稲田鶴巻町にある現代マンガ図書館の壁に飾られていたのを見た時が最初でした。
少年時代、私が初めて現代マンガ図書館を訪ねたのは、オープンの新聞記事を見つけた小学生の頃、横浜から急いで駆け付けたのですから、遥か昔、三十年以上前の出来事です。
私は、11歳の少年の日の秋に、絵物語の名作【沙漠の魔王】に出会ったことになるのです。
その頃の現代マンガ図書館では、年に四回の漫画即売展がありました。
福島鉄次先生の【沙漠の魔王】や、永松健夫先生の【黄金バット】、山川惣治先生の【少年王者】に小松崎 茂先生の【大平原児】、岡 友彦先生の【白虎仮面】など絵物語と言うひとつのジャンルを代表する作品群は、当時からとても稀少価値の高い高価な本であり、漫画コレクターを志し始めた少年の私にとっては、オリジナルの本を自分の蔵書にすることなど、夢のまた夢。
けれども、先ずは絵物語ブームの火付け役である【黄金バット】を、少年画報社と桃源社の二つの復刻版を入手し、やがて【黄金バット】を看板に創刊された『冒険活劇文庫』の創刊號を、私自身が監修した【少年画報大全】にて、2001年夏に復刻します。
漫画史研究家として【黄金バット】について遺族のインタビューを交えて特集した研究成果を発表したところ、朝日新聞、読売新聞夕刊、毎日新聞、日本経済新聞の記事として【少年画報大全】が大きく取り上げられ、評判を呼ぶのですから、人の運命とは不思議なものです。
絵物語界を代表する作品【少年王者】については、集英社と筑摩書房・少年漫画劇場の復刻版、角川書店の文庫、そしてオリジナル本と、その多くを手に入れます。
弥生美術館での展示会において、山川惣治先生の遺族の皆さんに、御挨拶する機会がありました。
続く絵物語界の両横綱クラスとも言うべき【大平原児】は、筑摩書房・少年漫画劇場と桃源社、アース出版局の復刻版を入手した後に、念願のオリジナル本も入手。
【少年画報大全】において、小松崎 茂先生のインタビューを収録させていただいております。
【白虎仮面】は、桃源社の復刻版を入手した後、オリジナル本一冊と、別冊付録を複数入手。
岡 友彦先生の遺族とは、逓信総合博物館の展示会をキッカケに、現在でも交流が続いております。
同人出版という形をとって、これまで【大都会X】【痛快太郎】そして、つい先日には【飛竜夜叉】上巻の三冊を復刻することが出来ました。
【砂漠の魔王】は、現在の古書相場価格として、全九冊美本なら百数十万~二百万前後はする代表的なお宝本のひとつ。
私は、筑摩書房・少年漫画劇場と、『毎日グラフ』で復刻された第二回目の16ページのみを入手し、繰り返し読んでは、溜め息をついたものです。
かつて秋田書店の出版パーティーで、関係者のみに配られたという復刻版は、現在の古書相場価格五万円前後で流通しているため、普通の経済観念を併せ持つ私では、直ぐに手が出せないまま、今日まで月日が流れてしまったのです。(涙)
漫画バカ一代、誓った日から、コレクターとして、いつの日にか【沙漠の魔王】を連載最初から最後まで、その全てを通読してみたい。
そう夜空の星に願いました。
今日の画像は、待ちに待った2012年8月10日(金)の今日、秋田書店 創立65周年記念特別企画として発売される
【沙漠の魔王】
完全復刻版 福島鉄次・著
「戦後の混乱期に少年少女に夢を与えた、昭和史に残る名作の完全復刻版!」
からのものです!(発売日になったので、画像を解禁しても良いでしょう。)
人の出会いは一期一会と言いますが、古書の漫画コレクターの世界では、戦後直ぐの少年少女雑誌や稀購本とは、一期一会のめぐり会わせのような気がします。(涙)
34年という時の流れは、人々が置かれている環境や境遇を変えて行きます。
私は、大正時代の【正ちゃんの冒険】から始まる少年少女漫画の代表的な作品群を集める数少ない少年少女漫画コレクターであり、少年少女漫画史研究家の一人として、今回の秋田書店の復刻・発売を心から感謝し、喜びたいと考えています。
スタジオジブリの宮崎 駿監督の作品世界に大きく影響を与えた伝説の作品。
宮崎駿監督の発言や、今回のスタジオジブリ美術館で展示、オリジナル美本の発掘などがなければ、今回の復刻は、なかったことでしょう。
何故なら、【少年画報大全】発売後直ぐに、私は秋田書店さんとの打ち合わせにおいて、【砂漠の魔王】の完全復刻と、【少年画報大全】に続くムック本としての【冒険王大百科】(仮題)の監修を、企画提案していたのです。
10年前の印刷技術、原本の状態からすると、今回のような素晴らしい出来栄えの本を、今回のような低価格で発売することは、不可能だったと思います。
今回の出来栄えは、付録となる【沙漠の魔王読本】以外は、大満足です。
【沙漠の魔王読本】の出来については、日本の漫画史を語る研究家の人材不足が露見してしまったように私は感じます。
その根深い問題点や、これからの日本の漫画史研究のための改善策など、【沙漠の魔王読本】補遺編と題して、提案していきたいと考えていますので、皆さん、お楽しみに。(笑)
大正・昭和時代の少年少女漫画歴史研究家・昭和時代のアニメーション史研究家・社会学士
本間正幸
追伸
ちなみに今回の復刻版だけの出来栄え、私は、漫画史研究家として三万五千円の価値は十分にあると考えています。
なので、保存用も含めてニセット購入してしまいました。
買わずに後悔するのか?
買って後悔するのか?
今回の商品、私的には、買って大喜びしております。(笑)
中身の詳細、感想については、後日改めまして。
それでは、又。
それは、早稲田鶴巻町にある現代マンガ図書館の壁に飾られていたのを見た時が最初でした。
少年時代、私が初めて現代マンガ図書館を訪ねたのは、オープンの新聞記事を見つけた小学生の頃、横浜から急いで駆け付けたのですから、遥か昔、三十年以上前の出来事です。
私は、11歳の少年の日の秋に、絵物語の名作【沙漠の魔王】に出会ったことになるのです。
その頃の現代マンガ図書館では、年に四回の漫画即売展がありました。
福島鉄次先生の【沙漠の魔王】や、永松健夫先生の【黄金バット】、山川惣治先生の【少年王者】に小松崎 茂先生の【大平原児】、岡 友彦先生の【白虎仮面】など絵物語と言うひとつのジャンルを代表する作品群は、当時からとても稀少価値の高い高価な本であり、漫画コレクターを志し始めた少年の私にとっては、オリジナルの本を自分の蔵書にすることなど、夢のまた夢。
けれども、先ずは絵物語ブームの火付け役である【黄金バット】を、少年画報社と桃源社の二つの復刻版を入手し、やがて【黄金バット】を看板に創刊された『冒険活劇文庫』の創刊號を、私自身が監修した【少年画報大全】にて、2001年夏に復刻します。
漫画史研究家として【黄金バット】について遺族のインタビューを交えて特集した研究成果を発表したところ、朝日新聞、読売新聞夕刊、毎日新聞、日本経済新聞の記事として【少年画報大全】が大きく取り上げられ、評判を呼ぶのですから、人の運命とは不思議なものです。
絵物語界を代表する作品【少年王者】については、集英社と筑摩書房・少年漫画劇場の復刻版、角川書店の文庫、そしてオリジナル本と、その多くを手に入れます。
弥生美術館での展示会において、山川惣治先生の遺族の皆さんに、御挨拶する機会がありました。
続く絵物語界の両横綱クラスとも言うべき【大平原児】は、筑摩書房・少年漫画劇場と桃源社、アース出版局の復刻版を入手した後に、念願のオリジナル本も入手。
【少年画報大全】において、小松崎 茂先生のインタビューを収録させていただいております。
【白虎仮面】は、桃源社の復刻版を入手した後、オリジナル本一冊と、別冊付録を複数入手。
岡 友彦先生の遺族とは、逓信総合博物館の展示会をキッカケに、現在でも交流が続いております。
同人出版という形をとって、これまで【大都会X】【痛快太郎】そして、つい先日には【飛竜夜叉】上巻の三冊を復刻することが出来ました。
【砂漠の魔王】は、現在の古書相場価格として、全九冊美本なら百数十万~二百万前後はする代表的なお宝本のひとつ。
私は、筑摩書房・少年漫画劇場と、『毎日グラフ』で復刻された第二回目の16ページのみを入手し、繰り返し読んでは、溜め息をついたものです。
かつて秋田書店の出版パーティーで、関係者のみに配られたという復刻版は、現在の古書相場価格五万円前後で流通しているため、普通の経済観念を併せ持つ私では、直ぐに手が出せないまま、今日まで月日が流れてしまったのです。(涙)
漫画バカ一代、誓った日から、コレクターとして、いつの日にか【沙漠の魔王】を連載最初から最後まで、その全てを通読してみたい。
そう夜空の星に願いました。
今日の画像は、待ちに待った2012年8月10日(金)の今日、秋田書店 創立65周年記念特別企画として発売される
【沙漠の魔王】
完全復刻版 福島鉄次・著
「戦後の混乱期に少年少女に夢を与えた、昭和史に残る名作の完全復刻版!」
からのものです!(発売日になったので、画像を解禁しても良いでしょう。)
人の出会いは一期一会と言いますが、古書の漫画コレクターの世界では、戦後直ぐの少年少女雑誌や稀購本とは、一期一会のめぐり会わせのような気がします。(涙)
34年という時の流れは、人々が置かれている環境や境遇を変えて行きます。
私は、大正時代の【正ちゃんの冒険】から始まる少年少女漫画の代表的な作品群を集める数少ない少年少女漫画コレクターであり、少年少女漫画史研究家の一人として、今回の秋田書店の復刻・発売を心から感謝し、喜びたいと考えています。
スタジオジブリの宮崎 駿監督の作品世界に大きく影響を与えた伝説の作品。
宮崎駿監督の発言や、今回のスタジオジブリ美術館で展示、オリジナル美本の発掘などがなければ、今回の復刻は、なかったことでしょう。
何故なら、【少年画報大全】発売後直ぐに、私は秋田書店さんとの打ち合わせにおいて、【砂漠の魔王】の完全復刻と、【少年画報大全】に続くムック本としての【冒険王大百科】(仮題)の監修を、企画提案していたのです。
10年前の印刷技術、原本の状態からすると、今回のような素晴らしい出来栄えの本を、今回のような低価格で発売することは、不可能だったと思います。
今回の出来栄えは、付録となる【沙漠の魔王読本】以外は、大満足です。
【沙漠の魔王読本】の出来については、日本の漫画史を語る研究家の人材不足が露見してしまったように私は感じます。
その根深い問題点や、これからの日本の漫画史研究のための改善策など、【沙漠の魔王読本】補遺編と題して、提案していきたいと考えていますので、皆さん、お楽しみに。(笑)
大正・昭和時代の少年少女漫画歴史研究家・昭和時代のアニメーション史研究家・社会学士
本間正幸
追伸
ちなみに今回の復刻版だけの出来栄え、私は、漫画史研究家として三万五千円の価値は十分にあると考えています。
なので、保存用も含めてニセット購入してしまいました。
買わずに後悔するのか?
買って後悔するのか?
今回の商品、私的には、買って大喜びしております。(笑)
中身の詳細、感想については、後日改めまして。
それでは、又。
ある時は昭和時代のアニメーション史研究家、またある時は昭和時代の少年少女漫画史研究家の本間正幸が店長をしているショッピングサイトがあります。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
さて、私のブログは2009年3月の開設以来2012年6月にトータル訪問者数17万人を達成したgooを初め、アメブロでは新・旧二つ、Yahoo!楽天で昭和時代の音楽紹介と記事更新、はてなダイアリー、ヤプログ、livedoorで記事更新をしております。
今日の画像は、先週8月2日(木)有楽町駅中央口にて販売されていた庄内物産展にて、従兄弟から買ってもらった庄内砂丘メロンとだだちゃ豆。
試食とPR、販売がされていました!
父の実家から従兄弟が庄内空港からANA便に乗って羽田空港へ来たので、私は空港に迎えに行きました。
横浜の我が家にて、私の母と三人で一緒に昼食。
今回、従兄弟がやって来たのは、庄内砂丘メロンや、だだちゃ豆など、庄内の物産をPRするためでした。
私にとって、父の実家がある庄内地方は、母の実家がある茨城県鹿行地域と同じく、高校一年の時までの少年時代の夏休みを、毎年過した思い出の地となります。
少年漫画に夢をはせた少年の日々。
当時から、幻の絵物語と呼ばれていた【沙漠の魔王】を、一度で良いから読んでみたいと星に願った日から早34年、遂に今日は【沙漠の魔王】を入手することが出来ます。(笑)
昨日は、【ゆうひが丘の総理大臣】のコンビニ本発売時から交流のある秋田書店編集企画部の編集者から連絡があり、限定で復刻され私も注文している
「【砂漠の魔王】の復刻版が出来上がったから、取りに来てくれ」
との連絡がありました。
秋田書店のホームページでは、発売日8月10日(金)となっていたので、嬉しい予定の繰上げです。
なので、今日の午後は秋田書店へ出来上がった本を取りに行くのです!
さて、昨日8月6日は、広島に原爆が落とされた日。(涙)
8月9日は長崎に。(涙)
先日、映画【この子を残して】をスカパーで初めて観ました。
永井博士の家族の話については、旅行会社の添乗員として長崎を訪れた1987年にバス車内で初めてバスガイドさんから聞いてから、今年で25年の歳月が流れようとしています。
今年の夏のブログは、皆さん、連日オリンピックの話題で持ちきりですが、私は祖国日本の美しい自然と故郷を心から愛する日本人として、広島・長崎の悲劇と、8月15日の終戦記念日について、毎年考えさせられてしまうのです。
従兄弟の父親である伯父は、私の父の長兄であり、今年93歳となります。
戦後直ぐに地主だった祖父が亡くなったため、伯父は戦地から復員すると、まだ幼かった私の父の、父親代わりとなり私の父を育ててくれます。
GHQの農地改革のため、父の実家の家業は、地主から農家へと変わって行きます。
私の父と従兄弟の関係は、叔父と甥というよりも、一緒に育った兄と弟のような関係だったようです。
私と年の離れた従兄弟との関係も、従兄弟同士というよりも、叔父と甥のような関係なのです。(笑)
私がまだ子供だった頃、父や、毎年冬に共働きの両親に代わって幼かった私の世話をするために山形からやって来た祖母と同じように、親しみを込めて私の名前を子供時代の愛称で呼ぶ、庄内地方の方言で話す従兄弟。
有楽町駅で別れた後、私が新富町の事務所で、社長たちと打ち合わせがあることを伝えると、
「会社の皆さ持ってけ。」
と、今日の画像にあるメロンとだだちゃ豆など買ってくれたのです。
私は、久しぶりに会う従兄弟の好意に素直に甘えさせてもらうことにしました。
人の善意や悪意というものは、自然に伝わって来るものです。
私が、生まれ育った横浜鶴見よりも、庄内地方に特別の愛着を感じ続けているのは、美しい自然の風景だけでなく、東北人特有の正直で働き者が多い、素朴で心優しい人柄、その素晴らしい人間性にあります。
映画【たそがれ清兵衛】や【おくり人】などによって、庄内地方の自然に囲まれた美しい風景や素朴な人柄は、日本全国のみならず、最近では海外にも紹介され知られるようになりましたね!(笑)
今年の夏は、母を連れてお盆に母の実家がある茨城の鹿行地域へ行き、昨年の秋に亡くなった母の実家の伯母と、祖父母が眠る先祖の墓参りを。
その後、父の実家のある山形県庄内地方へ行き、祖父母と父の遺骨が分骨されている先祖の墓参りをしてみたいと考えています。
父の実家が庄内地方の漫画史研究家であり、アニメーション史研究家
本間正幸
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
さて、私のブログは2009年3月の開設以来2012年6月にトータル訪問者数17万人を達成したgooを初め、アメブロでは新・旧二つ、Yahoo!楽天で昭和時代の音楽紹介と記事更新、はてなダイアリー、ヤプログ、livedoorで記事更新をしております。
今日の画像は、先週8月2日(木)有楽町駅中央口にて販売されていた庄内物産展にて、従兄弟から買ってもらった庄内砂丘メロンとだだちゃ豆。
試食とPR、販売がされていました!
父の実家から従兄弟が庄内空港からANA便に乗って羽田空港へ来たので、私は空港に迎えに行きました。
横浜の我が家にて、私の母と三人で一緒に昼食。
今回、従兄弟がやって来たのは、庄内砂丘メロンや、だだちゃ豆など、庄内の物産をPRするためでした。
私にとって、父の実家がある庄内地方は、母の実家がある茨城県鹿行地域と同じく、高校一年の時までの少年時代の夏休みを、毎年過した思い出の地となります。
少年漫画に夢をはせた少年の日々。
当時から、幻の絵物語と呼ばれていた【沙漠の魔王】を、一度で良いから読んでみたいと星に願った日から早34年、遂に今日は【沙漠の魔王】を入手することが出来ます。(笑)
昨日は、【ゆうひが丘の総理大臣】のコンビニ本発売時から交流のある秋田書店編集企画部の編集者から連絡があり、限定で復刻され私も注文している
「【砂漠の魔王】の復刻版が出来上がったから、取りに来てくれ」
との連絡がありました。
秋田書店のホームページでは、発売日8月10日(金)となっていたので、嬉しい予定の繰上げです。
なので、今日の午後は秋田書店へ出来上がった本を取りに行くのです!
さて、昨日8月6日は、広島に原爆が落とされた日。(涙)
8月9日は長崎に。(涙)
先日、映画【この子を残して】をスカパーで初めて観ました。
永井博士の家族の話については、旅行会社の添乗員として長崎を訪れた1987年にバス車内で初めてバスガイドさんから聞いてから、今年で25年の歳月が流れようとしています。
今年の夏のブログは、皆さん、連日オリンピックの話題で持ちきりですが、私は祖国日本の美しい自然と故郷を心から愛する日本人として、広島・長崎の悲劇と、8月15日の終戦記念日について、毎年考えさせられてしまうのです。
従兄弟の父親である伯父は、私の父の長兄であり、今年93歳となります。
戦後直ぐに地主だった祖父が亡くなったため、伯父は戦地から復員すると、まだ幼かった私の父の、父親代わりとなり私の父を育ててくれます。
GHQの農地改革のため、父の実家の家業は、地主から農家へと変わって行きます。
私の父と従兄弟の関係は、叔父と甥というよりも、一緒に育った兄と弟のような関係だったようです。
私と年の離れた従兄弟との関係も、従兄弟同士というよりも、叔父と甥のような関係なのです。(笑)
私がまだ子供だった頃、父や、毎年冬に共働きの両親に代わって幼かった私の世話をするために山形からやって来た祖母と同じように、親しみを込めて私の名前を子供時代の愛称で呼ぶ、庄内地方の方言で話す従兄弟。
有楽町駅で別れた後、私が新富町の事務所で、社長たちと打ち合わせがあることを伝えると、
「会社の皆さ持ってけ。」
と、今日の画像にあるメロンとだだちゃ豆など買ってくれたのです。
私は、久しぶりに会う従兄弟の好意に素直に甘えさせてもらうことにしました。
人の善意や悪意というものは、自然に伝わって来るものです。
私が、生まれ育った横浜鶴見よりも、庄内地方に特別の愛着を感じ続けているのは、美しい自然の風景だけでなく、東北人特有の正直で働き者が多い、素朴で心優しい人柄、その素晴らしい人間性にあります。
映画【たそがれ清兵衛】や【おくり人】などによって、庄内地方の自然に囲まれた美しい風景や素朴な人柄は、日本全国のみならず、最近では海外にも紹介され知られるようになりましたね!(笑)
今年の夏は、母を連れてお盆に母の実家がある茨城の鹿行地域へ行き、昨年の秋に亡くなった母の実家の伯母と、祖父母が眠る先祖の墓参りを。
その後、父の実家のある山形県庄内地方へ行き、祖父母と父の遺骨が分骨されている先祖の墓参りをしてみたいと考えています。
父の実家が庄内地方の漫画史研究家であり、アニメーション史研究家
本間正幸
少年時代 歌詞付き
明日は、父の実家から10代目となる従兄弟が、ANA便に乗って庄内空港からやって来るので、羽田空港へ迎えに行きます。
庄内砂丘メロンPRのために上京。
有楽町へ行くまでの間、横浜の我が家を案内します。
横浜から庄内地方まで、私が少年時代に訪れるには、とても遠い地域でした。
さて、今夜の横浜は神奈川新聞社主催の花火大会。
事務所には、花火の音が響き渡り、ビルの屋上からは花火が観れました。(笑)
明日は、父の実家から10代目となる従兄弟が、ANA便に乗って庄内空港からやって来るので、羽田空港へ迎えに行きます。
庄内砂丘メロンPRのために上京。
有楽町へ行くまでの間、横浜の我が家を案内します。
横浜から庄内地方まで、私が少年時代に訪れるには、とても遠い地域でした。
さて、今夜の横浜は神奈川新聞社主催の花火大会。
事務所には、花火の音が響き渡り、ビルの屋上からは花火が観れました。(笑)